4. 狼と右腕
落ち着いて話をするために、寝室の隣──衣裳室とは逆側──の部屋で、フェンリルとテーブルをはさんで向かい合わせに腰掛けた。
ここはたぶん、屋敷の主ギルヴェルクの居室なんだろう。白と金と灰青を基調とした貝殻や蔓草の意匠には統一感がある。
だけど、贅をつくしたものであったろう室内は見る影もなく荒れ果てていた。残された調度品は壊され、部屋の柱や暖炉の装飾にもはぎ取られたような跡がある。いま座っている大きなソファも、凹凸のある上等そうな織物の張り地に穴がいくつもあいていて、家具職人が見たら号泣しそうな有様になっていた。
「ここ、どうしたの?」
つい、素で訊ねると、目のまえでおすわりの体勢をしているフェンリルに睨まれた。
ううっ。ソファのうえにおすわりした狼は、またもふもふしたいくらい可愛いのに、目つきが凶悪だよ、フェンリル。
そうだったね。わたしはギルヴェルクだったね。鏡に映った華麗にして壮絶なる極悪非道美青年を思い出す。ああ、アレのふりをするなんて、じたばたしたくなるほど恥ずかしくて、怖い。
「どうしてこんなに部屋が荒れているんだ?」
つい、モトカレ──彰吾みたいな話し方になった。
案の定、ダメ出しが入る。
『もっと堂々と話せ。腹から声を出せ。座るときは股をひらけ。背すじを伸ばせ。おどおどするな。常に俺が一番偉いという顔をしていろ』
「それって見たまんまの俺様……」
思わず呟くと、また不機嫌そうに睨まれた。
だって、俺様って苦手だし、彰吾も草食系だったし。
フェンリルの不機嫌な視線が怖いので、電車の中で迷惑になっている人レベルに脚をひろげて、お腹に力を入れて背すじを伸ばすと、静かな声が頭に響いた。
『ここはあの日の朝、襲撃されたんだ』
「寝室と衣裳室は無事じゃなかった?」
『あそこだけは結界が強固で略奪を免れたらしい』
「そうか……略奪とか、あるんだ」
ぼそりと呟くと、フェンリルの醸し出す空気が変わった気がした。
『おまえ、あんな痛い目に遭っているのにずいぶんと暢気だな』
……え?。
金の眼が酷く冷ややかにわたしをじっと見ている。
いたたまれなくなって、視線を落とした。
「ごめん。わ……俺にだって怖いって気持ちはあるんだ。でも言われてみれば、目覚めてからいろいろ感覚がおかしくて……。そうだよな、一度殺されてるのに暢気すぎる。無意識に現実逃避してるのかも知れない。気に触ったんなら、ごめんなさい」
さっきから感情のアップダウンが激しくて落ち着かない。そのくせ、状況に対して妙に鈍い。これじゃ、フェンリルに痛い奴だと思われても仕方がない。
『ギルヴェルクが易々と獣に頭を下げるな』
「……わかった。人前ではしない」
前途多難だ。ギルヴェルクとわたしではどう考えてもキャラが違いすぎる。
『それに、おまえが暢気なのは仕方がないか』
思わず顔をあげると、金の眼と視線がぶつかった。なんとなく、凍りついた空気がぬるくなった気がする。
『ヴァンパイアは多かれ少なかれ現実に対する感覚が希薄になるそうだ。不死者にとっての時間はゆるやかで現実味がなく、霧がかかったようにぼんやりとしている。ゆえに、たいていのヴァンパイアは憂鬱で無聊をもてあましている──というのは、ものの本の受け売りだがな』
現実に対する感覚が希薄。
「うん、その言葉、しっくりくるよ」
世界のすべてがとろりとして、現実味が、ない。なのに、自分の中でなにかがざわめいて暴れだしそうな奇妙な感覚。
『腕を出してみろ』
ふいに言われて、なにも考えずに腕を出してしまった。
『本当におまえは不用心だな』
フェンリルは呆れたように笑ってから、わたしが差し出した右手を、喰いちぎった。
え……えええ、っ?
「て、て、手……げ、く、たべっ?」
喰いちぎられた手首の切り株と、それを噛み砕いているらしいフェンリルのあいだを視線が行き来する。
「食べないって言ったじゃない!」
『役得だ』
フェンリルがごくんとそれを呑み込んだ。
肉食だ、立派な肉食獣が目のまえにいる。
『痛みはほとんどないだろう?』
涙目のわたしの頭に、低めの美声が響く。
そうなのだ。
本当に、蚊に刺されたくらいにしか感じなかった。血も出ない。それに、食べられた根元からはすでにむくむくと新しい右手が生えはじめていた。
「なにコレ、気持ち悪い」
『たいていの傷はすぐに治る。必要ないから痛覚も鈍い。逆にその肉体が痛みを感じるときは、異常事態だ。覚えておけ』
フェンリルが話し終えたころには、ギルヴェルクの筋ばった大きな右手はきれいに修復されていた。
『ヴァンパイアの中でも、真祖の耐久力は異常だ。並のヴァンパイアなら一瞬で灰化する状態、たとえば銀の弾丸を心臓に撃ちこまれても、いまの右手と同じように傷は修復するし、弾も身体から飛び出してくる』
わたしが一度死んだあれは、異常事態だったんだ。
「しんそ、って?」
『真祖とは、神を呪って自ら不死者となったものだ。ふつうのヴァンパイアは動く屍体だが、真祖は違う。真祖の肉体はゆるやかに生きている』
神を呪って不死者となる──なんて現実味がないんだろう。
『まずはギルヴェルクの身体に慣れろ。そして、脳の記憶をたどってみろ。おまえの知りたいことは、ほとんどギルヴェルクの脳の裡に在る』
締めくくるように言って、黒い狼は金の眼でこちらをじっと凝視める。
つまり、そういうことだ。
「わかった。あとは、自分でギルヴェルクの脳を探れってこと、だな」
フェンリルはうなずいた。
『有り体にいって、俺には奴の細かい事情はわからない。わかるのは、ギルヴェルクが危機に陥った際に禁呪を施行し、異世界よりおまえを召喚し偽魂としたこと。自分の肉体を護るよう俺に命じたことだけだ』
そう、フェンリルに《わたし》を護る義理はない。
身体を護るだけじゃなく、こうして説明までしてくれるのは、ありがたいことなんだ。
「ありがとう、フェンリル」
わたしが微笑って口にすると、フェンリルはむず痒そうに鼻に皺を寄せ、口を歪めて牙を剥き出した。
しまった。いまのわたしの顔は暗黒大魔王のギルヴェルクだ。微笑ってみせても、悪事をたくらんでいるようにしか見えないんだろう。
ちょっとだけ泣きたくなった。
『少し外のようすを見てくる。いまは屋敷周りに結界が在るから侵入者の危険はない、心配するな』
大きな狼の姿が見えなくなってから、ひとつ、大変なことを訊きそびれたことに気がついた。
あの黒い狼はあえてそれを言わなかったのだろう。ギルヴェルクの脳に訊け、と。
この身体が──誰かの血を必要とするのかどうか。