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足跡の足音  作者: 全家 波里
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 2020年。東京オリンピックを迎える年の4月の下旬。まだスーツ姿が初々しかった新社会人が、少しだけ新しい環境に慣れた頃。静岡県御前崎市にある自衛隊の御前崎レーダーサイトでは、富士山頂付近を東へ飛翔する不明機を捉えていた。その大きさと速度は、確認されているどの機体とも一致せず、もちろん飛行計画にも無い機体だった。御前崎分屯基地から連絡を受け、すぐさま浜松基地から2機の戦闘機が緊急発進を行った。その間も追尾目標の詳細なデータが次々と報告され、中には目撃情報も含まれていた。そして、緊急発進した2機が目標の目視圏内に到達する少し前、対象は『不明機』から『飛翔体』へと、その名称は変更された。

「飛翔体?」。

その名称変更に最も疑問を抱いたのは、現場に急行している戦闘機のパイロット達だった。

「不明機ではなく、飛翔体と言ったのか?」。

前を飛ぶ戦闘機のパイロットは、無線に不信感をぶつけるように言った。

「そうだ。『飛翔体』で間違いない」。

帰って来た返事は淡々としていたが、パイロットの必要を満たすだけの情報量には到底、達してはいなかった。

 その『飛翔体』が山中湖上空を抜け、丹沢湖に差し掛かった頃、浜松基地を飛び立った戦闘機2機は、目標を目視で確認。その名称変更の理由を理解した。

「目標の・・飛翔体を目視で確認。次の指示を乞う」。

「・・・そ、そのままの距離を保ち、待機。待機だ」。

おおよそ、自衛隊内の会話とは思えない程の不正確で不明瞭な無線のやりとり。それはそのまま、彼等の動揺を如実に表していたし、また、彼等を管理し、若しくは支持を出す上層部の動揺も含まれていた。日々の厳しい訓練の中で徹底的に教育されている筈の彼等でさえ、それを失念させてしまう程の動揺。その原因が、相模原上空を抜け、多摩川上空に差しかかろうとしていた。

 その頃、とうに連絡を受けていた総理官邸でも、もたらされた情報による動揺は職員の能力を大きく削いでいた。自衛隊から瞬時に送られてくる情報は、時を追う毎に積み上げられ、飛翔体の輪郭を正確に縁取ってゆく。それだけではない。飛翔体に関する情報は自衛隊だけでなく、警察、関係省庁、そして民間の各機関からも寄せられ、果ては一般の人々からもSNSを通じて総理官邸に寄せられていた。そこには動揺や困惑が多分に内包されていた。

 飛翔体が多摩川を超え、東京23区に入った頃には、それらの情報は、『飛翔体が何物であるのか?』その答えを導き出すには十分な量に達していた。しかし、それに関わる全ての人々は、答えを出すのを躊躇った。地上から目撃した人のうち、ある人は『たまたま雲がそんな形に見えただけ』と結論付けたし、またある人は『何かの見間違い』だと結論を出した。中には『誰かの大掛かりな悪戯』と断じる者まで様々だったが、その行為が全て自分の中で完結してしまえるただの目撃者であれば、それで差し支えなかったが、全国民に対し、出した答えに責任を持つ立場である人々は、集められた情報が正確、かつ、十分な量であったとしても、その答えを口にするのは心理的に憚られる。そんな『事実』が、日本の上空を、首都の上を、人口密集地の上を悠々と飛んでいた。

「首相! 早く手を打ちませんと・・既に目標は23区に侵入しています!」。

時の首相「日下部 拓海」は眉間に皺を寄せ、SNSにアップされた動画を食い入る様に見ながら、その心中は葛藤に苛まれていた。その飛翔体を指し示す名称は、映像を見れば簡単に浮かぶ。しかし、その名称を持つ存在が実在し、首都上空を悠々と飛んでいる現実を受け容れるには、心理的な抵抗が大きかった。

「わ、分かっている。・・しかし、・・・あれは、何なのだ・・」。

日下部は動揺に翻弄されそうになりながら、それでも自らの役目を忘れては居なかった。

「混乱が予想される地域へ自衛隊を派遣、警察と協力して住民の混乱を収めよ。追尾中の自衛隊機は現状を維持。戦闘命令に備えつつ、待機だ。・・・それと、外部の意見も必要だ。関連すると思われる専門家を直ちに集めろ。人選は任せる」。

首相に命を受けたのは「樋口補佐官」。まだ若く、どことなくオドオドした印象の持ち主だった。

「し、しかし首相。・・・専門家と言われましても・・」

「分かっている。・・・が、我々に、アレが何なのか答えが出せるかね?」


 官邸が、未だ答えを出しあぐね右往左往している頃、大勢の人々で賑わう渋谷のスクランブル交差点では、1人の若い男がポカンとした顔で空を見上げていた。高いビル群で切り取られ、それでも辛うじて見える空の片鱗に、奇妙な黒い影を見付けていた。

「あれって・・・もしかして・・」。

そんな呟きが、すぐ隣の男性の耳を掠め、その男性も何気なく彼の視線を追った。

「ええっ?!」

その男性は空高くにある黒い影に目を奪われ、意識の大半までもがその影に奪われた。そして無意識の中で驚きの声を上げていた。その声は周囲の人々の注意を集め、その注意は視線の先へと向けられた。

「え!」。

「何あれ!」

「何、何? 何なの?」

 上空の黒い影に視線を向けた人々は、その殆どが足を止め、何かしら驚嘆の声を上げた。そしてそれらは瞬く間に周囲に伝播し、誰もが空を見上げ、その場に立ち止まった。数十秒でスクランブル交差点の機能は完全に停止した。


2020年4月下旬。科学技術は生活の基盤であり、未知を解明する有力な武器であり、絶大なる信頼を人々から寄せられ、また科学技術はそれに応えてきた。人は科学の力により、猛スピードで移動し、どんなに重いものでも運び、人の設計図たる遺伝子さえ解明する。様々な分野に枝分かれした科学は、未だ人の到達していない領域を恐るべき速度で侵攻し、謎と未開を悉く打ち砕いていった。生活や文明や、命さえも左右する程の科学。その科学が根の先までも浸透し切ったこの時代。渋谷の上空に、・・・・・竜が舞った。


「首相! このままでは、何が起こるかわかりません。戦闘機は通常装備で発進しています。可能です。一刻も早い迎撃を具申します!」。

「待て、もう既に人口密集地の上だ。こんな所で撃ち落とせば、どれだけの被害がでるか・・」。

「それに、あの、りゅ・・アレをどうやって撃ち落とすのだ。ミサイルが有効なのか」。

「しかし、このまま傍観して、東京のど真ん中で何か起きたら・・」。

 総理官邸に集められた側近と自衛隊高官達の意見は、どれも正しかったが、どこにも落とし所が無かった。首相自身も、決してリーダーシップの欠如した人物では無かったが、対外政策や経済施策ならともかく、竜による領空侵犯には手を打つどころか、気を抜くと停止しそうになる思考を動かし続ける事で精一杯だった。

「総理! 始まりました!」

 事務官の男が、官邸の紛糾する執務室へ駆け込み、リモコンのスイッチを押した。それに反応したテレビ画面には、ヘリコプターから撮影された竜の姿がハッキリと映し出されていた。この時点で、安全保障局と防衛省からの提案により、首相をはじめ官邸のスタッフ及び関係者全員が地下の施設へ移る事になった。

 映像の中の竜は、映画や絵画で目にする姿その物で、神々しくもあり美しくも見えた。大きな翼を広げ、時に優雅に羽ばたいてみせた。口元には口内から微かに溢れた炎がユラユラと揺れ、その金色の目が放つ眼光は鋭く光り、見る者を恐怖で凍りつかせた。その姿を目にした時、日下部は1つの道筋を見出した。

「報道管制はしいていないのですか!」。

 防衛大臣政務官である『角倉』は、テレビの映像を受けて日下部に向け言い放った。しかし、日下部は薄く微笑み、落ち着き払った様子で答えた。それはつい先程までの動揺を内包した日下部の姿ではなく、国を代表する指導者の姿だった。

「あれだけの物をどうやって隠すと言うのだ。既に多くの人々に目撃され、SNSには大量の動画が並べられているのに? ・・・事が起こると、まず、秘密に・・と言うのは、君達の悪い癖だよ。あの竜が本物なのか、偽物であるならどんな作りになっているのか、何れにせよ、専門家の判断に映像は不可欠だろう。この際、テレビ局にも協力して貰おうじゃないか。こちらが要請せずとも、こうやって映像を撮って来てくれるのだから。・・・しかし、手放しと言うわけには行かんな。あの飛翔体の半径・・・そうだな500m以内には立ち入らない様、報道各局に通達を出しなさい」。

 この時点で、首相である日下部が苦悩の末に辿り着いた答えは『静観』だった。何処かの企業が開発した飛行技術。それを航空法を無視した悪質で悪趣味なデモンストレーションで、注目を集めようとしている。それが日下部の予想する最大の可能性だった。

 (おそらく、あの竜に似せた作り物は、このまま首都上空を通り抜け、千葉か茨城の海岸辺りまで飛行した後、辺りのグランドか開けた場所で着陸、そのまま、お披露目のセレモニーへと移って行く。我々はそこに警察を派遣。代表を逮捕し、関連技術を差し押さえる。それでいい。国を侮った宣伝手法は高くつく。それを身をもって教えてやらなければならない。企業の宣伝に国が武力で応じたとなれば一大事。笑い者にもなりかねん。その上、人口密集地で被害が出れば目も当てられぬ。宣伝活動の継続だけは見逃してやろう。しかし、あれだけの技術。それが子供騙しではなく、眼を見張るほどの物であるなら、国が後押ししても良い。逮捕という大きなパイプが出来るのだから、交渉も難しくはないだろう。国益にも繋がる。)

 それが、現段階で日下部が描く青写真であったし、現実がその上をピタリとトレースして行くものだと信じていた。

しかし。

「お、おい・・」

 俄に執務室にざわめきが起こった。テレビの中でヘリコプターに搭乗したレポータが声を上げる。

「現在、竜は赤坂の上空ですが、動きがありました! ゆ、ゆっくりと下降しているように見えます! い、いえ、確実に下降しています!」。

 その言葉に日下部は青ざめた。下降は着陸の可能性を示唆している。周辺に赤坂御用地や日比谷公園などはあるにせよ、竜が着陸して良い場所など、どこにもあるはずがない。総理官邸だけではなく、その映像を見る全ての人に緊張が走った。

 地上では警察のパトカーと自衛隊の車両がセットになって竜の航路を追った。道路には完全な規制が敷かれ、渋谷から赤坂を結ぶ青山通りとその一帯は、空を見上げる人々と進む術を失った車両達で埋め尽くされた。ある者は空にスマホやカメラを向け、ある者は恐怖に悲鳴を上げる。ある者は先に進めない事に憤り、ある者は慌てふためいて逃げ出した。そんなパニックの中、上空の竜はゆったりと滑空し、その高度を徐々に落としていった。最早、着陸は必然だった。

「幕僚長! 出ました!着陸予想地点です!」

 若い自衛官が1枚のレポートを手に執務室に駆け込んだ。

「どこだ!」

 下松自衛隊幕僚長が弾かれたように聞き返すと、若い自衛官は躊躇しながらも明確に答えた。

「こ、国会議事堂です」

 数分後、その予測は正しかった事が証明された。


 竜は国会議事堂敷地内の、それも、建物の上に降り立った。その重みと衝撃で美しかったあの議事堂は無残に破壊され、かつての面影さえもないただの瓦礫へと成り下がった。着陸予測地点が割り出された後、すぐさま退避命令が出されたが建物が破壊されるまでの猶予は僅か。避難が間に合う筈もなく、6名の死者と、10名を超える負傷者を出した。竜が降り立ってから4時間が経った今でも、行方不明者の数がまだ数名残されていた。それでも、完全に建物は破壊され、ほんの僅かな時間的猶予しか無かった事を考えれば、被害は小さいと言う者が多かった。

 日没に備えて、議事堂周辺には多くのライトが設置された。その外側では警察が一帯を封鎖し、武装した自衛官が警戒にあたった。幸いにも火事は無く、時間の経過と共に周辺は落ち着きを取り戻していった。竜は議事堂を着地によって破壊した以降は、時折顔を僅かに動かすのみで、その瓦礫の上でジッとしていた。

 この頃、自らの判断ミスを思い知った日下部は、思考の間口を大きく広げていた。そこには眼前の竜が『本物』であるという可能性も入っている。それに従い、国会議事堂の半径約2kmを立ち入り禁止区域に指定した。ただし、この時の『2km』という数字には、確たる根拠は無かった。ただ緊急時のマニュアルを参考に、最大限の安全を考慮した結果だった。その不安を解消するべく、日下部は会議室に向かった。が、会議室のドアを開けた時、日下部は、その足をピタリと止めた。

「一体、何人に要請を出したのだ?」。

 日下部に問われた樋口補佐官は相変わらずのオドオドした様子で答えた。

「げ、現在、よ、42名が到着しております。深夜までには75名全員が揃う予定です」。

 その答えに日下部は「フウ・・」と大きく息を吐き、肩を落とした。・・が、直ぐに顔を上げ、会議室の奥へと歩を進めた。そんな日下部の姿を物珍しそうに見つめる面々は、政府からの要請により集められた各分野の専門家達。彼等は設置された大型モニターとPCで状況を完全に理解しており、既に作業に取り掛かっている者も少なく無かった。日下部は室内の最奥にある大型モニターの前まで辿り着くと、全員に向けて声を発した。

「諸君。御足労に感謝する。事態は飲み込めて居るだろうが、事の特異性を鑑み、冷静にあらゆる可能性を考慮に入れて取り組んで欲しい」。そう言ってから全員に着席を促した。全員の着席を確認してから、樋口補佐官は相変わらずのオドオドした口振りで、安全保障局と自衛隊高官面々を皆に紹介した。その後、専門家達を紹介しようとしたが、それは下松自衛隊幕僚長の少しキツめの言葉で止められた。そして日下部は言う。

「現在、我々の元には大量の情報がある。しかし、必要な情報は極端に不足している。我々はアレの目的どころが、アレが何であるのかさえ解っていない。それらの謎を諸君の知識と能力で解明して欲しい。分かっていると思うが、事態は緊迫している。人的被害も出ている。一刻も早く対応策を出さねばならない。諸君の力を余す所なく貸して欲しい」。

「総理、いいですか」

 日下部の言葉が終わるのを待って、男が手を上げた。30代半ばで、仕立ての良さそうなスーツを着ている。ここに集められた専門家達の中で、自分が最も優れ、リーダーシップを発揮できるとの確信が、口元を微かに歪めていた。

「私は土村と言います。工学系のエンジニアです。あの竜・・と、言うよりも『ドラゴン』と呼んだ方が見た目の印象に則っているので・・・この際、便宜上ドラゴンと呼びます。・・あのドラゴンは周囲の建物と比較して、体長はおよそ140m。翼を広げた全幅はおよそ180m。これはジャンボ機を縦に2機、横に3機並べたのと同程度になります。尾の部分は含んでいません。それと、あの竜が国会議事堂を破壊した際の映像を解析してみました。1度だけの事象で、データが少ない為に概算にはなりますが、建物の強度と破壊度合い。下降時の高度と下降速度から見ると、体重は軽く1000トンを超えます。もし、着地点がここでしたら、地下に居る我々もタダでは済まなかったでしょう」。そう言い終えると、口元の歪みを微かに増幅させた。すると日下部は眉一つ動かさずに答えた。

「なるほど。・・・まだ到着して間もない。分析がその程度しか進んでいないのも仕方のない事だな」。自らの鼻っ柱をヘシ折られた土村は奥歯をギリリと鳴らし、顔を紅潮させ、眼つきを鋭くさせた。日下部はチラリと土村に視線を投げたが、そのまま続けた。

「今現在、アレに動きはないが、今後、何かしらの動きをする筈だ。時間の猶予はない。・・それでは諸君。何か解ったら逐一報告して欲しい。よろしく頼む」。

 そう言って日下部は会議室を後にする。日下部の退室を待って、樋口補佐官は全員にリボンを配って回った。土村には緑のリボンがあてがわれた。

「何だこれは?」。

 まだ怒りの治りきらない土村は腰の低い樋口に向かって、少々乱暴な口調でリボンを突き返した。

「あ、い、いえ。専門家の方々の人数が多いので、各分野をグループ分けした方が効率が良いかと思いまして」。

ともすれば、怯えているかのようにも見える樋口の態度は、さらに土村を苛立たせた。

「だからって、何故こんな物を付けなきゃならん!バカにしているのか! 大体、多過ぎなんだよ。人数が!」

「ご、ごもっともです。し、しかしですね。竜の専門家などいるわけが無いですし、あらゆる可能性を考慮した結果、これだけの人数になりまして・・・」。

「これだから役人は無能揃いなんだ。いいか? 何物か解らん物を理解しようとしているんだ。好き勝手な憶測ばかり並べて何になる。意見は纏まってこそ推論に繋がるんだ。これだけの人数が、それぞれの分野に則った知識で意見を出してみろ、纏まる話も拗れるだけだ!」

 土村の言葉は正論ではあったが、その内容はどうあれ、周囲には恫喝にしか見えなかった。激しい言葉を向けられた樋口は、案の定、肩をすぼませ萎縮してしまう。

「まぁまぁ。そう目くじらを立てなくても」

 穏やかな表情で2人に割って入った男がいた。その男は、土村と同年代に見えたが、ここが総理官邸である事を理解しているのか、いないのか。下はジーンズ。その上はヨレたジャケット。前髪が視界に入って邪魔なのか、しきりに髪をかき上げている。見た目に関しては、土村とは正反対の印象を抱かせた。

「君は?」

土村が不躾な表情で聞くと、男はにこやかに答えた。

「僕は窪平といいます。人類学者です」。

「人類学者? まさか、あのドラゴンが人の成れの果てだとか言い出すんじゃないだろうな?」。

「人類学は、そう言った事を研究する学問ではないのですが・・」。

「わかっている!」

 窪平は愛想笑いを浮かべ、頭をポリポリと掻きながら、土村を諭すように言った。

「この人数も扱い用によっては、大きな武器ですよ。貴方も仰っていたように、広範囲に多くの知識を利用できる」。

「聞いていたか? お前、俺の話を聞いていたか? さっき、言っただろう。幾ら知識が出揃った所で、纏まらなきゃ意味がないんだよ!」。

「その意見には大いに賛同します。ですから、纏まり安くしましょう」。

「チンケなリボンでか?」

土村は「ハン!」と鼻を鳴らし、大袈裟な呆れ顔を作る。が、窪平は御構い無しに続けた。

「まずは、2つに別れましょう。あの竜が本物だと思う人と、偽物だと思う人で」。

 その提案は、会議室内に居た我関せずとそっぽを向いて作業をしていた者達の意識を引きつけた。にわかに窪平に視線が集まる。窪平は続けた。

「それぞれの専門分野に則った意見で本物派と偽物派に分かれ、その上で同種分野毎にチームを組みましょう。それぞれのチーム毎に意見を纏めて、最終的には本物か偽物かに向かって行きます。その過程で輪郭がはっきりしてくれば、どの分野の意見にウエイトを置けば良いのかも見えてくるでしょう」。

 窪平の言葉が終わると、会議室内には薄いザワメキが流れた。

「そうだ、それがいい」。

「いいね。早速取り掛かろう」。

 そんな肯定の言葉があちこちに湧いた。専門家達は慌ただしく荷物を手に取り、あちこちへと移動を開始する。そんな中、窪平はニコリと笑って「はい」と土村に手を差し出した。その手には、緑のリボンが握られていた。

土村は「フン」と鼻を鳴らし、緑のリボンを窪平の手から奪い取ると、偽物派の集まるグループへと混ざって行った。

 「良いアイデアだね。素晴らしいよ」。そう言って1人の男が窪平へ満面の笑みと右手を差し出してきた。見ると、その男はカーリーな金髪で青い瞳をしている。彫りの深い整った顔立ちに、人種の違いをまざまざと見せつけられている気分になる。少しだけ戸惑いながら窪平が握手を交わすと、金髪の男はにこやかに言った。

「僕はエイコン。先に言っておくと、父はギリシャ系、母はカナダ。僕は日本で産まれて日本で育った。だから、日本語に問題はないけれど、ギリシャ語も英語も話せない。父も母も家では日本語だけでね。特に意味はないそうだけれども。父が司祭で家は教会。そして僕が神学者」。

「そ、そうなんだ。僕は窪平。えっと・・」。

「それはさっき聞いていたよ。君も本物派なのだろ? よろしく」。

「こちらこそ・・・」

 金髪で碧眼で整った顔立ちの男に圧倒されて、窪平は戸惑いを隠せずにいたが、エイコンは御構い無しに窪平を席へと促し、本物派たる所以について話し始めた。

 「知っての通り、神話や昔話には竜の登場する話が多い。洋の東西を問わず、『竜』と称される生物が世界中で語られている。僕にしてみれば、これだけでも竜の存在を本物と位置付けるのに十分なのだけれども、世間も世界も、そう簡単に認めてはくれない。目の前に竜が現れたとしても・・だ。そんな中で、僕らはあの竜への対応策を出すよう求められている。竜の目的も分からない。そもそも目的があるのかさえ。その上、意思の疎通が可能かどうかさえ解らないのに、対応策を求められる。その為に、先ず。あの竜が本物かどうか、そこから検証しようって訳だね」。

 そこまで話すと、エイコンは嬉しそうに口元を歪めながら、困り顔で「遠いねえ。遠いよ。ゴールまでの道程が」。と言った。窪平は出会ってからずっと続くエイコンのマイペース加減に困惑しながらも、なんとか会話を成立させようと試みた。

「遠いと言うよりも、五里霧中と言うか、雲を掴むと言うか。対応しようにも、会話を試みるのか、捕獲を目指すのか、はたまた制圧なのか、懐柔なのか、隷属なのか。方向性を何一つ提示されていないから、どこに進んで良いのか解らない。なので、とりあえず、現段階で取得できた事実に基づいて、あの竜がどんな存在なのか見極めましょう。・・・と言う訳だね」。

「おぉ、良いね。イイね。君のそのまどろっこしい言い方。好きだよ」。

 エイコンは嬉しそうにテンションを上げて、窪平の肩をポンポンと叩いた。窪平は複雑な気分だったが、既に精神的に圧倒されているので、「ハハ・・」と薄い愛想笑いを返すだけだった。そこに、また1人、男がやって来た。

「話しの最中に邪魔して悪いが、俺もそこに入れてくれ」。

 その男は短髪でキリリと引き締まった顔つきをした男だった。大柄な身体も引き締まっているように見える。一見、スポーツ関係か武道家の様な印象だったが、人は見かけによらないと、すぐに判明した。

 「俺は木綿 篤。木綿もめんと書いて「きわた」だ。古生物を学んでいる」。

すると、エイコンがまるで長年の友人であるかのように馴れ馴れしく話しかけた。

「古生物って言うと、恐竜とか?」。

「それも範疇には入る。まあ、だからこそ、俺がここに呼ばれたのだろうが」。

「って事は、恐竜があの竜に繋がる点が?」

今度は窪平が木綿に聞いた。木綿は少し難しい顔をして答えた。

「現時点では見た感じの印象でしか言えないが、あの手足の爪は、恐竜や現在では鳥類に多く見られる鉤爪とよく似ている。翼は翼竜のそれと酷似しているし、何より、あの体躯は恐竜を連想させるには十分だろう。ただ、あの大きさは・・ちょっと規格外だな。それに口元でユラユラと漏れているあの炎。あれはもう生物としてあり得ない。何にせよ、今言える事は少ないな」。

 その日の深夜。総理官邸の地下にある会議室は、日付が変わっても科学者達の熱意と喧々囂々の遣り取りで充満していたが、未だ有効な答えに辿り着けずにいた。そんな科学者達を尻目に、竜は不意に天を仰ぎ、そして、飛び立った。


 国会議事堂から約2km。規制線のすぐ側には大勢のマスコミが詰めかけていた。ここは都心の一当地。周囲はビルだらけで、2kmも離れると竜の姿を見通せる場所は少ない。必然的にマスコミはビルとビルの僅かな隙間から議事堂が見通せる場所や、許可の取れるビルの屋上に殺到する。そこから超がつく望遠レンズで竜の姿を辛うじて捉えていた。上空にはヘリコプターが数機飛んでいたが、勿論、議事堂上空にも緊急飛行制限空域が設定され、マスコミのヘリコプターは立ち入ることが出来ない。それどころか、国民の目を意識するあまり安全を最優先とした為、自衛隊機にも進入は許されず、視聴者及び官邸に届けられる映像は、夜の闇も手伝って不明瞭な映像になった。それでも深夜にも関わらず、日本中の目がその映像を凝視していた。そんな中、竜は天を仰ぎ、大きく翼を広げる。そして1度、翼をはためかせると、そこから起きた突風はビルの間を恐ろしい程の速度と圧力で駆け抜け、2km離れたマスコミのカメラを、その手から弾き飛ばす程だった。。そのたった1度の羽ばたきで、竜の巨体はフワリと宙に浮き、そのままスルスルと上昇を始める。官邸地下会議室の専門家達は、その映像を食い入るように見つめていた。

 数分後、竜は変わらず上昇を続けていた。マスコミ各社のヘリは果敢にもそれを追い続けたが、速度と高度の限界近くで追跡を諦めた。しかし、木更津を飛び立った自衛隊機と、厚木の米軍基地を出た米軍機の計4機がそれを追い続けていた。


「目標は、今なお高速で上昇を続け、東へ飛行中」

自衛隊機及び米軍機から、官邸及びホワイトハウスへ同じ内容の情報がそれぞれ届けられた。追跡する戦闘機に取り付けられたガンカメラは暗視モードで作動しており、白黒ながら闇の中を飛行する竜の姿をしっかりと捉えていた。その映像を見ながら木綿が言った。

「上昇気流を利用しているにしても・・・」

「羽撃くペースが遅過ぎる」

木綿の言葉に続けた人物は、ベージュのジャケットと丸いメガネのスタイルを、もう何十年も続けているのだろうと思わせる程に、出来上がった印象を持たせる男だった。小柄で痩せ型。それに白髪。おそらく齢70を超えている、如何にも博士然としたその男は、名を内谷うちたに。航空力学の専門家だと名乗った。

「翼の形状、大きさ。どう見ても、あれだけの巨体を浮かせる浮力があるとは思えない。それに上昇を続けているにしては羽撃きの数が少な過ぎる。いやはや、どうやって飛んでいるのか。理解が追いつきませんな」。

その内谷を見たエイコンは飛び上がるようにして喜んだ。

「内谷教授じゃないですか!」

エイコンによると、内谷は業界内では知る人ぞ知る人物で、航空機の開発は元より、フォーミュラカーの開発を手伝ったりもしているらしい。そして、昨年の優勝に大きく貢献した教授の技術は、もっと大々的に報道されるべきだと憤った。そんなエイコンの言葉を内谷は目を細めニコニコと聞いている。窪平達3人は手短に自己紹介を済ませ、内谷と握手を交わした。そこで窪平は尋ねた。

「教授から見ても不可解な飛び方をしているのですね。なのに、教授は本物派ですか?」

「だからこそですよ。我々の持つ技術では、あの飛び方はあり得ない。浮力を得る方法はいくつかありますが、そのどれもがあの巨体を飛ばせる為の条件が満たされていない。全く不可解。・・・で、あれば、あの竜は本物でしょう。我々の常識も、想像も軽く超越した生き物なのでしょうから」。

 その言葉は窪平の心に何の抵抗もなくストンと落ちた。『得心する』のお手本みたいに納得した。そして不安も湧き上がった。人間の常識も想像も軽く超越した存在であるなら、その目的や意思があったとして、それを自分達人間が理解出来るのだろうか。人間は本能的に理解の及ばない相手には恐怖を感じる。そして恐怖は人を狂わせる。窪平の学んだ歴史の中で、それを裏付ける事象は度々起きた。あの竜という存在を世界中が注目している事は明らか。もし世界中が恐怖によってパニックになったら。その先を想像するのも躊躇する程の絶望が、窪平の脳裏を過ぎった。

 その頃、土村の所属する偽物派は本物派とは違った熱を持って事態を見守っていた。彼等の目にも本物派と同様に、竜の飛行法は不可解な物として写っていたが、エンジニアを多く含む偽物派にとっては、興味深い研究対象である側面が濃かった。特に土村は目の色を変えて竜の映像を食い入るように見ている。

(この飛行法を解明出来れば世界が変わる。下手すれば、物理法則さえもひっくり返してしまうかもしれない。凄い。凄い事だぞ。これは。)

土村の中では、竜の飛行法を解明する事が栄光へと直結しており、それを手にするのは自分でなければならないといった、使命感に似た感情が湧き上がっていた。確かに、本物派の内谷教授の指摘通り、これまでの常識、知識、技術では説明のつかない現象が、現実として空を飛んでいる。その方法が解明された時、強固だと思われている多くの常識が崩れ去る事になるであろう事は明白だった。

(しかし・・誰も気付いていないのか?)

 土村は周囲の視線を辿り、とあるモニター画面を掠めてもいない事を確認する。そのモニター画面には竜が飛び立った後の、国会議事堂を形成していた無残な瓦礫が映し出されていた。それは着地した後の動かない竜に向けられていた固定カメラの映像で、竜が飛び立った後も、その場を写し続けていた。と、言うよりも、誰もが飛び立った竜を追い掛けるのに必死で、ほんの数分前まで凝視されていたのが嘘だったかのようにアッサリと忘れ去られたモニター画面だった。

(誰も気付いていない。この瓦礫を誰も不自然だと思わないのか? それとも単に目に入っていないだけか?)

 そう思って再び周囲の視線を探る。顔を動かさず、視線だけを周りに悟られないよう注意深く動かす。しかし、そんな用心は迂遠だった。周囲の視線全ては戦闘機から送られるガンカメラの白黒映像に釘付けで、他のモニターに目を遣る者は誰も居ない。

(おかしいだろ! お前達! お前達が見るべきは、そこじゃない! お前達が注視するべきは、翼を羽撃く事もせずに上昇するドラゴンの姿ではなく、無残に破壊された瓦礫の方だ!)

 土村は心の中でそう叫んだ。正直に言えば、声を大にしてそう叫びたかった。しかし、栄光を自分が手にするには、ライバルは少ない方がいい。土村は机上からスルリとノートパソコンを手に取り、ソロソロとした足取りで1歩2歩と後ずさった。周囲の目から完全な死角まで辿り着くと、すぐさまノートパソコンを開き、例の瓦礫の映像を再生させた。竜が飛び立った瞬間から、その数十秒後までを繰り返し繰り返し観た。その画像の隣にTVで放映された竜の離陸シーンをタイムテーブルを揃えて流した。

竜が1度、翼を大きくはためかせると、その巨体がフワリと宙に浮く。次の瞬間、2km離れた警戒線上から放映されたTV映像が突風により大きく揺れる。

(2kmだぞ。2km先にあるカメラが、カメラマンの手から弾かれる程の風なんだぞ。カメラが揺れたから、周りの野次馬まで写っている。転んでる人、軽く吹き飛ばされている人も居る。これはもう、突風なんて物じゃない。爆風に近い。なのに・・・なのに、何故、ドラゴンの足元にあった瓦礫が微動だにしてないんだ。)

 土村は、竜が飛び立った後の、ただ静黙した瓦礫を写した画像を睨み付けた。

 『ここにヒントがある』。そう確信していた。

 一方、別室で様子を見守る日下部に、自衛隊機からの追加報告が上がって来ていていた。

「目標は現在、高度約10000m付近をマッハ0、8で東へ航行中」

この報告を受け、幕僚長は「旅客機と同等の速度です。どこまで行くのか見当もつきませんが、このままの状態を維持して飛行を続けると昼にはアメリカ大陸も視野に・・・」と歯切れの悪い言葉で日下部に伝えた。

 竜は暗い海と煌びやかな星空の間を悠然と舞う。時折バサリバサリと大きな翼をはためかせ、高く高く舞い上がる。その眼は何処を見つめているのか、遠くの星空の、その一点をジッと見つめているようにも見えた。


 深夜3時過ぎ。官邸内の総理を筆頭に、自衛隊高官達、側近、そして科学者チームも状況への慣れから落ち着きを取り戻そうとしていた頃、自衛隊幕僚長である下松の元に、部下からの報告が届けられた。部下は険しい表情で下松にメモを手渡す。下松も報告を受けると表情を強張らせ、総理へと歩み寄った。

「総理、米軍からの要請です。即刻、自衛隊機の追尾を中止するように。と」。

 すると、それを聞いて真っ先に反応したのは、日下部ではなく防衛大臣の吉備川だった。「なんだと! 内政干渉じゃないか! アメリカはこの情報を独占する気か!」

「いや、それよりも」

 吉備川の二の句を遮って、日下部は呟くように言った。

「それよりも、何故、アメリカはそんな事を言い出したのか。問題はそこにある」。

 その言葉には、安全保障庁の東海林が答える。

「総理。我々の分析でも、そこには大きな問題があると思われます」。

 東海林は執務室の全員の意識が自分に向いている事を確認した上で、続ける。

「竜の現在位置は、日本の領空を少しばかり出た辺り。アメリカの領空には程遠い公海上です。どちらかと言えば、我が自衛隊機が追尾するのが筋でしょう。実際に被害も出ていますし。しかし、アメリカは自衛隊機に帰れと言う。その理由は情報の独占だと安易に決めつける訳にはいきません」。すると吉備川は弾かれた様に怒鳴った。

「あ、安易だと! 既にロシア、中国、韓国までもが追尾の戦闘機を発進させているという情報が入っている。この非常時だ、領空侵犯までは流石に遠慮したようだが、あの竜が旅客機並みの速度を持っているとしても、相手は戦闘機だ、数時間後には追いつくのだぞ! 彼等が何を求めて戦闘機を出した? 情報だ! あの竜の情報を得るために戦闘機を発進させているのだ!」。

 今現在、TV局など民間のヘリは全て竜の追尾を技術的な理由で断念している。よって竜の姿を捉えているのは、米軍機と自衛隊機の4機に搭載されたガンカメラのみ。当然、その映像が民間に流れる訳もなく、米軍機の映像でさえ官邸には届いてはいなかった。しかし、同様に自衛隊機の映像をアメリカに提供もしていない。ほぼ同じ場所からの映像である為、そうする必要が無いからだった。そうなれば、他国は竜の映像を入手する為にアメリカや日本へ働きかける。しかし、撮影しているのは軍の機体。国防に関わる可能性がある為、易々と他国に公開出来る物でもない。他国もそれを十分に理解していたから、地理的に有利なロシア、中国、韓国は自前で映像を入手しようと行動に出たのだった。

「周辺国の緊急出動。それも要因の一つです」。東海林は吉備川をなだめるような口振りで言った。

「要因とはなんだ!何の要因なんだ!」

吉備川は横柄な口調で、大臣に逆らうのかとばかりに怒鳴り散らした。しかし、東海林は気に留める様子もなく、呆れ顔の日下部に向かい、言う。

「我々の分析の結果では、総理も危惧されているように、アメリカの目的は竜への攻撃だと思われます」。

 官邸執務室はざわめいた。国会議事堂が破壊された直後から、竜への攻撃が皆の頭に無かった訳ではない。被害を受けたのだから、当然、選択肢の一つではあった。しかし、相手は竜だ。口にするものは誰も居なかったが、皆、竜への攻撃はどこかタブーであるかのように感じていた。だからこそ、竜が飛び立ち、日本の空域を出た時、誰もが僅かな安堵を感じていた。

「その根拠は?」日下部が問うと、東海林は淀みなく答えた。

「第一に、国会議事堂が破壊された映像。それに伴う被害。死者が出た事も、報道により世界中が知っています。勿論、アメリカもです。その竜が東に向かって飛行している。竜が何故、国会議事堂に降り立ったかは分かりませんが、それをアメリカになぞらえれば、次の目的地はアメリカ連邦議会。ワシントンDCにあるアメリカ合衆国議会議事堂と言う事になります。つまり、竜がこのまま進めば、アメリカ西海岸からワシントンDCへ、大陸の上空を横断する事になるのです。日本で死者までだした、そんな危険な竜がアメリカ国民の頭上を飛ぶ。アメリカ国民はそれを許すでしょうか」。

「指導者としては、看過出来んな」

「はい。大統領は、そう判断すると考えます。そして第二に、竜の撃墜。その映像は、アメリカのみならず西洋諸国にショッキングな映像として捉えられるでしょう。竜を神を同一視する者は居ないとしても、我々日本人が考える以上に、彼等にとって竜とは馴染み深い存在の筈です。姿形もそれに近い。・・・それを武力で殺したとなると、バッシングを受けるどころか、指導者としての信頼を失いかねません。ましてや、被害を被っているのは日本のみ。西洋諸国にしてみれば被害は皆無。竜を撃墜する映像など、出来れば民衆の目に晒したくはない筈です。そこで、先程、大臣が仰った情報が関わってきます。ロシア、中国、韓国までもが戦闘機を発進させた。領空侵犯を避けるべく、大きく迂回しての追跡になりますので、今すぐとは言いませんが、3〜4時間後には竜を視界に捉えるでしょう。しかし、今なら、自衛隊機さえ居なくなれば目撃者は居なくなる。夜の闇も手伝って、今なら秘密裏に闇へと葬れる。この時を逃したくはないでしょう」。

そこで、黙って聞いていた赤ら顔の吉備川が口を挟んだ。

「バカな! 現在追尾しているのは自衛隊機と米軍機。そこまではマスコミのヘリが捉えているのだぞ。そんな状況で自衛隊機が帰還し、竜が消えれば、アメリカが疑われるのは明白。お前の言う通り、各国の槍玉に挙げられるぞ!」

「いえ、証拠さえ無ければ何とでも言い様はあります。竜が突然失速し、海中に没した。でもいいですし、突然方向を変え、恐ろしい程の速度で何処かへ飛んで行った。もしくは、そのまま高度を上げ続け、宇宙へと飛んで行った。・・・何とでも言えます。観客さえ居なければね。その後、しばらくは世界中が大騒ぎでしょうが、撃墜さえ成せば、東洋の神秘の国、日本に起きた摩訶不思議な事件、・・それで終わりです。数年もすれば都市伝説と同様の扱いになるでしょう。・・・付け加えれば、日本の領空を出るまで待ったのは、アメリカの同盟国へ対する気遣い。と、言ったところではないでしょうか」。

東海林の報告は、日下部にとって十分に信頼に足る物でありながらも、出来れば避けて通りたい道でもあった。

「それが、君のチームの見解かね?」。

「はい、そうです総理」。

「では、その先を聞こう」。

「はい。そこが一番の問題です。総理。自衛隊機を帰還させるか、それともこのまま追跡を継続させるのか。・・・帰還を選択した場合。その後、米軍機による竜への撃墜が行われたとして、アメリカとしては国際世論の批判をかわす為に自衛隊機の帰還を声高に明言するでしょう。米軍機による撃墜の証拠がない事を明確にする為に。事実である以上、こちらとしてもそれを認めざるを得ない。しかし、当事者のアメリカと違い、その場から去った日本に弁解の機会は与えられません。アメリカは撃墜は無かったと言い張れますが、日本はそれを疑う者達・・それが殆どでしょうが、彼等には共犯として認識された上、国防に関してまでアメリカの言いなりだとレッテルを貼られる事になります。今後、国際社会での発言力は著しく低下する可能性があります。・・・次に、追跡を続行した場合。それによって米軍は撃墜を断念。竜はそのまま東進を続けアメリカ本土上空を横断。ワシントンDCに限らず、アメリカの何所かで被害がでた場合、アメリカは日本による妨害があったと主張するでしょう。そして莫大な賠償を日本に請求します。人的被害が出れば更に困った事になります。その他、追跡の失敗や他国への被害が出た場合も同様に、日本による妨害が原因だと言い出すでしょう。勿論、米軍が竜の撃墜を強行した場合は共犯者となります。これが日本にとって一番被害の少ないシナリオですが、今後の軍事協力・・何かしらのペナルティを突きつけられる事にはなるでしょう」。

「で、どのシナリオを選択するべきだと?」日下部は短く聞いた。東海林はポリポリと頭を掻きながら言いにくそうに答えた。

「我々にはお答え出来ません。失う物の質が違い過ぎるのです。最早、価値の比較基準は我々の手に余ります」。

 その時、執務室の外がにわかに騒がしくなった。秘書が誰かと揉めている様子だった。幕僚長が何事かとドアを開けようとした瞬間。「バン」とドアは開かれ、そこに窪平の姿があった。秘書は「止めたのですが・・」とドアの向こうで小さくなっている。

 幕僚長は語気を強めて「何事だ! 誰だ君は!」と窪平を睨みつけた。しかし、窪平には幕僚長の声は耳に入らなかったようで、イキナリ総理に問いかけた。

「米軍から撤退命令が出たって本当ですか?!」

そこにスルリと東海林が割って入る。

「命令ではない。彼等には自衛隊に対して命令する権限はないよ。命令ではなく、要請だ。・・もっとも、意味は同じだがね」。

「総理! 自衛隊に対して帰還を要請したという事は、米軍は竜に対し攻撃をしかけるのでは!」再び、東海林が割って入る。

「それは我々も予測している。・・さあ、もういいだろう。君は・・科学チームのメンバーか? ならもう会議室へ戻りたまえ」。

しかし、窪平はまたも東海林を無視して総理に向いた。

「ダメです!竜への攻撃をさせてはいけません!絶対に!」。

 日下部は東海林に向かいコクリと頷いて、その行動を抑止した後で、窪平に問うた。

「何故、そこまで言える?」

「あの竜の能力が未知数だからです。攻撃を実行すれば竜がどんな行動に出るかわかりません」。

「攻撃は失敗すると?」

「あの竜には、我々の知らない能力があります。飛んでいる姿を見てもお分かりでしょう。飛行するだけでも我々の常識を逸している。他にどんな能力が隠されているのか」。

「つまり・・米軍を心配しての発言か?」。

「米軍だけでなく、全世界を憂慮して・・です。米軍の攻撃を、人類全体の意志と捉えられかねません」。

執務室内にシンとした重い空気が流れた。日下部は皆の顔を一通り見廻してから言った。

「軍事的判断を下すには・・・軽いな」。

「しかしっ!」

 窪平は日下部の言葉に弾かれたように食って掛かる。東海林が咄嗟にその肩を抑えた。そして日下部がゆっくりと言った。

「1時間やろう。その時間内で君の言葉に重みを増して来なさい」。

 窪平は下唇を噛み締めるようにして「・・はい」と答え、ドアに向かった。そしてドアの前でクルリと振り返り、「失礼をお詫びします」と言って深々と頭を下げ、部屋を出て行った。

 窪平がドアを出て行くのを待って東海林が言った。

「総理。一時間、待つおつもりですか?」。

「そのつもりがなければ、言わんよ」。

その答えに吉備川大臣が反応した。

「米軍を待たせる事になりますが」。

「向こうも理不尽な要求をしている事は理解している。一時間くらいは待つさ」。

「ですが総理。米軍の心象を悪くしますぞ。こちらを無視して攻撃を開始する可能性もある。そうなれば、面倒な事に・・」。

吉備川大臣の心配をよそに日下部は平然とした口調で返した。

「アメリカはそんなに愚かな国ではないよ」。

 その会話で、科学者達に与えられた一時間は確定的な物になった。


その頃、窪平の戻った会議室は紛糾していた。戻った窪平の口から一時間の内容と理由が伝えられた途端、会議室内には熱気が渦巻き、喧喧囂囂の議論が沸き起こった。

「撃墜なんて、とんでもない!」。

「しかし、それが日本にとって現実的に最もリスクが少ない選択だ!」。

「米軍が撃つ前に、日本がやるべきだろう。被害を受けたのは日本だぞ」。

「いや、どうせ3カ国が後ろから追って来ているのなら、5か国で攻撃したらどうだ。火力も上がり、成功の確率が高くなる」。

 それぞれの立場や考えから、それぞれの意見が出たが熱気に推されたのか、それとも事態の異常性に浮ついているのか、彼等はおおよそ科学者らしからぬ不毛な意見対立に終始していた。そこで、土村がスクリと立ち上がる。自分を最もアピール出来る状況を嗅ぎ取る嗅覚は流石だった。

「皆さん! 分かっていますか。 時間は一時間しかない。しかし、一時間ある。やらねばならないのは、官邸のお歴々に説得力のあるデータを提示する事。意見が違うのは尤もですが、意見をぶつけ合う前に、それぞれの意見に沿って、ここの全員を納得させるだけの説得力をつける事に時間を使うべきでしょう」。

この土村の言葉により、皆が考えるべき方向を見定めた。科学者として地に足をつけ直したとも言い換えていい。パソコンにかじりつく者。電話を掛け、必要資料を揃えるよう指示を出す者。周囲の同意見者と意見交換を始める者。方法は様々だったが、全てが目標に到達する為に有効な手段だった。そして、それは竜という存在の解明へと繋がってゆく。窪平は少し離れた場所から、その表情で土村に賞賛を送っていた。

「素晴らしいリーダーシップです」。

しかし、当の土村はそれに気付く余裕はない。再び壁際にスルスルと寄り隠れ、ノートパソコンの例の画面を開いた。

(これでは情報が少な過ぎる。・・・現場で確かめるしかないか。)

 土村はノートパソコンを閉じると、なるべく目立たない様に会議室を出た。そして廊下に居た樋口補佐官を呼び止めると、検証の手伝いに人手と車が必要だと申し出て、2人のスタッフと移動用の車を借り受けた。土村は運転をその内の1人に任せ、車の後部座席に乗り込むと、難しい顔で考え込んだ。

 (あの会議室のメンバー。あれだけの顔ぶれならドラゴンの正体に迫る事も可能だろう。だが、それは時間があっての話。1時間でそこまで辿り着くのは無理だ。どうやら、あの場面の異常性に気がついているのは俺だけのようだが、時間が経てば誰かがきっと見付ける筈だ。この証拠を確実なものにすれば、米軍は無理でも官邸は動かせる。その為には現場を精査しなければならない。最低でも直線距離で2km。この範囲を3人で手分けして・・1時間か、ギリギリだな。・・・しかし、そこが上手く行ったとしても、問題はその後。証拠が出揃っても、それは確固たる特大の疑問が確定するだけだ。その疑問だけで官邸を動かす事は出来るだろうが、問題は官邸をどちらに動かすか・・だな。)

 土村は自分が手に入れようとしている材料を如何にして有効活用するか、そこに執心していた。土村の嗅覚は、この状況が自分の野心を満たす為の千載一遇のチャンスだと嗅ぎ取っていた。

 現場に着くと、竜の居た国会議事堂は既に大半がその面影さえ無くし、東京都心部の一等地にある瓦礫置き場になっていた。辛うじて残った建物の一部は、そこが以前に国会議事堂であった事を証明していたが、改めて眼前にすると、そこが平和な日常とは大きくかけ離れた場所に思えた。

 車を降りると土村は2人のスタッフに指示を出す。ノートパソコンの画像を入念にチェックして、竜の羽撃きが生み出した風の方向を見定め、その方向を手で示しながらスタッフの1人に言った。

「君はこの方向へ、100m毎に現場の写真は撮ってくれ。もう1人は2km先から、こちらに向かって、同様に写真を頼む」。

すると、スタッフの1人が言った。

「現場の検証だとは聞いていますが、目的が分からなければ御要望のデータが得られるかどうか。検証の目的は何ですか?」

土村は慎重に言葉を選んで答えた。

「あのドラゴンが羽撃いた。それによって起きた風は2km先まで届いた。その被害状況を知りたい。被害状況から大凡の風速、風圧が推測出来る」。

「わかりました。風による被害状況ですね」。

 2人のスタッフは短く答えて、それぞれの作業に移った。土村は2人に背を向けて、爆心地とも言うべき竜の居た場所へ、瓦礫の上を進む。ノートパソコンの画像と見比べて現場の瓦礫を丹念に調査した。

(やはり・・この辺りの瓦礫は羽撃きによる影響を全く受けていない。羽の高さと羽撃きの角度から見ると、170〜80mは風の空白地帯でもおかしくは無い・・が、それにしても、余りにも影響が無さ過ぎる。飛立つ際、強く足でジャンプした形跡もない。羽撃きの風は、ほぼ一方向に集約し、それも前方へ向いている。あの巨体を浮かせる為の、直接的な要因だとは考えにくい。なら、あのドラゴンはどうやって飛んだ? これではまるで・・空中に吸い上げられたかのようじゃないか)。

 その頃、官邸会議室では科学者達の議論が更にヒートアップしていた。

「そもそも、議事堂を破壊された時点で攻撃するべきだったんだ!」。

「いや、相手は竜だぞ?! 何もかもが未知数なんだ! 攻撃すれば何が起こるかわからないんだぞ!」。

「殺してしまえば、何も起こらん!」

「馬鹿を言うな! 世界中が観ているんだぞ! 簡単に攻撃など行えば、世界から何を言われるか。それに、ここは東京のど真ん中。こんな所でドンパチやれるか!」。

「待て、今は自衛隊機をどうするかだ。帰還か、待機か、それとも、米軍に先んじて攻撃するか」。

科学者達の意見は大きく分けて4つに分かれていた。

> 1、米軍が行動を起こす前に自衛隊機による攻撃。

> 2、米軍機と距離をとりつつ、監視と待機。

> 3、米国への刺激を避ける為、自衛隊機は帰還。

> 4、自衛隊機による米軍機の攻撃阻止。

どれも科学者の範疇を逸脱した意見だった。議論の熱渦から少し離れた場所で内谷教授は隣にいる窪平に言った。

「自衛隊機による攻撃阻止は現実味が無いな。アメリカとの関係性を鑑みても、実現するとは思えない。・・理想と言う名の虚しさを感じるよ」。

「はい。難易度の高さは抜きに出てますね。しかし、それ以外に攻撃を防ぐ手立てはないでしょう」。

「攻撃には反対かね?」

「実際に受けた議事堂の被害は見過ごせません。犠牲者も出ていますし。・・・しかし、誰かも言っていますが、竜の能力は未知数です。あの姿に気圧されている面もあるのでしょうが、あの飛び方を見ても、我々の常識を超えています。ビデオを見返しましたが、現在の高度は約9000m付近。そこに至り水平飛行に移るまで、あの竜は7回しか羽撃いていないのです。その際、羽の動きも鳥のそれとは少し異なります。上昇気流を利用しているとの意見も有るようですが、その程度であの巨体が浮くものでしょうか?」

「ふむ・・可能性が無いわけではない・・が、難しいだろうな」。

「それに上空9000mですよ。気温も低いし、空気も薄い。ジェット気流に乗れば飛行は可能でしょうが、生身であの場所を悠々と飛行する。そんな生物、僕には理解出来ません」。

「それについては、私も同意見だ。だが、未知数だから、それだけでは撃墜阻止の決定には届かないだろう」。

「ええ。・・教授は攻撃には賛成ですか?」

「本音を言えば『攻撃して欲しくは無い』。だな。攻撃の正否について、現段階で明確に出来る者など、どこにも居はしない。可能性を追求する科学者には尚更だ。そこはもう、政治家か軍に任せるしか無いのではないだろうか」。

「・・・ですが、意見の提示は出来ます。そして、それは判断を左右します」。

「ああ、そこが問題だ。今の我々には疑問を提示するしか出来ていない。この疑問を意見にまで昇華出来るか・・限られた時間の中で・・だ」。

 2人の周囲には思い空気が横たわっていた。眼前では相変わらず熱い議論が交わされていたが、同じ場所をグルグルと巡るばかりで答えに行き着く気配さえ無かった。その時、2人の背後からエイコンが話し掛けた。

「お二人の意見は纏まりましたか?」

窪平が振り向くと、エイコンは部屋中に充満する熱気の中にあって、場違いな程に飄々とした表情を浮かべていた。

「意見と呼べる物は、遠く霞の向こう側です。・・君はどうです?」。

窪平が答えるとエイコンはズイと顔を寄せて言った。

「アメリカに撃墜させるべきです。日本は少し離れて、その様子を映像に残せる事が出来ればパーフェクトでしょう」。

「その理由は?」

「まず、被害が既に出ています。自国内で被害が出ているのに報復もしないなんて、指導者の求心力はガタ落ちですよ。メンツを保つ為にも攻撃は必須です。しかし、相手は竜です。神、伝承、古今東西の境なく、あらゆる物語に登場する人気のキャラクター。それを殺したとなると、世界中からの非難は避けられません。ですが、アメリカなら、脅威が向かって来ている。その理由だけで十分です」。

「しかし、被害が出ているのは日本なのに、撃墜はアメリカとなると、日本のメンツは立たないのでは?」

「日本による撃墜は最悪に近いシナリオです。世界中から非難を浴びる事態になれば、内心では攻撃に賛成しているにもかかわらず、非難に転ずる国も出てくるでしょう。どこかの国が『日本に制裁を!』なんて言い出したら目も当てられません。日本外交にはそれを突っぱねる強さが無い。しかし、アメリカならそんな国際世論も跳ね除けられます。アメリカが恐れるのは国内世論だけですから」。

「それでも、メンツを保てたとは言えないでしょう?」

「軍事的に日本はいつもアメリカの傘の下。日本ってそういう国でしょ?」

 エイコンを見る窪平の目が複雑な色を滲ませた。彫りの深い顔に金色の髪。それでいて流暢に日本語を話し、ルーツであるギリシャ語も英語も話せない。そんな男にとっての母国である日本。彼にはどんな風に映っているのだろう。窪平には自分のそれとは微妙な食い違いがある気がしていた。

 その時、またもや窪平に背後から声が掛けられた。

「そこに居たのか、窪平君!」

 そう言って駆け寄ってきたのは、外から戻って来たばかりの土村だった。窪平が見ると、土村は少し息を上げ、額は薄っすらと汗ばんでいるように見えた。

「さあ、首相の所へ行こう。もう時間だ、意見を提出しなければならない」。

そう言われて時計を見ると、約束の1時間後まで残りは僅かだった。しかし、眼前の熱気は未だ収まらず、依然として科学者らしからぬ内容の議論が続いていた。

「結局、統一見解どころか、答えの1つも出ませんでしたね」。

窪平は内谷教授にそう言ったつもりだったが、その言葉に答えたのは土村だった。

「かまわない。答えなら、ここにある」。

「答えとは・・どんな?」

「説明している暇はない。さあ、首相の所へ行くぞ!」

「ちょ、ちょっと! 僕が行く必要はないでしょう? 僕には何も答えが出てないのだから」。

「君が窓口だろう! 首相からの提案を、ここに持ってきたのは君だ。窓口としての役目を果たしたまえ」。

 そう言われて窪平は渋々土村に従った。内心、言いたい事は他にもあったが、土村の出した答えを聞きたい気持ちもあった。それらを天秤にかけた結果、僅かに針が傾いた。そんな窪平をよそに、土村にはシッカリとした思惑があった。外での調査を終え官邸に戻った時、土村はその足で総理の居るであろう執務室へ向かうつもりだった。しかし、フト思った。窓口である窪平を連れて行けば、自分のだした答えが、あたかも会議室の総意であるかのように映る筈。どうせあの会議室では結論には辿り着けはしない。上手くすれば、会議室の皆が自分に賛同したかのように印象付ける事も可能かもしれない。土村は自分の手中にある『答え』が、首相の望む強度を持っていない事を実感していた。だから、その足りない強度を印象で補おうと目論んでいた。今は中立である首相の心を、ほんの少しでも傾かせることが出来れば良い。その傾きが判断を左右する。そして、その傾きをもたらせた者には、信頼が注がれる。そうしなければ、自分の判断自体が危うくなるからだ。自分の判断を信じるという事は、その判断材料をもたらせた者を信用すると言う事だ。土村の嗅覚は、これまでにない程に冴え渡っていた。


 執務室に着くと相変わらずのお歴々が顔を揃えていた。それらの視線は当然、窪平に集まる。

「何か見つかったかね?」

 日下部が期待を込めて問うと、返答を躊躇う窪平を差し置いて土村が前に出た。そして、しおらしい顔を作ってから言った。

「我々には答えに至ることが出来ませんでした」。

 その言葉に執務室のお歴々の半分は落胆の表情を浮かべ、半分は「当然だ」と鼻を鳴らし、窪平は目を丸くした。

 (あんなに自信満々だったじゃないか!)

だが、土村は間髪を入れずにズイと総理の前に進み出て、ノートパソコンを開く。

「ですが、あのドラゴンの異常性は確固たる物になりました。」

そう言いながら手慣れた手つきで執務室のモニターとノートパソコンを接続し、そこに現場で収集した画像を映し出した。その資料は見栄え良く、解りやすく順序立てて構成され、時にアニメーションまで駆使されていて、窪平がまず関心させられたのは、土村のパワーポイントスキルだった。そして土村は、今度は『私は』から話を始めた。

「私は、あのドラゴンの飛び立った場面に注目しています。ご覧下さい。あのドラゴンの飛立つ場面です。ドラゴンはここで1度、大きく羽撃きます」。

そう言って始められたプレゼンには、窪平も十二分に興味をそそられた。たった1度の羽撃きで起こされた風。それによる被害状況、羽撃いた際の翼の動き、角度。それらを画像から検証した上で、竜の周囲800m程に風の影響が皆無である事を理論付けた。そしてそれが、翼の形状や位置、そしてその動作から、いかに異常であるかを皆に見せつけた。

「以上の条件から、通常ではその風はドラゴンの前方、約200m程度の場所から被害を出している筈なのです。しかし、実際の被害は、そこからさらに600mも先から始まり、さらに2000m先までにも被害は及んでいます。映像から計算すると風速は60m/sを軽く超え、1500m付近で被害が最大化しています。その地点ではビルが僅かに傾いています。当然、窓ガラスは割れ、壁は皹だらけです」。

 そこまで聞くと、日下部はまだ話を続けようとする土村を遮って口を挟んだ。

「竜の異常性は解った。しかし、だから何だと言うのだね?」

土村はその言葉を受けて、口の端で小さく微笑んだ。そして顎を上げ、総理の目を正面から見据えて言った。

「あのドラゴンは異常な程、異常です」。

その直後、「ワッハッハ!」と大口を開け、「全く、君ら学者は言葉を知らんのか」。

そう言って、ここぞとばかりに嘲笑をブチ上げたのは吉備川大臣だった。せり出た腹を上下に動かしながら高らかに笑う。『異常な程、異常』だと? 異常なのは解っておる。2度も続けんでよいわ! これだから学者は・・」。

 執務室に吉備川の笑い声が響いたが、他の者は皆、一様に押し黙った。土村があえて選んだ言葉の指し示す所が漠然と伝わっていたからに他ならない。それに 気付いた吉備川はバツが悪そうに口を閉ざし、肩をすくめて俯いた。そして、窪平が呟くように言った。

「確かに、常軌を逸していますね。なるほど確かに、地上であれば竜の起こした風を、より詳しく推察出来る」。それに下松幕僚長が続く。

「うむ。素人目にもそれが解る」。しかし、日下部は違う視点を持っていた。

「だが、異常性を説いた所で、それは米軍も承知の筈。彼らの意向は変わるまい」。

ここで、土村はさらに前に出た。

「それは、誰が説くかによるのではないでしょうか?」

執務室内が途端に静まり返った。ピンと張った空気に視線さえ動かすのを憚られた。土村の言葉は、総理大臣である日下部への明らかな挑発だった。死人まで出した被害を受けておきながら、他国の攻撃を指を咥えて見ているのか・・と。当事国の首長として、米国に敬意を払わせるべきであろう・・と。そんな言葉を突きつけられた日下部は、その視線を鋭くさせて土村を睨み付けた。しかし、土村はピンと背筋を張り、覚悟の上の挑発であることを、その視線で表した。

「もういい。君達は下がれ」。日下部の声が低く土村と窪平の2人に向けられた。そして、1つ、付け加えた。

「それから、・・・確か、土村君と言ったね。君は・・・分を弁えたまえ」。

 土村は「は・・」と小さく答え踵を返した。窪平はペコリと頭を下げて後に続いた。

 執務室を出て、廊下に入ると窪平はキラキラと目を輝かせながら、土村の行動を賞賛した。総理への挑発もその一つだったが、何より窪平が感心したのは、竜の飛立つ瞬間に着目した事だった。あれだけの錚々たる面々が、舞い上がった後の竜にしか注目出来なかった中で、その視点は素晴らしいと真っ向から褒めちぎった。しかし、土村は浮かない顔で、「そう思うか?」と不満そうに聞いた。「勿論」と窪平は答えたが、土村の表情は晴れる事なく、ただポツリと「・・・まあ、時間は稼げた」と呟いた。

 一方、総理執務室では、日下部が意を決した厳しい表情で、下松幕僚長へ指示を出した。

「米国へ通達。攻撃の再考を求む。攻撃が行われるのであれば、自衛隊機は退避せず、現状の距離を保ったまま情報収集に当たる。と伝えよ」。

 下松が執務室を出ると、安全保障庁の東海林も後に続いた。日下部の指示は『米国』へ向けられており、自衛隊機の退避を要請してきた『米軍司令部』に宛てられた物ではない。これは、外務省の担当するべき案件であり、加えて、日下部の言葉には米国への反発色が強かった為、安全保障庁を通す事によって、その色を薄め、依頼の色を強めようとする判断だった。・・・が、東海林の機転も虚しく、要請を受け取ったブレリッジ大統領は激怒した。

「飼い犬が牙を剥くか!」

傍のボルツ国務長官が淡々とした口調で問う。「いかがなさいますか?」。ブレリッジ大統領はギリギリと奥歯を鳴らし紅潮した顔をしながらも、クイと顎を上げ、薄ら笑いを浮かべながら答えた。

「クサカベに返答だ。『我が国は内政干渉を認めない。我が国へ向かう脅威排除の決定も変わらない。自衛隊機に損害が出ない事を祈る』と。空軍へ伝えよ。『作戦は続行だ』と」。

 その1時間後、現場空域に到着した米軍機2機から、それぞれ2発づつのミサイルが、竜に向け発射された。


 米軍機2機から発射されたサイドワインダーミサイルは計4発。マッハ2、5の速度で、みるみるうちに母機から離れて行く。3本目のミサイル先端に取り付けられたカメラの映像は、米軍司令部、国防総省およびホワイトハウスにも届けられた。前を飛ぶ2本のミサイルがしっかりと映し出されている。ホワイトハウスの大統領執務室では、大統領とその側近、軍の高官、情報局長らの視線が、その映像に注がれていた。

 一方、日本では自衛隊機に取り付けられたガンカメラの映像を総理らが注視していた。夜間の為、その映像は赤外線モード。画面全体が白ボケていたが、その中央に、より白く、悠々と飛ぶ竜の姿がシルエットで映し出されている。

 そこに補佐官が慌てた様子で飛び込んで来た。

「たった今、米軍機からミサイルが発射されました! 着弾は、およそ2分後です!」

総理らの視線は画面に集中し、食い入るように見つめるが、時折ゆったりと羽撃く竜の姿の他には何も映し出されてはいないようだった。しかし・・・。

「あれだ!」

声を上げげたのは下松幕僚長だった。白く映る竜のシルエットの向こうに、更に輝く様に白く映る点が、1つ・・2つ、小さくポツリポツリと見え始め、すぐに4つの光が確認出来た。それを見た日下部は、ギリリと奥歯を噛み締め、会議室でそれを見ていた窪平達は拳を握り締め、固唾を呑んで見守っていた。

大統領執務室では、無線の音声が流されていた。

「着弾まで、あと5! ・・4、・・3」。

軍司令部からの無線がミサイル着弾へのカウントダウンを続けている。そして・・「1!」。

・・・シンと静まり返った部屋の空気は、尚、ピンと張り詰め、誰もが身じろぎもせずにモニターの画面を睨み付けていた。しかし、爆発を示す変化がない。ミサイルに取り付けられたカメラも赤外線モードであった為、爆発すれば画面全体が真っ白になる筈。そして、すぐにカメラを取り付けられていた3本目のミサイルも竜へ到達した。しかし、爆発の様子が無い。

「どうした!? 外したのか! それとも不発だったのか!」

大統領の声には苛立ちが滲んでいる。・・・が、司令部から送られてきたミサイルのデータは不可解でありながらも、目を疑う答えを示唆していた。そして、その答えは日本側でも判明していた。

自衛隊映像班が慌ただしく作業を終え、その映像が下松の手によって総理へ届けられた。その映像は、最大望遠で捉えたられた自衛隊機のガンカメラの映像。それを更にデジタル処理し、より大きく、鮮明にした映像だった。その映像を観た全員が我が目を疑った。

その映像はコマ送りで再生される。白ボケた画面の中央に白くクッキリとしたシルエットの竜。その向こうから恐ろしい程の速度で飛来する4本のミサイル。1本目が竜の右肩付近に到達する、その直前、それまでミサイル後方から勢いよく吐き出されていた噴煙と炎が、何の前触れもなく消えた。そして、竜の右手が・・・それを掴んだ。2本目も同様。推進力を失い、惰性で飛ぶミサイルを、今度は竜の口が捕捉した。3本目と4本目に至っては、推進力を失う所までは同じだったが、今度は静かに竜の傍にピタリと停止した。しかし、それだけでは終わらなかった。竜は口に咥えた直径12cm以上あるミサイルを、顎の力だけで噛み折り、その残骸は力なく海へと落下してゆく。そして、右手に掴んだミサイルを持ち替え、方向を180度返す。すると、傍に停止していたミサイルも、まるでそれに習うかの様に方向を転換し、頭を東へと向けた。

「そんな馬鹿な! 何をする気だ!」

日下部が画面に向かって叫ぶ。恐ろしい想像が、その映像を見ている皆の脳裏を過る。そして・・・竜の右手に掴まれたミサイルが息を吹き返し、後部からそれまでと同じように勢いよく噴煙と炎を吐き出すと、傍の3本目と4本目からも炎が吹き出した。

「ダメだ! それはいけない!」

日下部の悲痛な叫びも虚しく、3本のミサイルは竜の元を離れ、東に向かい、本来の性能を発揮しながら飛行を始めた。

その同時刻、米軍司令部には緊急通信が入っていた。

「メーデー、メーデー! こちらアルファリーダー。現在、当機にロックオン警報が出ている! 前方からミサイルらしき物が高速で接近中! これはどういう事だ!? メーデー、メー・・」

竜から放たれた3本のミサイルが、米軍機2を撃墜した。それは自衛隊機のカメラで確認されていた。日下部は肩を落とし項垂れながら、その映像をアメリカへ提供するよう支持を出した。

日本側からの映像を受け取ったブレリッジ大統領は激怒した。

「日本は我が軍の失態を嗤いたいのか!」慌てて補佐官のミラレスが口を挟んだ。

「落ち着いて下さい。同盟国として通常の措置です。大統領」。

ブレリッジはキツとミラレスを睨んだが、すぐに自らを戒めた。そして提供された映像で沈黙と共に事態を再確認する。大統領執務室は重い空気に支配され、皆が悲痛な面持ちで映像を見つめた。国防総省のハイザックは、目の前で流れる映像が作り物であるかの様な感覚を拭いきれずにいた。

「そんな・・マッハ2、5だぞ。そんな高速で飛来するミサイルを・・・掴んだ・・なんて」。

米軍司令長官のマコービックも同じだった。ミサイルの飛行能力、その威力を十分過ぎる程認識しているからこそ、竜のとった行動と、その結果を認められずにいた。しかし、把握しているミサイルデータ、衛星の映像、そして日本から提供された映像、そのどれもが、同じ事実を示しており、認めなければならない現実が、どれだけ理解の範疇を超えていようとも、事実である事には変わりない。米軍機から放たれた4本のミサイルは正常に飛行し、僅かな障碍も無く竜へと辿り着いた。そのまま命中する事を誰もが疑わなかった。しかし、命中する寸前、唐突にミサイルの動力が停止。起爆回路の信号も停止した。そこを竜の爪と牙が襲う。その時のミサイルは動力を失っていたとはいえ、対地速度はマッハ2を超えていた。それでも竜はまるで樹に実った果実をもぎ取るように軽々しくミサイルを掴み、また、口に咥えた。その後、数秒遅れて到達した2本は触れられる事もなく、従者のように竜の傍に佇み、一時の沈黙。竜が口のミサイルを易々とと噛み砕き、掴んだミサイルをクルリと持ち替えると、傍の2本のミサイルも転身、同時に息を吹き返す。竜に捕捉された3本のミサイルは、後方から炎と煙を吐き出して東へ飛行。自らを発射した母機を敵機のごとく捕捉し、撃墜。それが全容だった。

その頃、日本の官邸執務室では1つの懸念が頭をもたげていた。米軍が次にどう出るのか予測がつかず、日本としての行動を決めあぐねていた。

「第2次攻撃・・ありますかね」。安全保障庁の東海林は眉間に皺を寄せ、呟くように言った。防衛大臣の吉備川は腕を胸で組み、口を真横に噤んだ。すると、自衛隊統合幕僚長の下松が口を開いた。

「米軍としては、攻撃のオプションはまだあります。次があるとすれば、艦隊攻撃になるでしょう」。

「しかし・・」。下松の言葉を受けて、東海林は意見を纏め切れていない歯切れの悪い口調で話し始めた。

「世界一の軍隊です。あの程度でオプションが枯渇する筈がないのは解ります。問題は、次の攻撃があった場合、日本はどうするのか。・・・計らずも我々は、米軍敗戦の目撃者になってしまった。それも、自分の放ったミサイルで撃墜という・・・無様な敗戦の目撃者です。マスコミの目ではなく、機密の保てる自衛隊機による目撃。報告では幸いにして、中・ロ・韓の戦闘機も視認圏には到達していませんでしたが、今後、アメリカは観客を歓迎しないでしょう。強硬に自衛隊機の帰還を要請してくる可能性は大きい。それを突っぱねれば、今後に大きな遺恨を残す事になります。逆に自衛隊機を帰還させれば、中・ロ・韓がその席に着くことになる。議事堂を破壊され、死者まで出ている。なのに、撃墜はアメリカ任せで、最期を見届けもしない。他国が見ているにも関わらず・・です。これでは日本国民が黙っていない。信頼を失うだけではなく、深い失望も心に刻まれる。もし、日本が事なきを得るとすれば、それはアメリカが攻撃を止めた時だけです。・・・総理、 アメリカに攻撃中止を要請しましょう。・・それでも時間稼ぎにしかなりませんが」。

東海林の様子は話しながら答えに行き着いた印象を皆に持たせた。しかし、答えを出した現時点でも、まだその脳裏をグルグルと思考が駆け巡っているように見える。それが皆に不安を抱かせ、その不安が吉備川の背中を押した。

「ちょっと待て! それは日本の都合だろう!」すかさず東海林が反論する。

「国際社会は身勝手なものです。 どの国も自国の事しか考えていない。それが事実であり、正しい考えです」。

「馬鹿な! そんな要求をアメリカが飲む筈がない!」。

「では、どうするのです? 既に日本はアメリカにとって目の上のたんこぶになってしまっているのですよ」

東海林の言葉は代案の無い吉備川を黙らせるに十分だった。しかし、吉備川の言う通り、日本の要請をアメリカが受け入れるとは到底思えない。中国・ロシア・韓国の戦闘機が現場に迫って来ている状況を考えれば、アメリカが今にも攻撃を開始する可能性もある。一刻を争う中で、これと言った方策も無く、皆の心に焦燥感が広がって行った。それを察したのか、長く押し黙っていた日下部が、ついに口を開いた。

「2次攻撃は無いよ。ブレリッジ大統領は激情の人ではあるが、それを御する冷静さも併せ持っている。一国の、それもアメリカの大統領にまで登る男だ、そんなに安い男ではない。ましてや、我々人間の叡智の及ばぬ相手であることは、既に明白ではないか」。

日下部は驚く程、穏やかな口調でそう言った。そしてそれは同時に、その場の誰にも反論を許さない、絶対の壁となった。・・・しかし。


同時刻。ホワイトハウスではブレリッジの怒声が飛んでいた。

「第七艦隊に指令を出せ! 第二次攻撃の準備だ!あのドラゴンを我が国領空に入れてはならん!」

米軍司令長官のマコービックは、ブレリッジ大統領の命令に小さく頷き、執務室を出た。しかし、補佐官のミラレスは慌てて口を挟む。

「ま、待ってください大統領。我が軍の戦闘機が墜とされたのですよ! 日本の自衛隊機も未だドラゴンを追尾しています。数分後には中国・ロシア・韓国の戦闘機もドラゴンを捕捉するでしょう。現場は公海上です。他国に下がれとは言えませんよ! 同盟国である日本と韓国はともかく、中国とロシアの眼前で失態を冒す訳には・・」。

ブレリッジはギロリとミラレスを睨む。そして、更に顔を赤らめて怒鳴った。

「空がダメなら、海だ! たかがドラゴン一匹、艦隊の総攻撃で仕留める! 相手がどんな能力を持っていようと、数で押し切れば墜とせる! 第七艦隊全艦で総攻撃だ!肉の一片も残らない程の砲撃を撃ち込んでやれ!」

一言毎にヒートアップするブレリッジにミラレスも言葉を飲んだ、・・が、国防総省のハイザックは落ち着き払ったトーンでポツリと言った。

「それは・・・悪手ですな。大統領」。

「・・・なんだと?」

今度はハイザックにブレリッジの鋭い眼光が飛んだ。それは大統領としての威厳と権力を一点に集中させたような高圧な視線だったが、ハイザックは口の端を緩く歪めて答えた。

「他国の見守る中での成功率の低い攻撃。これは余りにリスクが大き過ぎます。もっと成功率の高い場所を選ぶべきでしょう」。

そうハイザックが話す間に、ブレリッジはまるで感情を入れ替えたかのように冷静さを取り戻していた。

「成功率の高い場所とは?」

「日本の例を参考にするならば、あのドラゴンがアメリカ国内に降りると仮定した場合、可能性の高い場所は連邦議会か、このホワイトハウス。・・と言う事になるでしょう。日本からの分析結果も私のチームも、それが最も可能性が高いと結論を出しています」。

「このホワイトハウスが、あのドラゴンに踏み潰されるのを指を咥えて見ていろと?」。

「ええ、そうです」。

「そして、我が国民の頭上をあのドラゴンが悠々と飛ぶのを許すと言うのか。世界中の嘲笑の的になるのだぞ」。

「それでいいのです。他国の戦闘機に領空侵犯させる訳にはいきませんが、この際、国内のマスコミに取材を許可しましょう。それを世界中が観る。そして迎え撃つのです。

 少々慌ただしくはなりますが、目的地が解っているなら十分な準備が出来ます。近隣住民を非難させ、連邦議会とホワイトハウスを戦車隊で囲み、地雷も敷設しましょう。その間、我々は盛大に嗤われるでしょうが、嘲笑、批判、中傷、大いに結構! 世界はアメリカの失態を見逃さぬよう、更に注目します。そうやって世界中の目を集め、注目の集まる中で、同盟国日本の国会議事堂を破壊し、死者を出し、我が軍の戦闘機2機を撃墜した竜を。世界に災厄の種を蒔かんとする竜を・・・倒すのです」。

ハイザックの力説はブレリッジの口元を微かに緩めた。ブレリッジは椅子に深く腰掛け。ハイザックに背を向けるように窓を向いた。そして、期待を込めて聞いた。

「しかし、暗闇の中での撃墜ではなく、世界中の耳目が集まる白日の元となると、事後に批判が集まる・・のではなかったか?」。

ハイザックはブレリッジの背中に向かって易々と答える。

「ドラゴンとは、我々人類にとって、常に畏怖の対象。神話、民話、伝承には良いドラゴンと悪いドラゴンがいます。・・我が軍の2機の犠牲を公表しましょう。日本の犠牲者についても再度公表しましょう。あのドラゴンは既に被害を出しています。このまま放っておけば、世界中が被害を受ける可能性がある。世界にそう伝えるのです。それも、日本の様に小規模に留まるとは限らない。・・と。その上で、宗教的、思想的にドラゴン殺しが汚名であれば、あえて汚名を被りましょう。アメリカは、その象徴たるホワイトハウスを犠牲にして、世界を災厄から救うのです。それが、アメリカの正義になります」。

「このホワイトハウスを犠牲にするというのか!」

ブレリッジの冷静さがにわかに失われる。しかしハイザックは落ち着き払って答えた。

「そうです大統領。犠牲というのは小さければ意味がありません。しかし、大きな実害は国民を失望させる。被害がホワイトハウスならば、国民の心理的損失は大きい。しかし、建物1つです。世界も衝撃を以てこれを観るでしょう。誰一人として犠牲者を出さず、ドラゴンへの悪感情は膨張する。アメリカは同盟国日本の為、ひいては世界の為に歴史的、心情的に重大な日性を払ってドラゴンを討つのです」。


竜がアメリカ西海岸に到達するまで、残り7時間。その間、自衛隊機は米軍からの空中補給を受け、アメリカ領空の手前まで竜の追尾を行った。直後、アメリカのマスコミ各局から世界中に向け、一斉に生中継が開始された。竜の姿が世界中のテレビに映し出された。それに伴い、中・ロ・韓の3ヶ国はアメリカ領空の手前で進路を変えた。そこから竜は更に東へ。ワシントンDC到着まで、残り4時間。


 アメリカ合衆国西海岸、サンフランシスコでは夜明け前から多くの人々がビーチに押し寄せていた。その視線は遠く西の空に注がれる。遠からず訪れるであろう竜の姿を一目見ようと周辺地域からも多くの人が集まった。その数、およそ3万。南北に長いビーチはその人々で埋め尽くされ、街中にも人が溢れ、交通機関は完全に麻痺していた。

やがて夜が明け、西海岸らしい陽射しが降り始めた頃、晴れ渡った空の向こうに小さな異物が姿を現した。

「見えた! ドラゴンだ!」。

誰かが叫んだその一言をキッカケに、全ての視線と、長いレンズを付けたカメラやスマホ、双眼鏡が青い空の小さな異物に向けられた。この時の竜が飛行する高度は約5000m。ジャンボジェットのおよそ4倍にも相当する大きさであっても、肉眼で捉えられるのは少し歪な形をした小さな点だった。それを見越して双眼鏡や望遠レンズを用意した者が優位を得る。

「見える! ドラゴンだ! 本物のドラゴンだ!」

ビーチは熱狂に包まれた。多くのアメリカ人が竜に届けと声を張り上げ、手を振った。ホワイトハウスの思惑とは裏腹に竜を脅威とみなしていないのか、それらの人々の表情にも行動にも歓迎の印象が見て取れた。当然、マスコミもこの熱狂を見逃す筈はない。ビーチだけではなくゴールデンゲートブリッジやシエラネバダ山脈の各地に、西方へ向けたカメラが多く設置され生中継を行なっていた。双眼鏡等を持参できずに肉眼に頼るしかない者達は、スマホでこの生中継を視聴した。勿論、サンフランシスコだけでなく、アメリカ国内だけでなく、世界中のテレビ画面に青い空を悠々と飛行する竜の姿が映し出されていた。

 遠く、ワシントンDCのホワイトハウス大統領執務室にあるテレビも、その一つ。短い仮眠を終えたブレリッジ大統領は、朝食を摂りながら苦々しい思いで、その画面を見つめていた。そこへミラレス補佐官がいくつかの新聞を手に入ってきた。

「これだけ新聞の種類があっても、今日に限っては、どれか一つだけを適当に選べば事足ります」。そう言って新聞をテーブルの上に放り、疲れた様子でドカリとソファーに腰掛けた。ブレリッジはチラとミラレスに視線を寄越したが、直ぐにテレビ画面へ視線を戻し、不機嫌そうに言った。

「今日に限っては、その1紙さえ読む必要が無い」。

その後、ミラレスは打ち合わせ通りの準備が順調に進んでいる事を告げ、一旦、執務室を出た。そろそろ関係機関の代表が仮眠を終え、髭を剃り、髪を整え、疲れた顔で集まって来る。世界中の目は既にアメリカに注がれている。恐らく竜は、滞る事なくこのままアメリカ上空を横断するだろう。多くのアメリカ人が空を見上げる。竜が戦闘機を撃墜した事を知らずに。その口から火球が放たれ、それが自らの立つ場所に向けられる可能性を推察する事もなく、今、テレビに写っているように、多くのアメリカ人が熱狂と共に竜の来訪を迎えるだろう。歓喜と共にその姿を捉えるだろう。そして、竜が何かしらの被害をアメリカに与えた時、その事実は世界中の嘲笑を呼ぶ。それを傍観したアメリカ政府を世界は愚弄し、アメリカ国民は自らが竜に向けた笑顔も歓声も忘れて失望と怒りを声高に叫ぶだろう。ハイザックはそれを正義に変えると言った。しかし、それが叶わなければ・・・。アメリカとブレリッジ大統領の長い1日が始まる。


 朝食を終え、身支度を整えても、ブレリッジ大統領の心は不安に苛まれていた。最終的には自らが認めた作戦だとはいえ、粘度の高い不安が心のあちこちに纏わり付いて離れない。

(本当にこれでいいのか?)

ブレリッジはハイザックを高く評価し、また信頼していた。ハイザックの言った戦略についてもまた同じ。作戦が終了すれば結果はハイザックの期待通りの物になるという事も信じていた。だが、どうしても拭いきれない疑問が残る。それは正義を勝ち取る為に、ホワイトハウスを犠牲にする事だった。ハイザックは、それこそが堂々たる正義を手にする為の条件だと言ったが、犠牲に見合う勝利なのか。そこにブレリッジの疑問は留まったままだった。10万ドルを投資して10万と1ドルを手にするようなもの。そんな印象が拭えなかった。それでも勝ちは勝ち。勝利である事に間違いはない。それに事後処理を上手く進められれば、世界はアメリカを称え、その功績は大きな利潤をもたらす種になるだろう。ハイザックの思考がそこまで及んでいるのは疑う余地がない。しかし、本当にそれでいいのか。無残に破壊されたホワイトハウスの姿を、アメリカ国民に、世界に見せてもいいのか。・・・ブレリッジは苦悩の末に答えを出した。そして電話を取り、マコービック軍司令長官に指示した。

「ドラゴンをポトマックで落とせ」

その2分後、ブレリッジの出した命令を聞いたハイザックとミラレスが執務室に飛び込んできた。

「大統領! 命令の変更を聞きました! どういうおつもりですか!」

ハイザックの言葉はいつになく荒く、『問い』と『責め』の両方を内包していた。

「このホワイトハウスに手出しはさせん」。ブレリッジが低く答える。だが、明らかに言葉の足りない返答に、ハイザックは困惑の表情を浮かべ、「しかし、それでは・・」と反論を試みた。そこに遅れてマコービックが2人の部下を連れて入室して来た。

「大統領。近隣住民の非難と、攻撃の準備が整いました。いつでも行動に移れます。しかし、時間の余裕は有りません。命令の最終確認をお願いしたい。・・・ポトマックでよろしいのですね?」

マコービックの質問に対するブレリッジの返答を遮るようにハイザックが口を挟む。

「大統領! 落ち着いて考え直して下さい。何があったのか知りませんが、犠牲の無い勝利はドラゴンを殉教者にする可能性があります!あの熱狂的な市民は貴方を非難しますよ!」。

ハイザックの言葉は、更に音量を高め、荒々しく響いた。・・が、反対にブレリッジの声は落ち着いていながらも、芯に強さを持っていた。

「分かっているハイザック。君の言葉はいつも正しい。恐らく、今回もそうだ。だが、価値観が違うのだ。国防総省の君と大統領である私では、その視点が違うのだ」。

そう言ってブレリッジは、少し間を置いた。1度目を閉じ、大きく息を吸って、真っ直ぐな視線で再び話し始めた。

「ドラゴンが殉教者になるなら、それでも構わん。その程度の事は後でどうにでもなる。苦渋の決断を以ってドラゴンが我が国民の頭上を飛行する事は看過しよう。だが、このホワイトハウスはアメリカの歴史であり、象徴なのだ。国民の心の根底を支え続ける礎なのだ。ホワイトハウスは、いついかなる時でも堂々と、威厳を持って、ここに在り続けなければならない。ホワイトハウスが破壊されれば、その後にどんな巨大な利潤を手に入れようとも、私は大統領失格なのだ」。

ブレリッジがそう言い終えた時、執務室はシンとした静寂に包まれていた。誰一人として身じろぎもせず、言葉を発する者も居ない。決して重苦しいわけではなく、穏やかでさえあった。それでいて静か。まるで時が止まっているようだった。

「ですが、大統領・・・」。ハイザックは眉間に皺を寄せ、喉の奥で戸惑っている言葉を押し出すように続けた。

「仰る事はよくわかります。お気持ちもお察しします。ですが大統領。正義を失えば国民からも世界からも信頼を失います。巧く事後処理をすれば非難は躱せるでしょうが、失った信頼は取り戻せません」。

「信頼? 君は何を信頼しているのだ? 国民は国を信頼せねば生きては行けない。。世界はリーダーを信頼せねば再び戦乱が起きる。アメリカがアメリカである事が信頼を集めるのだ。・・・我々はアメリカなのだぞ!」

その言葉の後では、どんな反対意見も存在意義を無くしてしまった。ハイザックも口を一文字に閉じ、無言で何度か頷いた後、納得した様子で部屋を出て行った。マコービックもそれに続いた。最後に残ったミラレスは「作戦成功を祈っています。大統領」。と言い残してドアを抜けた。

執務室の先にある廊下を部下と共に歩きながら、マコービックは部下に言った。

「作戦の難易度が上がった。準備を継続しながら、もう一度見直せ。細部までだ。毛の先程のミスも許されん。だが、なんとしてでもやり遂げるのだ」。

その後、すぐにホワイトハウスに退避命令が出された。ブレリッジは地下に残り迎撃の指揮を執ると主張したが、側近達に説得され渋々ヘリに搭乗した。

ホワイトハウスで慌ただしく避難が行われていた頃、ポトマック川周辺の住民も非難を開始し、同時に川の両岸には戦車、高射砲に加え、地対空ミサイルが配備された。またホワイトハウス西方には軍の他に警察からも人員が集められ、物々しい警備体制で臨む。まだ目覚めきっていない街中を、軍や警察の車両が騒々しく駆け回った。

その頃ドラゴンはコロラド州デンバー上空を通過し、カンザス州カンザスシティ上空へと向かっていた。竜によるアメリカ大陸横断の旅は、ほぼ中盤にまで差し掛かっている。その間もアメリカ国内のみならず、世界中のメディアのカメラが上空の竜を捉え続け、SNSには大量の竜の画像が飛び交った。テレビをつけると、どのチャンネルでも竜の姿が写し出され、人々の話題も竜一色だった。カンザスシティでもサンフランシスコ同様、大勢の人々が集まり、お祭り騒ぎで竜を迎えようとしている。当初、竜の通過が予想される都市部には避難指示が出されたが、あまりの人の多さと歓迎ムードに州警察も州知事も住民の避難を断念せざるを得なかった。そんなカンザスシティの上空を、竜は変わらず悠々と飛行し、それがまるで日常であるかのように何事もなく通過して行った。

 ワシントンDCまで残り、約2時間。ポトマック川では、迎撃の準備が完了していた。


 浅い角度で陽の光が街を照らし、朝靄も晴れた。人々は陽の光を背に受けて西方を見つめる。厳戒態勢のポトマック川周辺は整然と並べられた兵器が静かに牙を研ぎ、ピリピリとした緊張感が空に充満していた。カンザスシティを通過後、竜の前後左右を4機の戦闘機が囲み、その下方、高度1000m付近には6機の攻撃型ヘリが編隊を組んだ。当然、その光景は地上の人々からも確認出来たが、それは歓迎の意思を表すようでもあり、警戒のようにも見え、そして、見る者によっては威嚇にも見えた。しかし、竜はそれを気にする様子もなく淡々と飛行を継続する。そして、ホワイトハウスから西へ約4km、セオドア・ルーズベルト島から約2kmの地点に差し掛かった時、竜はゆらりと下降を始めた。その途端、米軍と警察関係の無線が一斉に鳴り響く。河岸の地対空ミサイルが角度を整えて狙いを定める。戦闘機及びヘリも一旦散開し、地上からの攻撃に備えた。そして、司令部からの命令が下る。

「攻撃開始!」

その声と共に、ポトマック川の両岸から激しい発射音が辺りの空気を切り裂いた。最初に川の西岸から20基のミサイルが上空へと火を吹きながら駆け上り、無数の高射砲弾がその後を追った。それらは瞬く間に竜へと到達し、激しい爆発音と、閃光と、一面を覆う程の煙を放った。その煙が晴れるのを待たず、第二次攻撃の命令が下る。今度は川の東岸から再び20基のミサイルが打ち上がり、またもや無数の高射砲弾が駆けた。上空で爆発音が轟き、空一面が灰色の濃い煙で覆われた。

・・・空が割れるほどの爆発音が、何度か木霊して、遠くへ遠くへ薄らいでいった。ポトマック川も上空もシンと静まり返り、兵士達は無言のまま空を見上げる。

 ジャンボ機の4倍程の大きさを持つとはいえ、あの竜が作り物であれ、生物であれ、どちらにしてもあれだけの攻撃は『大袈裟』に見えた。原型を留めているのかも怪しかった。兵士達は内心、厚い煙の中から竜の亡骸が降ってくることを痛々しい気持ちで見守るのだろうと思っていた。しかし、分厚い煙の中からヌラリと頭を出した竜の顔は2つの目が見開かれ、その瞳には生きた輝きが宿っていた。そして、その瞳がギラリとポトマック川両岸の部隊を睨みつけ、そこに向けて竜は急降下を始めた。すぐさま軍司令部から第三次攻撃の命令が下る。地上から第三波のミサイル群が駆け上る。第三波攻撃には上空からの攻撃も含まれていた。4機の戦闘機からそれぞれ4本のミサイルが放たれ、その下方からヘリのロケット弾が連続発射された。首都上空で行われているとは思えない程の徹底的な攻撃。そしてそれは正に集中砲火。地上と低空域、そして高高度からの三段構え。竜に逃げる隙も与えない。傲慢で、それを支えるに十分過ぎる圧倒的火力。反撃の暇さえ押し潰す。

 しかし、地上から噴き上がる砲弾群も、上空からのミサイル、ロケット弾も、そのどれもが竜に到達する寸前で虚しく爆発する。その煙さえ竜に纏わりつく事も出来ず、竜は微かな修正さえ必要とせず、真っ直ぐにポトマック川岸へ急降下を続ける。現場の兵士も、モニターしている軍司令部も、そこに関わる全ての人間が言葉と思考を失った。

「し、信じられない。攻撃が・・何故、当たらん・・」。

避難先で現場の様子をモニターしていたブレリッジが辛うじて押し出した言葉だった。

竜は自らに襲いかかる砲弾群をもろともせず、上空50m付近まで下降すると、そこで1度だけ大きく羽ばたき、その巨体をその場に留めた。そしてユラリと口を開けると、真っ赤な炎の塊を1つ、下に向けて吐き出した。その塊は川面に到達する直前で、眩い光と共に大きく爆ぜた。

 その時の光は強烈で、兵士達の目は眩み、視界は真っ白なだけの世界に見えた。痛みも音も無かったが、すぐ隣に居るはずの仲間の姿さえ、凶暴な白に食い包まれて確認することができない程だった。その数秒後、強烈な光が消え、辺りが色を取り戻した時、ポトマックの両岸に配備された兵器が次々と轟音と共に爆発し始めた。瞬く間に川の両岸を爆発音と閃光が駆け抜ける。その後に残されたのは、河岸を埋め尽くす兵器の残骸と、夥しい数の兵士達の遺体。目を覆いたくなるような悲惨な光景だった。周囲には燻る炎の熱と、鉄と肉の焼け焦げる臭いが充満した。

竜は鋭い目で河岸を一瞥すると、視線をホワイトハウスに向けた。その視線に弾かれる様にホワイトハウスの警備に当たっていた警察官と軍部隊に撤退命令が出された。

 竜がゆったりとした動きでホワイトハウス上空に辿り着いた時には、撤退は半ば完了していた。その無人になったホワイトハウスに、竜が舞い降りる。白く誇り高い建物がガラガラと音を立てて崩れる。砂埃が舞い、建物と歴史が瓦礫と化す瞬間を覆い隠した。避難がほぼ完了していた為、人的被害こそ出なかったものの、アメリカにとって、世界にとって大き過ぎる程のショックだった。竜を迎え、お祭り騒ぎをしていた人々は、裏切られた気持ちに苛まれ、またある人は畏怖の念をもって事実を受け入れた。そして誰もが肩を落とし、言葉を失った。ブレリッジもまたその一人。茫然自失のままモニターの画面を見ているだけだった。攻撃が一切通用しない完全な敗北と、国の象徴とも言えるホワイトハウスの惨たらしい破壊による屈辱と絶望。それがブレリッジだけでなく、アメリカ全土を消沈させた。

日本でもその映像は大いなる困惑として受け止められた。アメリカの戦力をも屈服させる脅威に対して抗う隙も見出せない。しかし、同時に竜の行動はチグハグな印象を抱かせた。あれだけの敵意を剥き出しにした攻撃に対し、竜のとった行動はあまりにも淡々としているように見えた。まるで反撃を最小限に留めているように。それが困惑をもたらした。窪平も官邸の地下会議室で、その困惑を打ち消そうと思慮を重ねていた。

(何故、竜はホワイトハウスの破壊で留まったのか。それともこの先があるのか。あれだけの破壊力を持っているのに、それを広範囲に行使しないのは何故だ。街を1つ破壊する位は造作もなさそうに見えるのに。それに、日本での議事堂の破壊とホワイトハウスの破壊。それ以外は反撃しかしていない。これには何か、明確な意思と目的があるとしか思えない。)

眉間に皺を寄せモニターを見つめる窪平に、神学者のエイコンが珍しく神妙な顔で声を掛けた。

「恐ろしいね・・」。

司祭である父を持つエイコンの方が、サラリーマン家庭で育った人類学者の自分よりも、その恐怖を身近に感じられるのかもしれないと、なんとなく窪平は思った。その向こうを見ると、古生物学者の木綿も険しい表情でモニターを見つめていた。

太平洋上での米軍機による竜への攻撃以降、総理からは何の指示も出ていない。よって会議室の科学者チームは、それぞれ独自に竜への分析を進めていたが、竜が何か行動を起こす度に疑問と謎が増え続け、それに追いつくので精一杯だった。特に土村をはじめ工学系の科学者達は出口の見えない現状に疲労とストレスを重ねていたが、土村はまだ意欲を失ってはいなかった。

(見誤っていた。あの竜、規格外にも程がある。)

土村は子供の頃に読んだ本の一文を思い出す。

『想像出来るものは、全て実現出来る』

土村はその一文を信じていた。想像こそが創造の種になる。やがてそれは信念となり、今も土村の中に息づいている。しかし、竜のもたらした事実は想像をも超えるという現実。それが土村に焦燥感をもたらした。

(追いつけるのか・・想像が)

土村はギリリと奥歯を噛み締めて、モニターの向こうの竜を睨み付けた。


 竜がホワイトハウスを破壊し、舞い上がっていた土埃が落ち着いた頃。世界中にある『異変』が起きた。世界中のテレビやスマホ、パソコンモニターから街角に設置された大型モニターまで、ありとあらゆる受像機器の画面が一斉に竜の姿を映し出し、音声メッセージが唐突に流れ始めた。それはアメリカでもオーストラリアでもアフリカでも日本でも、夜の地域や昼の地域を問わず、チャンネルも問わず、料理番組の途中であろうと、スポーツ中継の途中であろうと、数億ドルの取引が 行われている真っ最中のパソコン画面だろうと御構い無しに中断され、全世界で一斉に流された。


『愚かなる人間種よ。私はお前達を滅ぼす為に遣わされた。頭を垂れ、絶望と共に受け入れるが良い。我があるじが戻り来るその日までに、それは完遂する』。


 ブレリッジ大統領は避難先のアンドルーズ空軍基地で、側近達と共にこの短い放送を聞いた。

「何処の誰がこの放送を行ったのか、突きとめろ!」

ブレリッジの言葉は怒号に近かった。側近達は急ぎ調査命令を各機関に伝えた。日本をはじめ、各国でも同様の命令が指導者から伝えられ、世界中がメッセージ放送の解析と調査に奔走を始めた。・・・が、奔走する現場だけでは無く、命令を下した各国の指導者達でさえ、あのメッセージは竜から発信された物であると、内心では思っていた。しかし、それを否定する僅かな可能性に縋っていた。『何処かの誰かが、この騒ぎに便乗して大胆な悪戯を仕掛けている。』そんな調査結果が出たなら、どれだけ心が安らぐだろう。出来ればそうであって貰いたい。そう願わずにいられない。メッセージではハッキリと『人間を滅ぼす』とあった。

 

 翼を持ちながら殆ど羽撃かずにどうやって飛行出来るというのか。飛来するミサイルをコントロールし、砲撃の雨を受けても微塵のダメージも受けないで居られるのは何故なのか。そして、あの放送の内容は明らかに人類への脅迫。あれを聞いた人々が竜の能力を知れば、その竜の持つ、想像を超える能力をして、その言葉を実現できると思うだろう。その不安が広がれば世界の混乱は収集がつけられなくなる。世界中が混乱と混沌に蝕まれた暗闇に飲み込まれる。あの放送が竜の物であってはならない。人々がそう理解してはいけない。これ以上の不可解も、謎も、もう沢山だ。しかし、放送について調べれば調べる程、不可解は雪のように積り、謎は泉のように湧き上がった。そして、各国指導者達の僅かな望みを嘲笑うかのように打ち砕く、1つの報告が上がってきた。

放送は全世界同時に、全ての国の全ての地域の言葉で行われていた。それだけであれば、何の不思議も無かったが、問題はその先。複数の言語に由来する人々が、同じ場所で、同じスピーカーから流れた放送であったにも関わらず、皆が『母国語』で放送を聞いたと主張した。これは、日本の総理官邸でも起こった現象だった。

 その時、総理官邸には事務用品を扱う出入りの業者が来訪していた。彼等はただ、不足気味の事務用品を補充に来ていただけで、それは特別なことでは無く、日本人の担当者1名と、その補助にフィリピン人の助手1名が官邸を訪れているのは、ごくありふれた事だった。しかし、彼等が官邸の総理執務室に呼ばれる事は、これまで1度として無く、勿論、業務としては想定さえされていない。なので2人が総理と側近達を前に緊張し、極度に笑顔が引きつっているのも、物珍しさに視線が泳いでいるのも致し方のない事だろう。

 担当者は日本人で、総理に名刺を差し出そうとしたが、そのビジネス上の慣習は憮然とした表情の下松に視線で遮られた。そして安全保障庁の東海林が眉間に深い皺を刻んだ表情で2人に聞いた。

「先程の放送・・聞きましたね?」2人はコクリコクリと頷きながら「はい」と答える。

「どこでその放送を聞きましたか?」すると、担当者の方が答えた。

「地下駐車場脇にある、守衛室です。丁度、退館手続の最中で聞こえてきました」。フィリピン人の助手は終始コクリコクリと頷いて、それに従った。

「そこには誰が居ましたか?」

「我々2人と、守衛さんが2人です」。

「放送の内容は理解できましたか?」

「人類を・・滅ぼす・・とかなんとか、そんな内容に聞こえました」。

「では、その放送は何語で聞こえましたか?」

「日本語です」。

そこでフィリピン人の助手が始めて口を開いた。

「タガログ語です」。

執務室内に緊張が走った。しかし、その緊張の根源について誰も口を挟もうとはしない。東海林は続けた。

「放送は複数回流されましたか?」

「いいえ、1度きりしか聞いていません」。

「日本語とタガログ語。その両方が聞き取れましたか?」

「いいえ、私は日本語でしか聞いていません」。「私はタガログ語でしか・・」。

2人は少し戸惑うような表情を見せたが、東海林は慮る事もなく2人の背中に手を回しながら言った。

「ありがとう。もう結構です」。

東海林に促された2人が執務室を出ると、真っ先に口火を切ったのは吉備川防衛大臣だった。

「どういう事だ。私には日本語でしか聞こえなかったぞ」。東海林が答える。

「調査を進めて発覚した事です。スピーカーは1つ。放送は1度。この条件だけであれば、複数言語で放送する事は可能です。しかし、同じ場所で、同じスピーカーから流れた放送を、1人は日本語で、1人はタガログ語でのみ聴いている。この部屋では日本語のみ。・・まぁ、世界中の言語で放送するのは、・・・現実的ではありませんが、技術的には可能です。しかし、不可解なのは、自分の母国語以外では聞こえてすらいないという事です。場所もスピーカーも違いますが、我々も同じ放送を聴いている。だが、日本語以外の言語は聴いていない。この現象は調査過程で同様の事例が複数、報告されています。日本語、英語、フランス語、広東語・・様々です。これと同じ現象が、世界中で起こったと思われます」。

日下部総理は冷静さを伴った声で聞いた。

「世界中の言語での放送は可能なのだな?」

「はい・・放送機器のスペックや言語の取得、・・色々と重なると、かなり難易度の高い作業になりますが、不可能ではありません。しかし、繰り返しますが、現実的ではありません」。

「だが、母国語以外が聞こえていない・・」。

「そこが問題です」。

「映し出された映像については?」

「それですが・・」。東海林は少し言いにくそうにしながらも、報告を続けた。

「映像は確認できているだけで8種ありました。どれもアメリカ国内で撮影されているライブ映像です。ですが・・」。

「ですが、・・何だ!」吉備川がイラついたように怒鳴った。東海林はチラリと吉備川に目を遣った後で、答えた。

「どのモニターに、どの映像が流れたのかについては、今の所、法則性が見つけられていません。おそらく無作為でしょう。例えば、この部屋に映し出された映像は、竜の顔の部分がアップで撮られた映像です。これはCNNのカメラが捉えていた映像ですが、当時CNNは別の映像を放送していました。キャスターのコメントの途中で不用意に映像が切り替わったのを皆さん御覧になった筈です」。

そこで東海林は一旦、言葉を止めた。そして、眉間の皺を更に深めて言った。

「しかし、先程の2人が見た、地下駐車場脇の守衛室に映し出された映像は、竜の右側から全体像を捉えた映像だったと2人は言っています。これは守衛2名にも確認済みです。この映像はアメリカローカル局の物が最も近く、ほぼ間違いありませんが、・・日本には放映されていません。そして、守衛室で彼等と守衛2名が見ていたモニターは、防犯用のモニターで、通常は地下駐車場の映像が映されています。放送直前もその映像でした。モニターにはテレビチューナーが内蔵されておらず、入力端子に接続されているのは、監視カメラのみです」。

「・・つまり?」

「あの放送が地上波であれ、衛星放送であれ、またはアナログ放送だったとしても、守衛室のモニターには、あの放送を映し出す術が無かったと言う事です」。

一同が言葉を失った。あの放送が何処かの誰か・・人間の仕業だとする根拠が限りなく小さくなるのを感じていた。

東海林の予測通り、同じ現象は世界中で報告されていた。アメリカでもブレリッジの元に同様の報告が持たらされ、ブレリッジはバン!と机を叩いた。しかし、他国の指導者達とは違い、ブレリッジにはまだ対処を必要とされている項目が他にもある。目と鼻の先に未だ存在し続ける竜への対処。それが最優先課題だった。


 竜はホワイトハウスの残骸の上に在り続けている。世界中の耳目を集めた放送が終わった後も、その翼を畳み、静かに、ジッと在り続けていた。それはまるで、何かを待っているようにも見えた。また人によっては、どこかに負った傷を修復しているのではないかと考える者も居た。しかし、ブレリッジ大統領の考えは違っていた。

「勝利を見せつけているのだ。・・あれだけの攻撃を受けても、何ら影響もなく健在であると。我ら人類には争う術さえも無いと・・見せつけているのだ」。

そう呟くように言ったブレリッジの顔は、怒りで紅潮し、瞳の奥底に絶望を隠していた。軍司令官のマコービックは、職務上、次に発しなければならない言葉を、喉の奥から吐き出せないでいた。それは次の軍への支持を促す言葉に他ならない。そしてその返答が『攻撃』であった場合、選べる選択肢は少ない。その少ない選択肢の中で、マコービックが軍の司令官として、軍事のスペシャリストとして進言しなければならないのは、核の使用だった。歴史上、1度も本土空襲を受けた事の無いアメリカが、それも、首都のワシントンDCが自らの手によって核の被害に曝される。それは誰も考えた事さえないシナリオだった。あの放送が竜に依るもので、かつ、それを実現する力を竜が持っていて、アメリカにとっての明確な脅威であると誰もが理解していても、そのシナリオを受け入れられるアメリカ人は殆ど居ないだろう。マコービックもその一人だった。だからこそ躊躇った。大統領からの攻撃命令を、それを受け止め、部下に命令を下すのを、恐れた。しかし、マコービックは軍人である誇りを持っていた。その誇りは恐怖をも凌駕する。例え、歴史に自らの名前が汚名として刻まれようとも、軍人には国民の生命と財産を守る責務がある。軍人としての誇りは、その責務に支えられている。マコービックは背中に流れる汗を感じながらも、意思を込めた視線をブレリッジに送り、「・・いかが致しましょう。大統領」と短く言った。ブレリッジもマコービックの意図は理解していた。核以外の攻撃オプションが無い事を痛感していた。当然、それが何を意味するのかも十分に理解している。(何故、自分の任期中にこんな事態が起こるのか)と思考が逃避しそうになる。だが、そこを堪えて考えなければならない。メリットとデメリット。成功の可能性と、失敗した際の被害。その後の対応。目の前に残された少ない選択肢の、どれもが喜ばしい結果には結びついていない。どれを選ぼうと国民からの支持を失い、国際社会からは嘲笑され、歴史上、最も愚かな大統領として名を刻む。その何れか、またはその全てが選択肢の先に待っていた。そんな時、ブレリッジはある言葉を思い出す。それはまだ若かった頃、父に言われた言葉。

 当時、まだ学生だったブレリッジは成績も優秀で生徒会長も務める人気者だった。賞賛は常に自分に向けられ、その余裕から他人にも優しくできた。しかし、ある時期、ちょっとした気の緩みで成績トップをライバルに奪われた。たまたま同じタイミングで交際相手が他の男に乗り換えた。父や教師からは成績の事で咎められ、昨日まで傍にいた美しい女性は、別の男の腕にしなだれかかっていた。それまで順風満帆に生きてきたブレリッジにとって、帆を押す風が途絶える事さえ無いと信じていたのに、逆風に曝され、船が行き先を見失う事など考えたことも無かった。世間では『よくある事』であっても、ブレリッジにとっては突然に足元の地面が崩れ落ちる程のショックだった。これにより若かりしブレリッジは激しい怒りと、やるせなさに苛まれる。そしてお決まりのドラッグと酒。そんな日々を続けたある日、運転していた車で事故を起こした。その日は朝から飲んでいた。切れたドラッグを買う為に車を走らせていた。アルコールと甘えた自暴自棄が目を曇らせ、横断歩道を渡る子供に気付かなかった。幸い、子供は一命を取りとめた。しかし、子供を運んだ病院で、駆けつけた母親は当然ながらブレリッジを罵った。周囲の看護師も医師もブレリッジに冷たい視線を投げつけた。

当然の事。そうされて当然の罪を自分は犯した。それは解っていた。しかし、自分に降りかかる不幸を呪う気持ちから逃れる事が出来なかった。

「何故、こんな目に会わなければならないのか。何故、僕だけが」。

子供の病室から少し離れた長椅子に座り、さめざめと泣く母親の声に苛まれながら、ひたすら恨み言を繰り返し、頭を抱えていた。

連絡を受けたブレリッジの父は、廊下を歩きながら立ち止まる事もなくブレリッジを一瞥し、子供の病室に入って行った。再び、父を詰る母親の高い声が響いた。ブレリッジは耳を塞ぐ。自分の人生が音を立てて崩れていくような感覚に襲われた。目を開いていても、視界には暗闇しか映らない。

病室を出た父は再びブレリッジの前まで歩み寄ると、隣に座る事もせず、ブレリッジの前に立った。そして冷酷な程、落ち着いた声で「全ての処理を自分でしなさい」と、保険会社と弁護士の連絡先の書かれた紙を差し出した。ブレリッジは呆然とした目で、その紙を受け取った。つい先日までの輝いた日々がまるで虚構だったかのように思えた。全てが終わったのだと思った。目の前の父の態度が、視線が、「自分で始末をつけろ、お前は穀潰しだ。処理が終わったら消えろ。死ね」。そう言っているように思えた。震える手で紙を受け取り、助けを乞おうとしたが、声が出なかった。そして、再び頭を抱える息子に、父は言った。

「絶望とは、降りかかる物でも、押し寄せて来るものでもない。お前の中に在る絶望は、お前の意思が下した結果でしかないのだ」。

背負い切れない業に押しつぶされ、死さえ考える息子に対して、短すぎる言葉だった。それでもブレリッジは何度も何度もその言葉を反芻し、渡された小さな紙を握り締め、受話器を取った。

その後は辛い日々を送った。多額の賠償金は父が肩代わりしてくれたが、その際もブレリッジを励ます言葉どころか、責める事さえ無かった。そんな中、ブレリッジは子供の退院まで足繁く病院に通った。ドラッグは勿論、酒も辞め、贖罪と勉強だけの日々を送る。何度も挫けそうになり、何度も投げ出しそうになった。子供の怪我の回復はブレリッジにとって救いとなったが、「もう自分を責めないで」と笑顔を向けられても、心から安らぐ事はなかった。その間、ブレリッジは繰り返し父の言葉を反芻していた。そして辿り着いた答えは『絶望とは希望を見出そうとしない心に生まれる』だった。

自分が撥ねた子供が退院する日。その子はブレリッジに笑顔を向けていた。その両親も複雑な表情ではあったが、ブレリッジの背中にそっと手を当てた。その時初めて、ブレリッジは贖罪の実感を覚えた。

償える罪で済んで良かった。もし、この子があの時、死んでいたら。・・そう考えると全身が恐怖で硬直する。贖罪の道を選んで良かった。もし、家の財力に物を言わせ有耶無耶にしてしまっていれば、未だに自分の足元には酒瓶が転がり、ドラッグ絡みの怪しげな連中がタムロしていただろう。そして、一人の子供の命の重さを実感する事も無かっただろう。笑顔で手を振る子供と、その両親の姿を見送りながら、ブレリッジは気が付いた。この数週間、自分の傍にはずっと過去の自分が居て、時に惑わせ、時に唆し、時に挑発した。この日々を辛く感じたのは、何よりも、過去の自分からの干渉だったのだと。そして、病院を後にする親子の姿を見送った時、もう、自分の傍には誰も居なくなっていた事を。過去の自分から切り離された自分の存在を。そして、目の前に開けた未来を。そこには希望があり、それを見失った時、どうすれば再び取り戻せるのかをブレリッジは知っていた。

「いかが致しましょう。大統領」。

マコービックの問いかけに、ブレリッジは答えた。

「あのドラゴンを手に入れる方法を考えろ」。


竜によってホワイトハウスが破壊されてから2時間後。日本の総理官邸地下会議室には、各機関から続々と情報が集められていた。日下部総理は竜について少しでも理解を深めようと、会議室のドアを開いた。室内の科学者・研究者数十名一同が作業を止め、背筋を伸ばした。日下部は皆に着席を促し正面の椅子に着くと「報告を」。と短く言った。しかし、会議室内はシンと静まり返り、あの土村でさえも口を開かない。科学者達は互いに顔を見合わせ、発言権を押し付け合った。日下部の表情には失望と苛立ちの色が薄く滲んだが、それだけ理解が困難な状況である事は理解している。しかし、だからこそ些細な事であっても確定的な情報が欲しい。日下部の視線はスルスルと会議室内を横断し、窪平の所で止まった。

「中間報告で構わない。現状を伝えて欲しい」。窪平は戸惑いながらも答えた。

「あの竜について、そして、先程の放送についても、様々な報告、データが集まっています。皆が各専門分野からアプローチしていますが、解析が進めば進むほど不可解な謎が深まるばかりです」。

窪平の言葉に日下部の失望と苛立ちの色は更に濃くなった。日下部は冷静さを取り繕っているものの、滲み出る怒気を抑え切れず言葉に乗せた。

「国会議事堂が破壊された。死者も出た。あれから半日以上が経つ。被害がアメリカにも及んでいる。日本における最高の頭脳がこれだけ集まって、君達は一体、何をしていたのだ? 何時間も部屋に篭って、出た答えが『不可解な謎が深まるばかりです』か。『不可解』なのは、とうに解っていた事ではないのかね?」

日下部の言葉に、科学者一同は更に萎縮せざるを得なかった。皆俯き、息を殺した。そんな重苦しい空気の中で、土村が『仕方ない』といった表情で大きく溜息を吐いてから、口を開いた。

「お言葉ですが、総理。不可解は増しているのです。当初の『不可解』から、より『不可解』が増しているのです。これは前進です。『より解らなくなった。』これは、少なくとも答えに向かって進んでいる左証です」。

「詭弁だな」。

「いいえ、違います。御理解は頂けないでしょうが、これは必要な事なのです。不可解な事は、より掘り下げなければ理解には到達出来ません」。

「では答えに辿り着いて見せよ!」

とうとう、日下部の言葉が怒鳴り声に変わった。先の見えない不安と、この事態に見舞われながら国を背負う重責が日下部の苛立ちを増殖させた。しかし、その苛立ちは科学者達への期待の裏返しだという事を土村は理解していた。

「中間報告で構わないと仰いましたね。ならば、お答えしましょう」。そう言って土村は再び大きく息を吐き、意見を述べた。

「あのドラゴンは、この地球上の生物でも、地球上の、・・人類の持つ技術で作られた製造物でもないと私は考えます」。

土村の言葉の後、会議室は大いにざわめいた。その意見は、誰もが頭の隅で否定し切れずに目を逸らしていた言葉だった。『よく言った!』という感情と『言ってしまった』という感情が絡み合った複雑な心情が、言葉にならないざわめきを生んでいた。

日下部はそんな落ち着きのない空気の中、椅子の背もたれにドッと身体を預け、足を組み、口元をユルリと緩ませて言った。

「そういう意見が欲しかったのだ」。

会議室内はざわめきを一層濃くした。口にするのを憚られる意見に許しを得た。しかし、『技術的に存在を説明できない存在』を認める事は一部のエンジニア達には、先に進む事を放棄したのと同義だった。

エイコンは目を丸くして、少し嬉しそうな顔で、隣にいた窪平に囁いた。

「うわぁ・・あの人、言っちゃったね」。窪平は何故か目を輝かせて答える。

「いえ・・まだ、終わっていませんよ。・・多分」。

この返答はエイコンには意外だった。土村の意見は、エンジニアである土村の任務放棄宣言としか受けとる事が出来なかった。しかし、窪平は、まだ終わっていないと言う。返答の意味が理解出来ず、不意に土村の顔を覗き込んだ。そこには意外にも宝箱をこれから開けようとするような、ワクワクした顔の土村が居た。

会議室の科学者達が見守る中、日下部は土村に聞いた。

「では、あの竜は、宇宙から飛来したと?」

「それは分かりません。別の銀河かもしれないし、未来の地球からか、それとも、別次元か。神話の時代からかもしれません」。そう言って土村は窪平と同じ様なワクワク顔を紅潮させて、もう一言、付け加えた。

「こうなったら、何でもありです!」。

日下部も口元を緩ませていたが、出来る限りの落ち着いたトーンで返す。

「ふむ。未知の存在に対して、先入観は捨てるべきだな。しかし、『あれは地球外知的生命体です』では話にならん。何か、理解出来そうな切り口はないのかね?」

そこで窪平が答えた。

「理解に一番近い場所にあるのは、あの放送ではないでしょうか」。

「・・と、言うと?」

「あの放送が竜に依るものと仮定した上での見解ですが」と前置きして窪平は話した。

「あの放送は、我々人類に対して行われました。内容は人類の滅亡。人類をこの地球から排除するのではなく、人類全てを殺してしまう・・そんなニュアンスです。これはあの竜の目的です。あの竜は目的を持っています。そしてその目的を実行する前に、我々に伝えた。これは竜の意志です。あの竜は意志も持っています。その上、集まった情報によりますと、あの放送は全世界に向けられ、使用された言語は3桁を超えます。つまり、あの竜は、人類の持つ『放送』という技術と、全世界の3桁を超える言語を理解しているのです。そして、日本では国会議事堂。アメリカではホワイトハウス。この2つの建造物を破壊した所を見ると、人類の『政治』とか、『意思決定機関』等も理解している可能性がある。土村さんの言うように、あの竜が地球外の存在であるなら、竜は事前に人類を調査していた事になります」。

「・・・で?」日下部は期待のこもった目で窪平を見る。

「あの竜との対話を試みるべきではないでしょうか」。

会議室の空気が一気に緩んだ。皆、口々に「対話って・・」「竜と会話・・」と、呆れた声が漏れ、中には吹き出す者も居た。日下部も苦笑いを浮かべ、「やっと出てきた建設的な意見ではあるが・・対話とは・・」。と、頭を掻いた。しかし、窪平は真っ直ぐに日下部に向けて言った。

「何故です? あの竜は目的を持ち、意志を持ち、我々の言語を理解するのですよ? 対話は可能な筈です。それに、人類を抹殺すると言っているのですから、人類からの意見も伝えるべきではありませんか?」

これには失笑した者達もぐうの音も出なかった。落ち着いて考えてみれば、子供でも分かりそうな事だ。ただ、米軍の壊滅的な敗戦と、竜の絶対的な戦力を見せつけられた後では、その発想が出なかった。あの悲惨な光景は、紛れも無い現実なのだ。それを目にした後で、和やかな会話という発想には辿り着きにくい。黙っていた土村も、そんな自分に呆れながら発言した。

「だとすれば、益々、理解が必要になりますね。対話の目的は説得ですから」。

その時、樋口補佐官が会議室に飛び込んで来た。

「竜が! 移動を始めました!」


ホワイトハウスの瓦礫の上に有った竜は、日本の時と同じく一度大きく羽撃き、その巨体をフワリと浮かせた。それからスルスルと高度を上げ、十分な高度に達するまで羽撃きを必要としなかった。その様子を地上では多くのカメラが捉えたが、あれだけの戦闘の後だけに、上空には飛行禁止空域が設定され、竜を追うヘリコプター他、航空機は全く見られなかった。上空に達すると、竜の首は再び東へ向いたが、僅かに北寄りの進路を取った。これにより、EU諸国は一斉に慌ただしくなった。竜の進路が東から僅かに北寄りだった為に、イギリスには特段の緊張が走った。

イギリス、ロンドンのダウニング街10番地。ナンバー10と呼ばれるこの場所には首相官邸があり、内閣の拠点になっている。またナンバー10のあるウエストミンスター区には、政府機関の集まるホワイトホール地区もあり、この2箇所が最重点警戒区域に指定された。この時既にナンバー10にはコナーズ首相以下、最上級大臣らも集結しており、竜飛来時の対応を協議していた。最大の焦点は要撃の有無。武力の行使だった。

アメリカによる攻撃に対する反撃の結果とは言え、アメリカでは大きな被害があった。死傷者も多い。その上、アメリカは同盟国。イギリスが攻撃に出る大義名分は十分にある。大臣らからも「攻撃すべし」の声は上がった。しかし、世界最強の米軍が、局地戦とは言え大敗を喫した。ポトマック以上の戦力を注ぐ事は可能だが、それで勝算があると言えるのか。それにどれだけの戦力が必要となるのかさえも分からない。情報部の見解も、『全軍の25パーセントを注ぎ込んだ場合でも、勝率は32パーセント以下』と、消極的だった。コナーズの心は揺れ動いた。

アメリカの敵討ちは、対米国だけでなく世界的にも大きな踏み台になる。現代イギリスは軍事力を誇りはしないが、国際社会での発言力は飛躍的に高まるだろう。揉めているEUとの課題解決にも大いに役立つはずだ。しかし、それはドラゴン撃退の結果があってこそ。だが、ヨーロッパは新大陸よりも心理的に神話の世界に近い。ドラゴンを殺せば反発も大きいと予想される。何より全兵力の4分の1を注ぎ込むなど狂気の沙汰だ。見返りも大きいが、リスクも大きい。だが、問題山積のヨーロッパ圏において、いち早く、そして有利に、主導権を握った上で、纏わりつく諸問題から抜け出すには、この功績は喉から手が出るほど欲しい。大臣達の視線が集まる中、コナーズの額には薄っすらと汗が滲んでいた。


「イギリスは攻撃に踏み切ると思いますか?」

アメリカ国防総省のハイザックはブレリッジに問うた。ブレリッジは無残な姿へと変わったホワイトハウスを映し出す映像を真っ直ぐに見ながら答えた。

「コナーズは野心家だ。彼はこれを好機と捉える。しかし、彼の目に写っているのはドラゴンの姿だけではない。なにせ、彼は後ろにも目が付いているのだ。竜を見ながら、後ろも見ている。攻撃に出るかどうかは、後ろの動き次第・・だろうな」。

竜がホワイトハウスの瓦礫の上から飛び立ってから約4時間後。その姿はロンドン上空に在った。アメリカの惨状を目にした為か、その存在を歓迎する者は少なく、市民は皆、頭上を飛ぶ竜を押し黙って見送る者が殆どだった。そして竜は、ダウニング街10番地へ正確に舞い降りる。日本の国会議事堂。アメリカのホワイトハウス同様、ナンバー10は激しい音と共に竜の足元で瓦礫と化した。既に周辺の避難は完全に完了し、人的被害は皆無。建物のみが破壊された。

コナーズは攻撃命令を下さなかった。アメリカの轍は踏んではならない。最強のアメリカ軍が歯も立たなかった相手に、勝利の可能性は著しく低い。莫大な人員と武力をつぎ込めば、竜を墜とせたとしても、それは勝利とは呼び難い。ましてや、全滅の可能性さえある。ならば、戦闘を避け、被害を最小限に食い止める。それは竜に対する敗北であっても、国際社会においては勝利なのだ。それがコナーズの至った答えだった。

コナーズがこの決断を下す前、ヨーロッパ各国首脳から攻撃要請の電話が何本もあった。

「アメリカの仇を見逃すのか」

「必要なら、こちらも手を貸そう」

「このままヨーロッパに災厄の種を解き放つのか」

どれも皆、次に難しい決断を迫られるであろう首脳達の声だった。彼等は、そんな事態を避けるべく、そして、どう転んでも自国に被害と損失が無いよう、イギリスに犠牲になれと迫っているようなものだった。彼等は皆、竜を墜として英雄になる選択肢を既に捨て、堕として尚、糾弾される可能性と、墜とせずに失望される可能性から逃れる事に傾注していた。しかし、コナーズはそれを当然の反応、若しくは指導者として正しい判断と受け止めながらも、内心では嫌気が差していた。欧州連合と言ってはみても、所詮は利を得る手段。負の事態には繕った仮面をアッサリと放り出す。それがこの社会の本質なのだと解ってはいたものの、モニターの中の、ナンバー10を足蹴にした竜は、そんな人類社会を嗤っているように思えていた。

コナーズは各国首脳の言葉に影響を受ける事なく、あくまで合理的に判断を下した。竜の目標予測地点の避難と、周辺警備に注力し、重要書類や館内の美術品に至るまで、出来る限り被害を小さくする事に努めた。マスコミへの報道管制も提案されたが、一般人のカメラはどこにでもある。撮影を禁止するのは現実的に不可能との判断で、立入禁止区域と飛行禁止区域の設定のみに留めた。残る懸念材料は1つ。過去の2例に倣って、竜がそのまま飛び立つのか否か。もし他にも竜による被害が出るのであれば、コナーズの決断は完全に裏目に出る。コナーズ以下、閣僚達は息を飲んで竜の動向を見守った。

その数時間後、竜はこれまでと同じように、大きく一度羽搏いて空へと舞い上がった。後には無残な瓦礫が残されたが、それでもコナーズら閣僚達は胸を撫で下ろした。嵐は去った。最小限の被害で食い止めた。ひとまずはこれでいい。

コナーズはイギリスとしてのカードを切った。最強の手札ではない。むしろ、手札としては貧弱だったが、悪くはない手だ。この先、竜が海峡を超え大陸に入れば、何処かへ立ち寄る可能性は大きい。ましてや、ここは大小の国がひしめくヨーロッパ。攻撃を選ぶのであれば、どの国からでも攻撃は可能。その攻撃で隣国に多少の被害が出ても、竜は今や世界の災厄の種とまで言われる存在。殺せるのであれば非難の声も霞む。かのアメリカは大敗を喫し、既にドロップの状態。この先、ヨーロッパ諸国がどう出るのか。イギリスと同じ対処で終えれば、それはイギリスに倣ったと受け取られ、主導権はイギリスが握る事になるだろう。イギリスの開いた手札はごくありふれた手だが、それに勝つには、竜の撃墜しか残されていない。英雄になる誘惑に取り込まれ、賭けに出るか。それとも降りるのか。コナーズの突き付けたゲームは各国首脳を深く苦悩させた。

竜は高く高く舞い上がり、今度はその頭を南東方向へと向けた。世界中の視線がフランスに注がれた。・・・が、フランス、パリ8区にあるエリゼ宮殿は、既にもぬけの殻だった。それどころか、周辺区域も既に非難が完了し、警戒線の外側には軍が完全な配備を終えていた。フランスのベルリオール大統領はコナーズ首相の思惑に乗るのを良しとしなかった。

2時間後、竜が無人のエリゼ宮殿へ向けて下降を開始。そのまま微塵の抵抗も無くエリゼ宮殿は破壊された。が、次の瞬間。パリの空に閃光が走り、大地が揺れた。轟音が響き渡り、宮殿から放射線状に爆風が駆け抜け、土煙が周囲を覆う。ベルリオール大統領は宮殿に大量の爆発物を潜ませていた。設置された指向性爆薬は宮殿の中心部へ向かうよう綿密に計算され、周囲に大きな被害は及ばない。宮殿中心部へ降りるであろう竜にのみに向けられていた。これがベルリオールの切ったカード。コナーズはその映像を見ながら、ギリリと奥歯を鳴らす。これで竜を仕留めればベルリオールは一躍英雄の扱いになる。ヨーロッパの盟主と称えられるだろう。EUの抱える諸問題が、フランス主導で動き出す。官邸を、ただ犠牲にしたコナーズと、宮殿を犠牲にして攻撃に出たベルリオールでは、市民に与える印象が雲泥の差である事は明白だった。世界中がパリ8区にもうもうと立ち昇る土煙の晴れる瞬間を固唾を飲んで待った。しかし、土煙が晴れた時、人々は絶望する。そこに見たのは、数分前まで宮殿と呼ばれていた瓦礫の上で、半透明の球体に覆われた竜の姿だった。竜は、その全身を覆う半透明の球体の中で、ギロリと目を輝かせ、数km先に配備された兵器をグルリと見回した。ベルリオールはその光景を目の当たりにし、言葉もなく、ポトリと膝を折った。コナーズにも、ブレリッジにも、ベルリオールを嘲笑う余裕は無かった。ただひたすら、愕然と目の前の事実に打ちひしがれていた。

 竜がエリゼ宮殿の瓦礫を踏みつけたまま、何度か周囲を見回して配備された軍の動きがない事を確認したのか、その周囲から半透明の球体が消えた。いや、光の加減で見えなくなっただけなのかもしれない。それ程に、その球体は薄い色しか持っていなかった。日本をはじめ、アメリカ、イギリスでも、それまでの竜の映像解析が行われた。映像の専門家によって、あらゆる角度からの検証が行われたが、竜の周囲に半透明の球体は確認されなかった。ただ、アメリカ・ポトマック川上空での戦闘時に、同様の球体が竜の周囲に展開された可能性が指摘された。ポトマック川上空での戦闘時に、竜の周囲にあった爆煙の流れが、僅かに丸みを帯びている箇所が見つかった。それにより、アメリカとフランスにおける竜への攻撃は、全てこの球体によって阻まれていたとの結論に至った。ロシアでも同様の報告が成され、カシヤノフ大統領はミサイル発射準備の解除を命令した。

その命令とほぼ同時刻。竜はおもむろに天を仰ぎ、その口を大きく開いた。口の中で炎が揺らぎ、次の瞬間、3つの火球が口から飛び出した。アメリカ・ポトマック川で両岸の軍部隊に向けて放たれた火の玉と同じ物のように見える。火球は恐ろしい程の速度で天空に駆け上がり、やがて空の彼方に消えた。人々はその竜の行動が何を示すのか理解出来ず、呆気にとられた。しかし、その数十秒後、火球の1つがドイツで確認された。ドイツでは竜がイギリスを飛び立った時点で、飛来が予想される政府関連施設の避難が完了していたが、火球はベルリンのミッテ区にある国会議事堂に正確に直撃した。竜の放った火球は、爆音と共に国会議事堂を粉々に砕き、瓦礫の山へと変貌させた。

そのまた数十秒後、2発目の火球がロシアで確認される。火球はモスクワ・スターラヤ広場のロシア大統領府庁舎に直撃、これまでと同様に建物を破壊した。そして、3つ目の火球はロシア南西部のドムバロフスキー軍航空基地へと着弾。広範囲に渡り基地全体を破壊した。この基地はカシヤノフ大統領からミサイル発射準備の解除命令が出された基地だった。その事を世界は知る由もなかったが、その場所と、その場所の持つ意味を知る者には凡その見当がついた。そして、驚愕した。特に、カシヤノフ大統領にとって、3つ目の火球が示す意味は認めがたいものだった。

「な、何故、発射準備が知られていたのだ・・」

竜は遠く離れたフランスで、4000km近くも離れたドムバロフスキー軍航空基地のミサイル発射準備を察知していたのか。偶然にしては出来過ぎているし、最高意思決定機関の施設以外の攻撃は、これまでの経緯からも外れている。竜は遠く離れた基地内で、自らを標的とするミサイルの発射準備を察知し、3つ目の火球で、これを基地ごと破壊した。・・そう考えるしかない。日本でも下松幕僚長により、その仮説は日下部総理へと提示された。日下部はすぐさま地下会議室の科学者チームへ仮説を伝える様、指示を出した。しかし、その仮説を受け取った科学者チームの反応は、ただ驚嘆するに留まった。

総理官邸の地下にある会議室には、焦りと苛立ち、そして疲労の混ざった重い空気が充満していた。先の、竜による放送が行われた後、窪平の言った言葉、『不可解が深まるばかりです』。・・は、更に悪化していた。眼前に突きつけられた謎の解明は遅々として進まず、竜の進行と共に新たな謎が次々と積み上げられる。各々のプライドをかけた解析は、解明の糸口にも辿り着かない。それが焦りを呼び、精神的に蝕まれる。加えて、睡眠を惜しんで酷使した身体は疲労を着々と蓄える。竜が国会議事堂を破壊してから丸一日が過ぎたと言うのに、当初の問題である、『竜は生物なのか、人工物なのか』さえも答えを見出せてはいない。そんな中でも、一人一人が真摯に謎と向き合っていた。

エンジニアである土村は目の前にある現実を直視する。あの竜が伝説の生き物であろうと、神話の神であろうと関係ない。その姿が畏怖の対象であろうと恐怖の象徴であろうと、どうでもいい。注目すべきは、翼の形状、体躯の質量、推定される筋力と材質。そして、口から吐き出される火球の性質。それらを突き詰める事が竜の正体を暴く事に繋がると信じていた。しかし、集められたデータを分析する度に、何処かでエラーに当たる。地球上で当たり前のように存在する物理法則が、「それはないよ」と拒絶する。データの量は充分と言っていい。解析には 政府、軍事、民間を問わずあらゆる機関が協力してくれている。機材も能力も十分にある。しかし、出てきた結果が整合しない。有り余るほどの画像から、翼の形状と大きさは簡単に推測出来る。建物の破壊は毎回、落下のみ。上から押し潰しているだけ。・・で、あれば落下した時の速度、角度、落下開始時の高度、そこに建物の強度と構造、材質が分かれば落下物の質量は凡そ見当がつく。そこまでは進む。大した時間も掛らない。しかし、その2つを合わせると、途端にエラーに見舞われる。その翼をどんなに羽撃かせた所で、あの巨体が浮き上がることはない。「重力を上回る程の力は無いよ」と物理の法則が嘲笑う。それを補う上昇気流が発生する程の気象条件も無い。そもそも、竜が飛び立つ際には1度しか羽撃いていないし、地球を半周以上もしているのに気象条件頼りには無理がある。しかし、事実として竜は空を飛び、日本から遠く離れたヨーロッパまで飛行している。そのエラーを埋めるには、何か他に条件がある。それも未知の条件だ。それこそ、SFや空想の世界にあるような、これまでの概念や物理の法則を無視した条件。そう言った物が全ての謎に隠されている。土村はそんな気分になっていた。

窪平もまた、多くの文献に目を通していた。現存する文献に竜が登場する物は多い。また登場する竜の性質も多岐に渡る。人間に言葉で何かを伝える竜は多いが、テレビ等の通信機器を使う竜はいない。しかし、手段に違いはあるとは言え、人類に何かしらの警告を与える例は多い。大雨、洪水、地震。そう言った自然災害への警告が多く、その警告のお陰で回避出来た例や、逆に竜自身が災厄になる場合もある。ある時には恐れられ、ある場所では畏れられる。救いの神であり、破壊神でもある。また時に、無慈悲で冷酷な傍観者であったりもする。人に与える影響は同種のものだが、西洋のドラゴンと東洋の竜は、その姿が大きく違う。別種のものなのか、それともオタマジャクシと蛙の関係、若しくは、鮭と鱒の様に生活環境が見た目の違いを生んだ結果なのか。しかし、人間から見た存在感や関わり方、その存在の人間による扱いはどちらも酷似している。敢えて言うなら、西洋のドラゴンには『火』を連想させる記述が多いが、東洋の竜には『水』との関連が多い。・・とは言え、そんな違いが姿の違いに行き着くとは思えないし、西洋にも水を操るドラゴンの物語はあるし、東洋の竜も火を吐いている。そもそも、目撃談なのか創作なのか区別もつかないし、神話や寓話、伝説や伝承の類にまで、それを求めるのもナンセンスだ。

 窪平はパソコンのモニターに前のめりになっていた体を起こし、「フウ・・」と大きく息を吐きながら背もたれに体を預けると、メモを取っていた鉛筆をポイと投げ出して、ポトリと言った。

「これ全部の真偽を検討するなんて、考えただけでも愚かしいな」。

そう言って、何気なく周囲を見回すとエイコンの姿が目に入った。これまでの飄々と力の抜けた表情とは真逆の、真剣な顔つきだった。その視線はやはりノートパソコンに向けられている。身体を捩ってモニターを見ると、そこには古めかしい書物のページが映し出されていた。

 窪平はテーブルを離れ、飲み物が用意されているブースからコーヒーを2つ手に取り、それを持ってエイコンの元を訪れた。

「どうです? 進んでいますか?」

窪平の問いかけに、エイコンは少し慌てた様子で窪平を見上げると、何か伝えようと口を開く、・・が、直ぐに目を逸らして「いえ・・何も・・」と表情を曇らせた。窪平はノートパソコンに目を移し、「これは?」と問うと、エイコンは静かにノートパソコンを閉じ、いつものように和かな顔で「厄介な出来事に見舞われたものだね」と、肩をすぼめて見せた。エイコンの態度は明らかに何かを内包していたが、窪平はそれを黙って受け入れた。おそらく、自分を含む会議室内の殆どが、まだ発表出来る段階に至っていない何かを持っている事を理解していた。

その時、誰かの声がした。

「おい、竜が動いたぞ!」

正面の大型モニターに目をやると、再び空に舞い上がる竜の姿が映し出されていた。その視線の横に木綿の姿を見つけた。窪平が近付くと木綿はすぐに窪平に気付いて「次は何処なのだろうな」と声を掛けてきた。

「木綿さんの予想は?」

窪平が問い直すと、木綿は「どちらかと言うと君の方が専門に近いだろう?」と再度、問いを投げかけた。すると、「私も是非、窪平君の意見が聞きたいね」と、すぐ後ろで声がした。見ると、いつの間にか日下部総理が立っていた。木綿も窪平も慌てて背筋を伸ばす。日下部はいつになく和かな表情で「とりあえず、座ろう」と、2人だけでなく、その場の全員に促した。

全員が席に着き、日下部も正面の大型モニター前に腰を下ろした。

「さて、ここにも映し出されているように、再び竜は移動を開始した。皆の頭にあるのは、『次は何処か』だろう。私も同じだ」。そう言うと、少し離れた所に座っていた航空力学の専門家である内谷教授が答えた。

「方向的には、東のようですね」。

日下部が「この映像でわかるのですか?」と問うと、「パリには5年程住んでいました。あの辺りの地理なら覚えていますよ。現地はそろそろ日暮れの時間だ。建物の影は竜と同じ方向に伸びているし、竜は背中に陽を浴びていますね」。

確かに内谷教授の指摘そのままが映像にはあった。

「確かに東のようだな」

日下部は手元の端末に目を落としながら言った。そして、「次は何処か。が、問題だ」。と付け加えた。その言葉を受けて、内谷教授は窪平へと視線を送る。それに呼応するように、会議室内の多くの視線が窪平に向けられた。窪平は、その視線に気付くと頭をポリポリと掻きながら、曖昧に立ち上がる。そして意見を口にした。

「私の考えでは、竜が着地する事は、しばらくは無いと思います」。

「理由は?」日下部が短く問う。

「えっと・・その・・。英国に辿り着くまでは心許なかったのですが、ヨーロッパで幾つかの指針が見えました。先づ、竜は飛び立った後、ほぼ最短距離で目的地へと向かっています。そして、これまで襲撃されたのは、G8の内の6カ国です。残るのはイタリアとカナダ。カナダが何故除外されたのかは判りませんが、イタリアはこの先です。6カ国だけを見ると、世界の主要国である事は間違いありません。現在地のパリから東へ真っ直ぐに線を引き、その線が通過する国を見ると、G8参加国は残すところイタリアのみですが、あるとすれば、中国あたりではないでしょうか」。日下部が更に問う。

「イタリアへの降下は無いと?」

「それは・・乱暴に聞こえるかも知れませんが、・・その・・」。

窪平はこの質問に、かなり答えにくさを感じているようだったが、誰も口を出す者はおらず、答えを促そうとする者も居なかった。半ば諦めたように窪平は返答を続けた。

「遠回りは・・避けるのでは・・と思っています」。

数秒の沈黙の後、会議室の空気が一気に緩み、呆れる者や失笑する者が続出した。それでも日下部は窪平から視線を外そうとせず、更に聞いた。

「何故、そう思う?」窪平は答える。

「何故、竜がこんなに長い旅をしているのかを考えました。侵略が目的なら、世界の主要国を襲うのは当然です。また主要国の最高意思決定機関を狙うのも理にかなっています。しかし、破壊したのは反撃の時を除いて、建物ばかりです。建物を幾つか壊しても意味は薄く、人類が滅亡する程の被害には遠く及びません。それに攻撃は今の所、主要6カ国のみ。・・なのに、世界の半分を飛行しています。仮に飛行した地域を支配下に置きたいのであっても、今の所、その効力は無いに等しい。それに、ここまで竜は『反転』をしていません。多少、南北へのズレはありますが、常に東へ向かっています。そして、フランスでは、ロシアとドイツへ遠距離攻撃を行いました。現地には赴かずに、です。逆を言えば、アメリカに居たまま、イギリスへも攻撃が出来た筈です。イギリスからフランスへも。もしかすると、日本からアメリカへの攻撃も可能だったのかもしれない。それをしなかったのは、そこへ『行く』必要があったからではないでしょうか。そして、ドイツ、ロシアには『行く必要が無い』から、遠距離での攻撃を選択した。攻撃方法の違った2カ国でも被害は他国とほぼ同じである事が、その左証として上げられると思います」。

「竜には東進する理由があると?」

「はい。理由が何かは解りませんが、飛行経路上では踏み潰し、経路を外れた場所には遠距離攻撃。しかし、与える被害は同等。これを見ると竜が東進を優先しているように思います」。

「パリからローマまで1200km程度。では、イタリアには遠距離攻撃はないと?」

「可能性は少ないと思います。モスクワに遠距離攻撃が出来るのであれば、ローマは距離的にもっと容易な筈です。そもそもG8と言ったのも便宜上です。竜の価値観ではありません」。

会議室内はザワめいた。窪平の仮説に対して小さな議論がいくつも出現した。そして、土村の隣に座っていた研究者が声を上げた。

「だが、距離の問題がまだ残る。 確かに、パリの竜からベルリン、モスクワへの攻撃は目視による遠距離攻撃は不可能だろう。どんなに目が良くても、地球は丸い、物理的に視界から消えているからな。でも竜はそれをやってのけた。しかし、距離の問題は残る。つまり、あの距離が限界だった可能性だ。パリからモスクワは約2500km。この距離が遠距離攻撃の限界なのであれば、竜はその距離まで移動しなければならない」。

その意見にはすぐさま反対論が出た。

「いや、ロンドン、パリ間は450kmもない。2500km先を攻撃出来るならば、450kmは容易いだろう」。

「やはり、飛行予定線上に無かったから、遠距離攻撃を・・となるのか?」

そこで日下部が先へ話を進めた。

「なるほど、飛行予定か。それでドイツ、ロシアは遠距離から攻撃された」。

そこまで言って、日下部は唐突に笑った。こんな非常事態の最中にアッハッハと声を上げて笑う総理の姿を皆が呆然と見た。そして日下部は言う。

「攻撃の有無を分けたのは、経済規模でも、保有軍事力でもなく、ただ、移動が面倒だから・・とはな」。

 会議室の面々は一様に二の句を無くして互いの顔を見合わせた。当事国の総理が、この切迫した状況下で声を上げて笑う事を誰も飲み込めていなかった。日下部言う「面倒だった」を誰もが本気だとは思わなかったが、会議室内の空気は随分軽くなった。その中で一人慌てたのは窪平だった。

「い、いえ・・あの・・面倒だとは・・・面倒なのであれば、元よりこんな長い旅を選択する筈も無いですし・・」

日下部は今は笑いを収めきれずに、口元を緩ませたまま言った。

「解っているよ、面倒と言ったのは・・言葉のアヤだ」。

そう言って、フウ・・と呼吸を落ち着かせてから、再び問うた。

「君の言う通り、遠回りを避けたのだとしたら、それは何故だと思うね?」

「あの放送が、竜による物であるなら、竜の目的が侵略である事は明白です。・・いえ、侵略よりタチが悪い。なにせ、人類の殲滅ですから。しかし、竜の攻撃は限定的です。我々人類を一気に消滅させる方法を持っているのかどうかは判りませんが、現在行われている限定的な攻撃は、力を見せつける為ではないでしょうか。・・で、あるなら攻撃が6カ国のみに限定されていても効果は上がっていますし、人類による反撃が無意味であると証明もされています」。

「ふむ・・確かに理に適った推論ではあるな。しかし、カナダ、イタリア・・飛行経路近辺には他にも国がある。攻撃対象が6カ国に限定されているのも謎のまま・・か」。

日下部が考え込むように顎に手を置く仕草をした所で、土村が意見を割り込ませた。

「しかし、力を見せつけるのであれば、わざわざ世界を半周もする必要はないのではないでしょうか。最初に降り立った日本で、都市を破壊すればいい。東京全都が破壊し尽くされれば、世界はその力を知るでしょう。ドイツ、ロシアに向けられた攻撃力を見れば、それを実現する能力は十分だろうと思われます」。

その意見に窪平は反論した。

「それでは、竜の攻撃対象が日本のみだと誤解を与える可能性があります。あの放送にあったように、竜の目的は全世界に向けられるのです」。

土村は少し苛立った口調で反論する。

「何故、わざわざ、誤解を払拭する必要がある? 皆殺しにするなら、誤解も何もあったものではないだろう。すればいいだけだ。それで世界は実感する。死ぬ直前だがな」。

会議室内がシンと静まり返った。先程のまでの軽い空気が一気に重く冷えた。

日下部は2人の話が止まった事を確認した上で、話し始めた。

「どうやら、竜の旅については、まだしばらくは謎のままのようだ。だが諸君。聞いてほしい。竜は現在、世界中で多くの犠牲者を出している。そして、あの放送が竜によるものであれば、もっと多くの人々が死ぬ事になるだろう。諸君の疲労は重々承知している。だが、我々に残された時間は、おそらく多くはない。竜の謎を1つでも解き明かす事。それが必要なのだ。私も、この国も、そして世界が、それを必要としているのだ。苦しいだろうが、どうか、今しばらく、諸君の能力を貸して欲しい」。

日下部の言葉を聞いて、会議室に居る全員が静直し、真っ直ぐに日下部を見た。中には敬礼を向ける者も居た。日下部はグルリと皆を見回して、その心中を受け取ると静かに部屋を出た。そのドアが閉まらぬうちに土村は再びパソコンに噛り付いた。他の者達も皆、ヤル気と活気を取り戻した。そこに、総理と入れ替えに樋口補佐官が入室してきた。手には沢山の資料を抱えている。

「み、皆さん! 自衛隊からの資料をお持ちしました」。

相変わらず、オドオドとした口調だったが、持参した資料は科学者チームにとって実に手応えのある物だった。ざっと目を通すと、その資料は自衛隊発の体面を繕ってはいたが、自衛隊に寄せられたデータを基に内閣情報部が分析を加えた結果であろうと思われた。

そこには幾つかの未解明事象に対し、断定的な結論も記されていた。その内の1つが、あの放送に関してだった。

『数々の情報と、音声と映像解析の結果、少なくとも現存する機器を用いての放送ではあり得ない事が解った。加えて、同室かつ、同スピーカーからの多言語の音声に対し、母国語以外の音声が当人には聞き取れていないといった情報が多数あり、逆に多言語の音声を聞いたと証言する者が1人も上がらない。よって、竜による未知の技術による放送と断定出来る。』とあった。それと、米軍からの確定情報として、『竜の体温は頭部の一部を除き40℃程度で、磁気反応も金属反応も確認出来なかった事、動力源と思われる音も確認出来ていない。』ともあった。体温に関して、『頭部の一部を除き』とは、おそらく口内に見える炎による熱であるとして、これを受けて、土村ら工学系専門家の助言もあり、科学者チームは竜を生物であると前提する事になった。

「生物であるなら、口の周囲が炎の熱に耐えているのはおかしい」との指摘もあったが、土村の「そこについては、今は置いておきましょう。ある程度の熱に耐える外殻を持つ生物は他にもいる」。との言で一旦は納める事になった。

執務室へ戻る日下部の元にも、樋口補佐官のもたらした物と同じ報告が東海林によって成された。日下部は「あれは、竜の言葉なのだな」と呟いて、眉間に皺を刻み、無言で執務室へ戻って行った。

それから数時間後、竜は東より僅かに南に向いて飛行を続けていた。その延長線上にあるイタリア、ギリシャ、トルコ政府は共に非常事態警報を発令、竜の襲撃に備えた。特にイタリアは、次の目標国として幾度も名が上がっていた為、政府の対応も万全を期していた。しかし、竜は下降する素振りも見せず、そのまま飛行を続ける。イタリア首脳陣は内心、胸を撫で下ろした。

 そして、竜が中東へ侵入すると、シリア、イラク、サウジアラビア、イラン・・・それぞれの国々に緊張が走った。この周辺では長く内紛が続き、国民は疲弊しきっている。戦火が収まっているように見えても、未だ火種は消えず、些細な切欠でさえ再び内戦を引き起こす。ただでさえ、そんな一触即発の緊張状態の上に成り立っているのに、竜の襲撃で政府関係機関に被害が出れば、これを機に敵対国どころか国内でも反政府の動きを活発化させる可能性は大きい。避難行動でさえ、規模が大きければ国民の反発に繋がる。他国の駐留軍や機関も当然、避難措置を取るだろう。それだけでも軍事的バランスが大きく揺らぐ。この周辺国にとっては、突如現れて災厄をもたらす竜よりも、他国、他宗教の『人間』の方が厄介な敵だった。そんな緊張状態の中、竜はバクダッド上空を通過した後、行動を起こした。

バクダッドから南東へ約350km。ペルシャ湾の手前辺りに向け、竜は突如下降を始めた。イラク政府は竜ばかりでなく、隣国、反政府勢力に対し刺激を与えないよう、戦闘機による竜の追尾をせず、レーダーでのみ動向を監視していたが、止むを得ず戦闘機の発進命令を下した。しかし、竜の着陸地点の予測がつかない。首都であるバクダッドは既に通過している。下降角度と方位により着陸地点を割り出したが、そこには政府機関は元より、街さえ無い荒涼とした土地だった。しかし、この地域での不可解は、すぐに疑念に変わる。この地点に秘密の軍事施設があるのではないか。そんな疑念が生まれるのに大して時間は要しなかった。そしてその疑念は、協力関係にある国でも生まれる。周辺国を巻き込んで、一気に緊張状態が最高潮にまで高まった。イラク政府はすぐさま声明を出す。それには他国、隣国へ対する軍事行動ではない事と、戦闘機のカメラ映像をインターネットを通じ、世界中へ配信する旨が述べられた。この賢明な声明と映像により、幸運にも迂闊に動く国は無かった。各国が固唾を飲んでレーダーと隣国の動きを注視した。赤いボタンに指を掛けたまま。

 イラク政府は各国に軍事的動向がない事を確認しつつ、次に陸上部隊への命令も下した。戦闘機の映像に合わせて陸上からの映像も加える事で、配信している映像がフェイクではない事をアピールする為だった。陸上部隊は最低限の人員で構成され、護衛の部隊にもカメラを装備させた。これでイラク側による竜の監視が明確になり、配備した兵士が周辺から襲撃を受ければ、それを世界中が目にする事になる。これにより、周辺国の緊張状態は幾分か緩和される事になった。

 一方、竜は、これまでの例に反して何の人工物も破壊する事なく地上へ降り立った。この不可解な行動はイラク軍の戦闘機に搭載されたカメラにより配信され、世界中が凝視している。既に夜は更け、空には満天の星が瞬いていた。竜は広々と荒涼とした土地へ降りると、そこで初めて羽根を休めるような仕草をする。両の翼を体に寄り添わせ、少し頭を項垂れて、静かに目を閉じた。時折、空を見上げては、ジッと星を見つめていた。

窪平はその様子を興味深げに見入っていた。そこに木綿がコーヒーを手にやって来る。

「流石の竜も休憩かな」

木綿が手にしたコーヒーを窪平の脇に置きながら言った。

「ありがとう」

窪平は木綿に礼を言うと、再びモニター画面の竜を見つめた。そしてポツリと「休憩なのかな」と呟くように言うと、木綿が答えた。

「あれだけの距離を飛んだんだ。疲労もあるだろう」。

窪平はその答えに納得できない様で、難しい顔をして木綿に言った。

「何かこう・・、もっと違う風に見えない? 休憩にしても、何故、こんな場所で・・」

「そうか? 疲れたから、敵の居なそうな場所で身体を休める・・自然な事だと思うが」

「それは、そうなのだけれども・・」

窪平はモニター画面を見詰めながら考え込んだ。頭の隅で何かが引っ掛かる。そんな窪平の鼻を、コーヒーの香りがくすぐった。窪平は「ふう・・」と息を吐くと、コーヒーを口に運びながら何気なく辺りを見回す。すると、エイコンの姿が目に入った。いつも飄々としたエイコンが、真剣な面持ちで本を読んでいる。よく見ると、その手にあるのは聖書だった。エイコンは神学者であった為、聖書を読んでいるのは何も不思議では無かったが、その表情には穏やかさは無く、また、聖書を読むという印象とは、少し離れていた。

「この状況で、聖書を読むのは・・何か竜と関係あるのかな?」

窪平が言うと、木綿は「皆んな、それぞれの分野から糸口を探している。エイコンにはエイコンの切り口があるのだろう」。と答えた。

「では、古生物学者としての見解は?」窪平はキチンと木綿に視線を移して言った。

「あの竜が生物である・・その前提に立てるのは正直、嬉しいよ。あんな生物が存在してたなんて、これまでの常識がひっくり返る。でも同時に、難題を突き付けられた気分にもなる。最初からあった疑問だが、あの竜の身体的特徴は飛行するのに適していない。羽の形状はコウモリに似ているが、あのサイズを飛行させるには小さ過ぎる。倍の面積は必要だ。それに、コウモリにしても、似た羽根を持った古生物にしても、飛翔すると言うよりも、滑空すると言った方が正しい。木や崖や、そう言った高い所までは手足を使って登る。そこから滑空するんだ。ハンググライダーみたいに。条件が揃えば上昇も出来るが、地上から飛び立つのは、かなり難しい。ほぼ、無理に近い。なのに、あの竜は、それを易々とやってのける。上昇中の羽撃きも僅かしかない。それだけでも難問なのに、口から火を吐かれたらもう、お手上げだ」。

木綿はそう言って肩をすぼめて見せた。そして最後にボソリと付け加えた。

「俺の出番はもう、無いのかもな」。

窪平はハッとして木綿を見直す。そして改めて辺りを見回すと、木綿と同じ場所に向かいつつある表情が幾つか見て取れた。窪平のような人類学者や、エイコンのような神学者には、まだ探求の余地がある。しかし、古生物学者である木綿は、その余地が限界に達しようとしているのを感じているのだろう。で、あるならば。工学系の土村達は、もっと追い詰められている筈。竜の存在が、どんどん自分の専門分野から掛け離れ、長く培われてきた常識を、いとも簡単に破壊する。会議室の反対側でパソコンに齧り付く土村の姿を、窪平は心配そうに見つめた。土村は、竜という常識外れな存在を、自らの持ち得た武器を駆使して理解し、新たな常識を作ろうとしている。しかし、人は様々。どんなに取り繕ってはいても、追い詰められれば本性がひょこりひょこりと顔を出す。前を向き、それに挑める者と、常識に囚われ、それが打ち砕かれるのを阻もうとする者、そして、常識が崩れる事で指針を見失う者。総理官邸地下の会議室に、僅かな温度差が生じ始めていた。

 そんな中、気が付くと窪平のすぐ脇にエイコンが立っていた。エイコンは竜が映し出されているモニターを真っ直ぐに見つめながら、窪平に聞いた。

「あの場所・・どう思う?」

窪平にはエイコンの質問の意図がすぐには理解出来なかった。窪平は竜の降り立った場所について考えてみる。場所と言われても、モニターに写る範囲は荒涼として、特に建物らしき物も見えない。当然、竜が何か破壊した形跡もない。窪平の専門上、その場所から思い立つのは、古代メソポタミア文明の栄えた場所である事。古くから幾度となく戦闘が繰り返され、支配する主人が何度も変わっている事。そして、人類学的にも非常に興味深い場所であるが、幾多の政治的問題と、治安の不安定さとで現地調査を何度も断念しなければならなかった事を思い浮かべた。その中で、窪平がエイコンへの返答として最もふさわしいと選択したのは、メソポタミア文明の発祥地であるという事だった。

「紀元前6500年頃から文明の兆しはあったようだけど、その後、3000年程してからのウルク期辺りかられっきとした文明と呼べる物が栄えていたようですね。とても興味深い場所です」。

するとエイコンはモニターから目を離さずに答えた。

「あの辺りは、僕にとっても興味深い地域だよ。ギルガメッシュ叙事詩や、古代バビロニア。古代のあの地域では、王は神と人との中間にあり、仲介者であるとされてきた。第5代王のギルガメッシュは3分の2が神で残りの3分の1が人だったらしいし、父については諸説あるけれども、母は女神ニンスンだしね。それに夢や神託によって予言もしていたらしいよ」。

「詳しいですね」。

「僕の専門分野を掠めているからね」。そう言ってもなお、エイコンの表情は硬く、崩れる様子もない。そこで窪平は気付いた事をエイコンに伝えてみることにした。根拠と呼べる程の物は皆無だったが、エイコンの表情がずっと硬いままなのは、気になる。

「そう言えば、あの場所。メソポタミアともバビロニアとも言えるけれども、ペルシャ湾に寄っていますね。バビロニアではあるけれども、アッカド地方ではありませんね。あの場所はシュメール地方と言うのが正しいのでしょうか」。

そこでやっとエイコンはチラリと窪平へ視線を投げた。しかし、表情は硬いまま。エイコンは窪平を促すように言った。

「これまで竜は、各地の意思決定機関へとピンポイントで降り立ってきた。あの場所がメソポタミアやバビロニアの南部であり、シュメール地方であるという事に、何か意味を感じないかい?」。

窪平は返答に困った。それは何も感じていないからではなく、竜があの場所に降り立った時からずっと、頭の隅の方で息づいている考えがあったから。しかし、それを口にするのは憚られる。この事件の当初、日本上空を飛ぶ『竜の姿をしたもの』を、『竜』と呼べなかったのと同じ類の物であるからだった。そんな窪平にエイコンは続けて言った。

「竜は先日の放送で、我々人類を滅ぼすと言った。それに、竜の主が帰ってくるとも。僕はどうしても連想してしまう。これはまるで、ヨハネの黙示録じゃないか」。

エイコンの言葉を聞いた窪平の顔は薄っすらと青ざめた。

「黙示録って・・あの、ハルマゲドンとか・・ですか? まさか、最終戦争の勃発なんて言いませんよね?」

「ハルマゲドン・・・それを最終戦争と呼び変える人も多いね」。

「違うのですか?」。

「少し・・僕の考えではね。戦争って言うと、拮抗した力量を持った者同士の争いって印象があるけれども、実際は違う。10対1の戦いだって少なくない。到底かなわない相手による侵攻だってある。戦争とはどちらか一方による侵略なんだ。僕はハルマゲドンの事を、神による一方的な制裁。全世界を巻き込むカタストロフだと考えているんだ」。

「カタストロフ・・とは、また過激ですね」。

「すまない。ただ、一方的かつ、徹底的な破壊。そんな光景をヨハネは予言したのではないかと、ずっと思っていたんだよ」。

「それを、竜がもたらすと?」

「いや、そうとは思っていないよ。でも、黙示録にある『終末』と『神の再臨』。あの竜の言葉はそれを備えている。それに、それを実現する力もある・・とは思っているけれどね」。

「黙示録・・ですか」。

「君はピンと来ないようだね」

「いえ・・寧ろ逆です。僕は聖書には詳しくはないのですが、古代シュメール文明にも神は再び戻るとあります。ずっと気になっていたのです。竜の言った『我があるじが戻り来るその日まで』。あの竜には仕える主が居て、その主は戻って来る。つまり、以前に主が此処に居たという事になります。主を神と置き換えるのであれば、神が去った際、再び戻ると言い残した話は世界中にあります。それは残された人間の不安を和らげるために、捏造された話だと思っていました。指針を無くした人は不安定になりますから。しかし、そうでないのなら、それ以前に神か、それに近い存在が居た事になる。居なくなる事で周囲の人々に大きな喪失感を与える程の存在。残された人々が『また帰って来る』という希望に縋らなければならない程の。若しくは、戒めかもしれません。管理者からの軛が解けても、ハメを外すな・・と。どちらにしても、神に近い存在が居なければ成立しません。そして竜は、あの場所に降り立った。これまでの着陸地とは似ても似つかない場所に。です。この場所に意味が無い訳がない。そして、あの場所はかつてシュメール人が文明を築いた場所。シュメール人は神の再来を信じていた」。

そこまで言い終わった窪平は、人が変わったように厳しい顔つきをしていた。

「僕達は目を覚まさなければならないのかもしれません。これまでの竜の行動を、僕達はどこか他人事の様に捉えていた。あの放送さえ、内容よりも発信元を探ろうとした。科学的興味や探究心で、あの竜を見ていてはいけない。全人類の存亡が、あの竜に握られているのですから」。

その時、不意に会議室のドアが開いた。そこには樋口補佐官と2人の見慣れない女性が立っている。一人は金髪のロングヘア。スーツ姿が目を見張るほど似合っている西洋系の顔立ちをしていた。もう一人は、どこの関係者なのか一目で解る。小柄ではあるがボーイッシュなショートヘアに、クリクリとした瞳が印象的なその女性は、自衛隊の制服を着ていた。だが、その3人に気付く者は少なく、気付いても目先の仕事に忙殺されて気にするものは殆ど居なかった。そんなガヤガヤとした喧騒の中を樋口補佐官は2人を連れて進み、オドオドとした口調ではあったが、大きく声を張って言った。

「皆さん! す、少しお耳を。こ、此処にいる御二方を御紹介します」。すると、制服の女性が1歩前に出た。ピリリと背筋を伸ばし、快活な声で自己紹介を始める。

「初めまして。東部情報保全隊 桐原准尉です。ここの皆さんと自衛隊の情報交換、及び統合を担当します。よろしくお願いいたします」。そう言って桐原はペコリと頭を下げた。

「自衛隊の人って皆、こういう時は敬礼をするものだと思っていたよ」。

エイコンは窪平に小声で言った。窪平も正面から視線をズラさすに「僕もそうだと思っていました。少し、拍子抜けですね」。と答えた。

 次にスーツ姿の女性が前に出る。凛とした美しさと、妖艶な妖しさが混在したような雰囲気を持っている。

「防衛省情報本部のセレスト・カーリーンです。早速ですが、皆さんはこれから私の指揮下に入って頂きます。これは、各々が個別の興味と分野で独自に能力を発揮していたのでは、本来の能力が発揮されないとの判断による物です。どうやら、各分野毎にグループが出来ている様なので、それを基準にします。先づは、情報系のグループを中心に、関連分野の方々は協力して例の放送について分析を進めて下さい。とりあえずは、あの放送が我々の技術ではなし得ない物であるとの確証に行き着ければ良いです。他の方々はこれまで通り、あの放送が竜の意思であるという前提で、その目的と、目的たる理由について分析に掛かって下さい。それ以外の作業に関しては、必ず私の許可を得る様に」。

「うーん・・そそられるね」。

またしてもエイコンはコメントを挟む。窪平は少し驚いた様子でエイコンを凝視して言った。

「ああいう感じがタイプ?」

「ストライクゾーンは広いけど、彼女はど真ん中。君は、隣の自衛官の方が好み?」。

「ついさっき、危機的事態だと認識を共有できたばかりなのだけれど」。

「まあまあ、多少の息抜きは必要さ。どんな時でも余裕は大事でしょ」。

「・・・ま、でも、カーリーン女史のお蔭で、この部屋も効率的に纏まって動けそうだ」。

窪平がそう言うと、すぐ後ろに居た内谷教授が入ってきた。

「まったく同感だな」。

「ああ、教授、そこにいらしてたのですか。・・これだけの優秀な頭脳を纏めるのは大変でしょうが、これでやっと前に進めそうですね」。

窪平がそう話すと、内谷教授はにこやかに顔を横に振って言った。

「いやいや、同感だと言ったのは、エイコン君の方にだよ」。

「教授・・・」。

そこにカーリーンがスタスタとやって来る。そして窪平の前まで来ると、「貴方が人類学者の窪平さんね?」。と声を掛けて来た。窪平は「ええ・・」と答えながら、エイコンと内谷教授へ視線をやると、2人のニヤケた顔がこちらを見ていた。カーリーンは構わず続けた。

「貴方は、竜との会話を試みるべきだと総理に話したそうね」。

「ええ。言いました」。

「それは何故?」。

「えっと・・・」窪平が口ごもっていると、カーリーンは被せて言った。

「竜と会話が可能だとは、私には思えない。なのに、貴方は会話をするべきと言う。少なくとも会話が成立すると思っているのは何故?」。その言葉で質問の意図が読み取れた。

「理由は2つあります。1つはあの放送です。竜は少なくとも我々人類の言語を理解している。で、なければあの放送は成立しません。言語を理解していなければ、かつて人類がボイジャーに託したメッセージのように、図や数学的メッセージを使用した筈です。もう1つは、竜の行動です。人類の滅亡を標榜しているだけあって、竜の攻撃は世界規模です。しかし、人類の滅亡といった規模からすれば、余りにも限定的過ぎます。もっと大規模な攻撃も出来る筈。ゆっくりと時間を掛けるつもりであれば別ですが」。

窪平はカーリーンにそう伝えたが、カーリーンは次の言葉を待っているようにジッと窪平から視線を外さない。窪平は慌てて付け加えた。

「えっと、その・・つまり、限定的な攻撃は意思表示であり、効率的な手段を使わないのは、それが最終手段であるからで、その・・限定的な攻撃自体が、何かしらのメッセージなのではないか・・と。で、あるなら、竜は我々人類からの、攻撃ではないアプローチを待っているのではないか・・と」。そこでやっと、カーリーンはコクリと頷いた。そして魅力的な口元を緩めると窪平に言った。

「その点に関しては、私も同感ね。そちらの御二方もそうかしら?」

その視線はエイコンと内谷教授へ向けられた。エイコンは「もちろんですとも」と答え、内谷教授は「実現させなければなりません」と答えた。カーリーンは2人の答えを受けて、「では、3人で、その方法を探って下さい。・・もし、それで和解なんて出来たら、ノーベル平和賞ものですけれどね」。そう冗談めかしてクスリと笑った。しかし、その言葉が重要だった。窪平は思う。

(彼女は正しい危機感を持っている。)

 一方、土村は同系の科学者達と作業を進めていた。隣に座る中年科学者が呆れたように言う。

「金髪のお姉ちゃんが、我々の上司とはね・・」。土村はパソコンのモニターから目を離さずに短く答えた。

「ですね・・」。更に中年科学者は加えた。

「防衛省情報本部と名乗っていたが、どう見ても外国人だろ。彼女」。

そこで土村はやっと手を止め、窪平らと話すカーリーンに目をやって言った。

「おそらく、アメリカ人でしょう。そして、元は政府か軍の関係者」。

「何故、そう言える?」。

「日本の自衛隊は優秀だと聞きますが、いくら優秀でも自国周辺の事案以外はアメリカの意向が無ければ、何もさせてもらえない。情報に関してもそう。ここに集まっている情報も多くがアメリカ軍発の情報でしょう。日本の、それも防衛の要であってもアメリカを受け入れざるを得ない。それがこの国の実情でしょ。ブロンドの彼女が防衛省の肩書きを持って、その上、情報本部ときた。そういう事なのでしょう。ま、仕方ないですけどね。戦後、そういう風にアメリカに作られた組織ですから」。そう言って、再び作業に戻った。


 その頃、埼玉県のとある家庭では、母親がキッチンに立ち、食事の用意をしていた。そこに幼い息子が沈んだ顔でトコトコと寄って来る。母親はそれに気が付くと、「どうしたの? (リク)」と優しく声を掛けた。幼い息子は言った。

「だって、悲しそうだから・・」

今にも泣き出しそうな顔で、そう言う息子の姿を不思議に思いながら、母親はリビングに目をやった。リビングのテレビには竜の姿が映し出されている。イラク政府がネット配信している映像を日本のテレビ局が放送していた。幼い息子は、その映像を熱心に見ていたのを、母親は知っている。つい先程まで、嬉しそうに見入っていた筈だった。

「何が悲しいの?」。

「僕じゃないよ。あの竜が悲しそうなんだ」。

母親は、その言葉に違和感を覚えた。テレビの画面を見直しても、どこに悲しそうな要素があるのか解らない。

「どうしてそう思うの?」。

「うーん・・わかんない」。

母親は違和感を拭いきれずにいたが、そっと息子を抱き上げた。すると幼い息子は先程までの沈んだ顔をケロリと返して、キャッキャと笑顔を零す。母親は息子の頭を撫でながら、再びテレビ画面を見つめる。しかし、画面の竜には悲しげな断片さえ見つけられなかった。


竜は静かに翼を休める。そこは古代シュメール文明の栄えた地。今では、ただの荒れた土地。人気もなく、山間を乾いた風が吹き抜ける。そこから数kmの距離を置いて、イラク軍の陸上部隊が砲口とカメラを竜に向けている。竜の視線は何度かそちらへ向けられたが、気に留める様子はない。ただ、幾度か空を見上げては瞬く星を見つめている。その度、まるで嘆きの声のように、低く細い唸り声を漏らしていた。しかしそれは、離れた軍の部隊には届かない。人類には届かない。そして竜は再び大空へ舞い上がる。

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