Main Defense Code
「何だ……?」
ちらちらと無彩色の空間に極彩色の陰影が揺れる。凝らしたラムダの目にやがて見慣れた像が結ぶ。
「天子……さま、か?」
「管理者と呼べと言った。それに、ここに居るはずも無い」
冷たく言い放つシグマに、しかしラムダは頑強に首を振った。その指が示す先をシグマが認めた時、シグマの目には確かに驚きの色が浮んだ。
それは、広大な空間を彷徨うにはあまりにも小さな姿だった。たった一人で覚束無げに辿る足取りは寂しげで思わず駆け寄ろうとしたラムダを、シグマの呟きが押し留めた。
「まだ、リライトされていなかったのか」
「え?あれは、誰?」
「……今の管理者を建てる前にパイロットで建てた管理者だ。テスト完了後、廃棄されたはずだが……」
そのまま押し黙ったシグマを困惑しながらラムダは見守った。その様子は決して楽観できる状態では無い。やがて、シグマは無理に体を起こすと、ラムダを呼んだ。
「僅かの可能性にかけてみる価値はあるかも知れない。彼を、連れてきてくれ」
「はい」
シグマの状態から、起きていられる時間が僅かだと悟ったラムダは慌てて管理者の姿を追った。
近づいてみて、初めてラムダは管理者の姿が尋常では無い事に気がついた。見慣れた装束は薄汚れ、あちこち綻びている。虚ろな瞳は何を映しているのか空虚な光を湛え、その足取りは雲を歩くようだった。
「あの……」
ラムダの呼びかけにも聞えないのか、その歩みは止まらない。
「待って!」
慌てて、その手を掴んだラムダに少しは驚いたのか、夢見る足取りは止まった。ゆっくりとラムダを見返すその瞳は、しかし、何の像も結んでいないようだった。こんなに小さな子が一人で寂しい基部に打ち捨てられていた事を思うとラムダの胸は痛んだ。
「一緒に来て貰えませんか?」
そのまま全ての動きを止めてしまった管理者に恐る恐るラムダは問いかけた。しかし、相変わらず何の動きもないため、そっとラムダは手を引いた。管理者はそのまま素直に付き従って来る。注意深くシグマのもとまで管理者の手を引いて行った。
「お前の目にはどう映っているんだろうな」
大切に管理者の手を引いてくるラムダを見てシグマが呆れたように呟いた。
「どう、って。こんな幼いのに管理者なんて……」
「幼い?お前の感覚は不思議だな」
「どういう意味?」
それには答えずにシグマは管理者に向き直った。自分の剣を抜くと、管理者の前に跪く。僅かに上体が揺れるのをシグマは意思の力で止めたようだった。剣の刃が鈍い光を放っていた。柄の部分を管理者に向け、剣を捧げ持つ。管理者の手が柄に触れた。その時、初めて少年は目の前に人がいることを認識したようだった。
「僕の前にいるのは誰?」
「我は、守護コード・シグマ」
短いシグマの答えに暫し、考え込むように首を傾げた少年はやがて、嬉しそうに呟いた。
「シグマ……守護コード。照合完了。認証する」
「管理コード・アドミに問う。主守護コードの命令は如何に」
「主守護コードは現在、連絡不通。直ちに緊急事態と認識し、副守護コードに問う、副守護コード、連絡不通。更に下位コード検索……」
「シグマ!上との連絡なんてとれっこ無いじゃない」
思わず割って入ろうとしたラムダをシグマは黙るように合図した。その間も管理者は可愛らしい顔に不安を広げて順次検索をかけていく。
「……コード・シグマ。認証済み」
やがて不安げな管理者の顔にぱっと笑みが広がった。
「緊急事態と認識し、緊急ルーティンに入る。守護コード・シグマを主守護コードとし、都市守護の全ての権限をシグマに与え、その行動の全ての制限を解除する」
シグマの顔も綻んだ。しかし、その足元が僅かにぐらつくが、踏みとどまって管理者に口を開いた。
「では、主守護コードとして、管理コード・アドミに申す。主守護コード・シグマはその役をここにいる守護コード・ラムダに譲る」
「え!?何で?」
「いいから、ラムダ、手を出せ」
おずおずとラムダの出した手を引き寄せて、アドミの小さな掌に乗せる。
「ラムダ……守護コード。照合完了。認証する。主守護コード・シグマの要求によりシグマの権限をラムダに移す」
アドミはシグマの剣を取ると、ラムダに差し出した。
「取れ、ラムダ」
「俺、受け取れないよ」
困惑するラムダにシグマの叱責が飛ぶ。仕方なくラムダが剣を受け取った時、シグマの体が崩れ落ちた。管理者アドミの声が静かに宣言した。
「守護コード・ラムダを主守護コードとする」
「シグマ!」
慌ててラムダが抱き起こす。その体が軽い事にラムダは驚きを隠せなかった。体の内部が崩壊を始めている。
「思ったより上手く行ったな……センターと連絡が取れないのを逆手に取って、緊急対策ルーティンを逆利用した。もっとも、本来の主も副も無事ではいないだろうが……。これで、お前は何処へでも自由に行けるはずだ。新しく管理者が建つまでだが……。上の奴らもまさか、管理者がもう一人いるとは思うまい」
シグマは笑った様だったが、それは苦しげな呼気に消されていった。
「シグマ、黙って!」
「上の管理者を助け出せ。その後で、侵入者達を追い出すんだ。お前一人に押し付けるようで悪いが……」
「シグマ!」
ふと、シグマがじっとラムダを見つめた。シグマの瞳に自分が映っているのが見える。
「なぁ。お前の目には表現層がそのまんま見えるんだってな。上はどんな風に見えるんだ?」
「……とても綺麗な都市だよ。整然としていて、清潔で。人は皆、活き活きと活動してる」
「そうか、楽しそうだな。俺もちゃんと人に見えるのか?」
「何言ってるんだよ。当たり前だろ?ちょっと怒りっぽいけど、頼りになる仲間だよ」
ラムダの瞳にはシグマの姿がぼやけて映った。わざと乱暴な口の利き方をしたつもりだったが、最後の方が鼻声になるのを隠すことが出来なかった。しかし、最後の言葉を聞き終わる前にシグマの瞳は閉じていた。
「シグマ?おい。目を開けてくれよ。シグマ。シグマ!」
蒼茫とした空間にラムダの声だけが響く。その中でコード・シグマは動きを止めた。