賢ちゃんと和泉と過去との決別2
「吐普加身依身多女……」
賢が呪言を小声で唱え始めた。
和泉はこの光景をどこかで見た事がある、と思った。
どこかで同じように賢ちゃんの背中に隠れていた記憶がある。
まだ子供だったような気がする。
賢ちゃんが必死で私を守ってくれたのではなかったかしら?
あの時も悪霊に襲われ、まだ子供だった賢ちゃんが必死に私を守ってくれた。
そうだった。
「寒言神尊利根陀見……」
小学五年生の時だ。雄一と朝子に連れられて、田舎に避暑に行ったのだ。 朝子の両親が住んでいたのは山の中で、澄んだ水の流れる川があり、古びたお堂なんかが木々の間にあり、蝉がやかましく鳴く田舎だった。
賢を先頭に三兄弟は毎日山の中を駆け回り、虫を捕ったり、川で泳いだり、花火をしたり毎日楽しそうだった。和泉も三兄弟について毎日遊び回ったが、例によって賢が意地悪で、お堂の中に閉じ込められたり、虫や蛇を投げつけられたりといじめられたりもした。
泣きながら家まで帰ろうと一人走り出した和泉は森の中で迷子になったのだ。泣き疲れ、足も棒になり和泉は大きな木のうろに座り込んだと思う。やがて日が落ち、辺りは暗くなってくる。心細さと恐怖で和泉は立ち上がる事も出来なかった。
そして和泉はこの悪霊に出会ったのだ。
小さかった和泉が襲われた時の事はよく覚えていない。
駆けつけてきた賢の必死の顔と、和泉を守るようにぎゅっと抱きしめてくれた腕の感覚だけが蘇った。
「波羅伊玉意喜ヨ目出玉……」
「賢兄!」
と言う声がして、井上の背後からばたばたと仁の走ってくる姿が見えた。
悪霊の影が背後に気を取られた。
その瞬間、賢が右手をかっと差し出した。
右手からは衝撃波が出たのだろうと思われる。
悪霊の腹の辺りにぽかっと穴が開いた。
『ぎええええ』
と悪霊が叫んで、その影のような姿がゆらっと揺れた。だが、悪霊がたじろいたのはほんの一瞬だった。
『強くなったな、子供よ』
ぐふぐふぐふと悪霊が笑った。
「和泉、陸の所へ行け!」
と背中を押された。陸が和泉達の後方から走ってくる姿が見えた。
「え?」
「早く!」
どんと背中を押されて、和泉は陸の方へ走り出した。
『何人か霊能者を喰らってやったが、やはり土御門が一番うまいな……』
とくぐもった声が聞こえた。
「今度は俺が貴様を喰らってやる。今度こそ仕留めてやるからな!」
と賢が言った。
和泉は陸に腕をとられ、
「和泉ちゃん、こっち」
と走るように急かされた。
「陸君、賢ちゃんに加勢しなくていいの?!」
「大丈夫さ、まー兄は。和泉ちゃんをなるべく遠ざけるのが俺の役目。仁兄もいるしね。さあ、こっち!」
陸は和泉を連れて走りだそうとしたが、
「わ、こっちまでいたのか!」
通せんぼをするように和泉達の前にまた新たな悪霊が姿を現した。賢が戦っているのよりは小さいが、酷く嫌な臭気を発していた。赤黒い雲のような物が浮かんでいる。そしてその雲にはやはりいろんな人間の顔がいくつもくっついていたのだ。
『にがさない いずみ』
「島田先輩!」
その中の一つは島田先輩の顔だった。先輩の目から血のような真っ赤な涙が流れていた。
「和泉ちゃんの知り合い? 取り込まれたな。可哀想だけど、もう手遅れだ」
陸は両手を前に出して、手で印を切り始めた。
「たりつ・たぼりつ・ぱらぼりつ・しゃやんめい・しゃやんえい・たららさんたん・らえんび・そわか!」
陸の発した言葉と衝撃波が赤黒い悪霊に襲いかかった。悪霊は悲鳴をあげ、雲は二つに千切れたが、すぐに立ち直った。そしてもくもくと巨大化していき、陸と和泉を包み込もうとした。
「やべ!」
と陸が声を上げたとき、
「キエエエエエエエエエエエエエエ」
と甲高い声が響いた。次の瞬間に赤黒い雲は真っ赤な炎に包まれて、やがて燃え尽きた。
悪霊の最後の一片が消えるとき、かすかに島田先輩の声が聞こえたような気がした。
「白露!」
と陸が叫んだ。
和泉の目の前に大きな大きな、そして素晴らしく美しい真っ白い鳥が優雅に浮かんでいた。
「助かったよ。白露」
「白露って何? この鳥?」
白露と呼ばれた鳥は長く奇麗な尾をしていたが、その先は和泉の左手の水晶の念珠につながっていた。
白露は『どう! 褒めてちょうだい!』とばかりに胸を反らした。
「白露はまー兄の式神さ。和泉ちゃんの念珠の中に入れておいたんだな」
「式神って……」
それは知ってるわ。安倍晴明が一条橋の下に十二神を隠しておいたやつでしょ。霊能力で操るしもべよね。それは知ってるわ。でもこの平成の時代に、宇宙旅行しようかって時代に……式神ですって?
和泉はもう何が何だか分からなくなってしまった。
どうして悪霊に襲われたのか、どうしてあの悪霊は和泉達を知っているような口ぶりなのか。そして賢が必死で戦っている理由は何だろう。