四幕『混沌の坩堝の、その片鱗』Ⅰ
階段を上ってくる気配がした。一人のものではなく、複数だ。耳慣れた足音が二つ。そして、知らない足音が一つ。
アタシは顔を上げて、ドアを見る。伯爵が「どうかしたかね?」と訪ねてきたけど、返事が面倒だったから、アタシは首を縦に振って応じることにした。だけど、伯爵はアタシの言いたいことが判らなかったらしい。細い目元の端っこを困ったように下げて苦笑し、「申し訳ないがね、リズィよ。あと少しだけ、意味の通じる会話をしようじゃないか」と言ったので、アタシは「はーい」と答えながら言った。
「誰か来るよ」
「最初からそう言って欲しいね。切実に」
アタシの言葉に、伯爵はしみじみと言ったけど、ご要望にお応えできるかといえば……うん。無理。
アタシは首を横に振る。
伯爵は困り顔で肩を竦めたのと、ドアが開いたのは同時だった。
乱暴にドアを開け放ち、赤い外套を翻して彼が姿を現す。
《血塗れの怪物》。あるいは『都市伝説殺しの獣』と呼ばれる請負屋。
伯爵の友人。
この請負屋事務所の腕利き。
アタシの恩人で、最近では師匠という立ち位置になりつつあるその人物――ツカガミ・トバリは、不機嫌そうに事務所に足を踏み入れると、
「――土産だ」
と言って何かを部屋の真ん中に放り投げた。
アタシも、伯爵も――ついでに言えば、お客さんも、揃って彼が投げた何かを見る。
何か――っていうか、人だ。
項で括られた眺めの金髪に、青い眼の青年。歳はたぶん、トバリやシアと同じか、少し年上くらい。ようは二十代前半の若いおにーちゃん。
「これ?」
アタシは床に投げ出されたおにーちゃんを指さしながら、トバリに避難の目を向ける。
お土産って言うのなら、どうせなら食べ物がいいんだけど。
「――食べ物が良かった、的な目で人を見るんじゃねぇよ」
脱いだコートをコート掛けに引っ掛けながら、トバリは呆れ顔で言うのだ。うーん、何故バレたのだろう。もしかしたら、お昼時だからだろうか。確認の意味を込めて時計を見れば――時刻は一四時を過ぎたころだった。もしかしてトバリはお腹がすいているとか?
「いいや、腹はすいてねぇから」
「……どうしてミスタ・トバリはリズィと意思疎通できているんですか?」
エルシニア――シアが、呆れ顔でそんなことを言いながらトバリに続いて部屋に入ってくる。
「シア。お帰り」アタシはひょいと片手を上げる。シアは「ただいま、リズィ」と微笑んで応じてくれた。
「君たち、仲良い掛け合いは大いに結構だが……来客中だぞ?」
私たちのやり取りに、成り行きを見守っていた伯爵が眉を顰めながらそう苦言を零す。すると、トバリがすかさずお客さんに目を向け、そして口の端を持ち上げながら茶々を入れた。
「そいつは失礼――っつっても、一人は馴染みの顔だな。よう、レストレード」
「……相変わらず不遜と無礼と太々しさを鍋で煮込んだような物言いだな、《血塗れの怪物》」
「はっは。これはこれは、礼儀の欠いた言葉遣いは教養の低さが原因ですね。底つ者故の大変なご無礼、お詫び申し上げます。警部殿――これでいいかい?」
普段の労働者階級訛りとは打って変わった綺麗な英国式英語を使ったトバリの皮肉たっぷりの科白に、レストレード警部は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている。警部の完敗だ――というか、そもそもに警部のような真面目な人間は、トバリみたいな、あるいはミスタ・ホームズみたいな飄々とした人種とは、とことん相性が悪いんじゃあないかなと思う。
なんて思っているうちに、トバリの視線は立ったままのレストレード警部から、来客用の長椅子に座っている人に向けられる。
「――で、其方の仮面の御仁は何者だ?」
――仮面。
そう。トバリが見据えている相手は、仮面を被っている。顔の上半分――つまり目元を隠す形の、変てこな、機関機械の仮面を被った男の人は、口元にうっすらと、不敵な笑みを浮かべてトバリを見上げる。
「直接顔を合わせるのは初めてだが、私は君のことを知っているよ《血塗れの怪物》」
「そりゃドーモ。なら此方の自己紹介はいらないな」
遠回しに、トバリは仮面の人に名乗るように促してる。多分、あの言い草は作為的なわけではなくて、悪意があるわけでもなく、多分だけど、素で言っているんだと思う。シア風に言うなら、皮肉や軽口を吐かないと死んじゃう病気。うん。シアなんて、呆れを通り越して哀れみに近い視線でトバリを見てるしね。レストレード警部なんて、頭を抱えて項垂れているし……まあ、伯爵だけは、トバリの言動ににんまりと笑っているけど。
トバリの言葉に、仮面の人は怒るでもなく、しかし伯爵のような含みのある微笑でもなく――そう。酷薄な微笑を浮かべて、男の人は優雅な仕草で来客用のカップを長机の上に置いた。
かちゃ……と、カップが起き皿の上で音を鳴らし、その音が鳴り止むと同時、仮面の人は事務的な口調で名を名乗る。
「もう一人のホームズだよ――名は、マイクロフト。しがない英国政府の役人であり、君たちが知るシャーロック・ホームズの実の兄。と言えば、理解は及ぶのではないかね」
「そして、今回の我々の依頼主でもある」
言葉を引き継ぐように、伯爵が苦笑いでトバリを見上げる。トバリは溜息交じりに「ああ、そう」と肩を竦めた。
そんな二人のやり取りを見ていた仮面の人――じゃあなく、マイクロフトさんの視線が動く気配を感じ、私はマイクロフトさんを見る。残念ながら、目を動かしているかはわからなかった。仕方ない。だって仮面で目元が隠れているんだし。
でも、確かに。
彼の視線は、床で呻き声を上げている男に向けられている――と、私は思った。そして、マイクロフトさんは口の端を微かに持ち上げて言った。
「――しかし、まさか依頼するよりも先に、依頼の一つを完遂してしまうとはな。此処は驚くべきところか、それとも呆れるべきところかが悩みどころだ」
マイクロフトさんの言葉に、ワタシたちは誰ともなく顔を合わせ――自然と視線は床に倒れたまま漸く起き上がろうと顔を上げた男を見る。
男は「あー……まったく。運ぶならもう少し丁寧にして欲しいものだよ」と悪態を零しながら顔を上げ、そしてマイクロフトさんを見て目を丸くする。
そんな彼に、マイクロフトさんは小さな嘆息を零した。
「――まったく、この一大事に何処で道草を食っていたのだね。スペンサー」
……えーと、知り合い?
と、私はいまいち状況が良く判らなくて、だけどそれを口にすることはせず、ただただその場で首を傾げたのだ。
 




