第一話@御崎茜
朝、時刻は九時三十分。
いつもならとっくに起きている時間だが、今日に限って寝過ごしてしまった。
毛布を払いのけようとすると、まだ微かに残る冬の肌寒さが俺の肌を撫で、思わず身震いした。
「あー」
名残惜しいが毛布を押しやり、ベッドから身を起こす。
いつまでも毛布と戯れている時間は残念ながら無い。
まだ完全には覚醒しきっていない脳を無理やり働かせ、今、何をすべきかを考えた結果――
とりあえず顔を洗おう。そう結論付けた。
慌てたってしょうがない。寝過ごしてしまったものは仕方が無いからな。
そう思うことにして半ば諦めたように洗面所へ向かう。
顔を洗い、歯を磨いたらリビングへ移動しシャツに袖を通した。ボタンを一つずつ留めて、次にブレザーを着ようとするが、そこでふとネクタイの存在が無いことに気付く。
「あれ、ネクタイは……っと、あったあった。」
椅子に掛けてあったネクタイを掴む。
ネクタイを締め、襟元を正して洗面所の鏡で自分の姿を確認してみた。
新しい制服に身を包んだ自分が鏡に映る。
見慣れない己の服装。
……やはり違和感がある。
ネクタイなんて生まれて初めて締めたしな……少し大人になったような錯覚を覚えて、こんなことをしてる場合じゃないな、と頭を振る。
そのうち慣れるだろう――ところで。
本来、俺を起こすはずだった奴の姿が見当たらない。
俺を起こす役目を放棄した上、この時間になっても俺の目の前に現れない。
いつもは叩き起こす勢いであるのに、何故今日に限ってそれがないのか。
全く……
リビングへ戻り、不機嫌さを滲ませた声音で俺は俺の従者であるはずの者の名を呼ぶ。
「茜!」
「はい。」
「おうっ!?」
すぐ後ろで声がして驚きのあまり声が裏返ってしまった。
なんだ、いたのか……
俺は軽く咳払いして背後に立つ少女と向き合う。
「なんでしょうか翔太様。」
目の前にいる少女の名は御崎茜。
背丈は百七十二センチある俺より頭一つ分小さいくらいなので、女にしては高い身長と言ってもいいだろう。
それに、顔は非常に整っていて毎日一緒に生活している俺でさえ可愛いと思えるほどだ。可愛いというか、どちらかといえば美人系かもしれない。
目は若干垂れ目。髪は透き通るような茶髪で、長さは腰あたりまでに達する。
いうなれば美少女。
一応、俺に仕えるメイドということになっている。
「お前、こんな時間まで何してた?しかも俺を起こさないで。」
俺が不満気に言うと、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべ頭を下げる。
「申し訳ありません。準備に少し時間をとられてしまいました。」
「準備?」
いったい、何の準備だろうか……と思ったが、彼女の姿を見て納得する。
茜が着ている制服は俺と同じ学校の女子用の制服で、彼女もまた俺と同じく、北南原高校へ入学する新入生であった。
「本当にお前まで入学するのか?無理に俺について来る必要は……」
靴を履きながら言う。
どうやら戸締りを既に終わらせていたらしい茜は、俺に続いて靴を履く。
「何を言いますか。メイドとして、翔太様の近くに常時いることは当たり前です。」
「その熱意は買うが――」
「いいから、行きましょう。遅刻します。」
「お前のせいで遅刻確定だよ!」
そもそも茜がいつも通りに起こしてくれさえすれば入学早々、遅刻などせずに済んだのに……
他にも言いたいことは多々あるが、今は学校へ行くのが優先だ。
ほら行くぞ、と、声を掛けてトビラ(というより門と言ったほうが的確かもしれない)へ手を伸ばす。
「これをお持ちください。」
彼女は徐に、ブレザーの内ポケットから一つの物を取り出した。
それなりに重量がある物で手にすると、ずっしりと重みが伝わる。
俺は受け取った物をバックの中へ仕舞う。
「これの調達に手間取りました。申し訳ありません。」
俺は再度頭を下げる彼女の頭をポンポンと叩いた。
「行くぞ。」
「はい。」
今度こそトビラを開け、家の外へ出る。
外では桜が咲き誇り、いかにも入学シーズンといったところか。
舞い散る桜が鼻先を掠め、くすぐったい。
少し歩いて、鍵をするのを忘れていたことに気付いた。茜に手に持っていたバックを渡し、「少し待っててくれ。」と言い残して、駆け足で我が家へ戻る。
戻ろうとしたところ茜が「私が行きます。」と言ってくれたが、それをやんわりと断った。
たかが四、五分歩いただけなので家からはそう遠くは離れていないし、鍵を閉めるのはいつも俺の役目なので、彼女にこの役を担わせる理由はないだろう。
元来た道を戻る。
辿り着き、ポケットから鍵を取り出しドアをロックした。
「よし。」
我が家は、メイドがいる割にはそこまで大きくはない。
それでもまぁ、高校生二人暮らしの上に並みの一軒家よりかは普通に広いので十分過ぎるくらいだ。
俺は家の広さに特別こだわるタイプではないけれど、与えられたものであるので文句などあるはずもなく、掃除や家事だってメイドが全てやってくれているわけで、俺自身は家の広さに困ったことはほとんど無い。
逆に言えば、メイドである茜は広い屋敷もどきに対して何かしらの不満があっても不思議では無いと思う。
こればっかりは耐えてもらうしかないわけだが。
今度こそ我が家を後にして茜の元へ急ぐ。
朝からジョギングをさせられるとは思ってもいなかったが、しかし、まさか鍵をせずに家を空けるのは論外なので必要な労力ではあるだろう。
……もっとも、最初から鍵を忘れなければこんなこともなかったわけだが。
ネガティブになっていても損をしたような気分になるだけなので、気持ちを切り替えよう。
茜が見えてきた。
こちらに気付いた茜が駆け寄って来る。
「お疲れ様でした。けれど、そのくらい私に任せて頂ければ……」
「いいんだよ。それより、行こうぜ。」
俺は歩き出しそのすぐ後ろを茜がついて来る。
はっきり言って少し疲れた。自慢じゃないが体力には自信が無い。
そのことを理解している彼女はいつの間にか隣へ並び、今もなお心配そうな眼差しを向けてくる。
「大丈夫だ。」
「ですが――」
なんだかこう、男として女性にこれほど心配されると情けなく感じるな。
自分の軟弱ぶりに溜息を吐きたくなるが、とりあえずは茜を安心させたかった。
「あー、じゃあ悪いけどバックを持ってくれないか?」
「かしこまりました。喜んで。」
別にバックを一つ持つか待たないかで俺の疲労具合に作用するものは何もないのだが、それでも彼女が嬉々として俺を助けてくれる様子を見ていると悪い気はしないし、それで彼女が安心できるなら安いものだ。
そもそも彼女は俺のメイドであるので、これも仕事の一環と言えるだろう。
「悪いな。」
「いえ、これくらいさせてください。……そもそも、翔太様は日頃からもっと私を頼ってくださっても構わないのですよ?」
「頼ってるだろ。洗濯とか、飯とか……」
「そういうことではなく――」
茜は言いにくいのか口をもごもご言わせるだけで俺には聞き取れなかったが、それでも俺は彼女が言いたいことは手に取るように理解できた。
「いつも茜に頼ってばっかりだからな。何もかも任せていたら、何もできない駄目人間になっちまうよ。」
「駄目人間でも結構だと思われますが――そうですね、そういった心意気は立派だと思います。」
「だろ?」
「ですが、たまには甘えることも大事かと。」
「甘えって……お前なぁ、俺は今日からもう高校生だぞ?」
「高校生といえば、反抗期真っ只中というのも少ない話ではありません。むしろ多いのでは。……まだまだ子供ですよ。」
そういうお前だって高校生だろ……
そう言いたかったが、やめておいた。俺も彼女も、それぞれ思うところがあるということだ。
「それより今日は遅刻が確定しているわけですが、こんなに悠長に歩いていても良いのでしょうか?」
「大丈夫だろ。せいぜい、入学初日から遅刻するバカ共としか思われない。」
「それは大丈夫ではないのでは……」
そんなことを今更言ったところで、もうどうすることもできまい。
なんなら全力疾走してやってもいいが、学校へ辿り着く前に俺が力尽きることは疑いようがないので、どの道、遅刻は免れない。
「ま、ゆっくり行こう。」
「はい。」
そして俺たちは肩を並べ、のんびりと歩く。