幕間、優秀な侍女の憂鬱
優秀な侍女として名高い彼女は、同年代の結婚相手を探す男達にとってとても“優秀なお見合い相手”であった。
マリオン・ボスク。母方の姓を名乗ってはいるがマナリーズ公爵家が当主、アインス・マナリーズの庶子であることは公然の秘密の事実である。
彼女には、毎日のように見合いの打診が届けられる。
(これでも一応、婚約者持ちなんだけどねぇ…)
日に日に増えていく見合いの誘いの手紙の山は、彼女の部屋の一角に立派な山を築き上げていっている。大半は貴族のお坊ちゃんからのお誘いで、きっと彼等にマリオンを娶る意志がない事も聡い彼女は知っている。
貴族達はただ単に箔を付けたいだけ。マナリーズ公爵家の娘、庶子と言えどマナリーズ家の娘に見合いを申し込むだけの甲斐性はあると世間に公表したいだけなのだ。
馬鹿にしたいつもりもないとマリオンは知っている。要は、マナリーズ公爵家という朔の国屈指の霊峰に挑む勇敢なる登山者なのだ。彼等の勇気は称賛に値するであろう。
いくら、マリオンが庶子だとしても。
いくら、マリオンがマナリーズを名乗っていなくとも。
(それにしても…遅いわね)
湯浴みも済ませ、満ち始めた月を見上げるマリオンは自分の腕をクンクンと嗅ぐ。
今日も朝から晩まであの対火炎竜スーツを着込んでのリィリースの入浴を行っていた為に、いくらスーツ越しでも臭いが移ってしまったように思う。
「駄目だわ、鼻が馬鹿になってて全然分からないみたい」
リィリースへの恨みはないが、あまりにも強烈な臭いのお陰で嗅覚が麻痺して使い物にならないのは困り果てた。一応、侍女の仕事には紅茶を淹れるというものも含まれる。マリオンは目を瞑っていても寸分違わぬ完璧な茶を淹れる事は可能だが、それでも芳しい紅茶の香りすらも判別不能なのには落ち込んだ。
好きな香りを嗅げない事が、こんなにも自分に衝撃を与えるとは思わなかったマリオンは、リィリースの世話を丸投げしたダグラスへ二割増しで嫌味を吐いた。
主はおおらかな性質を殆ど揺るがせずいつもの毒吐きにすら動じないのだから、二割程度は誤差の範囲だと思う。
(それにしても…)
マリオンは不満を隠さず唇を尖らせる。
待ち人は未だ訪れず、一人ぼっちの部屋のなんと寒い事だろう。
フルリと体を駆け抜ける悪寒に溜め息を吐き、マリオンは右手の人差し指を暖炉に向けて振った。
指先の魔術の軌跡に従って暖炉には火が灯る。徐々に暖まる室内にホッと息を吐いて頭を抱えた。
(嫌だわ…別に好意がある訳でもない相手を待ち焦がれるだなんて…)
婚約者の男は父親が選んで来た庶民上がりの役人だった。不満はないが、満たされる訳でもない。そんな、貴族階級にはよくある婚約者の男。
そんな男を待ち焦がれるだなんて事はあるはずかないのだ。だからきっと、これはダグラスの行く末を憂う夜人としての感情だ。
***
もう寝てしまおうか。時計と夜空を交互に見詰めて疲れた首に手を当てた時、控え目なノックがマリオンに届いた。
慌てて扉に駆け寄って声を掛けようとして、今しがたの自分の行動を反芻して立ち止まる。
(な、なに…今の?)
自分の体が起こした動きに動揺していると、再びノックが響いた。先程よりも控え目なのは、恐らくマリオンがもう休んでしまった事を危惧しての配慮であろう。
(だから、そういう気を回すなって毎回毎回…言っているのに!)
そんな些末な事にまで気を遣っていたら、この扉越しの男はきっとどこまでも他人の為に働いてしまう。そう考えながら扉を開けると、マリオンを見下ろす草臥れた男がギョッと目を見開いた。
「げぇっ!お、怒ってる…?よね…?」
「ええ、怒っているに決まっているでしょう」
この男を想った自分の心の勘違いと、そんな自分に向けての男の第一声に。
「あー、ごめんってばマリオン。急ぎの用事がさ、もー次から次へと…」
「言い訳は中に入ってからにして。廊下は寒くて堪らないわ」
「ごめん、マリオンが冷えちゃうね」
(貴方だって風邪を引くでしょう!)
またしても自分の考えに頭を振るマリオンを他所に、待ち合わせの時間を大幅に遅刻してきた婚約者の男は暖炉に近付いて微笑んでいる。
「こ、紅茶でいい?」
「うん、お願いするよ!君の淹れた紅茶は美味しいから飲める事は僥倖だよ、本当に!」
「褒めたって絆されないわよ」
「あはは、残念だ」
悪戯に笑う男の為に淹れた紅茶は、見た目だけなからいつものように完璧。だけれど仕事終わりの男の為に、マリオンは自身には使わないブランデーを数滴垂らした。
鼻が麻痺していなければ、濃厚な香りが楽しめた事だろう。
「軽いものしかないけど…」
「ありがとう、実はお腹ペコペコだったんだ」
恥ずかしそうに頬を掻く男の姿に、マリオンは小さく息を飲んでしまう。
(どうして…)
「どうして、先に食べて来なかったの?」
しまった。
そう思った時には既に言葉にした後だった。
するりと出てしまった小さな疑問に、男は暖炉の炎に照らされた頬を両手で挟んで軽口を叩く。
「えー、ちょ、それ聞いちゃう?聞いちゃうの?やだー、マリオンのエッチー!」
「聞いた私がこの上ない愚者だったわ」
男の為に用意した席と料理から離れようとした瞬間、左手が指先がかさ付く手に捕らわれた。
「あ、ちょっと…待って!」
「何かしら」
「あ、いや、えーと…」
マリオンはよく知っている。この男が考えなしに会話をする事を。その相手に選ばれる位には、気安い関係である事も。
だから、今回の失言も裏を返せばマリオンに気を許している証拠なのだ。
(だったら私は、何が気に食わないというのかしら)
「離して、痛いわ」
子供に言い聞かせるように言うと、男の力は緩まったが離してくれない。
それどころか、見詰め合う為に頬の髪の毛を耳に掛けられた。かさ付く指先が頬を撫でていく。
「マリオン、あんまり可愛いこと言わないで?俺、困る」
「言っている意味が分からないし脈略が無さすぎるわ」
男から離れるように体をずらすが、押さえ付けられた訳でもないのにびくともせずに動けない。
「ねえ、お腹が空いているのでしょう?せっかくのお茶も冷めてしまうわ」
マリオンの相変わらずそっけない言葉に、男は困ったような顔で笑った。
「マリオンが可愛いから困るんだけど」
「造りは悪くはないでしょうからね」
「いや、そこはあんまり関係ない」
男の言葉は時々疎通不能になってマリオンを苛立たせる。それは歯痒く、擽ったさを感じる。
「いただくよ、君は?」
「お茶なら付き合うわ」
離された手を庇うように胸の前に持って行くと、触れられた場所だけが熱く熱を持つようだった。
「それでさー、暴食竜が暴れまくってるらしくてもう大変な訳。近隣都市の騎士団程度じゃ歯が立たないってんで城の魔術師達に要請が来ちゃってさ」
「喋るか食べるかどちらかにしない?」
「えー、どっちも優先したい」
「見苦しくってお茶が不味くなりそうなのよ」
本当は味もよく分からないけれどとは、言わずにマリオンは顔を顰める。
「それはいけないな、マリオンのお茶は今日も最高なのに」
「…どうも」
どうしてこの男の言葉はこんなにマリオンを浮き立たせるか。それは分からなかったけれど、男の言葉は鼻の麻痺したマリオンの味覚を満足させるに十分な魔術を施した。
少しだけ、だけれども。
旧作ではここらへんからがっつりがっつり!な、展開のはずでした。しかし全年齢版ではそれは出来ませんねって流れで急遽生まれましたマリオンさん。
優秀な過ぎて、知りたい機微には疎くなっちゃう可愛い女性を可愛がりたい。
訂正します、がっつりがっつり!だったのは3話のお風呂の後からでした…不覚でした…。くぅ…