賢ちゃんと和泉と井上2
「え?」
辺りを見渡すが賢の姿がない。賢だけではなかった。たった今まで立っていた会社の玄関口がない。そこらを歩いていた会社の人間の姿もない。
それどころか真っ暗闇の中に和泉は立っているのだ。
真っ暗な中、自分の体を見下ろしても見えないほどの闇だ。手も足も見えない。腕を上げて顔の前に手をかざしてみても見えない。闇の中に和泉は立っている。
「ま……賢ちゃん……」
返事はない。闇と静寂だけだ。一歩足を踏み出してみる。会社の固い床ではない。ハイヒールでは歩きにくいぶよぶよとした床。突然かかとが何かにめり込んでバランスを崩し転びそうになる。手をばたばたさせた瞬間に何かに触った。布のような物と細く長いざらざらした棒。慌てて離した右手を逆にぎゅっとつかまれて和泉は悲鳴を上げた。左手でその手を追い払おうとした。その手は細くかさかさした感触だったが、力強く和泉の腕をつかんで離さなかった。ばたばたと暴れているうちに、左足首と首をつかまれた。思い切り悲鳴をあげて全身で暴れたが、そいつらは和泉を離そうとしなかった。
相手の声は聞こえないし、気配も感じられない。
静寂の中で和泉の悲鳴だけが響いていく。
助けて、助けて、と念じていると、急にまぶしい光が目の前に現れた。それと同時に和泉をつかんでいた手がするすると離れていった。
「和泉!」
光の中から現れたのは賢で、珍しく焦ったような顔をしていた。
右手を和泉の方へ差し出して、
「こっちへ戻れ!」
と言った。和泉は素直に賢の手をつかんでそちらへ一歩踏み出した。賢が引っ張った方へ体が引き寄せられて行ったのだが、和泉は少しだけ背後を振り返った。
「見るな!」
と賢の厳しい声がしたので、慌てて視線を戻したが一瞬だけ見えたのは、ぼろの布を体に纏った骸骨が何十体も白骨化した手をこちらへ伸ばしていた姿だった。
はっと我に返るとそこは会社の玄関口だった。
「ま、賢ちゃん」
賢はタオルで顔の汗を拭った。
「ここのトイレはもう使わない方がいいぞ。一度捕まってしまったら癖になる」
「今の……霊道って奴なの?! あんな真っ暗な?」
和泉は自分で自分の両腕を強くこすった。全身に鳥肌がたっている。
「今のは霊道とはちょっと違う場所だ……とにかく、あんまり霊にかかわるな。お前は霊に憑かれやすい」
「そんな事言ったって……」
と言った瞬間に涙が出た。あの真っ暗な闇の中にいたのはそれこそ一瞬だろう。それでも心の底から恐ろしかった。今度あの場所へ迷い込んでしまったら、きっとどうにかなってしまう。
涙という物は一度出たら簡単には止まらない。こんな場所でしかも賢の前でみっともない姿で泣きじゃくるなんて、と思いながらも涙と鼻水がずるずると出てどうしようもない。 バッグからハンドタオルを取りだして顔を覆う。もう、涙も鼻水も一緒でいいか。
「ふー」
という賢の大きなため息が聞こえた。呆れ果てて、面倒臭ぇ奴だな、という感じで和泉を見ているに違いない。続いてチャラと音がした。
「これ、つけとけ、しばらく外すなよ」
と言って賢が和泉の左手首に何かをはめた。
「?」
タオルから顔を上げて左手を見ると、真っ黒い粒が連なる念珠だった。黒い粒は何かの石だろうと思われる、小さな丸い粒には一文字ずつ字が彫ってあった。近くで見ようと腕をあげて顔の前にやるとよい匂いがした。
「お念珠? いいの? 借りても」
「お守りにはなるだろ」
そう言って賢は足元のカバンを持ち上げた。
「帰るぞ」
「うん」
中学生の時以来、賢と肩を並べて帰ったことなどなくおかしな感じだった。
いつも他人と関わる事を拒絶しているように見える賢の背中だが、今日はなんだか頼もしく思えた。