1. あきつの夢
赤い。あたたかな、赤いいろ。
金いろの光のなかで、赤いとんぼが飛んでいる。
おひさまは大きくて赤いいろ。
にじむように。つつみこむように。やわらかに。
ふわふわした光のなか、赤いとんぼは乱れ舞う。
「秋都ちゃん」
金いろの光の向こうに、おかあさんの声が聴こえる。
「秋都ちゃんのなまえは、とんぼさんからもらったのよ」
「とんぼ?」
ぜんぜん、うれしくなかった。とんぼなんて。つまらない。
「日本はね、むかし、秋津島って呼ばれていたの」
おかあさんは微笑った。
「秋津の島。海に囲まれた島国だから。秋津ってとんぼさんのことなの。秋になると、むかしからこんなふうに、たくさん飛んでいたのね」
「……うん」
おかあさんはわたしが不満そうなのがわかったんだろう。しゃがんで目線をあわせ、頭をなでてくれた。
「日本の秋はいろんなものが実るでしょう。そんな実り豊かな人になってほしいなあって思ったの。日本は秋都ちゃんの生まれた国だから。とてもきれいな国だから」
金いろに煙る草むらで、赤いとんぼが飛び交っていた。
──おかあさん。
あの場所に帰りたい。
わたしがわたしであるうちに。
忘れるな。誰かが囁く。
抗え。失うな。記憶の襞に呑まれるな。
禁呪の罠に陥るな──秋都。
記憶の襞が解けて幻視が閃く。
降り注ぐ月光がケルヴィムの呪布を焦がし、わたしの封印が解かれるのを感じた。女のなめらかな黒い肌を鋭い鍵爪が斬り裂く。鮮やかな赤が、散る。黒髪の男が真っ白な髑髏に鮮烈な赤を降り注ぐ。とろりとした赤は命の雨。ぽっかりと空いた眼窩の奥に赤いモノが蠢く。赤黒い血管が蟲のように、触手のように、ちろちろと伸びて、白い髑髏を覆い尽くしながら人の姿をかたちづくる。
そうして──命を喰らう不死の怪物が甦る。
牙のある歯列が生え揃うと、わたしは女のほっそりとした首筋に牙を立てた。
甘い。咽せかえるように甘い。
饐えた果実の甘い匂いに恍惚となる。
口唇に舌に喉に痺れるほどに甘い果実。
溶けて融けて解けて、我を忘れた。
神を呪い不死となった異形の代償。
なにかが口唇を舐めている。夢か。夢はいつもふらふらと定まらない。ざらりとした感触。ああ、くすぐったい。
え……っ? なに? 口唇にざらざら……って!
「フェンリル! このバカ犬っ!」
目のまえにあるケダモノの顔面をグーで殴った。いくら世話になっていようが、どれほど声がよかろうが、乙女が眠っているあいだにキスするなんて、許しちゃいけない。
『犬じゃない、狼だ。よだれを舐めてやっただけだろう』
不機嫌そうな声が響く。
「よ、よだれ? そこは見てみぬふりをするとこでしょ。乙女のくちびるをよくも……っ!」
犬ってこうなの? こういうものなの?
『ギルヴェルクのなりで乙女はやめろ。だいたい、おまえ、寝るまえに自分は男だと主張していただろうが。男同士で欲情するか』
男同士──胸の奥がちくりと痛んだ。
「わ……お、俺だって! 狼相手にそんな気になるわけないだろ?」
『不合格だな。どこのガキの台詞だ、それは。もっとギルヴェルクらしい口調を心がけろ』
内容はスルーなのか。
「らしくって言われても、ギルヴェルクに会ったことがないんだから無理だよ」
正論だと思う。フェンリルも認めたのか、思案げに首をひねった。
『ああ、それもそうだな。なら、俺の口調を真似ろ。おまえよりはずっとギルヴェルクに近い』
「……親父くさ」
つい、小声で悪態をつく。
『ほう? なにか言ったか、クソガキ』
狼が片方の牙を剥いた。
「いや。俺はなーんにも。く……クソじじい」
『ぶッ! ははッ』
彼はなぜか愉しげに吹き出して、肩を揺らしている。
「わ、笑うなよ。笑い上戸の、く、クソじじい!」
『いいぞ。とりあえずはその調子だ、ギルヴェルク坊や。褒美にいいものを見せてやろう』
なぜか上機嫌なフェンリルが衣裳室へつづく扉に鼻面を向けると、自然にそれが開く。屋敷が認証した者だけに扉が開く魔法だと、さきほど、屋敷を探検したときに教えてもらった。トイレの洗面台で手をかざすと水が出てきたのも同じシステムだという。
「いいものってなんだよ?」
『それは見てのお楽しみだ』
狼が衣裳室の壁にはめ込まれた鏡へ鼻面を向けると、全身を映す大きな鏡が扉のように開いた。
「隠し扉?」
思わず呟くと、フェンリルは嬉しげに喉を鳴らした。そのまま漆黒の狼のあとを追って、細く薄昏い階段を下る。
あれ?
光がほとんど入らない場所にしてはなぜか明るい。見回してみても灯りらしきものはない。
「うーん?」
うなっているとフェンリルの声が響いた。
『どうした?』
「暗いはずなのに、視界は悪くないと思って。これも魔法なのか?」
自分のよく通る低めの声が狭い空間に反響した。ギルヴェルクという男は声までいい。
『ああ、ヴァンパイアと人間では見え方が違うんだろう』
「そっか、この身体、夜目が利くんだ」
視線が本来のわたしよりずっと高くて、歩幅も広い。体幹がしっかりと安定しているせいか、身体が軽くてぶれがない。わたしの身体より快適かも知れない──そう思ってしまい、軽く頭を振った。
厭だ、そんなの。
『着いたぞ』
頭に響くフェンリルの声にはっとすると、階段の行き止まりにあった壁が溶けるように消えて、むっとするような空気とともにどこか懐かしい匂いが吹き込んできた。
この匂い、まさか──。