二幕『奇妙な依頼が齎すもの』Ⅰ
「……本当に此処なのかしら?」
ロンドン中枢地区のはずれ。イーストエンドに程近い一角の――五階建て集合住宅の一室の前で。
彼女は困り果てた様子で目の前の恐る恐る扉をノックし、暫しの間待ち呆ける。
しかし、待てども待てども住人が出てくる気配はない。もう一度、彼女は扉の前の表札を見て、部屋番号を確認する。手元にあるメモと見比べ、やはり間違っていないことを確認して、もう一度。
固い扉を叩く音が辺りに響く。だけどやっぱり反応はなく、返ってくるのは住人の返事ではなく、沈黙だけだった。
「ああ、もう」と、彼女は困ったように、あるいは憤慨するように地団駄を踏んだ。
「どうして、どうして出て来ないの。この時間なら間違いなく居るって紹介されたのに」
強かに声を上げ、今度は先ほどより力を込めて扉を叩く。
「すみません、誰かいませんか?」
扉越しに尋ねる。しかし予想通り、返事はなかった。反応のなさに苛立ちが増す。同時に諦念を覚え、ついつい肩を落としながらため息を吐いて。
「あーもー、いないのでしたら返事をしてください」
なんて皮肉を零してみれば。
「――……いませんよー」
という、微かな返事が返ってきた瞬間、彼女の我慢は限界に至った。
「いるじゃないですか!」
英国淑女の嗜みとははるかに程遠い怒号と共に、扉のノブを握ってがちゃがちゃと派手な音を響かせ、荒々しく上下させて扉を開けようとする。
しかし、当然鍵がかかっている扉は開かない。
だが、最早その動作を止めるつもりなど、彼女にはなかった。居留守を使っているのがわかっている以上、遠慮してやる気は毛頭ない。
「いるじゃないですか! いるじゃないですか! いるのなら出てきなさい! そしてこの扉を開けなさい!」
ドアノブが壊れるくらいに上下させ、扉を何度も叩いて声を上げた。
「いるのはもうバレているんです! いい加減諦めてこの扉を開けてくださいな!」
そう叫んで、思い切り拳を扉に叩きつける。
すると。
「――あーもう、うるせぇよ!」
という、恫喝するような声と共に。
目の前の扉がぎぃぃ……という音を伴って開く。
ようやく開いた扉を前にして、彼女は一歩下がって応対した人物を見た。
最初に目に留まったのは、その無造作に伸びた美しい黒髪だった。くすみや痛みのない、まるで天鵞絨のような黒い髪だ。
それに続くのは、長めに伸びた前髪の間から覗く、胡乱げな表情を浮かべた若者の顔だった。年齢的には恐らく十代の後半程。声の調子から男性であるのが判ったが――もし遠めに見たら、きっと性別の判別はつかないだろう中性的な面立ちをしていた。
そしてその青年はというと、数秒の間こちらを睥睨したのち、
「……あんた誰?」
酷く億劫そうにそう尋ねてきた。
「……お客様に向かってその態度……気は確かですか?」
「は? 客? なんで?」
呆れるように半眼でそう尋ね返すと、青年は素っ頓狂な声を上げて信じられないものを見たように目を丸くする。
そんな彼に向けて、彼女は持っていた手書きのメモをその眼前に突き付けて見せた。
「私は、マリア・パーキンソンと申します。とある方に、こちらを紹介されたのです。どんな面倒な依頼でも引き受けて、完璧に遂行する凄腕の何でも屋さんがいる――と」
「……」
言うと、青年は突きつけたメモを一瞥し、露骨に顔を顰めた。「冗談だろ……」と小さく零し、ガシガシと髪を掻き上げて――
「……はぁ……どうぞ、お入りくださいよ。お客人」
観念したように、一歩後ろに下がって入室を促した。
漸く、中に入ることができる――そう安堵の息を零した、その矢先である。部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、彼女は目を丸くして立ち尽くした。
「……なんですか、この部屋は」
思わず、それこそ言葉を繕うことも忘れて、心の底から湧き出た言葉を自然と口にする。
物が散逸していた――というには、その部屋はあまりにも混沌としていた。そこはおよそ人が生活しているとは思えない場所だったからである。
――革張りの本と、大量の紙。それがその部屋にあるすべてだった。
英語。仏語。伊語。露語。羅語。東洋語。極東語などなど……本の装丁に書かれている文字から察せたのはそれくらいだ。だが、それ以外にも――恐らくだが、この部屋に積み重なっている本には、古今東西あらゆる言語で書かれた何かしらの書が積み重なっているのだろうことは、想像するに難くない。
異様なほど積み重なった本の塔が幾つも、そして所狭しに立ち並ぶ姿は、ある種壮観であると言えた。ただでさえ狭く思えた部屋が、目の前の大量の本のせいで一層狭苦しく感じてしまう。
よくもまあこんな場所で生活できるものだと、感心すら覚えてしまうほどだ。
「……って、あら?」
ふと、視線を周囲に巡らせれば。先ほど入室を促した黒髪の青年の姿はとうになかった。慌てて姿を探すが、天井すれすれまで積み重なっている、文字通りの本の山に遮られて何も見えなかった。
その場で途方に暮れてしまっていると、
「――どうした、こっちだ」
ひょいと、本の山の間から顔だけを出して、青年が声をかけてきた。マリアは慌てて彼の元へと駆け寄り、ふとすればすぐにでも見失いそうな彼の後に続く。
彼女は、左右非対称の黒い中着の襟を揺らして歩く青年の背に問う。
「一つお尋ねしますけど……まさかこの部屋で生活しているんですか?」
「んなわけないだろう。此処は物置だ」
にべもなく、青年は言った。
肩を竦めながら、冷笑を浮かべて。
ともすれば、今すぐにでも憤慨しそうになるのを我慢する。今、彼に食い掛かるのは得策ではない。それでは此処に来た意味がなくなるからだ。
文句の代わりに深いため息を吐いて――。
そうして辿り着いたのは、本の山から解放された小奇麗な一室だった。高価とは言い難いが、趣ある調度品や、来客椅子と古風なテーブル。肘掛け椅子に執務机など。その風景を目にした瞬間、隣室との違いにまるで鬱蒼とした森を抜けて開けた草原に出たような気持になったほどだ。
「それで――」
呆然と立ち尽くしていると、青年はこちらに着席を促すこともせずに部屋の片隅へ行き、ティーセットを手に取って無遠慮にテーブルの上に置いた。そしてカップを二つ取り、ゆっくりとポットを傾け、交互に中身を注いでいく。そして紅茶を注ぎ終えた頃、
「――紹介された、と言っていたが……誰に紹介されたんだ?」
手で座るよう促しながら、彼はそう尋ねてきた。
彼女は来客椅子に腰を下ろしながら、はっきりと答える。
「私、最初はベーカー街に行ったんです。あそこには有名な探偵さんがいるでしょう?」
「……まあ、いるな。それで?」
訊ねると、彼は何処か呆れたように眉を顰めて話の続きを促した。彼女はそれに従って話の先を語る。
「当然、依頼に行ったのです。どんな難事件だろうと解決する御方と聞いていましたから。ですけど、彼は取り合ってくれませんでした。『そんな事件に興味はない。他をあたってくれたまえ』と言われて! 途方に暮れていた私に、彼の助手様が――」
「あー、オーケィ。もう判った。それ以上は……いいや」
話に熱がこもり始めたところで、青年が待ったをかける。彼は大仰に溜め息を吐き、そうしてゆっくりと立ち上がると――壁際に備え付けられていた機関電信機の受話器を手に取り、徐にダイヤルを回し出した。
人の話を静止して、いきなり何をしているのだろうか。
そう思っていた矢先である。電信機の受話器に向けて、青年は大音声を上げた。
「――おいこらワトソン! ジョン・H・ワトソン殿! 一体どういう了見だ? テメェらところに来た仕事をこっちに丸投げとは……お宅のところの諮問探偵様はそんなにお忙しかったかねぇ?」
マリアは驚いた。まさか目の前の青年が、彼の名探偵と面識があるとは。
――いや、しかし考えればそれも当然だろう。何せ、向こうがこの場所を紹介したのだ。彼らがお互いに知己であるというのは想像に難くない。
しかし、どうにも不釣り合いというか、不相応というか。目の前に青年に対しそのような認識を抱くのもまた道理だと、彼女は思う。
などと考えているうちに、青年の電信機越しの会話が鳴りを潜めていた。代わりに――
「――俺たち向け、ね。彼がそう判断した、と?」
先ほどまでの苛立ちの混じったような声音から、何処か静かに。あるいは冷淡に。彼は熟慮するように口元に手を当ててしばし黙考したのち「――貸し一つだからな」と言い捨てて受話器を元に戻した。
そして「だー、くそが!」と苛立ちのすべてを吐き出すように一声上げると、乱暴な足取りで長椅子を通り過ぎ、壁際の安楽椅子に腰を下ろした。そして長めの黒髪をがしがしと掻くと――
「先に訂正しておくぞ。うちは何でも屋じゃない。似てるが違う。うちは請負屋だ。そこんとこ、覚えておいてくれよ」
「は、はあ……」
そう言われた彼女は、いったい何がどう違うのだろうと首を傾げる。だが、別にその違いには興味がなかった。あるのは、仕事を引き受けてくれるかどうかだ。
そんな彼女の意図を読み取ったのだろうか。青年は小さく鼻で笑い、そして――
「――話を聞こうじゃないか、レディ。そう、まずは聞くだけだ。引き受けるかどうかは……話を聞いてからだがな」
ぎろりと、まるで獰猛な獣のような視線をこちらに向けながら、不機嫌そうにそう言ったのである。
「――っっっ!」
その眼光に、彼女は息を呑んだ。まるで気を抜いた瞬間、喉元に牙を突き立てられるような錯覚を覚えたのだ。
そして、多分それは気のせいではない。
今も、青年はこちらを見ている。
推し量るように。
値踏みするように。
じぃぃぃ……と、彼のその鋭い視線が彼女を貫いていて。
今すぐにでもこの場から逃げ出さなければ――そんな衝動に駆られそうになるのを必死に堪えて、マリアはそっと目の前のカップに手を伸ばし、口をつける。
暖かい紅茶の風味が鼻腔を抜けて、僅かに緊張が解れた。衝動を紅茶と共に飲み下し――彼女は、漸く口を開いた。
「――いなくなった友人を、探して欲しいのです」
「友人?」
「はい。名前はクオリ・リーデルシュタイン。アカデミアの学友です」
「アカデミア……ね」
青年が僅かに感嘆した様子で目を見開いた。
――アカデミア。あるいは王立機関研究学院。国家主導の機関研究を専門とする教育機関の総称である。年齢。身分。性別。貧富すら問わず。
入学資格はただ一つ『偏に、優秀であれ』。
世界最先端を行く英国の機関技術の発展のため、徹底した実力主義のもと集められた逸材たちの宝庫。英国の叡智が集う場所。時に碩学院とすら呼ばれる研究機関である。
彼女も、彼女の友人たるクオリもまた、そこに所属する学徒だった。
「クオリは蒸気機関を応用した人体工学を研究テーマとしていました。えーと……意味は判りますか?」
「人体と機械の融合……確か、〝新理論〟だったっけか? 最近、機関工学と一悶着越したやつ」
――人体と機械の融合。
簡潔に言うなれば言葉の通り、蒸気機関式の機械を人間の身体に埋め込む――という発想である。ただしそれは、これまでも存在していた機関義肢などのような、損傷しても命に関わることが少ない部位とは異なり、本来人間に備わっていない新たな機能を有した蒸気機関を埋め込んだり、あるいはより頑丈で高度な能力を有する身体へ換装する――という、要は人体の大部分を機関機械化するというものだ。
だが、この技術的着想は現在論争の只中にある。言うまでもなく、生きた人間の身体に機械を埋め込む、というのは多大な危険性を伴うのだ。最悪の場合命を失う可能性や、倫理に反するなどという理由で、現在運用試験は見送りになっている――というのは、あまり世間的には知られていないはずなのだが、どうやら目の前の青年はそれなりに事情に通じているらしい。
訳知り顔で皮肉気に笑う青年に、彼女は鷹揚に頷き返した。
「彼女は……新理論の推奨派の一人でした。他の推奨派と共に、最近はロンドン病院に足を運んでいたのですが……先週から下宿先に戻っていないそうです。勿論、アカデミアや病院のほうにも確認を取ったのですが――」
「――誰も姿を見てない?」
「その通りです」
「そいつはご愁傷さま、ってところだな。ロンドン病院はホワイトチャペルのど真ん中。あんな場所を若い女が一人で歩くなんざ、自殺行為もいいところだ」
彼の言う通りである。ロンドン病院があるのはロンドンでも最も治安が悪い――劣悪といっても過言ではない場所。それがホワイトチャペル地区だ。ほんの少しでも道を外れれば、たちまち住民たちに襲われて身に着けているものは奪われ、最悪の場合殺されたとしても不思議ではない。
だが、
「貴方の言いたいことは判りますよ。実際、私も彼女にそう忠告していましたから。ですが……状況はそんな簡単なものではないのです」
「というと?」
「レヴェナント――という言葉に、聞き覚えは?」
尋ねた瞬間、青年の表情が露骨に歪んだ。まるで質の悪い冗談を耳にして、気のせいだったらいいな、という風に溜め息をついて。
「……最近ロンドンで流行の都市伝説だろ。霧の夜に出歩くといなくなる。そして、次の霧の夜に姿を見せる。だけどその人は、姿は同じでも別人だ――っていうやつ。取り換えっこ妖精の亜種のような逸話だな……だけどどうしてその名が、今出てくる? まさかミス・リーデルシュタインが、その都市伝説の怪物になったとでも?」
「冗談じゃない」とうんざりした様子で肩を竦める青年に向けて、「そのまさか、だとしたら?」そう言って挑発的な微笑を浮かべる。
「寝言は寝てから。世迷言は道端でしてくれ」
彼は鼻で笑い、退室を促すように部屋の扉を指した。勿論、引き下がるつもりはない。ここまで話したのだ。なんとしてでも引き受けて貰わないと――
そう思って、言葉を続けようとした。その矢先のことである。
ゴトリ……と。青年の背後で物音がした。
正確には背後ではなく、その奥にある部屋――青年の座る長椅子のすぐ後ろにある扉の向こうから。
そして、その扉が――ゆっくりと開いていく。ぎぎぎ……と、錆びた蝶番をこじ開けるような音を伴い、開いた扉からぬっと手が飛び出す。暗い隙間から覗いたその手が扉の端を摑んだ様相を目の当たりにした瞬間、思わず「ひっ」と小さな悲鳴を零してしまった。
代わりに――
彼女の正面に座ったままに。己の背後の様子を振り返った青年が、呆れたように溜め息を吐く。
「よう、ヴィンス――ヴィンセントよ。随分久しくその扉を開けたな。二週間ぶりか?」
と、扉の淵を摑んだ手に――否。手の主に声をかけた。
「いや……三週間だ」
そんな返事と共に、重々しい扉が開く。
姿を見せたのは、長身の男だ。壮年と呼べる程度の年齢の紳士然とした男が、オールバックにした灰色の髪を撫でながら、猛禽類を思わせる目で青年を見据える。
「久々に顔を突き合わせて早々にこのようなことを言うのは心苦しいのだが……トバリよ――レディの頼みを無下にしようとするのは、聊か紳士ではないぞ」
「なんだ、聞いてたのかよ?」
青年の問いに「無論だとも」と大仰な仕草で頷き、紳士は彼女を見やった。
「レディ、申し訳ない。うちの職員が無礼を働いたようだ。経営者として謝罪しよう」
「あ、いいえ……お構いなく」
優雅な仕草で深々と頭を下げられ、思わずかぶりを振って謝罪を受け入れる。すると紳士は安堵したように口元を綻ばせ「それはなによりだ」と零した。そして彼は靴を鳴らしながら踵を返し、執務机の前に移動すると、ゆったりとした動作で椅子に腰かけ――
「さて。貴女の依頼の件だが……貴女の友人、ミス・リーデルシュタインの捜索、だったかな?」
「え、ええ。そうです……引き受けていただけるのですか?」
先ほどまでの対応――つまり目の前の青年の対応――とは打って変わった状況に目を剥く彼女に、紳士は柔和な態度で頷いた。
「勿論だとも、レディ。私は女性の頼みことは断らない主義だ。そうでなくても、興味深い内容でもある。現在学会を騒がせている新理論に、都市伝説の怪物……実に面白く、まさに我々向きの内容だ」
超然と応じる紳士を端目に、青年が「そうなると思ったんだよなぁ……」と胡乱そうにぼやいていた。が、紳士はそれを無視して、
「ミス・リーデルシュタインの特徴を教えていただけるかな?」
「でしたら、これを――」
紳士の問いに彼女は立ち上がり、手元の鞄から一枚の篆刻写真を取り出して執務机の上に置いた。
そこに写っているのは、白衣に袖を通し、何やら巨大な機関機械を前に思案顔を浮かべている、肩ほどまで伸ばした金髪の女性の姿である。
「彼女の写真です。これで判りますか」
「感謝する、レディ。では、すぐにでも調査に取り掛かりましょう」
「あ、ありがとうございます!」
感極まった様子で頭を下げる彼女の様子に、紳士は満足げに口元を綻ばせ、青年は諦念のこもった様子で項垂れる。
そんな彼らに視線を向け、マリアは青い髪を揺らして、深々と頭を下げた。
「どうか――一刻も彼女を見つけてください。急がないと、手遅れになってしまうかもしれません」




