03、岩竜の有能な鱗に乾杯
城に戻ったダグラスが不浄の塔での汚れを落とす為に風呂に充てた時間は半日だった。そうまでしないと、汚れや臭いが洗浄された気にならなかったのだ。たった数時間あの場に居ただけだが、とてつもない破壊力だった。風呂から出た後の三日間は、常時糞尿の臭いが鼻の奥に残っていた。
数時間の在住でこの様なのだ。あの娘、リィリース・エヴァルガの風呂に充てる時間は彼の予想以上のものになった。
***
「まだか?」
城にリィリースを連れ帰ってから五日が経っても、彼女の入浴は終わらなかった。
「まだですねぇ、残念ながら」
執務室で両肘を顔の前で立てて組み、ダグラスは溜め息を吐いた。セーマがげんなりした様子で聞き飽きた言葉の応酬を続けた。
「彼女の悪臭が酷すぎると聞いています。身体中にこびり付いた硬い糞も未だにボロボロ剥がれるんだそうで」
「そうか…しかし、注射の針位なら刺さるのではないか?」
「残念ながら、我が国には彼女の鱗を貫通できる程強固な針はないそうです」
「そうか…」
針が刺さらねば血を確認する事も出来ぬのだ。無理矢理怪我をさせて確認するような強行手段にも手は出せず、リィリースが清らかか否かの判別すらまだ出来ない状況に、ダグラスは焦りを覚えていた。
「侍女達には悪いが、早急に頼むと伝えてくれ」
「畏まりました…あぁ、そう言えば。侍女達から、騎竜用の洗浄ブラシを試してみたいと要請がありましたが」
「…許可する」
人間用のブラシでは彼女の“鱗”と皆が形容する汚れを剥がす事が出来ない為に、侍女達の奮闘の光景が目に浮かぶ。
こんな仕事を与えて誰一人辞表を出さない辺り、ダグラスの城に仕える者達からの忠誠心が伺える。
「あぁ、それとですね。こちらも火急な案件なのですが…」
「…何だ?」
「例の不浄の塔周辺の村の者からの要請なのですが、彼女が塔から去ったのでアレが五日分山になって塔が傾き出したそうです。蛆虫が沸いて悪臭どころの騒ぎじゃないらしく、村から避難して来る民が後を経たないようです」
「あの土地一帯を焼き払う。そして、谷底にも火を放て」
「あー…盛大なキャンプファイアになりそうですねぇ」
ダグラスの命を手元の書類に書き込みながら、セーマは遠い目をした。
「不浄の塔制度は廃止する。各町、村、要施設に汚物処理の為の焼却炉を建設する」
「あー…それは衛生面や諸々で反対者が出て来そうですねぇ…」
「何の為に魔術がある?国中の魔術士達に伝えよ。一ヶ月以内に衛生面の問題を克服した汚物処理の魔術及び施設建設に関するレポートを提出させろ」
「わー、無茶ぶりー」
「焼却炉が整備されるまでは毎日二回、燃やすように。それとも、可哀想な魔術士達に代わってお前が考えるか?」
「至急魔術士協会の者に伝達して来ます!」
ダグラスの直属の部下のセーマは所謂秘書の役割を担っている為、雑用から国政に関わるあらゆる知識に精通している。
抱える案件は膨大な量で、これ以上厄介事を押し付けられる前に逃げの一手と言わんばかりに手本のような礼を取ってダグラスの執務室を後にした。
「国の根本をそろそろ見直す時期か…?」
溜め息を吐いたダグラスは、どこから手を付けるべきかと思案した。
***
結論から言えば、リィリース以外に朔の国内に乙女は見付からなかった。あの時、彼女を連れ帰る選択をした事は間違って居なかったのだ。他が見付かったなら、即刻彼女を不浄の塔に返そうかと考えて居たがそれは叶わぬ目論見と終わった。
(時間がない…)
ダグラスに残された時間はもう少ない。蓄えていた魔力を使い、日に日に自由の利かなくなり出した体に鞭を打って動かしている。
無謬の者の最期は、まだこの世界を生きる者の誰も知らないのだ。いや、最も古い歴史を持つ黎明の無謬ならば知り得るかもしれないが、わざわざこちらの弱味を握らせてまで知識を得たいとは思えなかった。
(もし、リィリースが乙女ではなかったら…)
最悪の予想をしているにも関わらず、ダグラスは冷静に思考を傾けた。
もし、リィリースが嘘を吐き乙女と自分を偽っていた場合、次にダグラスが吸血出来るだけの年齢に届く人数が揃うまで十五年掛かる。
この世界の人の成長は遅い。十年掛かってやっと一人で立てるだけの赤ん坊となり、次の十年で言葉を覚える。その次の十年では体の成長に費やし、次の十年で成人期を迎える。
つまりは、だ。ダグラスが吸血をする為の乙女はあと四十年待たねば数が揃わないのだ。
早くて十五年後に揃う乙女は人数が少ない。あの年の娘達は皆体が弱く多くが死んでしまったのだ。
逆に考えてみる。
もし、リィリースが乙女だったとして。
彼女一人で少なくとも十五年、血を賄えるのだろうか。それは非現実過ぎる話だ。
蓄えねばならぬ最低値ギリギリの血を吸血したら、リィリースの全身の血を抜きさってもまだ足りない。一度の吸血で彼女は死に絶える。
別方法として彼女を生かし続けた場合も、十五年は城に監禁しダグラスの監視下に置かねばならない。十五年、長い時を生きる人に取ってのその期間は短いものかもしれないが、監禁されて吸血され続ければ彼女は気が触れてしまいかねない。
どちらにせよ、ダグラスは詰んでいた。しかし打てる手はもう打ったのだ。リィリースが乙女である事を願うしかない。
また盛大な溜め息を吐いたダグラスは、立ち上がって窓に近付いた。もうすぐで欠け切る月を見上げ、沸き上がる不安を抑え付けた。
窓を開けると、乾いた風が頬を撫でたのだが、その風に乗ってリィリースが侍女達に洗われている石鹸の匂いが鼻を掠める。鼻の利くダグラスは苦笑した。セーマの言う通り、大分綺麗になったらしいがまだ糞尿の匂いが取れていない。
連れ帰ってからまだ一度も顔を合わせていないから、どれだけ人らしい姿になっているかも分からなかった。
(これはまだまだ時間が掛かるかもな…)
自分の魔力の枯渇が訪れるのとどちらが先かと自虐を思い浮かべた時、ダグラスの鼻を掠めた微かな匂いに全身が粟立った。
(血…!)
嗅ぎたくて仕方なかった血の匂いに、隠していた牙が自ずと盛り上がる。
思わず、素早い動作で窓から階下の屋根に飛び降り、浴室まで機敏な速さで近付いた。
(この匂い、この血だ!)
口の両端からはみ出した鋭い牙が教えてくれていた。この血の匂いは、乙女の血のものだと。そして、音もなく舞い降りた浴室の屋根の下に居るのは、リィリースだ。
「まあっ、大変ですわ!」
「と、兎に角急いで湯で流さないと」
ダグラスの足元で、侍女達が慌てた声をあげて忙しく動いている。リィリースの声はなく、聞こえてくるのはダグラスを刺激しないように早く血を洗い流そうとしている侍女達の声だけだった。
(ふむ…マリオンが居るな)
しばらく慌ただしい様子を聞いていたダグラスは、侍女頭のマリオンが練る魔力の動きを感じて飛ばしかけていた理性を手繰り寄せる。
次の瞬間、僅かな解れも見当たらない反射結界が浴室の周りをぐるりと球体上に張り巡る。
その結界に触れた者は、猫だましにあったかのように気付けば吹き飛ばされる事をよく知っていた。ダグラスは浴室の屋根から少し離れた壁に張り付くように移動する。
「急いで、吸血狂いが辛抱堪らんと駆け込んでくる前に清めてしまわないと」
浴室の中から慌ただしく動いている侍女達に的確な指示を出す、少しくぐもって響く声はやはりマリオンの声。主の襲来を予期する彼女の暴言も相まって取り戻した理性を褒めた。
いくらダグラスと言えど、女性の入浴中に足を踏み入れれば軽蔑と非難を受けてしまうだろう。
それが、いくら鬼気迫る状況だと言えど。
(それにしても…)
近付いてより鮮明になる。確かに五日前の汚物を纏った姿の時よりは幾分か臭いも和らいだ。鼻の利くダグラスが側に寄りたいとはまだ思えないが。
「ダグラス様」
リィリースとの対面はいつ果たせるのかと考えていたダグラスは、浴室の窓から呼ぶ声に下を見る。そこには岩竜の鱗で出来た対火炎竜スーツを身に纏う人物が居た。
「やはりお出ででしたか」
「う、うむ。お前はマリオンか」
「はい、マリオンでございます。さて、ダグラス様。私はいつまでも主の軽業師のような姿は見ていたいなどと言う酔狂な趣味は持ち合わせてはおりませんが」
対火炎竜スーツを着込んで居ても、マリオンの冷徹な視線が容易に想像出来る。不遜な態度を寄越しても諸手を挙げて彼女の働きには感謝をしたくなる程度には、マリオンは優秀な人材である。
「リィリース嬢はもう浴室から出ましたよ」
「そうか」
マリオンの言葉に壁から飛び降りて浴室の側に立つ。一言で済む言葉の前にあれやこれやと毒を交ぜなければこの侍女は完璧なのだ。
「首尾はどうだ?」
「どうもこうも…この姿をご覧の通りでございます。未だ“鱗”はボロボロと剥がれ落ちますし、騎竜用ブラシを潰した数はそろそろ三桁になりそうです。私達の鼻が無事なのはひとえに岩竜の有能な“鱗”の賜物ですわ」
「う、うむ。そうか…皆には後で褒美をだな…」
「当たり前です。いくら主からの命と言えど、侍女の大半は嫁入り前の女性です。この仕事で嫁入りに何か不備でも出来たら、責任をとって全員を貴方の妻に娶られませ」
「大所帯になりそうだな」
「ええ、軽く潰した騎竜用ブラシと同程度の人数は覚悟なされませ」
「ボーナスを弾もう…」
「それは良い心掛けかと思います」
マリオンとの会話は毎回どちらが上か頭を悩ませそうになるが、それだけ大掛かりな人数を割いて行われるリィリースの入浴は、今やこの城中の侍女達を悩ませていたのだ。
「鼻が利くダグラス様ならよくご存知かと思いますが、リィリース嬢に今しがた月のものが見えました」
「ああ、その様だ」
「乙女かどうかは一先ず置いて、貴方の吸血に耐え得る年頃の娘である証明は出来ましたね」
「ああ、そうだな。しかし、まだ風呂に時間は掛かるだろう?」
「そうですね、まだ一月単位で掛かるかと」
「そうか…」
「ですがダグラス様。吸血よりもまず、早急にお耳に入れていただきたい件がございます」
マリオンのスーツの下から聞こえるくぐもった声が低くなる。先を促すように待つと、優秀な侍女頭はこう告げた。
「ダグラス様、リィリース嬢はもしかしたら“言葉”を知らぬかもしれません」
「な…に?」
「私達も毎日、ただ必死に目の前の“鱗”を剥がす事に捉われておりました故確証はございません。リィリース嬢からすれば、あの塔から拐われて来たも同然なのですから、いくら侍女達が友好的な態度で接しても軟化するとは到底思えませんし、そもそも侍女達はこのスーツを着込んで居て顔が分からないのです。リィリース嬢は恐ろしい思いをしている…と、思うのです」
マリオンからの進言に、ダグラスは呆気に取られて目を見開いた。リィリースの心情など考えても居なかったのだ。
「勿論、私達もこれ以上リィリース嬢との関係を拗れさせぬよう注意を払っておりますが、いくら声を掛けても彼女が応えては下さりません。唯一、声を聞いたのは初日の浴室にお連れした時の嫌がる声、だけでした。その声も言葉ではなく、赤子のような声です」
「それはあれか、赤子のあー、うー…という?」
「それと同様かと思われます」
マリオンの言葉を聞いたダグラスは一瞬で血の気が引く音を聞いた。
「いや、待て。リィリースは私が塔に迎えに行った時に、私の名前を聞いて頭を下げようとした。それは言葉を理解していたからでは…」
「理解が出来るから喋れるとは限らないのでは」
「…なるほど。確かに、あの塔にはリィリース以外の人間の気配はなかった。もしかしたら孤独が彼女から言葉を奪ったのかもしれないな」
「あくまで仮定のお話でございます故、リィリース嬢が私達と言葉を交わして下さればまたご報告申し上げます」
「ああ、頼む」
全身がスーツに被われているマリオンの礼は、それでもやはり様になって見えた。彼女の気品はセーマの付け焼き刃とは年季が違う。
「盲点だったな…」
腕を組んで考える主を見上げ、マリオンは内心で溜め息を吐いた。
(そりゃあ、貴方を囲むには彼女は珍獣過ぎる珍味に間違いはないからねぇ)
自身も乙女として血を捧げていた数十年前のこの城は、それはそれは華やかな後宮を従え乙女達で溢れていた。今の、たった一人に振り回されるダグラスの姿などどうして予見出来るだろうか。
(この国の命綱、珍獣が握ってるなんてお城の外じゃ言えないわね…)
だけれど、マリオンの懸念は無情にも的をストンと得てしまったのだった。