1. 月よ、月よ
獣が、奔る。
皓く輝く月光の下。
獣が、翔る。
今宵は満月、力溢れる再生の夜。
天高き塔の頂きを、獣は振り仰いだ。
時は深更、中天には真円の月。夜陰に溶け込む獣の毛皮は黒一色、双の瞳は狂おしいまでの金色。
獣──漆黒の狼は駆ける。乳色の月光に満たされた聖者の塔を、上へ上へと。行く手を阻む者たちは、すべて獣の牙の贄となる。真円の月の夜、魔魂を宿した獣に敵はなく、銀の弾丸で穿たれた傷はたちどころに塞がり、術師の呪文はことごとく弾かれた。
獣の求めるもの──ギルヴェルクの髑髏は、聖者の塔の最上階に在った。
聖水の満ちた壜の中、ギルヴェルクの髑髏はケルヴィムの加護を受けた聖布に包まれ、再生できずにいた。窓には魔力に満ちた月光を締め出す封印の呪。己の行く手を阻む魔法陣を前に、黒い獣は低く唸った。
「使役の獣か」
魔法陣を護る三人の導師のひとり、白い衣に長い鬚を蓄えた聖人が呟くと、獣の姿はぎしぎしと軋むような音をたてて変容し、二本の脚で立ち上がる。
「……ヴァラヴォルフのようだな」
ふたりめの導師、緋の衣に銀の仮面をつけた司祭が口をひらく。ヴァラヴォルフ──人狼は、牙のある口元を歪めて笑みをつくった。
「去ね。人狼ごときが、我らの敵ではないわ」
三人目の導師、黒い衣に艶やかな黒い肌をもつ巫女がそう告げる。刹那、人狼が巫女に向かって大きく跳躍した。ヴァラヴォルフの鍵爪の生えた長い腕が、女の左胸へとのびる。
だが、鍵爪の切っ先が女の滑らかな肌を斬り裂こうとした、その時。
「ぐ、ああ……ッ!」
巫女を包む目に見えぬなにかに触れたように、鍵爪が弾かれ火花を散らし、人狼の腕はふたつに裂けた。
──破魔の結界。
巫女の薄い唇が冷ややかにつり上がる。
毛皮に覆われた長い腕が裂け目から黒く灰化し、ぼろぼろと崩れ落ちた。人狼の金色の怒りが女の眼を射抜く。
「灰燼に帰せ、呪われし獣よ」
巫女が身にまとった結界に、さらに呪を乗せると、ヴァラヴォルフの躯は頭からぱっくりとふたつに裂けた。炭化した肉塊がばらばらと焦げ落ち、床から幾筋かの煙が細くたなびく。
月光を拒む部屋に静寂が戻り、巫女が長い息を吐いた。
「夜明けまで、あと少し」
白い衣の聖人が、疲れを滲ませた声で応える。
「頸を切断したのち、最初の満月さえやり過ごせば、いかな真祖といえども再生はない」
その言葉に、なにかが、ドクリと震えた。
狭い空間に満ちた闇が、ぬらりと嗤う気配。
仮面の司祭が舌打ちする。
ドクリ。
髑髏を封じた壜がカタカタと鳴る。
ドクリ。
魔法陣が悲鳴をあげるように銀の光を放つ。
ドクリ。
姿なき鼓動が空間を支配し、月なき密室をぐらぐらと揺さぶる。導師たちは障壁の呪文を唱えて耐えるが、魔法陣を描いた床に亀裂が入った。
「陣を護……!」
皆まで口にすることなく、聖人の老いた頭が弾け飛ぶ。
魔法陣のほころびに、ギルヴェルクを封じた壜が音を立てて割れた。
床の崩壊とともに天井が崩れ落ち、真円の月が姿をあらわすと、ケルヴィムの加護を受けた聖布が焦げ縮れる。
ギルヴェルクの髑髏を護るように抱えた鍵爪の腕から肩へ、肩から頭部へ、降り注ぐ月光を浴びてヴァラヴォルフの肉体が再生されるのを、黒衣の巫女はただ見ているしかなかった。気づいた時には金の魔眼に捉えられ、身じろぎすらできない。
再生された人狼が、女を見据えてにやりと嗤う。
「喜ぶがいい、おまえの血をギルヴェルクの再生に捧げよう」
月光に照らされた女の顔が恐怖に歪んだ。