三幕『青薔薇の淑女は斯くして語る』Ⅳ
――それから。
ヴィンセントとクオリ・リーデルシュタインはホーエンハイム・インダストリーへ忍び込むための算段をし、彼女が事務所を後にしたのは一時間ほど後だった。
集合住宅の窓から、去っていく彼女の姿を確認しながら、トバリは射貫くような視線をヴィンセントに向ける。
「さーて……依頼主は去ったことだし。我が雇い主様は一体どんな料簡であんなドふざけた仕事を引き受けることを決めたのか、教えていただきたいものだな。オイ」
「声が怖いぞ、トバリ。紳士ならばもう少し心にゆとりを持ちたまえ」
紅茶入りのカップを手に優雅にそんなことを宣うヴィンセントに向け、トバリは普段は決して浮かべることのない満面の笑みを表情に張り付けて――凄まじい勢いで左腕を一閃させた。
――びゅん!
と、風を切る音と共に、ヴィンセントの耳の横すれすれを銀色の軌跡が一直線に飛び――
――ずがんっ!
という、まるで大口径拳銃を発砲した時のような音と共に、短剣が壁に深々と突き刺さった。
ヴィンセントはトバリの振り上げた腕を見据え、続いて油の切れた錻力人形のように背後の壁に視線を向ける。
深々と、刀身が完全に壁に埋まっている短剣を見つめると、彼は再び首を元の位置に戻し、流石のヴィンセントも肝を冷やしたのか。
「――……ははは。ゆとりを持ちたまえ。ゆとりを――ね」
カタカタを手にするカップを揺らしながら、それでもそれだけは口から捻り出せたのは、まあ拍手ものだろう。
尤も「あー。なんか無性にもう一本の短剣の投げたい気分だなぁ」と右手で短剣をひょいと手遊びし出すと、ついに「判った! 説明するからそれをしまってくれ」と、降参の言葉を口にしたのだった。
トバリは渋々短剣を鞘に納め、壁に突き刺さった短剣を回収しながら訊ねた。
「――それで、なんであんな無茶苦茶な依頼を引き受けたんだよ?」
「興味があったというのも確かだ。だが、彼女の齎した情報を、私の持っている情報と照らし合わせて精査した結果、調査するに値すると思ったのだよ」
「……ホーエンハイム・インダストリーが怪しいってのは、前々から考えていた、と?」
トバリの言葉に、ヴィンセントは「そうだ」と真剣な面持ちで答えた。
「……候補の一つではあった。だが、確信を得るに至る情報はこれまでも得ることはできていなかったのだよ。しかし――そこに彼女が現れた。私ですら掴めていないのであろう、なんらかの情報を持っている彼女が、ホーエンハイム・インダストリーが怪しいと言う。確信を得られていなかった私にとっては、まさに渡りに船だよ」
「だから引き受けることにしたのか?」
ヴィンセントは頷いた。
「そうだ。彼女の中になる、ホーエンハイム・インダストリーとレヴェナントのつながりに対してのあの確信。それがなんであるか、興味があったしね。もしはずれだったとしても、ホーエンハイム・インダストリーが白か黒かをはっきり判る。いいことずくめだ」
「……それと同じくらい面倒ごともあるけどな」
不敵に笑うヴィンセントに、トバリは溜め息交じりにそう言う。がしがしと頭を掻きながら「それに、俺には得るものがなさそうだしよー……」と零すと、ヴィンセントはカップをテーブルの上に置くと立ち上がり「それが……そうでもなさそうなのだよ」と言って、壁に並ぶ資料棚から一つのファイルを取り出した。
「これを見たまえ」
唐突に差し出されたファイル。トバリは言われるままに、それを開いて中に目を通した。
「うお……凄惨だな」
ファイリングされたのは、無残な死体の篆刻写真である。どうやら見た感じ、ロンドン警視庁の捜査資料の複写したもののようだ。レストレード警部から渡されたものなのか、それとも無理矢理に横流しさせたのかは考えないようにしつつ、トバリは項を捲っていく。
資料に挟まっている写真の人物たちは、どれも見るも無残で陰惨な有様だった。そしてその被害者たちはロンドンだけに留まらず英国全土だけではなく、フランス、イタリア、ロシア、ドイツ――国境を越えて、約一年に渡って欧州全土に及んでいる。
そしてその被害者のすべての胸にぽっかりと穴が開いていて、どの死体も心臓がなくなっているところが共通点だった。
心臓を奪って去る、殺人鬼。確か名は――
「――《心臓喰い》、か」
《心臓喰い》。それはその名の通り、殺した相手の心臓を奪って立ち去る殺人鬼の通称。いや、より正確に言うならば、殺してから心臓を奪っているのではない。
《心臓喰い》の名の由来はその逆であり、心臓を奪って殺しているのだ。この殺人鬼は。
どんな手段かは一切不明だが、心臓部分に空いた穴以外は外傷らしい外傷もないため、いつしか心臓だけを狙う殺人鬼――《心臓喰い》と呼ばれるようになったのだ。
「そうだ。今ヨーロッパの憲兵たちが最も恐れてやまない猟奇殺人鬼。その陰惨にして悍ましい殺しは、あの切り裂きジャックよりも惨たらしく、まさに猟奇そのもの。あまりに悲惨極まりなく、また事件の範囲が広すぎるため、各国の警察たちは情報規制している。かつてジャックが齎した五人の殺人だけで、ロンドン市民が恐怖に震え上がった記憶も新しいからな。致し方ないといえば、仕方がないことだろう……尤も、功は奏していないらしく、今では唄まで出来上がるほどだがね」
「――だが、こいつの事件が今、何の関係がある?」
「問題は、被害者たちの顔ぶれだ。鉄道会社や流通企業の大物。大手新聞記者に、印刷工場の責任者。飛行船の造船場経営主――などなど。なかなかに凄まじい顔ぶれだと思わないか?」
言われてみれば、確かに。資料の中に記されている被害者は、一度や二度は新聞で見たことがあるような人物も少なくなかった。
「そして面白いことに――彼らの死んだ街にはね。ホーエンハイム・インダストリーの支部があるのだよ」
「あれだけでかい企業なんだ。大手企業が集まるような場所に支店があっても不思議じゃないだろう?」
「まあ、そうなんだがね。もう一つ、面白いものがある。見たまえ」
そう言ってヴィンセントが差し出したのは――なんと、鉄道会社の運営記録と、飛行船発着場に離陸記録だった。
どうしてこんなものを見ってるんだよ。と言いたくもなったが、それよりも先にヴィンセントが「えーと……、この記録だ!」と頁を開いて見せたので、トバリは大きく溜め息を零しながら開かれた頁を覗く。
「なんだと思う? ずばり、ホーエンハイム・インダストリーの所有する機関車や飛行船の記録だよ。奇妙なことに、被害者たちが行く先々に、ホーエンハイムの機関車や飛行船が同じように足を運んでいる。変だとは思わないか?」
そう言って口の端を釣り上げるヴィンセントに、トバリは少しだけ考えてから、
「つまり、あれか。お前はホーエンハイム・インダストリーと《心臓喰い》が繋がっている――そう考えてるのか」
「その通り。実際、被害者たちが亡くなった直後、混乱する各企業に手を加え、しっかりと利益を得ている。もしこの推測が正しければ、なかなか恐ろしい手段を取る企業だと言えるな」
「――まあ、そうだとしてだ。《心臓喰い》が、どうして俺にとって得るものだと?」
トバリは当初の疑問に立ち戻ってヴィンセントに尋ねる。すると彼は、パイプを手に取り、火をつけながら言う。
「四日ほど前、《心臓喰い》の新しい被害者がロンドン郊外で発見されたそうだ。そして今回、目撃者がいた――」
「最後の頁を見ろ」と促すヴィンセントの言葉に従い、トバリはパラパラと資料を捲って最後のほうへと目を向けた。
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深夜遅く。近所を歩いていたウェイン・カーテル(三六歳)の目撃証言によれば、被害者テイラー・チャールストンを殺害された現場付近で、奇妙な笑い声をあげる白い髪の人物が飛び去って行くのを見た――
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すべてを読み終えることもせず、バタンっ――と力任せに資料を閉じ、トバリはそれをヴィンセントへと投げ渡した。
寸前まであった億劫は最早なかった。
全身を廻る血が沸騰したような、頭が熱に魘されるような陶酔に、トバリは呵々と笑い、声を上げた。
「ああ……なるほど、なるほどなぁ! そういうことか、漸く尻尾を見せたってわけか!」
「なかなかに凶悪な顔をしているぞ、トバリ」
冷ややかに、だが何処か楽しそうに自分を見据える錬金術師に向けて、トバリはげらげらと笑い声を上げながら振り返る。
「凶悪? はっ! そりゃそんな顔にもなるだろう。こちとらそのためにこんな遠方まで足を運んで来たんだ。嬉しいったらありゃしないさ!」
「情熱的だな。それほどまでに、恋焦がれ止まない相手なのかね?」
その問いに、トバリは「ああ」と大袈裟に肩を竦めながら頷いて――にたりと、悪辣と思えるような笑みを浮かべて見せた。
「何が何でも、あの喉元に食らいつく――そのために、俺はこの国に来たんだよ。ヴィンセント」
トバリの科白に、ヴィンセントは何も言わなかった。ただ、うっすらといつも通りの胡散臭い笑みだけを浮かべ――笑う自分を見つめ続けていた。




