八幕『選ばれた対抗神話』Ⅲ
「――姉さん!」
私は、アリステラを呼ぶ。愛用の短銃身小銃を二挺握り、その一丁の銃口を彼女のに向けて、私は屹然と姉の姿を睨みつける。
対峙する姉が振り返って、私の姿を見て微笑む。
思わずぞっとするほど美しい笑み。
十人が見れば十人が、百人が見れば百人が、きっと声を揃えて姉のその笑みを賛美するのだろう。
だけど、私は――私だけは、きっと真逆の感想を抱く。何度だって。
だって、その笑顔を私は知っていた。
――あの日。
私の身体が人間でなくなった、あの日。
私の身体をクロームの刃で切り開き、この身体と魂の根底に、鋼鉄の機関を刻み込まれたあの日に見た、あの日の姉の微笑と、まったく同じ表情で、
「あらあら。貴女もいたのね、クオリ。私の可愛い妹。そんな物騒なものを手にして、どうしたの?」
そう言った。
まるでこれまでのことなんて何もなかったように、晴れやかな笑みと共に。
そんな笑顔に、私は自分の表情が歪むのが判った。
だって、こんな姉の笑顔を見せられたら――思ってしまうのだ。
実はこれまでのことなんて全部が嘘で、夢で、本当の私は、何処にでもいる当たり前の女の子で。
目の前にいる姉は、優しくて、笑顔の綺麗な――大好きな姉なんだって。
そんな、幻想を見てしまう。
勿論、そんなものは存在しない。真実は悲しいくらい残酷で、厳然として私の目の前に存在している。
願いは容易く踏み躙られ、望みは簡単に打ち砕かれた。
すべての諸悪。
すべての根源。
このロンドンを呑み込む都市伝説の怪物たち。そのすべてを生み出したのは、私の姉――アリステラ・シャール・リーデルシュタインに最早ほかならなかった。
「――……どうして、こんなことをしたの?」
「こんなのこと?」
私の問いに、姉は不思議なものを見るように首を傾げて言った。
「こんなことなんて、悲しいことを言わないで、クオリ。私はね、よりよい世界を作りたい――そう思っているだけよ?」
「妹に酷いことが――実験台にすることが、よりよい世界を作ることになるの?」
「そうよ、クオリ。でも、一つ間違い。私は酷いことなんてしていないわ。忘れたの? 言ったでしょう。贈り物だって」
晴れやかな表情で、姉は言った。その言葉は信じられないほど自信に満ちており、自分の口にしている言葉に、可笑しいことは一つもないと、一片の疑いも持っていないのが判る。判ってしまう。
「人の身体はね、凄く脆いて、凄く弱くて、すぐに衰えてしまう。だけどね、クオリ――考えてみて。
もしも、その身体が鋼鉄だったら?
その骨格が、その臓器が、その脳が、鋼鉄でできて、歯車でできて、機関でできていたとしたら?
干渉術式によって、決して劣化しない機関でできた身体だったら、どう思う?
凄いと思わない? 素晴らしいと思わない? 錬金術師が、権力者が、錬金術師たちが求め続けた、永遠不変の存在。人体と機関が、干渉術式によって一つになる――ああ、なんて素晴らしいのかしら。
クオリ、貴女はそんな奇跡をその身体に宿した最初の人間なのよ。そのことがどんなに素晴らしいか、判るでしょう?」
きらきらと目を輝かせて、まるで子供のようにはしゃぐ姉の姿が、私にはとても恐ろしいものに見える。
この人は、本当に、絶望的に、決定的に、見ている世界が違うのだと、痛いくらい思い知らされて――
私は目を閉じ、呼吸数回分の間を空けてから、盲いた目を開き、姉を――アリステラを見据えた。
もしかしら――アリステラはパラケルススに操られて、そんな幻想に捉われているのでは、なんて奇跡を信じていたかった。
だけど、もう――否応なしに理解する。
アリステラは多分、ずっとこうだったんだ。生まれた時から、ずっと、そんなことばかり考えていたのだろう。
優しい姉なんて、きっと最初から存在しなかったのだ。私が姉と慕っていた人は、私の幻想だった。私の願望だった。
私自身がアリステラに抱いていた、優しい姉という虚像。
そんものは初めからいなかった。
存在していたのは、機関に魅入られ、捕らわれ、そして狂信した少女だけで。
だから私は――
(――さようなら、姉さん)
私の中にあった優しい姉に別れを告げて。
強く、強く言い放つ。
「――判らないわ、アリステラ。私には、それが素晴らしいことだなんて思うことはできない。そんな寂しく冷たい世界なんて、来なくていい。貴女の言う、脆くて、弱くて、病めて、老いていく――そんな世界のほうが、私はずっと素晴らしいと思うから」
アリステラを拒絶する言葉を。
彼女の理想を否定する言葉を。
私ははっきりと口にした。
すると、アリステラは一瞬その目を驚いたように見開いて――やがて、寂しそうに、そして本当に残念そうに肩を落として、
「――そう。それは残念ね、クオリ。貴女なら、理解してくれると思っていたのだけど、私の思い違いみたいね」
そう言うと、アリステラはもう私になんて興味がないと言う風に嘆息した。
「どうして、誰も理解してくれないのかしら? 不思議だわ。老いることを幸福なんて、朽ちることを幸せなんて言えるなんて――不可解だわ。もうじき、素晴らしい世界が到来するのに、どうして、血を分けた家族にすら判って貰えないのかしら」
そうアリステラが愚痴を零す。
同時に、
「誰だって、判りたくねぇだろうさ。アンタが俺らを理解できないように、俺らもアンタを理解したいとは思わない」
声が――
頭上から――
振って来て――
「――そんなイカれた世界なんざ、ぶっ潰れちまえ」
紅い影が飛来する。影は凄まじい勢いで滑空し、すぐ傍らにあった落下防止柵に着地した。着地の衝撃で柵が歪み、衝撃が私たちの身体を打つ。「きゃあ!?」と、思わず小さい悲鳴を零した私の眼前で、影は――ミスター・トバリは着地の勢いを利用して再度跳躍し――アリステラへと襲い掛かった。
轟、と右腕が閃く。
右腕――血の塊でできたような巨大な腕爪。硬い床を切り裂き、無数の機関管で覆われた壁を断ち切る鮮血の爪刃。
あの《心臓喰い》を彷彿させる――だがそれ以上に凶悪で禍々しい腕を振るい、ミスター・トバリはアリステラを追う。
姉は迫る襲撃を躱し、困ったように眉を顰めて溜め息を吐く。
「まあ、貴方が賛同してくれるなんて思ってはいないわ、ミスター・トバリ。でも、残念ね。貴方の従姉は、喜んでその身を私に差し出してくれたのに」
「で、これ幸いとその身体で実験してましたってか?」
「ええ、とってもいい素材だって思ったから。そして、私の目に狂いはなかった。見事に実験は成功したんだもの」
「まったく反吐が出る……人の身体ぁ玩具にしてる暇があったら、自分の身体でやってろよ!」
憤慨し、ミスター・トバリが煙るような速さで爪を振るった。鮮血色の爪が、姉の身体を貫く!
私は息を呑んだ。
しかし、それはミスター・トバリの爪が、アリステラの身体を貫いたから――ではない。
身体を貫かれた姉が、口元から一筋の血を零しながら――にたりと笑って、
「――私が、それをしてないと思って?」
そう、言ったからだ。
ミスター・トバリの表情が驚愕に染まり、姉から跳び退る。その目は寸前までの憤怒は掻き消え――代わりに油断ならない冷徹な眼光で姉を捉えていた。
私はその後ろで言葉を失いながらアリステラを見る。
脇腹に風穴を開けたアリステラは、その姿のままに私たちを見据えて、くつくつと笑っていた。
「そんな当たり前のことにも気付けていないなんて、鼻がきかないのね。《鮮血の怪物》さん」
嘲りと共に、アリステラは穴の開いた腹部を撫でる。すると、どうだろう。まるで時間が巻き戻るように、破壊された姉の腹部が再生していくのだ。
一体何が起きているのか判らず、私たちは言葉をなくしてその様子を窺っていて――そんな私たちに、アリステラは言った。
「クオリ。貴女は確かに記念すべき最初の素体よ。だけどね――ファーストがいるなら、当然その前があると思わない?」
うっすらと笑い首を傾ぐアリステラ。対して、ミスター・トバリは忌々し気に舌打ちを零しながら言った。
「つまりあれか……お前が実験のための実験体とでも?」
「せめて始まりのもの、と呼んでほしいところね。そこは」
口元を抑えながら、姉は肩を竦める。
「――《干渉機関》。それが私の宿したものよ。機関機械にして干渉術式……いいえ、干渉術式にして機関機械、と言ったほうが正しいわね。私に宿る賢者の石を基盤に組み立てた、私の最初に生み出した機関機械」
姉がそういうと同時、身体の露出した部分に走る幾何学的な光の帯線。
「私の脳と直結した機関機械が、私の思考に呼応して干渉術式を自動的に演算するの。本来ならば人間の脳では制御しきれない情報量も、この《干渉機関》ならば可能にする――だから、こんなこともできるのよ」
言って、アリステラが指を弾く。すると、私たちの傍ら。すぐ傍で怪しい鳴動を繰り返していた大機関が、ゆっくりと――だが、はっきりと動き出したのを見る。
巨大な機関の塊。このロンドンを動かすほどの大機関。人に似た形をした、この大都市の動力源が、まるで人間のように動いているのだ。
そんな現実に有り得ざる光景を目の当たりにし、私は痴呆のように立ち尽くして、
「嘘……」
「世界そのものに干渉し、物理法則すら書き換える――ね。にしたって限度があんだろうに……」
私が息を呑む横で、ミスター・トバリが引きつった笑みを浮かべながらそう零す。
唖然とする私たちを余所に、人型の大機関がその腕を動かして、その手をアリステラに差し出す。アリステラが軽やかな足取りで大機関の手の上に乗り、私たちを振り返りながらからからと笑う。
「さあ、ミスター・トバリ。そしてクオリ。私の邪魔をするんでしょう? どうやって邪魔をするのかしら? 私と戦うと言うのなら、一向に構わないわ。だけど、そうなった場合私だけではなくて、この即席の戦闘機関人形と戦うことになるけれど――これは大機関。いわばこのロンドンの心臓そのもの……それと戦うことの意味が、貴方たちにはよく理解できているのかしら?」
彼女の言わんとすることの意味を理解し、私たちはどちらともなくに顔を見合わせて言葉を失った。
人質――ならぬ物質とでも言えばいいのか。想像もしなかった所業に、私はどうすればいいのか判らず困惑してしまう。
彼女の言う通り、大機関はロンドンの心臓だ。下手に攻撃を行って機能停止になどなれば、その瞬間からロンドン全土が大混乱に陥るだろう。あらゆるライフラインが停止し、様々な公共施設や企業運営に大打撃を与え――最悪、一夜にして世界の秩序の均衡が崩壊するなんて事態になりかねない。
「さて、どうするのかしら? 二人とも。私は別に構わないわよ。此処で失敗しても、別にそれで終わりというわけでもないのだし」
からかうように、アリステラが言う。
私はどうするべきか判断ができず、銃口をアリステラに向けるものの――そこから先の行動に転ずることができなかった。
だけど、彼は――
「――その程度で俺が止まるとでも思ってんのか?」
ぎちり、と。
鮮血色に染まる右腕を軋ませて、ミスター・トバリは地を蹴って大機関へと飛び移っていた。機関の出っ張りを足場に、凄まじい速度で大機関を駆け上り――アリステラへと接近していく。
そんな彼を見て、アリステラは一層楽しそうに声を上げた。
「でしょうね。こうも私の邪魔立てするような発言をしておきながら、この程度で止まるなんて、それこそ興ざめもの――でもミスター・トバリ。レヴェナント狩りの《鮮血の怪物》さん。だけど、如何に貴方がレヴェナントとと戦えると言っても――この子とまともに戦えるとでも?」
アリステラが言葉を切る――同時に、大機関が凄まじい速度で動き出した!
寸前までの鈍重な動きは何処に行ったのかと言わせんばかりの瞬動。まるで武芸の達人のような無駄のない挙動で腕を動かし、駆け上るミスター・トバリを、まるで周囲を飛び交う羽虫を追い払うかのように叩き飛ばしたのだ。
軽快な挙動。だけどその巨体から繰り出された威力は想像を絶していて――鮮血色の影がまるでクリケットの玉のように壁際まで飛んでいき、叩きつけられた。凄まじい衝撃音と共に粉塵が舞い、彼の姿はその向こうに消える。
「ミスター・トバリ!」
思わず声を上げて無事を確かめようとするが、彼の跳んでいった壁は、今私がいる場所とはかなり離れていて、すぐに駆け付けることはできない。
――ああ、もう。どうしたらいいの!
私は言葉にならない不満を怒りに換えてアリステラを睨みあげる。私の視線に気づいたアリステラが、可笑しそうに口の端を釣り上げた。
「ふふっ。どうしたの、クオリ。そんな怖い顔をして。今のは正当防衛よ。身に降りかかる火の粉を払うのは、当然のことでしょう? 貴女は何もしないの? 反撃されるのが怖い? それとも、この大機関が壊れることが怖いのかしら?」
くつくつと笑うアリステラ。反論しようにも、的を射た彼女の言葉に異を唱えることもできず、私はただただその場で歯噛みするだけ。
「いいのよ。攻撃しても。大機関が壊れて、ロンドンが混乱に見舞われる姿もまた面白そうだし……」
そう嘲るアリステラに対し、応じる声があった。
勿論私ではない。
ましてやミスター・トバリでもない。
その声は、
「――ふむ。それはそれで、私も一度目にしてみたいものだね。実に興味深い案件ではないか」
カツン――という、硬いステッキが床を叩く音と共に。
その人物は何処からともなく――それこそまるで影の中から突如出現したかのように姿を現し、こう声を高らに言ったのだ。
「――素晴らしき哉、素晴らしき哉」
 




