『いる』(青春×ホラー)
「ねえ知ってる?」
彼女はぼくの初めての『彼女』だった。
そのときぼくらは高校生で、付き合い始めたキッカケは忘れてしまったが、セーラー服の赤リボンが風で揺れる様だけは鮮明に憶えている。
「『いる?』って感じるとき、あるでしょ」
彼女の白い顔はぼくを向いている。が、視線の先は、ぼくの、さらに先にあった。なんだかぞっとする目つきだった。
「そのとき、ほんとうに『いる』んだって」
彼女の浮かべた、得意なような照れたような笑み。
ぼくは彼女に何と返したんだっけ? いや忘れた。やめろよとか、ウソだろ、とかそんな軽口だったと思うけど。
当時、ぼくらは付き合いはじめたばかりだった。だから共通の話題もなくて、霊とか怖い話とか、どうでもいい話をしたんだと思う。
+ + +
大人になったぼくは今、彼女のことを思い出している。
夜中に起きた時刻はたまたま午前二時だった。いわゆる丑三つ時。ぼくが夜中に目を覚ますのはこの時間であることが多い。なんとも中途半端で不愉快な時間帯だ。
トイレに行った後、洗面所で手を洗っているとき、『いる』――と感じてしまった。
あのときの彼女、ずいぶんと嫌なことを教えてくれたな、と苦々しく思う。
後ろに誰かいる――
そんな気配を感じることは、何時でも誰しもあることだからだ。夜中に道を歩いているとき、だけでない。寝ているとき、髪を洗っているときなんかもある。
向かい合っている鏡には、ぼく以外映っていない。
当然だ。だが、この客観的に見れば何の変哲もない状況で、ぼくは微動だにできずにいる。
『いる』――
だって、ぼくは、その予感に、囚われてしまった。いつもなら、少しビビりながらも、そんなわけないだろうと振り切れるのにできないのだ。
背中に脂汗が伝った。真夏ということを考えても、尋常じゃない汗が噴き出している。となりの風呂場で水がチョンと落ちる音がした。
「……っ!」
うなじを冷たく微かな気配が触れた。
そして、ぼくは――反射的に、後ろを振り返ってしまったのだ。
「あ」
発した声は、ひどく掠れていた。
そこには、黒髪を振り乱し、血走った目をした、白い着物をきた女の幽霊が――いなかった。
ただ、『彼女』が、いた。
ぼくの、右斜め後ろに。
手を伸ばしたら、触れるか触れられないか、そんな微妙な距離に、いた。
「おう。どうした」
あとから思い出すと、笑ってしまいそうになるが、久しぶりに会った友人に話しかけるように、ぼくは声をかけたのだ。
「うん」
彼女の口元に笑みが浮かぶ。
「ちょっと、ね」
ああ、なんて。なつかしい声。
「会いたいな、と思ったの」
普通じゃないのは明らかだった。
真っ白なワンピースをまとった彼女は、服の色だけでなく、全体が、ほの白く発光しているようにも見える。
「前、会ったのいつだっけ」
「覚えてないよ。でも、伝えたいことがあって」
肩にかかるか、かからないか位のセミロング。黒髪を耳にかけて目を伏せていた彼女は、やがて、ぼくを真っ直ぐに視線にとらえて微笑んだ。
「あのとき、私、楽しかったのとても。ありがとうね」
高校時代の彼女は、あまり素直にものを言う子じゃなかった。
それが、こんなに真っ直ぐな言葉をくれている。きっと、これはとても特別なことなのだ。
枯れた記憶が一気によみがえる。彼女への想いが溢れてくる。
「俺もだよ」
今言わなければ、もう伝えることはできないのだろう。
だから、僕も、素直に伝えることにする。
「好きだった……すごく」
こんな会話普通じゃない。
久しぶりに会った相手に告白するなんて。でも、きっと今は普通じゃない状況だ。彼女は「私もよ」と、少しだけ驚いたように、はにかんだ笑みを浮かべた。
これほど気恥ずかしくて、せつなくて、苦しい感情は初めてだった。同時に、ぼくらは互いに大人になってしまったのだな、と寂しく感じた。
「じゃあ、また」
彼女は、腕を少しだけ上げて、ちいさく手を振った。
かわいらしい動作だった。そうだ。下校のとき、彼女を家まで送って別れるとき、彼女はこんな風に手を振ってくれていたのだっけ。
「うん。また」
満足したように頷くと、彼女は僕に背を向けた。そうして、洗面所を去っていく。
* * *
彼女の姿が見えなくなった。
ぼくはまだ動けないでいる。
なぜだろう? 涙がとめどなく溢れていた。
拭うこともしないので、溢れた涙は顎をつたって、寝間着にしているTシャツにいくつもの染みができる。
彼女が会いにきてくれた。唐突にぼくは違和感に気が付く。
彼女とは高校を卒業以来、もう何年も会っていない。
それなのに、ぼくは彼女をすぐ『彼女』だとわかった。なぜなら、どんな女性になったか、と時々思い浮かべる、ぼくが勝手に回想する彼女。そのものの姿だったからだ。
あり得ないことである。
きっと、彼女は、ぼくが一目でわかる姿になって、ぼくに会いに来てくれたのだ。
彼女のことは、田舎に帰省したときに、母親伝いに聞いていた。
重い病で容態がよくないらしいことは知っていた。だが、ぼくは彼女を見舞うことをしなかったのだ。
病んで弱った彼女を見るのが怖くて……でも、彼女は、ぼくに、会いに来てくれた。きっと、彼女は、ついさっき――
ようやく自由になった体で、洗面所を出る。
もちろん彼女の姿はない。別の、会っておきたい人に会いにいったのかもしれない。逝く前に会っておきたい人。それは、ぼくだけじゃないはずだ。
翌朝起きると田舎の母から着信があった。
電話し直すと、やはり彼女のことだった。葬儀の日程、喪服は用意してある、〇〇くんも帰ってくるって、と等々。
しかし、昨夜、彼女に会った僕にとっては、ささいなどうでも良いことに思えた。申し訳ないけど。
電話を切ったときだった。
また、気配を感じた。
だれか、いる――?
この予感に囚われるのはもう何度目だろうか。
若干緊張しながら振り向くが、殺風景な独り暮らしの光景があるだけだった。ぼくは小さなため息を吐く。そう、これが大抵のことなのだ。
昨夜、彼女と会った。
強い力に引き寄せられるように、僕と彼女の波長は合っていたのだと思う。
ふと、妙なことを考えてみる。
ヒヤリ・ハットの法則をご存じだろうか。
災害防止に関する統計で、一件の重大な事故のうらには、二九件の軽い「事故・災害」が起きており、さらに事故には至らなかったものの、一歩間違えば大惨事になっていた「ヒヤリ・ハット」する事例が三百件潜んでいるという法則性を示したものである。
三百の「ヒヤリ」のうち、一度の重大な事故。
今まで、ぼくが感じた『いる』という何百回の予感。昨夜、彼女と出会った一度。
何百のヒヤリ――『いる』を感じたとき、その一度はきっと訪れるのだ。
ぼくの場合、出会ったのは、たまたま『彼女』だった。が、違うものと出会った可能性もあっただろう。良いもの、悪いものに限らず、それはきっと訪れる。もしかすると事故のようなものなのかもしれない。
ところで、今。
君の、後ろ、大丈夫だろうか――?
過去に投稿したものを改稿しました。