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不死の王 禁呪の娘  作者: 緋ノ原
第1話 召喚
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5. ギルヴェルクの欠片

 脳の記憶をたどってみろ。おまえの知りたいことは、ほとんどギルヴェルクの脳の裡に在る。


 フェンリルはそう言っていたけれど、どうすれば、脳の記憶がたどれるんだろう。

 他人の脳、他人の身体。なのに、偽魂わたしの意志で身体が動かせるということは小脳の制御はできている。こうやって思考しているということは大脳の制御もできている、はず。そもそも自我なんて、動物の生存本能が生んだ自己防衛機能のひとつくらいに思っていたから、わたしの脳とわたしの自我が世界を越えて別々に存在しているというのが釈然としない。

 本来、異世界召喚だの、ヴァンパイアだの、しゃべる狼だのを、あっさり信じられる性格じゃないのに、目のまえの現実がそれを突きつけてくるから信じざるを得なくて、結局、混乱して思考が停止してしまう。

 これでも文学部の学生だから、小説は割と読むほうだと思う。ファンタジーや神話も好きなジャンルだ。でも、現代人がなんらかの理由で異世界へ迷い込む──いわゆるトリップものは苦手であまり読んでいない。高校生のころ、本好きの友だちに借りたトリップものは剣と魔法の世界観に不細工な異物が紛れ込んでいるみたいで、どうしても好きになれなかった。

 異世界へ逃げ込んだ、不細工な異物。

 思わず髪をかきむしった。はらりと一本、銀色の髪が落ちる。見慣れた黒髪とは違う、ギルヴェルクの髪。人々に怖れられ、無惨に殺されたヴァンパイア。ギルヴェルク、どうしてわたしをあなたの身体に喚んだの?


 いま、わたしは切実にあなたの記憶が欲しい。


 そうよ、なんで、よりによってフェンリルのいないときに、こんなことになるのよ。この身体、ゆるやかに生きてるんじゃなかったの。生理現象なんてないんじゃなかったの。起きてから一滴の水さえ飲んでないのに。なんで、いきなりむくむくとこうなるの?

 ──トイレ、どこ?


 長い廊下に飛び出して、手当り次第にドアを開けてみる。開けても開けても埃っぽい陰気な部屋ばかりだ。どこもかしこも略奪された跡がある。なんでこんなに広いの、この屋敷。なんでこんなに広いのに、誰もいないの、この屋敷。


 ちりり、と顳かみから首筋がざわめいて、脳裏に閃く、その光景が、視えた。


 人ならぬ者たちが一瞬にして塵になる光景。

 万を超える不死者の軍勢が絶望の声をあげながら、細かな黒い塵と化す──灰化。あの時、俺はなす術もなく、ただひたすら無力だった。なぜだ、なぜ、いつもいつも喪うばかりなのか。気づくと、なぜいつも、なにもない焦土に立っているのか。


 目眩がする。


 俺は誰だ。俺は誰だ。俺は──。

 ギルヴェルク。神を呪った真祖。不死の王。


 なんだ? いまの。

 見慣れた……いや、見慣れない銀の髪が目に入る。俺は目眩がして膝をついたらしい。たしか、そうだ。用を足そうとして、どこへ行けばいいのかわからなかった。馬鹿馬鹿しい。自分の別邸なのに便所の場所がわからないだって?

 見慣れた、もしくは見知らぬ扉を開けた。

 たまには用を足すのも気分がいい。喰われた右手を生やしたせいで一時的に新陳代謝が加速したんだろう。


 ……えっ? ちょっと待て。


 なんで、俺、自然に立ってトイレしてるの。えっえっえっ? なんで、一人称がふつうに俺なの。それになんなの、わたしの、この格好。


「い……い、い、いいいいいいい……嫌ァァァーッ!」

『おい、どうした?』

 突然、開け放たれたトイレのドアの外に黒い狼の姿が見えた。

「ふぇ、フェンリル? なんで、帰ってきてるのよ?」

『いま帰ってきたばかりだが。おまえの悲鳴が聴こえたから……』

 フェンリルはわたしが手に支えている男性特有のアレを見て、眼をぱちぱちさせてから、ゆっくりとわたしの顔に視線を戻し、なんともいえない笑みを浮かべた。

『…………そうか。振ってからしまえよ、ギルヴェルク』

 わたし好みの美声がやけによく響いた。

 泣きたい。


 呆然としたまま、手を洗う。洗面台が華麗な曲線を描いた見慣れないかたちだとか、手をかざすとなぜか水が出るとか、鏡に背筋の凍るような魔性の美貌が映っているとか、どうでもよかった。

 なにかがとても──怖かった。


 トイレから廊下に出ると、そこにフェンリルの姿があった。

 どうしよう。

 ちらりと顔を見たら、ふいっと視線を逸らされた。

 気まずい。

「えっと、あの、気にしないで、ね」

『……別に』

「あ、そうだよね。気にならないよね。フェンリルは狼だし」

 金の眼がこちらを見上げる気配がした。

 え?

 視線が交差する。フェンリルは鼻に皺を寄せて、なにか言いたげな貌をしているように、見えた。

「フェンリル?」

 顔を覗き込むと、彼は鼻を鳴らして顔を背けた。

『ふん。おまえはギルヴェルクらしいふるまいをしていただけだろう。……それより、ギルヴェルクの記憶はどうだ? なにかたどれたのか』

 あ!

「そう、それよ! トイレを探してる時に、いきなりギルヴェルクの記憶らしいものが視えたの!」

 はっと気づけば、逸らされていたはずの金色の視線が冷ややかにわたしを見上げている。

『……おまえ、それを早く言え。もっと、ギルヴェルクらしく、な』


 そのあと、フェンリルと一緒に屋敷の中のすべての部屋を見て回っても、ギルヴェルクの記憶と共鳴することはできなかった。酷く怠くて、ぼろぼろになったソファのうえで横になる。長い長いため息が出た。

 情けない。結局、トイレを探した時だけ、ギルヴェルクの記憶と共鳴できたなんて。しかも、フェンリルにあんなところを見られたなんて、やっぱり恥ずかしすぎる。

「よかった……フェンリルが狼で」

 ぽつりと呟くと、ソファの下で伏せの姿勢でいるフェンリルがぴくりと耳を立てた。

「どうかした?」

 彼の毛皮をわさわさと撫でると、深みのある低い声が頭に響いた。

『いや。なんでもない』

 ささやかな間のあとに落ち着いた声がつづく。

『おまえは死んだ状態から再生されたばかりだ。真祖といえども体力が戻り切っていないだろう。今日はもう休め』

「ありがとう。でも、まだ昼間だろう?」

 小さな窓から射し込む光は弱いけれど、赤みを帯びてはいない。ここは、わたしのいた世界ではないらしい。けれど、夕陽は赤いはずだ。

 なぜなら、ここは──地球だから。

 屋敷の探検中に見つけた地球儀をくるくると回す。盗む価値もないと判断されたのか、略奪者にうち捨てられ床に転がっていた地球儀。古びた球形に描かれた海岸線は見間違えようのない馴染み深いラインだ。小さな島国のラインを丹念になぞった。

『本来、ヴァンパイアは明け方に寝て、日没とともに起きるものだぞ』

 フェンリルの声が笑う。

 そうだった。この身体はヴァンパイアのものだ。

 灰化するヴァンパイア。灰色の廃墟。ギルヴェルクは荒野をひとりで彷徨っていた。遠くに重い鈍色の雲、雲の隙き間から射す陽光が凍った刃に見えた。あの記憶の持ち主はいま、どこにいるのだろう。

 本当に眠い。目蓋を開けていられない。でも、この長い身体にソファは窮屈すぎる。ふらふらと起き上がり、寝室につづくドアを開けて、ベッドに崩れ落ちた。行儀悪く脚を振って靴を放り投げる。ああ、これ、身体が憶えている動きだ、ぼんやりとそう思った。

 寒い……。そういえば、目覚めたときから不思議だったけど、ここにはなぜか掛けぶとんがない。とても、寒いのに。

「フェンリル」

『なんだ?』

「ここに来て」

 ふとんが欲しい。

『おまえ、誘っているのか?』

 おかしなことを言う狼だ。

「俺は、男だろう?」

『そうだったな、ギルヴェルク』

 低い声が響いて、ベッドが大きく軋むと、目のまえに黒い狼の金色の瞳があった。つやつやの真っ黒な毛皮を撫でる。

「目が覚めたら、地球儀の話をしよう……おやすみ、フェンリル」

 狼のやわらかな毛に顔をうずめると、なぜか甘い匂いがした。彼の力強い鼓動が聴こえる。

 その音を聴きながら──わたしは眠りに落ちた。

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