和泉と白露と一狼
「和泉ちゃん、帰り、飯でも食って行かない?」
と言われて和泉は首をかしげた。
「遅番の人達みんなで行くなら行きます」
「二人は駄目って事? 和泉ちゃんて真面目だね。飯食いに行くくらい」
そう言ったのは、正社員の奥田という男だ。
細身でイケメン、メンズのヘアカタログの一ページに載っているような若者だった。
「まあ、そんなもんです」
和泉は適当にごまかして笑った。
書店が終わるのは午後八時だ。早番遅番のシステムで、遅番の時には店を出るのは午後九時に近い。遅番が一斉に裏口から出て、社員の奥田が鍵を閉める。
和泉は自分の自転車のかごにカバンをどさっと入れた。
「ラーメンでも食いに行かねえ?」
と言い、何人かが賛同した。
「和泉ちゃんも行こうよ」
「そーですね-。みんな行くなら…あら?」
うーーーーーーーーーーーーーーーっと唸る声が聞こえて、和泉は目をこらした。
書店の入ったビルの裏側は薄暗く、小さな外灯がついているだけだ。社員用の駐車場もあって、何台かの車が止まっている。
その車の間から何かが出てきた。
「わ、でかい」
和泉は足がすくんだ。大きな真っ黒い犬だった。
「うわ! 犬? オオカミじゃね?」
と奥田が言った。
大きな犬はうーっと唸りながら少しづつ近づいてくる。
「うわぁ、俺、犬、駄目なんだ~」
と言いながら奥田は後ずさって行く。
犬は奥田に距離を詰めていく。
そして姿勢を低くした瞬間に奥田に向かって飛びかかった。
「わーーーーーーーーー」
と言って奥田は反対の方向へ大慌てで走って逃げて行ってしまった。その他の社員、バイト合わせてその場に五人ほどはいたのだが、皆がいっせいに逃げ去ってしまった。
「わ、逃げ遅れた~」
と和泉もついて行こうと走り出しかけたのだが、犬が和泉の方を向いて、
「和泉さん」
と言った。
「わ、しゃべった!」
「美登里です。この犬は「一狼」と言う、私の式神ですわ」
「え、美登里さん?」
「はい、私は賢様の配下にて能力者として働く為にただいま修行中です。私はあなたをお守りすると賢様に誓いましたので、私がお側にいられない時はこの「一狼」があなたをお守りしますわ」
「いや……でも……賢ちゃんにもらったお念珠で十分なんじゃ……」
「賢様の「白露」は守護の式ですが、私の「一狼」は攻撃の式ですわ。あなたを食事に誘うなどという不逞の輩など、ひと噛みですわよ」
「え」
そんな、みんなでご飯食べに行こうってくらいで…。
「いつでも「一狼」があなたの側におります。もちろん、あなたに惹かれて寄ってくる悪霊どもも蹴散らしてくれますわ」
「……」
「和泉さん、私はしばらく忙しいので「一狼」にあなたを守らせます。ご安心を。では、これで」
と言ったのが最後で、あとはぐるぐるぐる~と喉を鳴らすだけだった。
「え、ちょ、まじですか」
犬は足下に寄ってきて、和泉の足にすりすりと頭をすりつけた。
「え~、こんな大きな犬、置いて行かれても困るんですけど……うちのアパート、ペット禁止なんですけど~」
和泉はしゃがみ込んで犬に向かって、
「ねえ、君、アパートに連れて行けないんだけど」
と言うと、犬は首をかしげた。
その時、「キエエエエエエエエエエエエエエ」と別の生き物の鳴き声がした。
和泉の念珠から細いくちばしがにゅっと出てきて、それから白い綺麗な鳥が顔を出した。
「白露」
「キエエエエ!!!!!」
「グーーーーーーーーーーーーーーグルルルル!!!」
「も、もしかして喧嘩してるんですか」
白露と大きな犬は睨み合って、唸っている。
「ちょっと、やめてよ~~」
犬が牙をむいて、白露に飛びかかろうとした瞬間、
「一狼!!!」と再び美登里の声がした。
「白露は賢様の第二の式神。お前の適う相手ではありません。立場をわきまえなさい!」
と美登里の厳しい声がした。
「きゅーーーーーーーーん」と一狼が鳴いて尻尾を巻いた。
白露は「キエーーーケッケッケ」と勝ち誇ったように鳴いて、気が済んだのかまた念珠の中に姿を消した。
「な、何なの~」
「和泉さんがお困りですわ。一狼、小さくなりなさい」
と美登里の声がして、一狼の姿がぐんぐんぐんぐんと小さくなった。
「ありゃ」
一狼は真っ黒でふわふわな小さな子犬になってしまった。
「か、かわいい」
一狼は「ワンワン」と鳴いてから、和泉の自転車のかごに飛び乗った。かごからちょこんと前足を出して外を見ている。
「しょ、しょうがないなあ。大家さんに見つからないようにしてね。イチロー君」
「ワンワン」
和泉は自転車に乗ってペダルを漕ぎ始めた。
もう十時近い時間なので、駅前とはいえ人もまばらだった。
和泉の住んでいるアパートまでは自転車で十五分ほどだ。
「でもまあ、ちょっと心強いかもね、イチロー君」
と独り言を言うと一狼は嬉しそうにワンワンと鳴いたが、念珠からは不服そうな鳴き声がかすかに聞こえた。
「あ、いや、白露さんも心強いです。前に悪霊から助けてもらったもんね…でも、白露さん、賢ちゃんのところに帰りたい? お念珠も返した方がいいのかな」
と和泉が言った。シーン。白露からは何の返事もない。声も羽ばたきもしない。
「この沈黙はどういう意味でしょうか」
和泉は夜はあまり出歩かないようにしている。
悪霊に憑かれやすい、というのは事実だからだ。
だが、今日は遅くなってしまった。
白露と一狼がいるとはいえ一度でも怖いと、思ってしまうと、それが現実味を帯びてくる。 誰もいない道、何かが潜んでいそうな暗がり、何気に通り過ぎる公園の滑り台の上。
電信柱の下に置いてある花束、遠くから聞こえるうなり声、切り裂くような冷たい空気。
たったったった、と足音が聞こえてきた。自転車で走る和泉の背後からだ。必死でペダルを漕いでいるのに、ますます近づいてくる足音。
「グルルルル」
自転車のかごの中の一狼が和泉の後ろを見ながら唸っている。
「イチロー君~~~」
「ワンワンっ」
と一狼が鳴いて、ぴょんっとかごから飛び出した。
「イチロー!」
慌ててブレーキをかけて止まろうとしたが、姿を現した白露が「キエエエエエ!」と鳴いた。
「何? 止まるなって言うの? でもイチロー君が!」
「キエ!」
白露は『しょうがないわねえ』という風に鳴いてから一羽ばたきした。
そして和泉の肩に止まった。
和泉は自転車から降りて、一狼が走って行った方向に振り返った。
「で!」
と言った。本当に和泉は「で!」と言ったのだ。
和泉のすぐ後ろで再び大きな狼の姿に戻っていた一狼が、大きな口を開けて人の頭をかじっていたからだ。
いや、人間ではない。人間のような形をした何かに頭が五つついていた。
和泉の身体はカキーンと固まって、その場から動けない。
白露が急かすように一狼へ鳴いた。
一狼もうなずいて、がぶがぶと五つの頭を食いちぎっては捨て、噛み切っては投げ捨てた。
固まった和泉は一狼がその五つ頭の悪霊を粉々にしてしまうまで、じっと見続けてしまうしかなかった。
(そんなにばらばらにしなくちゃならないのぉ。何かこう、一瞬で消滅させるような技はないんですかぁ)




