進化―α01夢野リカの場合(SF的)
『眠れないの』
女、夢野リカは言った。
『いつから?』
話しかけられた女が心配そうにたずねる。
首から下げたネームプレートには、岬可乃子とある。
軽くカールした栗色の髪をハーフアップにまとめて、一見小ざっぱりとして見えるが、シャツに皺が寄っているのはここ数日会社に泊まり込んでいるせいだ。
『二週間前くらいかな……最初の日、いつもより早く目が覚めたの。次の日から目覚めるのが少しずつ早くなって。今は一時間も眠れてない』
『仕事が忙しすぎて神経が高ぶっているんじゃない。気晴らしに旅行でもしてきたら。ほら、リカ、セブ島に行きたいって』
『プロフェクトが大詰めなのに、休暇なんて取れないよ』
『じゃあ、病院で不眠症の薬を処方してもらったら?』
『うん……』
不眠症。その言葉に、リカは居心地が悪そうな相づちをうった。
カフェテラスからオフィスへの途中で、リカは同僚と別れ、化粧室に寄り道する。
個室に向かうでもなく、手洗いの鏡と対面する。青白いライトに照らされた、彼女の顔がはっきりと映る。
美人とまではいえないが、誰かと会話するとき、常に自分が次に何を発言するのがベストか吟味しているような、狡猾さが匂う顔立ちだ。
しかし今、彼女には、明らかに覇気のようなものが欠けていた。
コンシーラーで上手く隠してはいるが、額やあごの吹き出物、目元の下に刻まれたクマ、乾燥ぎみの肌には小じわが目立ち始めている。二十六歳にしては「老けてる」といわざるを得ない。
ふぅ、と細く長いため息を吐いたリカは密やかにつぶやいた。
『病院になんか行ったって無駄。私にはわかっているの』
+++
夢野リカが一睡もしなくなったのは、さらに一週間後だ。
これについては少し補足が必要だろう。
今までのリカは、不眠に悩みながらも、通勤途中の電車内やオフィスでうとうと微睡むひと時があった。入眠期のデルタ波が脳波に現れているのが証拠で、ささやかな休憩を得ていたのである。
しかしながら、ある日を境に、完全に眠らなくなったのだ。
始まりの日――。
夜ベッドに入った彼女は、いかにも触り心地の良さそうなガーゼケットを被りしばらく身じろぎせずにいたが、突然勢いよく半身を起こした。
うつろな眼をした彼女は、未練を断ち切るように、天井にミストを立ち昇らせているアロマディフューザー(傍らの小瓶に〈ラベンダー・心地良い眠りのために〉とある)のスイッチを切った。
寝室を出て、キッチンに移動すると、電気ケトルで湯を沸かし、巨大なマグカップにドリップで淹れたコーヒーをたっぷり注ぐ。ふわぁ、と大きな欠伸をひとつして、セミロングの髪をひとつにまとめた。
そして、『っしゃ!』と気合の入ったかけ声を発し、何の脈絡もなく部屋の掃除を始めた。
連日の残業続きで1LDKの住居は、お世辞にも片付いているとはいえなかった。
シンクに溜まった食器を丁寧に洗い水気をふき取り戸棚に戻す。水垢だらけのシンクを重曹でぴかぴかになるまで磨き拭き上げる。リビングのローテーブルに放置したままのダイレクトメールの類を開いて必要なもの不要なものを選り分ける。クッションを叩いてソファの定位置に戻し、さらにテレビや本棚の埃をハンディモップで除き、掃除機のコンセントを入れようとした――ところで止まった。
今が、皆が寝静まっている深夜であることを思い出したのだろう。
掃除を中断してキッチンに戻ると、パスタを茹でて温めたレトルトのソースをかけ、驚くほどのいきおいで食べ始める。『美味っ』と満足そうに一言。
夜食を済ませた彼女は、ノートPCを起ち上げ仕事の会議資料を作り始めた。結局朝までそれは続き、寝室で鳴るスマホの目覚まし時計を止めにいった彼女は、『え、もう朝ぁ?』と心底驚いたようにぼやいた。
ストライプ柄のパジャマを脱ぎ下着も替える。
アンティーク調の姿見――白雪姫に登場する魔女の鏡のようだ――に、リカの裸が映し出される。痩せぎすで凹凸のない、いっそ痛々しいほどの貧相な身体。
パンツスーツを身につけ、メイクも終えた彼女は、あらためて鏡に対面した。
『眠れないなら、眠らなきゃいい』
リップライナーが引かれ輪郭のくっきりした唇が、吹っ切れたようにそうつむいだ。
+++
出勤した彼女は、いつも以上に旺盛に仕事をこなした。
どことなく眠たげで不安げな最近の彼女ではなかった。その日に出来るすべての仕事をこなしてしまうと、休むことなく後輩のサポートに付く。
一睡もしていないというのにリカの集中力は途切れることがなかった。
帰宅は毎日だいたい午後九時になる。
自分だけの小さな城で、近所迷惑にならない程度に心ゆくまで室内を清掃し、映画を鑑賞したり、ベッドで寝転びながら読書をした。ミネストローネやビーフシチューなど凝った煮込み料理を作る夜もあった。
リカの眠らない日々は着々と更新された。
だが、誰ひとりとして、彼女の異変に気づくものはいなかった。
娘の安否を気遣う母からの電話にも、『とっても順調よ』と気軽に返した。強がりではなさそうだった。なにせ睡眠時間が丸々使えるようになったのだ。
彼女にとって、もはや不眠は悩みではなくなっていた。それどころか人生を得しているとさえ感じているようであった。
注目すべきは身体状態であろう。
この時点で精力的に活動していること自体不思議だが、日常で鏡に映り込む姿は、疲れなど微塵も感じさせなかった。乾燥ぎみだった目元のクマや小じわは水分がいきわたりふっくらしている。頬は艶々として、充血気味だった瞳は十代の少女のように生き生きと輝いている。
眠れなくなった、いや、眠りから解放された彼女は確実に若返っていたのだ。
+++
とある夕刻、リカは会社近くのスポーツジムにいた。
終業後も働き続けるのを見かねて、『たまにはプライベートを楽しみなさいよ』と上司にオフィスを追い出されたのだ。かつて眠りに費やしていた時間を堪能していた彼女は、『全然疲れていませんけど』と本音を返しつつ、しぶしぶといった様子で従った。
スポーツジムを選んだのは納得できる。自宅の様子から察するに、あり余るエネルギーを掃除で発散している節があったからだ。
リカの担当トレーナーは、同年代くらいの短髪の男性で、細く引き締まった筋肉質な体つきに、人懐こい笑顔が印象的だ。
『次からは運動の強度を上げましょうか』
予定時間より早くメニューをこなした彼女を、トレーナーの斎仁史が褒めちぎった。身体の動作やキレも以前より向上しているようである。
ジムのシャワールームで汗を流した彼女は、熱いシャワーを浴びたまま、裸になった自身をすみずみまで眺める。艶々とした黒髪、ハリのある瑞々しい肌、丸く整った乳房、無駄な脂肪のない引き締まった下腹、腰は蜂のようにくびれている。
貧相だった彼女の身体は生まれ変わったかのように魅惑的に変貌を遂げていた。
ジムの建物を出たところで、女王蜂のフェロモンに引き寄せられたように、トレーナーの斎が追ってきた。私服に着替えた彼は、たいていの女子が好感を持つであろう爽やかな笑顔を振りまく。
『ちょうど僕も今上がりなんです。よかったら一緒にお食事でも』
近くのフレンチレストランで食事をとった後、二人は夢野リカの家へと向かった。
室内に一歩入るなり、我慢しかねたように深く唇を合わせる。
互いの服を剥がしながらベッドで縺れた。持てあました力と欲をぶつけ合うような激しい情事だった。
やがて、気力を使い果たしたように斎が寝入ってしまうと、リカが機械じみた動きでベッドから抜け出す。
ひとり寝室を後にすると、シャワーを浴びてから読みかけの本をめくり始めた。コーヒーを啜りながら幸せそうに。朝日が射しこみ斎が起きると、彼のためにトーストとゆで卵とサラダの朝食を用意して、一緒にテーブルについた。
リカは、自分が一睡もしていないことなどおくびにも出さなかった。
その夜をきっかけに、斎はリカの家を頻繁に訪れるようになった。
ジムのトレーナーとして鍛えている斎は、普通の男性より体力も精力も勝っていたが、夢野リカには適わない。抱き合った後、彼が疲れて眠ってしまうと、「夜はこれから」とばかりに夜明けまでの時間を謳歌した。行動範囲は家の中だけでない、二十四時間営業のカフェでスイーツを楽しみ、漫画喫茶をうろつく。
旅行代理店でかたっぱしから攫ってきたパンフレットに目を通すのもお気に入りだ。『もっと時間があれば世界中旅できるのになぁ』とうそぶく彼女の様には、うすら寒いものを感じる。
斎はもともと眠りが深いほうなのか、リカの徘徊に勘づくことはなかった。
斎が訪れない夜は、別の男を自宅に招き入れた。
ひとりやふたりではない。中には、父親でもおかしくない初老の男や会社の同僚もいた。シャワーも浴びずにベッドに直行すると、やがてリカだけ寝室から抜け出す。毎度お決まりのパターンだが、ゆっくりと確実に、それは性急で野生じみたものになっていく。
途切れなく男と交わっているからといって、彼女が行為を楽しんでいたとは考えづらい。
情事の最中、彼女はずっと天井を見上げていた。うわのそら、といった表現がふさわしい。ときどき相手の瞳に映るリカは、快感どころか何の表情も読み取れない。なのに、それは予定調和のように続けられた。眠らないから何夜でも連続して誰かと交わることができた。
+++
どこにでも勘の鋭い人間はいる。夢野リカの周囲では、岬可乃子がそれだった。
『最近どう?』
呼びかけた彼女の口調は気安いが、アイラインに囲まれた瞳は笑っていなかった。
『ほら、不眠症だって悩んでいたじゃない。でも、改善したっぽいね。最近リカ、すごくきれいになったし……』
語尾をにごす。
本音ではこう続けたかったのではないだろうか、若くなったキレイになった――異常なほどに。
他の人間も、夢野リカの異変に気づいていただろうが、具合が悪そうならともかく、彼女はパワフルに毎日をこなし、見た目も生き生きとしてた。心配の声をかける必要など感じなかったのだろう。
しかし、岬可乃子はそれだけではない「何か」を察したに違いない。怯えた瞳がそれを証明していた。リカは微笑して、可乃子に顔を近づけた。
『実はね、まったく眠れてないの』
『え、病院には』
『だって、私とても元気だもん。可乃子だってそう思うでしょ』
『……でも、まったく眠っていないなんて。年休も余っていることだし、少しの間、休暇をとったら』
ねえ、と可乃子はわざと明るい声をだして、
『チーフに話しておくから。リカの働きぶりならきっと許可してくれるよ』
『嫌、ぜったいに嫌』
『……リカ?』
『回遊魚って知ってる? 泳ぐのをやめると呼吸ができなくなって死んでしまうんだよ。私も同じ。次に眠ったら最期。死んでしまう。わかるのよ、私には、そうだって。お願いだから私を眠らせようとしないで』
『知り合いに良いドクターがいるの。よかったら一緒に』
『だから――! 病院なんて行かないって、言ってるでしょ!!』
刹那、リカの目前に、リカの顔が現れた。
あくなき欲望にゆがんだ人間の表情だった。
おそらく、それが彼女が最期に肉眼で視た世界だった。
* * *
ぷつん、と耳障りな雑音がして映像が途切れた。
うす暗くて無機質な研究室に、いっそう不気味な沈黙がおとずれる。
私は、再生機から『α01―夢野リカ』とラベリングされたディスクを取り出す。
脳内イメージを映像化するAIが開発されたのは半世紀も前か。
AIの性能は飛躍的に向上し、脳で認識したものをほぼ正確に映像化できるようになった。本人、または近親者の同意があれば、政府の許可を得た民間組織であれば誰でも体感できる。活用されている分野は、医療、教育、美容と多岐にわたっている。
化粧品製造とエステサロンをメインに展開している我が社も、「脳エステ」なるAIを導入した施術を実践するべく開発チームが設けられた。まだ試験段階ではあるが機材を備えているのはそういった理由である。
「どう?」
新年度からチーフに就任した私、桐生虹子は、モニターから離れた席で、華奢な身を強張らせている女性に振り向く。岬可乃子。
チームのメンバーかつ、意識がある状態の夢野リカと最期に接した人物でもある。
「はい……いえ……」うっ、とハンカチで口元を押さえて、「私が見ていた彼女と、同じです」
再現される映像は、現実と同じとは限らない。被験者の主観が反映されるからだ。客観的な映像になるよう補正機能もあるが、まだまだ信用はできない。
私は会社の幹部として、夢野リカを全く知らないわけではなかったが、実際に身近にいた人物に確認してもらう必要があった。
「じゃあ、彼女は自身が認識していたとおりだったと?」
「若返った、というか……リカは綺麗になりました。怖いほどに」
私は小さくうなる。病室のベッドで昏睡している夢野リカが映っている。
これが彼女の現状。
脳幹の機能だけは残存している――いわゆる植物状態。岬可乃子の証言を裏付けるように、この眠り姫は二十代前半、いや十代の後半にしか見えない。
半年経ってもいっこうに目覚める気配がないので、何らかの手がかりが得られるかもしれないから、とリカの両親を説得し、脳内データの映像化を許可してもらったのだ。
「睡眠は、脳の休息、身体のメンテナンスの役割を担う。人間に絶対不可欠なもの」
しわがれた老人の声が響く。ドクター鏑木。プロジェクトの客員教授だ。腕組みをしたままモニターをじぃっと睨んでいる。
「何らかの薬物で覚醒状態だったのだろう」
「でも、検査の結果、彼女に薬物反応はなかったと」
「それ以外に説明がつくかね? おそらく新種の薬物だろう。睡眠をとらずに二か月以上活動していたなどと……植物状態になったのは、肉体が限界を超えてしまった後遺症だろうな」
ドクター鏑木はしかつめらしい顔で言った。
診察した医者も大体同じような見解を語った。
しかし、と私は思う。
睡眠は人間にとって不可欠なもの――が、不要なものになったとしたら?
休息せずに活動し続けられるようになったとしたら、人類にとってむしろそれは“進化”と呼べるのではないか?
「妊娠九か月でしたっけ」
岬可乃子がリカの大きくなった腹をぼんやり眺めている。
植物状態の彼女は妊娠していた。栄養を母体を通して定期的に補給され、胎児は着々と育っている。
彼女は、最期に鏡がないところで自分の顔をみている。
それをどう理解するか。岬可乃子は見ていないのだから、彼女だけが見た妄想ということになるのか。もしくは不自由な肉体を捨てて、高次元で生きる存在へと進化を遂げたのではないか。
彼女は、〈仲間〉を増殖する機能だけを身体に残し、自由になったのではないだろうか。(世界各地で夢野リカと似た女性の目撃情報が得られているのは偶然なのか。)
「なにが産まれてくるんでしょう……」
青ざめた顔で岬可乃子がつぶやく。私は答えられなかった。
私たち人類は、ただその瞬間を待つしかないのだ。
(end)