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一幕『ザ・トゥルース・オブ・フォークロア』Ⅵ


 霧を待っていた。

 深い深い霧が、ロンドンを覆うのを。息を殺して、じっと身を潜ませて獲物を待ち続ける狩人のようにアタシは待っていて。


 そして――深夜になる。


 都市の気温が下がって、蒸気とは違う――視界を呑むような霧が、辺りを霞ませて。

 ホワイトチャペル駅の上から、アタシはロンドンの街を見ていた。


(――何処にいるの)


 意識、研ぎ澄まして。

 アタシはただただ耳を澄まし、目を凝らす。

 ここいら一帯はロンドンでも屈指の無法地帯。逃げる売春婦の悲鳴に、それを追う女衒の怒号。安酒に溺れて騒ぐ酔っ払いに、そんな前後不確かな相手を襲って身包みを奪う追剥ぎ。人殺しだって珍しくなく、ほんの些細なことで殺し合い、断末魔が何処からか響くのだ。

 そんな無数の声の中には耳もくれず――ただ、彼方を見据える。

 じっと、じっと。息を殺して、一瞬の気も緩ませずに。

 そして――


 ――キャアアアアアアアアアアアアアアアア


 何処からか聞こえて来た悲鳴。そして続く、何かが地上から飛び上がっていく影――それが見えた瞬間、アタシは勢いよく駆け出した。

 撃ち出された銃弾さながらに、アタシは壁や配管、伝線なんかのすべてを足場に変えて、飛び上がった影を一身に追う。追いすがる。


(――逃がすもんかっ)


 脳裏に思い浮かぶのは、一昨日の朝。懐かしの孤児院があったはずの場所に広がっていた、信じがたい光景。

 店に出て来たアタシに店主が、普段の十倍険しい表情を浮かべながら告げられた言葉は、信じがたい言葉だった。



 ――小娘、落ち着いて、よく聞け。孤児院の皆が……殺された。


 

 その言葉を耳にした瞬間、アタシの頭は真っ白になった。

 そして気づいた時には孤児院の目の前に立っていた。どんな風に走ってきたのかは覚えていなくて、ただ全身で息をしながら目の前の光景を呆然と見ていた。

 クレアも。アリンも。コニーも。ジャックも。レイも。アーニャも。他の皆も……元の形が判らないくらいぐちゃぐちゃで。千切れた指が、誰のものかも判らない。

 それに、院長も。

 ほんの数日前に顔を合わせて、心配そうにアタシを見送った院長。その院長の顔は、半分失くて……。


「――ああ……うああ……っ!」


 いつも院長の首に下がっていた十字架(クロス)を拾いながら、アタシは言葉にならない呻き声を漏らして。

 なんで? なんで? なんで?

 アタシの頭の中はそんな言葉で埋め尽くされる。

 だって、おかしいじゃない。どうしてみんなが死んでいるのか。どうしてみんなが殺されたのか。

 誰が、どうして? 何のために?


(ふざけんな……っ!)


 頬を伝う涙を拭うこともせず、アタシは胸の中で怒りを叫んでいた。全身の血が沸騰したような怒りで身体が焼けるような錯覚すら覚える。

 そして、そんなアタシの耳に聞こえたのは、近くで検分をしていた警官ヤードの話声。


「――ホントか?」


「はい。近くの住民が目撃しています。異様に手足の長い怪しい奴が奇声を上げながら跳んできたと――まるで発条足ジャックのようだと騒いでいました」


「莫迦を言うな。発条足野郎(スプリングホッパー)なんざ噂話に過ぎん」


「す、すいません。あ、それともう一つ。近くの住人の証言なのですが、なんでも悲鳴が上がってすぐ、襟巻マフラーを巻いた人影がいたとか……」


「此処の孤児か?」


「それはまだ判りませんが――」


「そいつを調べるのがお前たちの仕事だろうが!」


 仏頂面の警官が怒号する中、アタシは彼らの話を頭の中で反芻する。

 警官の一人が言っていた、発条足ジャック。確か最近またロンドンを騒がせている怪人の名前だ。奴が皆を殺した? いや、それよりも、


(襟巻を巻いた……まさか、ハリー?)


 ハリー。つい数日前、市街のほうで掏摸をしくじってた彼。いつもアタシの後をちょろちょろついてきて、アタシの真似をしていた男の子。襟巻をひらひらさせて、何処か小憎たらしい笑みを浮かべていた少年。

 生きているの? なら、どうして此処にいないの? 


「まさか……」


 脳裏に過ぎった可能性に、アタシは息を呑む。

 それはほんの一瞬前に自分で考えていたことだ。身を焼くような怒りと共に、心の中で強く強く噛み締めた言葉と意思。



 ――絶対にこの手で捕まえてやる。そして、仇をっ!



 彼も、ハリーもそう思ったのだろうか。

 いや、どっちにしても同じこと。

 ハリーを探すのも、犯人を捜すのも。

 アタシにできることを。アタシがやりたいことを。



 そうしようと決めた、自分の心に従うだけ――。



 屋根の上に飛び上がる。狭い路地の壁と壁を足場に、三角跳びを何度も繰り返して。ブーツの靴底が硬い壁を噛み締めると同時に、力強く踏み抜く。身体を持ち上げるように、強く、だけど軽やかに。

 霧が深い。注意して目を凝らさないと、すぐに見失ってしまう!

 アタシは走りながら霧の向こうを凝視して。


 ――影が、地上から空高く飛び上がる!


 距離はさっきよりも近づいていた。飛び上がって地上に降り、再び跳び上がる飛び跳ね(ホッピング)野郎と、屋根の上を走り続けるアタシ。結果として、アタシのほうが徐々に距離を縮めていく。

 だけど、同時に胸騒ぎを覚える。

 だってそうだ。今は知っている場所には覚えがあった。

 この道筋は、アタシがよく走っている道筋だから。店に遅刻しそうなとき、オンボロの集合住宅から近道して走っている道筋とほとんど同じ。


(――まさか……っ!)


 脳裏に過ぎる予感に、アタシは背筋が凍りついたような錯覚を覚える。どうか、どうか間違いであってほしい。

 そう、強く祈りながら。

 だけど、やっぱり神様は意地悪だ。いや、信じたことなんてないけれど。

 アタシの祈りを裏切るように、発条足野郎は一層強く空に跳び上がり、そして狙い澄ましたように一軒の家へと飛び降りていく。

 そして気味の悪い笑い声を上げながら、その家の屋根を粉砕して、影の姿は家の中へと吸い込まれていった。


「やめろぉぉぉぉぉ!」


 アタシは叫んだ。

 叫びながら、発条足野郎の後を追うように屋根から飛び降りる。背の低い建物へ次々と飛び移り、地上に降り立つ。着地に失敗して思い切り転んでしまったが、そんなのは気にならなかった。アタシは転んだ勢いのまま立ち上がって、飛び込むように扉を開けて店に飛び込んだ。


「――店主オーナー! 店主、何処!」


 普段なら絶対出さないような声を張り上げて、アタシは店の主を――雇い主の姿を探す。


「……喚くな、小娘」


 そんな科白と共に、店の奥から厳めしい表情をした店主が姿を現した。アタシはその姿を見て安堵の息を零す。だけど、その額と左腕から滴る真新しい血を見て瞬間、「ちょっ、大丈夫なん!」と悲鳴にも似た声を上げて駆け寄った。


(アイツは――ッ!)


 よろけた足取りの店主を支え、アタシは辺りを見回す。先程屋根を突き破って侵入したらしい影は見当たらない。理由は判らないけど、今はそんなことはどうでも良かった。とりあえずは店主を連れて逃げることのほうが先決だった。


「店主、歩けるかい? とりあえず、此処を離れよう」


「その意見には賛成だが……果たして逃げられるか……」


「らしくない弱気な科白はいらないっつーの。早く!」


 そう言って店主を引っ張ると、彼は自嘲するような笑みを口元に浮かべた。


「弱気になるなか……それができたならば、こんな路地裏で仕立屋などしていなかっただろうにな」


「? なにそれ、意味わからん」アタシは首を傾げると、店主は「独り言だ。気にするな」と言って歩き出した。アタシもそれに倣って店の玄関から外に出る。

 濃い、そして深い霧が辺りに立ち込めていた。ロンドンでは大して珍しくもない現象。昼は蒸気に、夜は霧に呑まれるのなどこの街の常だが……何故だろう。今日は、今夜だけは何故かその当たり前の光景が、酷く恐ろしいものに見えて。



 ――ぞくり(、、、)



 背中に冷たい感覚。いや、悍ましい気配のような何かが、まるで足元から這い上がってくるような――そんな悪寒。

 同時に。

 霧の向こうから姿を見せる、人影一つ。

 小柄な、アタシよりも少し低いくらいの背丈。ゆらりとした足取りで、ゆっくりと此方に近づいてくる。

 立ち止まるアタシたちの前に姿を見せる、襟巻姿の襤褸を来た子供――



「――……ハリー?」



 見間違えるはずがなかった。

 それは、孤児院で一緒に育った少年だ。あたしの後をちょろちょろとついて歩いて、悪さばかりしていたあの子だった。

 生きていた。

 あの孤児院の酷い有様の中、たった一人だけ生きていた仲間の姿に、アタシは感極まって飛びつきたい衝動を必死に抑えながらその名をもう一度呼ぼうとして――



「――待て、小娘」



 店主が、強い語気で言った。

 その声は悲痛なほど険しく、まるで何かを押し殺したような息の詰まる声音だった。

 アタシは店主を見上げる。その表情は普段のそれとはまた異なる色の険しさを宿していた。いや、険しい――というよりも。その表情は、まるで目の前で親兄弟を殺した相手に遭遇したような、憎悪に満ちたもののように見える。


(――どうして、そんな顔を……)


 見たこともない店主の顔に、アタシはもう一度ハリーに視線を向ける。今度はゆっくりと、様子を窺うようにして。

 髪の色も、髪型も。顔だちも背格好も、どれを見てアタシの知っているハリーそのものだ。

 だけど――ああ、だけど。

 アタシは気づいた。気づいてしまった。

 まるで生気のない青白い肌。

 焦点のあっていない、濁った瞳。

 ふらふらと、まるで酒に溺れた酔っ払いのような足取り。

 そして――ハリーの顔に張り付いている表情を見たとき、アタシは先ほど感じた悪寒の正体を知った。



 ――嗤っていた(、、、、、)



 口の端から唾液を垂れ流し、舌をべろりと口の中から零しながら、にったりと。

 正気ならざる笑みだった。

 狂気に塗れた笑みだった。



(――ハリーじゃ、ない!?) 



 殆ど直感で、そう理解する。

 あれはハリーじゃない。いや、見た目はハリーだ。あたしの知っているハリーそのもの。だけど――ああ、だけど!


「取って喰われたか……」


 言葉を失うアタシの隣で、店主が低く呻いた。

 その言葉がどういう意図で口にしたセリフなのかは判らなかった。だけど、その言葉の意味は十全に理解できる。

 脳裏に過ぎるのはあの噂話。

 霧の夜に消えて、そして別人になるという都市伝説。


「そんなこと……ホントに――」


 殆ど呻き声のようなアタシの言葉に、店主は静かに、だがはっきりと耳に届く声で言った。


「ある。あるのだ。少なくとも、知るべく人間は、そのことを認識()っている。あれは、噂話などではない。そして――今まさに、それは目の前に存在()るのだから」


 店主が言い切ると同時。

 まるでそれを待っていたかのように、ハリーが――ハリーであったものが声を高らかに嗤った。



 きゃははははははははははははははは――!



 奇声を発して、哄笑を上げる。

 そして、それは姿を現した。

 まるで破けるように、ハリーの四肢が弾け、そこからぞろぉぉり(、、、、、、)と長く伸びる、折りたたまれた鋼鉄(クローム)の手足。

 人間のような、だけど人間ならざるクロームの四肢を閃かせ、ハリーであったものは勢いよく頭上高くに跳んで――


 そして、あたしたちの目の前に――本当に目の前に降り立った。


 ガシャァァァァァァン! という騒々しい金属音と共に、鋼鉄の四肢を持った怪物が降り立つ。

 ボロボロの服以外の、本来人の肌である場所のすべてが、鋼鉄に彩られた異形。

 身体のあちこちから蒸気を吹き出し、まるで魂のない硝子のような双眸を赤く輝かせた、それはクロームの怪人。即ち、



「――……発条足ジャック」



 見上げるほど背の高いその鉄の人型を見上げて、アタシはその名を口にした。


 きゃははははははははははははははは――!


 怪物が笑う。ハリーの顔をしたクロームの怪人が、まるで何かを楽しむように笑い声を上げた。

 いや、何か――なんかじゃない。

 こいつがしようとしていることなんて一つだ。

 脳裏に蘇る、孤児院の凄惨な有様を考えれば、すぐにでも判る。

 アタシは殆ど反射で店主を突き飛ばすようにして一緒に横に跳んだ。

 同時に、発条足ジャックがその発条仕掛けの腕を振り下ろす。一瞬前までアタシたちが立っていた場所が、鋼鉄の腕の先に備わった鋭い爪で深々と抉られていた。


「――殺す気?」


「ああ、そうだ」


 アタシの言葉に応えるように、店主がそう言った。


「こいつらは――最早人ではない。こいつらは――レヴェナントはただ殺すだけの怪物だ。そしてこいつらは大体、自分に近しかったものや、生前の自分を知っている奴らを始末することから始める。生前じぶんを知るものを消すことで、真に殺戮のための怪物(マーダー・メーカー)になるように造られている。だから孤児院の連中を殺したんだ」


 そう告げながら、店主は忌々しそうに発条足ジャック(レヴェナント)を睨んだ。


「こんなものすら生み出せる――だから蒸気機関は気に食わんのだ」


「なに? それ」


「独り言だ――小娘、さっさと逃げろ。今ならまだ、間に合うかもしれん」


 言って、店主は懐から何かを取り出す。それは鈍く輝く金属の塊。小口径の六連発式の回転弾倉式拳銃リヴォルヴァ・ピストルだ。


「待って、店主! そんなのでこいつを倒せると思う! どう見ても無理だって!」


「無理かどうかなどどうでもいい。私はこれ以上、蒸気機関でできたものに、私の大切なものを奪われるのは我慢ならんのだ」


 そう言って、店主は銃口を発条足ジャックに突き付ける。だが、それよりも発条足ジャックのほうが早く動いていた。

 発条足の一歩が、瞬く間に距離を詰める。伸縮する足の発条でその名の如く跳ぶように距離を詰めた発条足ジャックが、凄まじい勢いでその腕を薙ぎ払う!

 アタシはとっさに店主を抱きかかえて跳んだ。

 薙ぎ払われた腕は店主から逸れ、その背にあった煉瓦の壁を容赦なく粉砕する。破片が無数に飛び散り、散弾のようにアタシたちを襲った。


「ぐうっ!?」


 背中を打つ激痛に悲鳴を上げる。それでもどうにか耐えながら、アタシは店主と共に発条足ジャックを振り返った。

 見ればもう、発条足ジャックは跳躍に入っていた。凄まじい勢いでこちらに迫り、既に腕は振り上げられている。


(――避けられない!)


 そう確信したアタシは、店主にしがみ付いたまま強く目を瞑り、迫る死にどうにか耐えて見せようとする。

 だけど。


「あれ?」


 いつまでたっても予想していた痛みも衝撃も襲ってこなかったことに、アタシは不思議に思って目を見開いて振り返る。

 すると其処には――


「たーく、ロンドン中探し回った挙句、元の場所にいるとかさー。手間かけさせすぎだろうよ、小娘(ガキ)


 右手に肉厚の刃を持った短剣を手に、発条足ジャックの腕を受け止めながらこちらを振り返る、あのおにーさんが不機嫌そうな顔で立っていた。




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