三幕『その男、面倒の種につき』Ⅱ
ざわつきとは異なる混乱の気配――畏れ慄いた様と称するのが一番適しているであろう部下の態度に、レストレードは銜えていた煙草の端をぎしりと噛み締めた。だが、怒鳴ることはしない。怒鳴った所で彼らが感じている恐怖と困惑が晴れることがないことを、レストレードは判っているからだ。不慣れなものにとって、この惨状は余りにも《《異質》》だからだ。
転がる死体を、レストレードはじっと見降ろす。これがただの殺しであれば、レストレードもこんな苦々しい思いをすることはなかっただろうし、そもそも部下たちが《《死体の検分を躊躇う》》ということもないのだ。
死体――そう。転がっている死体だ。
刺されているわけでもなく、首を絞められたわけでもなく、撃たれているわけでもなければ、大量出血もしていない――ああ、うん。《《大量失血》》は、しているようだが。
失血――というより、喪血とでも呼ぶべきか。
一切の血液が残っていない死体など、なかなかお目にかかる機会はないだろうなと、レストレードは内心で愚痴る。
彼の足元に転がっている死体は、まるで木乃伊のように干乾びているのだから、そんなことを愚痴りたくもなる。
ちらりと、レストレードは背後の部下たちを振り返れば、彼らは肩を跳ね上げて目深に帽子を被った頭を下げて、視線を逸らす。
(まったく……一体何年景観をやってるんだ、こいつらは。いや、そもそもに――だ)
此処はロンドンだ。
この世界で最も発展を遂げ続けている第蒸気機関都市。あらゆる国々を超越した繁栄を続け、世界を席巻する蒸気機関文明の象徴であり、同時にその裏では日々様々な有形無形の謀略が繰り広げられる世界の中心地。そして常人の想像を逸脱し、実しやかに囁かれる都市伝説の化け物たちもが実際に蠢き、跋扈する万魔殿である。
そしてロンドン警視庁は、その片鱗に接触する数少ない公的機関の一つであるのだ。この程度の非常識――いい加減、自覚して欲しいものだ。まあ、自覚したところで、それを受け入れられるかは別である。非常識は、叶うならば永劫に非常識であって欲しいし、夢物語は幻想のままであるから楽しめるのだ。そんなもの、実際に直面したら恐怖以外の何物でもない。
そして夢物語に対して、英雄的気質を抱くことはなく、また恐怖でもなく――諦念を覚えたのが、レストレードという男なのである。
だからこそ、自分には損な役回りが回るのだと、レストレードは鬱屈した感情を溜息として吐いた。
今回のように、民間からの通報を受けた捜査官が現場に駆け付け、それが常識的見解に基づかない事案であった場合、その情報は直ぐにレストレードの元へ届けられる仕組みになっている。それは何も彼がこの手の事件の専門家だから――というわけではない。レストレードからしても、この手の事件は埒外の事件であり、事態であり、事象なのだ。
「まったく……」
レストレードは遠巻きに成り行きを見ているだけの部下を放置して、足元の死体を調べるべくしゃがみ込む。
しかし、近くで見れば見る程一層不気味な死体である。今まで、現実離れした死体は幾つも見分してきた。
四散八散にされた死体。噛み千切られた死体。食い散らかされた死体に、解剖された死体。融解した死体も、螺子切られた死体も、踏みつぶされた死体だって――見たことはある。
しかし、このような死体を目にするのは、レストレードも初めてである。
「……まるで干物だな、こりゃあ」
言いながら、レストレードは死体の手を取った――途端、レストレードが摘まんだ腕が、カサッ……と、まるで枯葉が崩れるように崩壊した。これにはレストレードも「おいおい、現実か」と目を丸くし、同時にこの死体の状態をある程度把握する。これは、血液が喪失しているなんてものじゃあない。人体を構成する水分という水分のすべてが喪失なっているらしい。
下手に弄ろうものなら、端の端から崩壊するだろう。こりゃあ検死のしようもないなと、レストレードは何度目とも知れない溜め息を吐く。
「――さて……と」
レストレードは立ち上がり、ぽりぽりと後頭部を掻いた。間違いなく、この死体は常識外れだ。つまり、レストレードが持つ伝手を使って、この事案に見合う人材に仕事の依頼をしなければならない。
しかし――しかし、だ。
それはレストレードにとって酷く不本意なことであり、同時に最高に気分の悪い作業であった。
そしてその心情の大部分を占めるのは、兎に角〝気に食わない〟である。これが難解な事件であるならば、その話を持っていく相手は決まっている――ベーカー街にいるあの偏屈にして社会常識の通用しないながら、事件解明のためならばその明晰極まる頭脳と知性を遺憾なく発揮するあの諮問探偵の元へ足を運べばいい。あの優秀な助手の青年と共に、あの男は事件の解決のために奔走してくれるだろう。
しかし、遺憾ながら今回の事件は彼向きの案件ではない。レストレードの持つ、もう一つの伝手を切らねばならない案件である。
そしてそれこそが、レストレードの不快感を滾らせるのだ。
――請負屋。
合法非合法問わず、報酬と気分次第で如何なる仕事も引き受ける何でも屋たち。その中でも、レストレードと繋がりのある請負屋は、総合的に見て超一流と称しても過言ではない腕を持つ上位請負屋である。
だが、その請負屋事務所の経営者は、ある意味このロンドンでも群を抜いて突き抜けた異質性を持つ人物なのである。
女王陛下と懇意という噂も、あながち嘘ではないだろう。諮問探偵やその助手から聞いた話が真実であれば、最早かの御仁に関わるなど遠慮願いたい限りだ。
しかし、かの経営者が保有する請負屋の腕は確かだ。請負屋は木っ端から腕利きまでを含めればこのロンドンに数百人といるが――この案件においてあの男ほど適した人材も、他にはいないだろう。
それは判っている。判っているのだが……どうにも素直に頼み込む気になれなかず、レストレードは銜えていた煙草を深く吸って、紫煙を吐き出した。
そして、
「――仕方がない」
レストレードは自分に言い聞かせるように沿う言葉を発すると、崩れ落ちた死体の傍から踵を返して歩き出す。遠巻きに様子を見ていた部下の中でも、比較的この状況に対応できる警官に、死体の回収は諦めて、遺留品から身元を調べるように指示を残し、彼はその場を後にする。
そして路上駐車してあった蒸気四輪駆動まで向かうと、彼は銜えていた煙草を道端に捨てて、新しいものを取り出しながら一人ごちる。
「餅は餅屋――か」
それが世の条理だと――レストレードは自分を納得させるように囁き、そして腹を決め、渋々ながら連絡を取ることを漸く決断し、蒸気四輪駆動へ乗り込み……そして、僅かに疑問を抱く。
果たしてこれは――彼らをしても対処できる事態なのか、と。




