2. 靄の中
はあ……気持ちいい。
いま、わたしはフェンリルの言ったご褒美に心身ともに癒されている。
屋敷の地下にあったのは──温泉だった。
はるか頭上の岩盤の隙間から月光が射し込み、沸き立つ湯気を皓く照らしている。一帯には硫黄の匂いが立ち籠め、とろりとした湯はみごとに白濁していた。
つい、とろとろの白いお湯の誘惑に克てず、そそくさと服を脱ぎ捨て、できるだけ自分の身体を見ないようにかけ湯をしてから、そろりと足を入れた。
「はあ……あったかい」
ヴァンパイアはたぶん冷え性だと思う。いつも、どこか薄ら寒い。
『おまえ、もう二度と乙女を名乗るなよ』
呆れたようなフェンリルの声が頭に響いた。
「う、うるさいなあ。この身体、妙に寒いんだ。フェンリルは狼なんだから、乙女の事情を気にするなよ」
そう言いながらも、血流がよくなったせいか、簡単に顔に血がのぼるのがわかる。
狼相手になんで赤くならなきゃいけないんだろう。
『ふうん。なら、俺が狼じゃなかったら、どうするんだ?』
……え?
立ち籠める白い湯気の中で、知性を湛えた不思議な金色の瞳が光る。漆黒の狼はすぐ傍らの浅い場所で湯に浸かったまま、こちらを見あげていた。
フェンリルが狼じゃなくて、人、だったら。
いまのわたしは、お湯の中で仰向けに体を伸ばした、腰布一枚の男。
「………………困る」
『なるほどな』
蚊の鳴くようなわたしの声に、よくわからない応えを返したフェンリルは、ざばりと音をたてて湯からあがり、ぶるぶると躯を振って水気を飛ばした。
やっぱり、狼だよね──ほっとしたのも束の間。
『おい、ギルヴェルク』
「な、なんだ?」
『身体を洗ってくれないか?』
パシャ、と大きな水音がたつ。
思わず手が滑って頭まで湯に浸かってしまった。
い、いや、だって、この流れで洗うって。
『なにをしているんだ、おまえは』
落ち着いた狼の声が聴こえる。
洗うって。フェンリルを洗うんだよね?
おかしくはない。うん、まったくもって、おかしくはない。狼は自分で躯を洗えないんだから、世話になっているわたしが彼を洗うのは礼儀にかなっている。
彼は狼だ。人と同じように意志の疎通ができても狼だ。どんなに賢くて、無駄に声がよかろうと、狼だ。
近所のロッキーを洗うのと同じ。同じ、はず。
意を決して勢いよく立ちあがると、白濁した湯に隠れていた自分の身体が見えてしまった。
「うっ!」
慣れろ、慣れるんだ、わたし。子どもの頃、年の離れた兄の裸を見たじゃないか。フェンリルに見られるとか、いまさらじゃないか。
『そこにシャボンがあるぞ』
「う、うん」
フェンリルが鼻先で示した岩壁の棚に、いくつか載っている石けんらしきものを手にとって泡立ててみる。
「そういえば、狼用の石けんじゃなくて平気?」
『……は? 狼用? そんなものがあるのか』
「狼用は知らないけど、俺の世界には犬専用のシャンプーがあったんだ。人間のシャンプーは動物の肌にあわないらしくて。これって天然成分の石けん? 野生動物でも平気?」
フェンリルはなぜか不機嫌そうに唸った。
『知らん。いいから、さっさとそれで洗え』
「フェンリル?」
なんでいきなり怒ってるんだろう。
『いいから。人専用で』
「う、うん?」
濡れたつやつやの黒い毛皮を泡で洗う。わしゃわしゃと洗う静かな音が天然の浴室に響いた。フェンリルが気持ち良さそうに目をとじているのに、ほっとする。ときおり、彼の鼻面が胸をかすめるのがくすぐったい。ロッキーのときはもっと抱きかかえるようにして洗ったけれど、フェンリルは……やっぱり無理だな。
──そうだ。
「さっき見つけた地球儀のことなんだけど」
『地球儀? ああ、神球儀のことか』
金の眼がうっすらとひらく。
「俺の世界と地形が同じなんだ。あとでこの屋敷がどのあたりにあるか教えてくれない?」
『ん? ここは──』
深みのある声が言いかけた──その時。掌のなかのフェンリルの躯がびくりと震えた。
『しまった……! あれにヴァラヴォルフの結界は効かん!』
フェンリルの切迫した声が聴こえたかと思うとすぐに、彼の温もりはわたしの掌をすり抜けた。
「フェンリル?」
『敵だ……! 先に行って確かめる。おまえも跳べ!』
黒い狼が天井の岩盤を見あげ、体勢を低く沈める。そして、月光の射し込む隙間に向かって大きく跳躍した。
「跳べって……フェンリル!」
狼の躯が隙間に吸い込まれた直後、大きく地響きがすると、天井の岩盤がばらばらと崩れはじめた。この地下室の上に大きななにかが落ちた──そんな震動。
岩盤の崩れるようすがスローモーションのように視える。我知らず身体が動き、フェンリルの吸い込まれた天井の隙間へと跳んだ。
信じられない。全身がバネにでもなったように、跳ねた。これほど軽く跳べるなんて。これが、ヴァンパイアの、真祖の身体能力なのか。鼓動が跳ねあがる。胸の裡のなにかが沸き立つ。
一息に地上に跳び出ると、そこに巨大な影が視えた。ぞくりと底知れぬ恐怖が沸き起こる。
「フェンリル、どこ?」
叫んだけれど応えはない。
辺りを見回してもフェンリルの姿は視えない。
どうしよう。まさか、あれに飛びかかっていったり、してないよね? あの影はかなりまずい気がする。わずかに欠けた月を背にした影は、翼のある恐竜のような、蝙蝠の羽の生えた巨大な蛇のような──映画やゲームで見かける西洋風の竜と、屏風絵にある東洋風の竜を足して二で割ったような姿をしていた。黒く煌めく巨大な鱗に全身を覆われ、鋭い鍵爪のある皮膜のような翼を背に広げている。縦に伸びた瞳孔が一片の感情もなくわたしを凝視めていた。竜族の圧力に押しつぶされそうになるのを、下腹に力を入れて堪える。
その、黒く煌めく竜の背に、小さな人型の影が見えた。
「ふん、よくも生き延びたな、ギルヴェルク。人の生き血を啜る呪われた悪霊め」
蒼黒い肌に銀の瞳を持った男は言いはなち、酷く乾いた嗤い声をあげた。厭な予感がする。
「ならば、貴様自身の口から神呪の刻印が消えたわけを聞かせてもらおうか」
男が口にしたのと同時に、天を衝くほど巨大に見える竜が、わたしに向かって炎の息を吐いた。