◇第十六ヤンデレ タイプ(腹ペコ少女)
皆様、本っっ当に長い間お待たせしました。漸く更新出来ました。本当、絶対にエタらないと言いながらこの様な無様を晒して申し訳ございません。これからも隙とアイデアを見つければ更新してゆきたいと思っていますのでどうか宜しくお願いします
「冗談じゃない! 冗談じゃないっ! 一体いつの時代のマンガの話だよ!?」
空が明日も快晴である事を知らせているような夕焼けが辺りを包み始めた中、夕日に照らされても尚、分かるほどに顔を赤くさせながら息を切らし両手で大事そうに買い物袋を抱えながら青年、伊勢は必死に町から少しだけ外れた農道を走る振動で顔からずれる眼鏡を直す間も無く全速力で駆け抜けていた。
幼少期から運動が大の苦手である彼がそんな事をするのは筋力トレーニングは勿論、何か大事な用事に遅刻しそうな訳でもない。それは一目見れば分かる理由で
「グルルル……!!」
逃げる伊勢の背後から涎を垂らし、獰猛に唸りながら距離を詰めて迫り来るのは一匹の茶色の毛の大型雑種犬。それも首輪を付けておらず毛並みも荒れ、全身あちこちに草の破片や小さな木の実がついている事からほぼ野犬に間違いなかった
何故、伊勢がこんな一昔前では良く見かけた分かりやすい危機に陥ってしまったのか言うと話は数分前に遡る
◇
「うーん、流石に買いすぎちゃったかな?」
特売セールを利用し、スーパーで思うがまま食料品を買い込んだ伊勢は出口から出てきた所で、ふと思い止まり脚を止めた
「このまま帰るとなるとちょっと……この荷物じゃ辛いよなぁ……でも……」
そう誰に言うわけでもなく呟くと伊勢は僅かに顔をしかめると買い物時は差程、配慮していなかった帰路の事を改めて考え、ため息をつく。
と、言うのも伊勢は築20年で破格の家賃のアパートに高校を卒業し、大学に入学して以来、一人で暮らしておりアパートの近くには三分も歩けば、そこそこ賑やかな商店街もあるのだが今日、購読している新聞に挟まっていた広告に釣られてアパートから徒歩訪れたこのスーパーは商店街の更に向こう。距離で言えば1,5kmと少しばかり距離があるのだ。手ぶらならともかく今の伊勢はまとめ買い用の為に愛用している大型のエコバッグいっぱいに食材を詰め込んでおり、何もせず立ってるだけでも荷物を持つ右手の指にずっしりとした重量を伊勢に伝えてくる
「あーあ……セールに行く前にチャージしておくんだった……」
市民バスを利用する手段も一瞬、考えたが自身がバスや電車等の交通機関に利用してる電子マネーは元より伊勢がバスも電車も普段から利用しない事もあって残金がほぼ残っておらず、財布の中の現金も買い物で殆ど使ってしまいタクシーを使うと言う手段も不可。おまけに頼めばすぐにこの場に車を出してくれるような友達も伊勢には心当たりがない。と、なれば残された手段は太古の昔から約束された移動手段、徒歩である。仕方ないしセールに浮かれて買いすぎた己の自業自得であると理解してはいるものの、それを考えるだけで伊勢は気持ちが重くなり、周囲の視線が自分に向けられてない事をいいことに大きく息を吐き出す
「あぁもう……こうなったら出来るだけ近道を進んで早く家に帰ろう……」
状況は非常に面倒くさい。しかし、ここでうだうだと悩んでいても何の解決にもならないし、時間が無駄に消費されるだけかと伊勢は己を言い聞かせると荷物を持つ手に改めて力を入れると帰路に向けて歩き始める。
「えーと……確かこの道を進めば近道だった筈だけど……」
自身がいつも利用している道から少し外れつつ、自身の暮らすアパートの距離と大分傾いた太陽を見ておおよその方角を確認しながら以前、同じアパートに暮らす住人に教えて貰った近道の記憶を呼び覚ましながら伊勢は表通りを外れ人気の少ない道、黄金色の稲穂が左右に並ぶ農道を進む。早く重めの荷物を下ろしたいと言う想いからか自然と足は早足になっていた。そんな事が重なったからだろう
『注意! この付近で野犬が目撃されました! 通行の際はご注意ください!!』
でかでかと目立つ赤の大きな文字で書かれた注意を促すポスターが張られた掲示板を見逃したのは。
◇
「ひぃ……ひぃ……も、もう限界だ……!!」
そして話は冒頭に遡る。かくして伊勢は不慣れな道を歩んでいた最中、突如として遭遇した野犬から一目散に逃げ続けていたのだが、小学校入学から大学二年目の現在まで運動に置いて平均以下のスペックしか発揮した事が無い身のうえ、重い荷物を抱えたまま。と、いう悪条件ではそう長く逃走劇など持つはずも無く、伊勢の視界は酸素不足で大きく揺れ全身はくまなく汗まみれ、一歩を進める事すら目眩がして地面がゼリーか雲へと変わってしまったかのように不安定で不確かな物に感じられていたのだ。
「っ……!? うわっ……!」
当然ながら、そんな綱渡りのような危うい状態での走行が長く続く筈も無く、ある一歩を踏もうと脚を前に出した瞬間、伊勢は疲労から戻すのが遅れた己の脚につまづき、手にしていた荷物を周囲に撒き散らしながら受け身も取れずに派手に地面へと転倒してしまった。
「い、たたた……! げほっ……!!」
疲労した身体へ追い討ちの如く襲いかかる衝撃に悶絶し、地面の上で悶える伊勢。肺と鳩尾を強打したせいか景色がぐにゃりと歪み、痛みで身体を起こす事すらままならない。だが、しかし脚を止めるわけにはいかない。何故ならもう自分のすぐ後ろには……!
「ヴヴ…………」
「…………っっ!!」
そう考えながらも伊勢が不格好な匍匐前進でも前に進もうとしただった。再びその耳に絶体に聞きたくは無かった獰猛なうなり声が響く。ぎぎぎと音が鳴りそうな程ゆっくりと後ろを振り向いた伊勢はその瞬間、恐怖で凍り付いた
「(だ、駄目だ……食われる……!!)」
ぽとりぽとりと地面に涎を滴しながら自身へと迫り来る猛犬。それを前についに伊勢は観念してせめてもと目を閉じ……
「わんこは好きだから、ちょっと申し訳ないけど……ごめんね…………ちょいやー」
た、所で何処か気を抜けたような間延びした声が伊勢の耳に響いた。と、その瞬間
「ギャインッ!?」
寸前まで聞こえていた野犬の唸りが何かが風を切る音と直後に聞こえた鈍い音にかき消され、突如として犬の唸り声は悲鳴へと変わった
「え…………?」
理解を越えた突然の事に恐る恐る伊勢が目を向けてみれば
「動ける程度に手加減はしているのよ~……? だから犬さん? 大人しく帰ってくれると助かるのよ~……?」
そこには伊勢と野犬の間に入り込むように立ち、矢鱈に喋るペースこそ遅いながらもしっかりと伊勢を野犬から庇うように背中を見せて立つ一人のブレザーの制服を纏った小柄な少女の姿があった
「じゃないと次は〜……本気で行くよ……?」
「………!!」
ゆったりとした口調のまま少女はそう言うとゆっくり拳を構える。と、その瞬間犬は危険を察知したのか瞬く間に踵を返し、脱兎の勢いで逃げ去って行った
「えっ!? あっ……!? お、女の子……? それもえっ……!? こ、子供!?」
「むー流石に初対面でしかも助けた相手にそれはあんまりにも失礼なのですよ〜。おにーさん?」
突然の出来事に余程慌てたのか思わず頭で思った事を口にしてしまう伊勢に対し、ブレザーの少女はスカートに付いた泥を手ではたいて落としながら不満そうな口調で振り向く
「……ご、ごめん」
未だに野犬に襲われたと言う衝撃と緊張が抜けきれないのか伊勢は少女に反射的に頭を下げて謝罪する
「こう見えても、わたし高校生ですよぉ? 確かに成人はしてませんけど……初対面で子供呼ばわりはどうかと思うのですよぉ?」
そこで伊勢は改めて少女を見た。風にゆれるのは栗を思わせるような茶色の髪で余りの分を後頭部で結んでいた。よく手入れされた様子の青い丸眼鏡から伊勢に視線を向けるのは眠たげに垂れた目。そして何よりの特徴が高校生と本人が名乗っているのにも関わらず明らかに低く、小学生と名乗っても十二分に誤魔化しが出来そうだと伊勢は思っていた
「そ、そうだね確かに失礼だった。俺は伊勢、伊勢重郎……君は?」
だがしかし、それを命の恩人である少女にこの状況下で告げるのは余りにも失礼だと判断した伊勢は出かけた言葉をぐっと飲み込み、少女に向かって改めて謝罪しつつ自らの名を名乗る
「おや、これはご丁寧に。私は、胡花ですよぉ。フルネームは吾浦胡花。親しくなったらぁ……そーですねぇ、こーちゃん、もしくはこっぴーとでも呼んでください」
「そ、そう……その機会があったら呼ぶね………」
少女、胡花のあまりにもマイペースな口調に混乱し、伊勢は曖昧に笑いながら返事をする。先程、野良犬相手見せた鋭さは欠片すら分からない程に消え失せ、その代わりのように陽だまりで寛ぐ猫のような緩い雰囲気を纏っていた
「……ところで伊勢さぁん? 話は変わるんですがぁ、助けたお礼………と、自分から言っては、かなりはしたないですがぁ。お願いがありましてぇ………えぇ、至急です」
と、その最中、突如として胡花は口調はそのままで急に表情を真剣な物へと変える。すっかり霧散していた身に纏う鋭さも先程と比べればかなり劣るがゆらりと立ち込め始めていた
「な、何…………?」
全く唐突に変わった雰囲気に伊勢は飲まれながらも恐る恐る尋ねてみる。まだ数回、言葉を交わしただけだとは言え胡花と言う少女が助けた報酬に金品を要求して来るとは思えなかったが、それでも伊勢は僅かに不安で唾を飲み込む。と
ぐきゅるるるるる〜〜
聞こえたのは文字で例えればそんな様子の可愛らしくはあるがわりと大きな音。それが放たれているのは胡花と言う少女から。つまりは
「ご飯、くれませんかぁ〜……? お腹、ぺっこぺこの上にさっきのキックでもう限界近いんです……のね……」
「こ、胡花ちゃあぁぁん!?」
その言葉と共に胡花は貧血を起こしたようにふらりと倒れ、伊勢は慌てて命の恩人である少女の元に駆けつけるのであった
◇
「………んぐんぐ。おいしい………おいしいですよぉ……! 伊勢さんご飯作るの上手なんですねぇ……お代わりくれませんかぁ?」
「………う、うん、喜んでくれて何よりだよ」
目の前で吸い込まれるように次々と胡花の口の中に消えていく料理の数々を見て、伊勢は若干顔を青ざめさせつつ緩めようとしたエプロンの紐を結び直す
胡花が倒れた後、伊勢は疲労した身体で迷いながらも自力で起き上がれない胡花に肩を貸しつつ、もう片手で守りきった食材を持ちって、人目を気にしながらアパートまでの道を歩くという地獄のコースを経験してから、休憩の後に胡花に約束の食事を買った食材を使用して料理を提供していた
「(ほ、本当によく食べるなぁ〜……買ってきた食材、全部胡花ちゃんにあげることになるかも………)」
冷蔵庫と買ってきた食材の残りを交互に見て何を作るか確認しながら伊勢はうっすらと書いた汗を袖口で拭いつつ、どう考えても成人男性の物を遥かに超える胡花の食欲に圧され、やはり自宅に連れ込むのでは無く病院に連れて行くべきだったかと後悔もしていた
「(でも……胡花ちゃんの表情……凄く嬉しそうだ)」
だがしかし、それでも伊勢は胡花に対してあまりマイナスな感情を抱いてはいなかった
と、言うのも伊勢は昔からデザート作りを含めた調理する事を趣味とし、基本的には普段の食事も自炊で済ませるくらいには手慣れていたのだが、伊勢にはそれを振るってあげられるような友人や恋人にはおらず、両親にさえ最後に振るったのは自立する以前。つまり伊勢にとって胡花と言う少女は実に久しぶりに自分の作った料理を『おいしい』と言いながら食べてくれる存在だったのだ
「………次、オムライス作るけどソースはケチャップとデミグラスソースどっちがいいかな?」
「…! デミグラスソースでお願いします!!」
結果として伊勢は苦笑しつつも何処か楽しげに胡花の為に胡花の為にフライパンを振るうのであった
◇
「ふー……ごちそうさまでぇす………」
それから更にしばらくの時が過ぎ、日が沈み、伊勢の両腕が限界に近付き、自室の冷蔵庫に保存していたと食料と買ってきた食料もその両方が尽きようとしていた時、ようやく胡花は満足したのか空になったデザートのクレープが乗っていた皿の前で手を合わせ満足そうにそう言った
「ま……満足してくれて良かったよ……」
ギリギリで持ちこたえられた自分の腕に内心でエールを送りつつ、伊勢は胡花から空になった皿を回収しつつ少々引きつった笑顔でそう言った
「いえ本当ぅ……こんなに美味しいご飯を食べたのは久しぶりですねぇ……やはりお願いはしてみるものでぇす………」
テーブルの上に置いてあったティッシュペーパーを数枚つまみ汚れた口元を拭きつつ胡花はそう呟く
「あはは……そう言ってくれるのは嬉しいけどね胡花ちゃん。俺が作ったのは誰でも出来るような物ばかりだよ?」
流し台に大量に積まれた皿に若干、気が滅入る思いを感じながら伊勢は自分が選んだ道だと心で割り切り、皿洗いに集中しようとし
「いえいぇ……私、お父さんとお母さんに家を追い出されてからぁ……ここ半年程、コンビニのお弁当とかスーパーのお惣菜くらいしか食べてないんですよぉ……レンジで温めた物以外で暖かいご飯は久しぶりなんですぅ………」
「え……?」
何気ない口調で胡花の口から語られた衝撃の言葉に危うく手にしていた皿を落としそうになる程の衝撃を受けた
「私、バケモノ……なんだそうですぅ。と、言っても今もお金は振り込まれていますしぃ……アパートにも暮らせているんで学校には通えているんですけどねぇ? それでもやっぱり一人でご飯はあんまり楽しくは無いですからぁ……」
「こ、胡花ちゃん……」
「あぁ……家にどうにかして帰って入れてもらう事も考えてはいましたよぉ? でも私を追い出した後、直ぐに妹と一緒に引っ越しちゃったみたいでぇ……おばあちゃん達が生きていたらこうでは無かったんでしょうがねぇ……まぁ、今更言っても仕方ないですよねぇ………」
胡花の独白に最早、伊勢は何とか声をかけようとするものの続く言葉に息を飲み、言葉が止まってしまう
伊勢は特に病気も無く、ごく普通の家庭で生まれた為、TVやネットで得る情報で児童虐待と言う物が現代日本でも起きていると事を伊勢は知ってはいた。だがしかし、それをこうして目の前で突き付けられると思考が止まってしまう程の動揺を晒してしまっていたのだ
「助けたのは私からですからぁ……こう言うのは変なんですけどぉ………今日はありがとうございます伊勢さん……。これで暫くはいつものご飯でも辛くは無さそうですぅ」
そうして伊勢がフリーズしてしまっている間にも胡花は一礼の後に席を立つと、ゆっくりと玄関へと向かっていく。そう、胡花は帰宅しようとしていたのだ。それも話が本当ならば誰もいない。一人だけの自宅へと
「ま、待って!!」
そんな胡花を伊勢は野犬に襲われた時にも発する事は無かった程の大音量で叫んで呼びとめる。壁が薄いアパートでこんな大声を出せば近所迷惑だとか言う事も、そもそも何のアイデアも頭には浮かんで無かったがそれでも伊勢は動かずにはいられなかったのだ
「そ、その……っ! 俺、料理作るのが趣味でさ……っ!」
結果、 伊勢の口からどうにか出てきたのは何ら飾りの無い本音の言葉だった
「………はい?」
「それでさっ、いつも自分で作っては自分で食べてばっかりだったんだよね……だから自分の料理の味がどーだとかは分からなくて………」
案の定、胡花は足を止めて振り向きこそしたものの怪訝な顔を向ける。が、それでも今更止める訳にも行かず伊勢は精一杯頭を回転させながら言葉を続ける
「だからその……胡花ちゃんが、こうして家に来て料理を食べて感想を行ってくれたら凄く助かるんだけど……」
正直、伊勢は一人暮らしを始めてまだ2年程度、両親からの仕送りに加えてアルバイトしている今でさえ十分な余裕があるとは言い難いのが現状だ。だがしかし、それでも一人の不幸の最中にある少女を。それも仮にも命の恩人である少女をここで見逃すと言う選択を伊勢はどうしてもする事が出来なかった
「……ど、どうかな? まずは週3回とかで……」
自分で口にしておきながら大分、危ういラインのセリフである事に冷や汗を流しつつ伊勢はそう恐る恐る胡花の様子を伺いながらそう尋ねる
「……ふふっ、そうですねぇ……」
そんな伊勢の姿を見て、視線の奥に滲ませていた警戒の色を引っ込ませて胡花は面白そうに笑う
そう、先程の様子を胡花から見れば成人間際の男性が妙なリアクションをしながらぎこち無い口調で必死に自分に向かって語る言うひどく滑稽な物に見えていたのだ
「うん……今は甘えさせてくださぁい。その言葉に……」
だからこそそんな事をする伊勢がどうしても悪人には見えず、胡花は伊勢の提案を受け入れる
こうして偶然の形ながら伊勢と胡花、2人の奇妙な関係は始まりを告げたのであった
◇
『──本日、◯◯地区、第二公園の花壇の植え込みに大型犬と思われる野生動物の死骸が遺棄されている事を公園清掃のボランティアによって発見されました。警察によれば死骸は大きく損傷しており、鋭い刃物で全身を──』
雨が打ち付ける音と換気扇が回る音に混じり、中古で購入したTVから流れる少しだけ音割れしたニュースの内容をそこまで聞いた所で伊勢は運んでいた酢豚をテーブルに置くと乱雑にチャンネルを変え、当たり障りも無いバライティ番組へと切り替えた
「……うちの近所で起きた事件みたいだから少しは気になるけどさぁ。流石にこんなニュースは食事前、それも学生の胡花ちゃんの前で聞かせるべきじゃあ無いだろう」
独り言じみてそんな事を言うと伊勢は食卓の隣、トイレと一体になったユニットバスが設置された浴室へと視線を向ける。と、その瞬間、ドアの向こうから僅かに聞こえていた風の音、つまりはドライヤーの音が止むとドアノブがゆっくり動き、ゆるゆるとドアが開かれた
「……ふぅ、何度目かも分かりませんがぁ、またもやお風呂まで借りさせもらってぇ、ありがとうございますぅ伊勢さん」
浴室から出てきたのはピンクのバスタオルを身体に巻き、長い髪を頭の上で纏めた胡花だった。その全身からはうっすらとではあるが未だに湯気が上がっており彼女がじっくりと湯船に浸かっていた事を示していた
「あはは……もう胡花ちゃんは俺の家に自分のシャンプーとか歯ブラシとか持ってきてるんだし今更だって。ほら、ちょうどご飯も出来たからね。着替えたらそのまま夕食にしよっか?」
そんな胡花に伊勢は少し苦笑しつつ、そう言って胡花を促す。その様子は実に自然で端から見れば実の兄のようにも見えた
既に胡花が定期的に伊勢の元を訪れるようになってから3ヶ月の時が過ぎ去っていた。当初は遠慮しがちだった胡花も時間と共に徐々に伊勢へと心を開いていき笑顔を見せるようになってきた。最も、それと並行するように年齡より幼く見える可愛らしい外見とは違って、無許可で自分の私物やシャンプーを伊勢の部屋に置き出すようになる図々しさを見せるようになってきたのだが、それも子供らしい愛嬌だと伊勢は受け入れる事にしていた
「おぉ……酢豚に餃子に炒飯それにぃ……青椒肉絲にミニラーメン……今日は中華料理ですかぁ!」
伊勢がそんな事を考えていると胡花は既に着替えを終え、テーブルの上に並べられた料理を目を輝かせながら見ていた
そんな最中、あまりに目の前の食事に夢中になっているのか、胡花の口の端からは涎が一筋溢れ、胡花の頭のすぐ下にある酢豚にかかっていた黒酢餡に一雫、混ざってしまっていた
「(あはは……本人に言ったら絶対に拗ねちゃうだろうけど……そう言う所が小さい子供みたいでかわいいなぁ……)」
勿論、すぐ眼前にいた伊勢はそれにしっかりと気が付いていたがそれを指摘する事は無い。むしろそれを『指摘されない限り自分は酢豚を食べるのを控えておこう』としか考えない程度に笑って受け入れていた
「むぐむぐ………あむあむ………おぉ……この炒飯に入っているチャーシューは手作りですね。それにラーメンもインスタントじゃなくてしっかり鶏ガラで出汁を取っている……。それでいて肉とか野菜とかを見ても包丁使いも丁寧。本当、伊勢さんは料理の才能がありますねぇ……」
「そこまで分かってくれるの本当、凄いなぁ。本当、胡花ちゃんはご飯に対して真剣と言うか……むしろ俺と出会うまでお惣菜とインスタントだよりの粗食だったって事が信じられないくらいだよ」
胡花が料理を一つ一つ、味わって食べつつ感想を述べていくのを見ながら伊勢は心底、感心して呟く。そう、伊勢が胡花に料理を提供する度にまず気付かないような小さな工夫や隠し味にほぼ間違い無く気が付く。それは趣味レベルとは言え料理の道を歩んでいる伊勢から見れば驚くべき才能に見えた
「あはぁ……それが知識ばかりあってぇもぉ……肝心の私自身がお洗濯とか掃除とか朝の支度とかでぇ……時間も無くてぇ……それで気が付けばあぁなっていったんですぅ……」
「あぁ……それじゃあ仕方ないか………」
食べる手こそ止めないながらも何処か恥ずかしそうにそう語る胡花の言葉に伊勢は納得して頷く。一人暮らしにおける苦労は伊勢もまた一人暮らしをしている故に粗食が続く日もあったし、何より胡花は自分の意思で一人暮らしを始めた訳では無いうえ、未成年で女性だ。その苦労は想像に難くない
「(だからこそ……俺は大人としてもう少し、胡花ちゃんにご飯を食べさせてあげるべきなんだろうな……なぁに無理をするわけじゃない。少しだけバイトを増やせば……)」
「うぅん……この餃子は皮から手作りですねぇ、モッチリしています……。酢豚にはパイナップルゥ……!? 私、酢豚のパイナップル大好きなんですよねぇ……」
会話を終えると再び食事に集中し始める胡花を見ながら伊勢はそう静かに決意を決める
だからこそ伊勢がこの時、気が付くことは無かった。伊勢がニュースから切り替えたバライティ番組が放送時間を終えていた事。そして次の番組の繋ぎの為に午後のニュースが読み上げられていた事
『……大型犬と思われる野生動物の死体が公園に遺棄された事件についてですが、専門家によりますと無数の傷跡は食肉目的で付けられた可能性が高いとの知らせを本日──』
女性アナウンサーが読み上げるそのニュースを間違い無く耳にしていながらまるで無関心で食事を続ける胡花に伊勢はまるで気付く事は無かった
◇
「ふんふぅんふーん……あーぶくたったー……にえたったー……」
日曜日、快晴に恵まれ太陽が頂点へと昇りかけた商店街を伊勢は胡花と共に食料の買い出しの為に訪れていた。いつものセーラー服姿とは違い、黒いショートパンツが特徴的な動きやすい私服姿をした胡花は鼻歌を歌いながらステップを踏むように足を動かし、商店街に敷かれた色とりどりのタイルの上を歩いていた。が、鼻歌は流行りの曲などでも無く童謡であり、やはりそこが時折見せる胡花の年齢に見合わぬ幼さを滲ませていた
「(本当、胡花ちゃん流行りの歌とか歌わないしドラマとかの話もしないよなぁ……)」
そんか胡花の後ろ姿を見ながら伊勢は思考を巡らせる。何度も食事の席を囲みながら互いに話をする事で親密になり、自分は大分、吾浦胡花と言う一人の少女に対して相互理解を深めるようになって来た。それは間違い無い事実だと伊勢は判断していた。しかし、だからこそ今になって彼女を彩る情報の中に混ざるノイズのように不自然な箇所が次第に気になり始めていたのだ
それは前にも見せた料理の知識だけでは無い。例えば胡花と過ごした記憶の中で列挙してみればそれは学力。胡花が学校で出されたと言う宿題の数学のプリントを親切心で見てあげようとしたのだが伊勢の予想に反して胡花は特に悩んだ様子も無く問題を問いていき、逆に横で見ていた伊勢の方が久方ぶりの計算式を前に途中で詰まってしまい学力不足を実感させられた程だった
「(いや……そもそも胡花ちゃんが両親から『化け物』って言われたってのは一体どういう事だ? 少し変わった子ではあるけど俺の見る限り全くそんな様子は無い……勿論、単なる毒親の妄言だって事にすれば単純な話だけど……)」
伊勢は視界の端で胡花を見つめながら、頭の中でいくつも考えをよぎらせ集中させる。当然ではあるがその分、周囲の空間認識は疎かになり、伊勢の足取りは何処か不安定になる。と、その瞬間、一歩を踏み出した伊勢の足が妙は踏み込みをし、ぐきりと曲がり伊勢の身体が大きく傾く
「……!? ととっ……うわぁっ!?」
「伊勢さんっ!?」
突然、身体が大きく傾いた事で咄嗟に伊勢は踏ん張ろうと残った片足に力を込めて持ちこたえようとするが、その努力はほんの1秒ほどしか持たず、伊勢は胡花の驚くような声を聞きながら受け身も取れず、正面から崩れるようにタイルの上へと倒れた
「いてて………」
したたかに身体を打ち付けた伊勢は悶絶しながらゆっくりと地面に手を付いてうつ伏せの状態から身体を起こす。起こす最中、転倒の衝撃からか一瞬、めまいのように伊勢の視界がちらついたが数秒程で直ぐに戻り、しっかりと眼前の黒いタイルを映した
「(おいおいおい……考えすぎて足元確認が疎かになって転ぶなんてカッコ悪いにも程があるだろう俺。しかも胡花ちちゃんの前でなんて………)」
内心からこみ上げてくる恥ずかしさを堪えつつ、大学入学記念に買ったそこそこ高かった眼鏡が転倒の衝撃で外れて壊れたりしなくて良かったと、伊勢は僅かに安堵した
「大丈夫ですかぁ、伊勢さん?」
と、そこに胡花が先程までの踊るようなステップを完全に捨てた早足で伊勢の元に駆け寄り、心配そうにそう声をかけてきた
「あはは……恥ずかしい所、見せちゃったなぁ……。でも平気だよ! このくらい全然ね」
恥ずかしい所を見せた上に、いらない心配までさせてしまったらそれこそ年上の面目が丸潰れだ。そう考えた伊勢は多少無理して笑顔を作ると勢いよく立ち上がる
「あ………」
その瞬間、胡花の口からそんな声が溢れだし、それと同時に視線が伊勢の下腹部、正確に言えば右足へと向けられる。何事かとそれに釣られるように伊勢が視線を動かした時に気が付いた
伊勢が日頃から愛用し、今日もまた着用していた安物と青いジャージ。その膝部分、恐らくは転倒した時に強打した部分が野ネズミの口で食い千切られたように裂け、そこから覗く伊勢の膝から血が滲み、ジャージに血の染みを少しずつ広げていたのだ
「(あーあ……こりゃあまた何てベタな事を……痛ったいし……ジャージも買い替え……いや、この程度なら縫って……)」
繰り返す自分の失態にもはや若干の嫌気を感じつつ、傷を見た事で鋭い痛みを感じた事で更に伊勢は気分がゲンナリするのを感じ、思わずぼんやりと空を見上げる
「……むぅ、これはぁ……」
と、その時だった。伊勢の膝部分に不意打ちのように生暖かい吐息と何かを思案するような胡花の声が響いた
「ちょおっ!? こ、胡花ちゃん!? な、何をしてんのっ!?」
「……出血は多めだけどぉ傷口は浅い。しかし砂は入ってしまってるかもぉ……」
見ればいつの間にか膝が地面に付かぬように屈んだ胡花が超が付くほどの至近距離で伊勢の傷口を凝視していたのだ。突拍子も無い行動に思わず伊勢は思わず叫んでしまったが、その声すらも届いていない様子で、更に顔を近付け入念に胡花は観察を続ける
「伊勢さぁん……ごめんなさい。少し染みますよぉ……?」
混乱したままの伊勢を他所に胡花は肩に下げたオフショルダーバッグからペットボトルに入った水を取り出し、中身を伊勢の傷口へと向かって流すと水で付着した砂を洗い流し始める。それが終わると再び自身のバッグを探るとガーゼを取り出し、傷口付近の土と血をそっとふき取り始める
流れるように行われた、その一連の動作は非常に落ち着いたものかつ冷静であり、胡花と言う少女がこう言った事に『手慣れている』と言う印象を伊勢に与えさせた
「(……妹がいるって言ってたし昔はよく世話をしていたのか? それとも保健委員とか……)」
そんな胡花を見て伊勢がそう分析しようとした、その時だった
「……んっ……れろっ……」
全く突然、先程まで真面目に治療をしていた胡花が伊勢の傷口に舌を這わせて来たのだ
「いひいっ!?」
突如として遅いかかった生暖かく、湿った舌の感触とちくりとした痛みに今度こそ伊勢は奇声をあげるのを我慢出来なかった。思わず反射的に力を入れ振り払うように脚を動かしてしまった
「れろっ……あむっ……」
しかし、それなのにも関わらず胡花は伊勢の脚をしっかりと両手で掴んだまま離そうとしない。それどころか更にもう一度、二度と傷口に舌を這わせて流れる血液を確実に口内へと運び込んでいく
「こ、胡花ちゃん!? 汚いから! 離して!!」
その行動に驚愕しながらと伊勢は声を張り上げつつ胡花の肩を掴み、自分より頭2つほど小柄な胡花に大の男の自分が腕力を振るう事に迷いを感じながらも、力を込めて引き剥がそうとした
「あむぅ……じゅるるっ……!!」
が、伊勢がそれなりに力を込めたと言うのに伊勢の脚にしがみつく胡花はまるで揺るがない。それどころか更に強く伊勢の脚にしがみつきキスをするように勢いやく傷口に吸い付くと音を立てて吸い上げ、自身の喉に伊勢の血液を流し込んでいく
「痛っ……!! やめ……落ち着いてっ!!」
当然、伊勢の身体に走る痛みは先程よりは激しさを増す。傷口が開き、剃刀がじわりじわりと鋸でも引くように肌に食い込み、徐々に増してくる痛み。そして、胡花の異常な行動に対する恐怖に耐えきれず、半ばパニック状態に陥りながら更に力を入れて胡花の身体を押し込み引き剥がそうと試みる
「………んぐぐ………はっ……!?」
そうした攻防が数秒程、続いた時だっただろうか。それまで伊勢の抵抗も意に返さず傷口から血液を喉に流し続けていた胡花が何の予兆も無く自分からしっかりと掴んでいた腕を緩め、伊勢の脚から顔を離したのだ
「あ……わ……わた……わたしぃ……」
長く傷口に顔をぴったりと付けていたせいだろうか。胡花の唇は血液で濡れ、口紅を塗ったように色付いていた。しかし、顔を上げた胡花の表情に浮かぶのは深い後悔。そして自身が取り返しの付かない事をしてしまったと察する絶望
「ご、ごめんなさぁい! 伊勢さんっ………!」
そして胡花はそのまま背を向けると、何か胡花に声をかけようとし、結局は何も言う事が出来ない妙に体勢のまま動けぬ伊勢を尻目に勢いよく走りながら立ち去ってしまう
「胡……花………ちゃん……………」
後に残されたのは漸く、掠れるような声を出すことに成功した伊勢と、今更ながら2人が繰り出した喧騒を耳にしたのか何事かと集まりだした野次馬だけだった
「何だったんだ………今のは……?」
混乱する頭を必死に整理しながら呟く伊勢の呟きに応える物は誰もいない。ただ伊勢の傷口から血液と胡花の唾液が入り混じった液体がぽとりとタイルの上へと落ちただけだった
◇
それから1週間が過ぎ2週間が過ぎても尚、伊勢は胡花と顔を合わせる事が無かった。と、言っても伊勢自身が胡花を避けていた訳では決して無い。ただ、何時も当たり前のように打ち合わせもなく胡花と遭遇していた町中の道に、あるいは建物の中に、その姿を伊勢がどうしても見つけられない日々が続いていたのだ
「今日も既読は……やっぱり無しか……」
昼時の自室、電灯を付けない為に薄暗い部屋の中で無造作にスマホを操作し、SNSを通して胡花へと送った短い文章を何度も確認しながら伊勢は何度目かも分からないため息をつく
あの事件の日、当日から伊勢は胡花に連絡を取ろうと試みていた。が、時間を変え文面も変え、通話を試みても一切、胡花がそれに反応をする事は無く、ただ只管、伊勢は行き場を見失った焦燥感に駆られながら日々を過ごす事しか出来なかったのだ
「………また食材、駄目にしちゃうかな」
悲しげに呟く伊勢の目の前にあるのは自身が作ったオムライスが乗せられた皿。それが丁度、2人前。連絡を入れた後、僅かな望みをかけて出会った当初に胡花に振る舞った物と同じデミグラスソースをかけたオムライスではあったが、胡花を待つ間にすっかり冷めていまい、湯気も出なくなって既に数分の時が過ぎていた
「胡花ちゃん……」
オムライスに視線を向けつつ、そこに心底美味しそうに自分の料理を食べてくれていた胡花の姿を幻視し、伊勢は寂しそうに呟く
何故、当初は胡花の異常行動に心底、恐怖を感じていたのにも関わらず今、自分がこうまでして胡花との再会を願っている理由は伊勢自身にも説明が出来ない。単なる義理やあの時に抱いた同情心をまだ引きずっているのかとも考えたが何となくそれが違う気がした
「と、なると……後は……」
再びスマートフォンを見つめ、胡花からの連絡が無いことを確認すると伊勢は一つの決意を心に決める
「やっぱり直接行ってみるしかない……か。胡花ちゃんの家に」
そう、実の所は伊勢は数カ月の短い日々の中、日が沈んだ後に為に胡花を彼女のナビを受ける形で送り届けた事が数度程あった。それ故に当然、胡花の暮らすアパートも部屋の番号も知っていた。つまり何時でも行ける状態ではあったのだが
「(俺はやっぱり怖い。胡花ちゃんの家を訪れてしまえば様子が変貌した理由を分かってしまう気がする。そうなった時、今までの関係に戻れない気がしてならないんだ)」
それでも伊勢を躊躇させていたのは未知に対する恐怖だった。あれ以降、伊勢も自分なりにネットや本を使い胡花の豹変の理由を考察して見たのだがどうにもピンと来るような物は出てこず、何となく集めた資料に加えた伊勢の主観で『あれは過去のトラウマとかそう言う物とは違う』と言う極めて根拠の薄い事しか分かる事は無かった
「でも、ここでこう考えるだけじゃあ何にもならないは100%間違い無い。……かっ」
そこまで考えると伊勢は敢えて口にする事で堂々巡り状態となった。我ながら二流とは言え大学に通っているとは思えない程の根性と気力任せだなと自嘲しながらも伊勢はゆっくりと椅子から立ち上がる
「オムライスは冷めちゃってるけど……まぁ、流石に電子レンジが家に無いって家は相当珍しいでしょ。一応は冷めても美味しいようには作ってあるしね」
冗談のようにそう言いながらも動き出す伊勢の表情は何処か晴れやかな物へと変わっており既に迷いは消えているのが分かった。その姿は正に勇気を胸に立つ誇り高い姿と言えただろう
だが、それでもしかし、伊勢はこの時は今一度冷静になり、周囲に気を配って見るべきだった
そうすればあるいは、同日に起きた大物政治家の汚職事件に押されて一面を逃したものの、それでも大々的に取り上げられていたある家庭の一家惨殺事件の記事に気付いていたかもしれなかった
◇
そうして伊勢がタッパーにオムライスを入れた手提げ袋を持って自宅を出て半時程が過ぎた頃、少しばかり迷いながらも伊勢は胡花が暮らすアパートへと辿り着いた
「しかし……まだ昼間だと言うのに夜と分からないくらい静かだな」
伊勢の言葉の通り、目の前のアパートは住宅街や街から少し離れた所に隠れるようにひっそりと立ち、築年数の長さを証明するように一部分がひび割れたうえに日光で色が淡くあせた外装や、離れた住宅街や街からは喧騒が聞こえるのにアパート自身は水を打ったように静まり返っている状況は何処となく昔、ホラー小説で幽霊屋敷を連想させるような不気味さを放っていた
「馬鹿馬鹿しい……いくら雰囲気があるからって、そんな小学生がする妄想してどうするんだよ」
と、脳に過った妄想を伊勢は鼻を鳴らして絶ち切るとアパートの正面玄関をくぐり、胡花の部屋へと向けて歩き出す
玄関をくぐったアパート内の廊下は天井から等間隔で設置された電灯が灯ってはいたのだが寿命が近いのか電圧に問題があるのが不規則に点滅を繰り返し不気味な空気を放ち、建物内に入ったのにも関わらず生活音や伊勢以外の足音は等は聞こえてこず伊勢の足を僅かに鈍らせたが、それを『こんな古そうな建物じゃあおかしくも無い』と、自分自身に言い聞かせ、臆したのを誤魔化すように少し足を早める
「そもそも今から胡花ちゃんに会おうってのに住んでるアパートの雰囲気だとか空気をいちいち気にしている場合じゃ無いだろう………」
幸いな事にアパート内部そのものはキチンと清掃されており特にゴミも見当たらない。そんな僅かな人の形跡が頭によぎる幽霊屋敷の妄想を振り払ってくれ、伊勢は落ち着いて階段を登って直ぐの所にある胡花の部屋の前にまで辿り着く事が出来た
「さぁて……もう逃げ場は無いぞ伊勢重郎……っと」
伊勢はそう言うと深呼吸をし、小声でそう自分に言い聞かせるように、あるいはリラックスさせるように少しだけおどけた口調でそう呟き息を吸い込む
吸い込むと同時に聞き耳を立ててドア越しに部屋の様子を探ってみるが静かで特に目立つ物音は聞こえない。が、何となくではあるが胡花のものらしき人の気配はドアの向こうから感じる気がした
「胡花ちゃん、俺、伊勢だよ。うん、いきなり訪ねてきてごめんね。話したい事があるんだ、開けてくれないかな?」
呼吸の後、覚悟を決めた伊勢はドアを3度ノックし部屋の中の胡花にも聞こえるようそれなりに大きな声を出して呼びかける。が、声をかけた後、10秒待っても20秒待っても胡花からの返事は無い
「胡花ちゃん? いるのー?」
僅かに迷ったが伊勢は再度扉を叩くと先程より声を若干張り上げて胡花の名前を呼ぶ。が、しかし返ってくるのは沈黙のみで、伊勢の声の残響のみが虚しくアパートの内部に消えていくだけだった
「(参ったな……一応、向かう寸前に一報は入れておいたけど、そもそも既読すら付かないんじゃあ本当に留守なのかどうかも分からないし……ここで待つべきかな? いや、それじゃあ僕がストーカーと思われるかも知れないし………)」
仕方ないとは言え出鼻を挫かれたような事態に伊勢は思わずため息を付いた。そのまま何の気なしに次に自身がやるべき事は何かと考えながら部屋のドアノブを握る。と、その瞬間に気付いた
「……空いてる」
ドアには鍵がかかってなかった。恐る恐るそのまま引いて見ればドアストッパー等も使われている様子もなくスムーズドアが開き、伊勢の頭が軽々入る程のスペースが開き、そこから廊下よりも尚、暗い室内が顔を覗かせた
「胡花ちゃーん……?」
ただドアが開いただけ。そんな至極当然な事なのにも関わらず、開いた瞬間、封印が解けたようにただならぬ空気が漂い始めたのを感じながら部屋の中に向かって三度、胡花の名前を呼ぶ。恐る恐る玄関から部屋の中を見て見れば入ってすぐに突っ張り棒を通す形で青いカーテンが吊るされて、それ以上先を覆い隠しカーテンと床の僅か隙間しか先を見えなくしていた。が、ドアを開けた事で空気の対流が発生し、伊勢の顔に目掛けて部屋内にこもっていた匂いが漂って来た
「これは……醤油の匂い……?」
それは甘辛い醤油の香りであり、普段から料理を作っている伊勢には直ぐにそれが醤油を使った煮物の香りだと言う事にも気が付いた
「よかった、少なくとも胡花ちゃん料理は作っているみたいだ。何か少し変な臭いも混じってる気がするけど………まぁそれは気にしなくて大丈夫だろう」
それを察すると伊勢は安堵の息を付く。自分と離れて再びコンビニ弁当生活に戻ってしまったのでは無いかと危惧していたので一先ずそれだけは安心する事が出来たのだ
「胡花ちゃーんー? 上がるよ………?」
そして知らなかったとは言え許可も得ずにドアを開けた以上、もう引き返す事は出来ないと伊勢は最終確認のようにそう呼びかけると玄関で靴を脱ぎ、部屋内へと上がる
。室内に一歩踏み出すと床がきいと音を立て、それがまるで伊勢が入った事を家主に知らせるベルであるように部屋の中に響く。それが何か無機質な警告の声のような気がして伊勢は思わずこみ上げて来た唾を飲み込んだ
「(おいおい、何をしてるんだよ俺……女の子の部屋に入るんだから緊張するのは仕方ないにしても、こんなホラー映画の登場人物みたいにあちこち警戒しなくても別に………)」
そんな自分の妙に警戒ばかりしてしまう態度を妙に感じつつも、単に気にし過ぎなのだと内心で笑いながら伊勢は通路を遮っていたカーテンを片手でめくるとその向こうき踏み出し
瞬間、正面から強い衝撃を受け、先程まで自分が歩いてきた廊下に背中から叩き付けられ倒れ込んだ
「っ……! あっ……!?」
肺に溜まっていた息が一気に口内から吐き出されてしまうような衝撃を背中に受け、伊勢は思わず悶絶する。激しく揺れる視界の中、訳も分からないままとりあえず何とか呼吸をしようと試みる。が、そんな伊勢に休む暇も与えないと言うのか上半身に勢いよく黒い何かが飛び乗ってきた
「…………なんでぇ、なんで来たんですか伊勢さぁん……」
それは正に伊勢が覚悟を決めて会おうとした少女、この部屋の主である胡花だった。伊勢の腹辺りに腰掛けた胡花は恨みがましいような、あるいは悲壮にくれたような声で伊勢の顔を覗き込みながらそう問いかける
「こ、胡花ちゃん………!?」
だがしかし、伊勢はそれが本当に胡花なのか一瞬、本気で判断に迷った。何故なら、その外見は最後に出会った時とはあまりにも印象が異なっていたからだ
目は薄暗い部屋の中でしかも眼鏡越しだと言うのに分かるほどに凶暴に光り、髪は最低限しか手入れをしていないのか乱れて野生動物の毛並みを思わせ、そして何より身に付けている制服には斑点のように赤黒い染みが付着していたのだ
「私……私ぃ……やっぱり変なんです……おかしいんですぅ……」
そんな伊勢の言葉に胡花は答える事は無く、ポツリポツリと語り始める。それはまるで中身を出さぬよう必死に覆っていた蓋の隙間から徐々に中身の液体が滲み出してくるかのようだった
「自分が大切な人……大好きな存在とは絶対に離れたくなくてぇ……それでずっとずっと悩んで……苦しくてぇ……ある時、ふっと思ったんです……」
「食べちゃえばずーっと一緒にいられるってぇ……」
「それでぇ私、家で飼っていた猫を食べちゃってぇ……言われたですぅ……お父さんにもお母さんにも妹にも……化け物って……」
「胡花ちゃん………」
自身の上に跨りながら語る胡花の独白を伊勢は静かに聞いていた。話を聞きながら、この後に自分がどうなるのかも察したがそれでも泣きそうな顔で語る彼女をどうしても振り払う気にはならなかった
「一生懸命普通のヒトのフリをしようとしました……でも私は……私はぁ……!」
興奮した様子で叫びながら胡花は伊勢に顔を近付ける。その瞳には強い悲しみが浮かび、堪えきれなくなった涙が一粒落落下し
「伊勢さん……優しいあなたを……私がご飯食べている姿を楽しそうに見てくれているあなたをぉ……好きになってしまいましたぁ………」
それと全く同時に欲望の象徴のように口元からあふれ出んばかりにこみ上げた涎が一滴、結果的に二粒の雫が伊勢の頬を濡らした
「抑えられると思ってました……今度こそ普通の女の子みたいに幸せになれるって思ってましたぁ……でも……でも……あの時……伊勢さんの脚から流れる血を見た時……あの時ぃ……どうしてもっ……どうしても伊勢さんが欲しくてっ……!! 『他の大切な物』で代用したのに
それでも伊勢さんを見たらっ………!」
贖罪するように語る胡花の声は常に震えている。その理由の大半は自身の抑えられない衝動に対する恐怖ではあるのだろうがそこにもう一つ、大きな感情がある事に気が付いた
「(あぁ……そうか……この醤油の香りに混じる匂いは……どうりで嗅いだ事も無い変な匂いのはずだ………)」
伊勢は自身の頭の中で単なる情報に過ぎなかったパーツが自然に繋がっていくのを感じていた。伊勢が知る胡花は年不相応の幼さもあれど穏やかだで生真面目な少女であった。そんか彼女が大切な物と断じる物。だとすれば、それは間違い無く彼女にとって天秤に乗せるのを躊躇う物に違いなく、尚且つその動機が食欲を満たそうする行為ならば答えは一つしか浮かばなかった
「胡花ちゃん……君は自分の家族を……」
「はい、お父さんもぉ、お母さんもぉ………そして妹もぉ………」
「……私が殺しました」
伊勢の言葉を胡花はその胸元に顔を埋めながらも僅かに首を動かす事で頷き、小さいながらも淀みのない声で肯定する
「私はぁ……! なんて……なんてあさましい……! どうしても食欲も! あなたの愛情も! 少しも押さえ付ける事が出来ないなんてっ………!!」
「胡花ちゃん………」
胡花の目から零れ落ちる涙は一向に止まらず、滝のように流れ続ける。伊勢の前で懸命に被っていた仮面が剥がれた事で感情を制御する事が出来ていないのは伊勢の目から見ても明らかだった
「(この子がこうなったのは俺のせいだ。変なお節介で、この子の開けてはいけない扉の鍵を開けてしまったのは俺自身なんだ。だったら、もうこの子に『俺の為に』殺人なんてさせる訳にはいかない)」
「(責任は取らないとな)」
そして伊勢は静かに決意を込めて一つの言葉を口にする
「胡花ちゃん、もういいんだ」
「えっ……? 伊勢……さぁん」
その言葉を聞いた瞬間に胡花は泣くのを止め、驚いたような表情で伊勢を見つめ返す
「もういいんだ我慢しなくて。俺の事を好きにしてくれていいよ」
だから伊勢は出来るだけ安心させるようにそう告げ、小さく震えている胡花の背中へと腕を伸ばす。幸いな事に少しだけ痺れはあったが伊勢は無事に胡花を抱き締める事が出来た
「伊……勢さ……ん 伊勢さぁん! 伊勢さんっ!! 伊勢さんっ!!」
その言葉で、その仕草で身体に残った最後の箍すら外れたのだろう。興奮した様子の胡花の目からは涙が引き、お返しのやうに力一杯、伊勢を抱き返す。抱きつかれる寸前、伊勢の目には胡花の目から理性が消え、飢えた肉食動物のような狂気と恋に恋する乙女の愛情が万華鏡を回すかのように入れ替わり変わっていくのが見えていた
「(責任だけじゃない、こんなに可愛い子にここまで愛されているんだ俺は。男に生まれた以上、受け止めるのが筋って奴だろう)」
自分にこれから先、待ち構えている運命をしっかりと理解しながら伊勢は静かにそれを全て受け入れていた。部屋に入るまであれ恐怖していたと言うのに胡花こ心を理解出来たと言うだけでここまであっさり受け入れる自分も大概狂ってるのかも知れないと伊勢が内心で自嘲しながら眠るように目を閉じる。と、それを『誘っている』と判断したのか伊勢の唇にむしゃぶりつくように胡花が唇を重ねてきた
「(まぁ……せめてファーストキスくらいはもう少しロマンチックにしたいものだったけどなぁ………)」
伊勢にとってのファーストキス。それは甘ったるい唾液とその奥に感じる血と内臓の香りがする異常なものであった
◆
「……おはようございますぅ。伊勢さん。と、言っても私には本当に今が朝なのかはいまいち分からないんですがねぇ」
寝るのにも幾分か慣れた来たベッドから起き上がり、胡花は一人で過ごすには十二分な広さの部屋の中心。そこに特に目立つように組み上げた祭壇の中心にいる『伊勢』に笑顔で挨拶をした
「まだまだ外では警察による捜査が続いてるみたいですし……私も当分は家賃を払うためにお家でお仕事です。まぁ、伊勢そんとずっと一緒にいれるのは嬉しいんですがねぇ……この部屋も居心地良いですし……」
独り言のように呟きながら胡花は部屋全体を見渡す。冷蔵庫や洗濯機など基本的な家具は入居する事になった当初から真新しい物が設置されており、空調も当然のようにある。つまりは全体的に見れば一般的な家具付きマンションの一室のように見えた。ただ、唯一、違うのは外がみえるような窓が一切無く換気は空調だよりな事程度くらいか
「本当……私を匿ってくれた樋村さんには感謝しなくてはいけませんねぇ」
そう、あの後、欲望を解放した事で心から満たされた胡花の前に突如として現れ手を差し伸べたのは『樋村』と名乗る妖艶な雰囲気が漂う一人の女性だった。混乱する胡花を前に、胡花の通う学校の卒業生と語る樋村はこう告げたのであった
『実の所、君達については前々から観察させて貰っていたよ。この結末は少々、想定外だったがね』
『そこでだ、私は個人的に君達に興味が湧いた。これから先も2人で安心した暮らしはしたいだろう? 何、対価は定期的な観察と軽い自室での事務作業程度で十分さ』
『断る選択は無いだろう? 何故なら君達は………』
「………まぁ、特に何か困る訳でもありません。あの人の事は今はいいでしょう」
そこまで考えた所で胡花は回想を止め、祭壇に鎮座していた伊勢を手に取る
それは成人男性の頭蓋骨であった。余程上手く処理がされているのか骨は白く輝いて艶を持ち、生前の伊勢の頭部の面影を強く残していた
「伊勢さん……私はあなたのおかげで『この子』と心から満たされた日々を送れていますよぉ………」
そう語りながら愛おしそうに腹部を撫でる胡花。その腹部は僅かに膨らみ、そこに新たな命が生まれている事を示していた
「もうあれから私は全く不自然にお腹が減る事が無くなりましたぁ……ありがとうございます伊勢さぁん………大好きですよぉ………ずっと……」
これは端から見れば悍ましい光景そのものなのかも知れない。しかし、間違い無く胡花と言う少女の心は間違い無く満たされていた




