2. カイニスの朝
──なんて、甘い。
とろりと甘く、よい匂いがする。
欲しい。もっと欲しい。
『気がついたか。気分はどうだ?』
いい声。低くて深みのある、男らしい、声。
「……眠い」
ああ、声が掠れている。厭な夢を見たからか。酷く寝覚めが悪い。
誰かに殺される夢。頭を殴られ、心臓を貫かれ、手足を野犬に喰われ、挙げ句の果てに頸を斬り落とされた。取り囲む人々はみんなわたしを憎んでいた。憎まれ、蔑まれ、存在のすべてを否定され、意識のあるまま、業火に灼かれた。
わたしは、人に忌み嫌われる不死の怪物──ヴァンパイアだった。
『泣くな』
ざらりとしたものが、目元を舐める。まるで、犬に舐められているような、っ……?
「なっ、なに? わたし、犬なんて飼ってない」
え? いまの、わたしの声?
『……ああ、俺は犬じゃない。狼だ』
よく響く男の声が笑った。
「うそっ! なんで、わたしの部屋に男がいるの?」
──目が覚めた。はっきり覚めた。
だって昨夜、カレシにふられたばかりだ。昨日の今日で、ほかの男が隣で寝ているなんて、ありえない。なんたる失態。自分で自分が信じられない。
だけど。
目のまえにあったのは、真っ黒でふさふさな顔だった。
な、なに? この、もふもふ?
長い顔。金色の鋭い眼。真っ黒で毛足の長い獣がうずくまって、わたしの顔をのぞいている。
「なにコレ、ものすごく大きい……犬?」
自分の声がやけに低く響いた。
『だから犬じゃない、狼だ』
コレ、さっきの美声?
「なんで、犬……じゃなくて、狼がしゃべってるの? いやいやいや、それよりよく考えろ、わたし。狼って肉食じゃなかった? この体勢ってまさか食べられるまであと数秒?」
あわてて跳ね起きてみたものの、なんだか身体がうまく動かせない。奇妙な、バランス。
『安心しろ、おまえは食べない』
男の声が頭の中にじかに響いた。
「あ、ありがとう、それを聞いて安心したわ」
そう彼に答えてから、はたと我に返った。
……彼?
おかしい。なんだか凄くおかしい。
狼にむかってぺらぺらしゃべっている状況がおかしい。
狼の声が耳じゃなく頭に直接響くのもおかしい。
そもそも狼がしゃべっているのがおかしい。
しゃべっている自分の声もおかしい。
というより。ぐるりと視線だけ動かして辺りを見回す。
視界に入るなにもかもが、すべておかしい。
目のまえで言葉を話す狼の存在も、見覚えのない場所も、なにより《わたし》が──間違っている。
「どうしよう……」
思わずうつむいてから、あわてて顔をあげた。
「こんなの、ありえない」
金色の眼をうっすらと細めて、狼が鼻で笑った、ような気がする。
『事情はギルヴェルクからおおよそ聞いている。あちらの人間を召喚して偽魂にする、と』
言ってから、さも愉しげにくくっと喉を鳴らす。
「ぎるべる? しょうかんしてぎこん? 意味がよく分からないんだけど……えっと、偽装、結、婚とか?」
わたしの言葉に、黒い狼は鼻に皺を寄せてから、片方の牙を剥き、なにやら意味ありげにこちらを見た。なんなの、その獲物を見るような表情。ついさっき、食べないって言ったばかりじゃない。
だけど、この獣は、こともあろうに。
わたしの下半身を、ぺろりと舐めたのだ。
「うっ……どなめっ?」
思わずケダモノを蹴り飛ばした。
「ややややや、やだやだやだっ、なんでそんなとこ舐めてんの! なにコレ、うそだっ、信じらんない!」
ざらりとした感触。ありえない。こんな感触、ありえない。だって、触れるはずがないじゃない。あるはずのないモノに、触れるはずがないじゃない。女のわたしにこんなモノはついていない。なのに、ないはずのモノが、なぜに存在を主張する。
これは、夢だ。悪夢のつづきだ。
『現実逃避したい気持ちは解らないでもないが。まあ、慣れることだな』
思いのほか優しげなケダモノの声に、わたしはふるふると首を振った。泣きたい。いっそ、気を失いたい。
うつむき加減になると、さらりと銀色に輝く髪が肩先から滑り落ち、自分の身体が目に入る。一糸まとわぬその身体は、やっぱり、まぎれもない男性のものだ。きれいに筋肉のついた平らな胸板、引き締まっているけれど割れるほどではない腹筋、しなやかで力強い、もてあますほど長い腕と脚。肌は白く滑らかで、体毛も銀色のせいか目立たない。自分のものでさえなかったら、好みのタイプなのに。呆然とヘソの下にある男性特有のモノを見つめてしまい、思わず叫び出しそうになった。
『とりあえずは、ギルヴェルクらしくしろ。そのなりで、くねくねされると気持ちが悪い』
男の声が頭に響き、目のまえの金の眼に射すくめられそうになる。
そこで、ちりり、となにかが脳裏に閃いた──魔眼に警戒しろ、眼に力を込めて跳ね返せ。
知らず、金の眼を睨み返した。狼の眼が驚いたように丸くなる。
『その調子だ、ギルヴェルク』
低くて深みのある男の声が満足げに響いた。