◇第十五ヤンデレ タイプ《近所のお姉さん》
皆様、一年近くお待たせして本当に申し訳ありませんでした。
感想欄で、ご心配して下さった方もいらっしゃいますが僕はまだこの作品を続けて行くつもりです。投稿を出来る限り早くしようと思っていますが再び大きく投稿期間が開く事があるかも知れません。それでも決して最後まで作品を続けて行きたいと決めておりますのでどうかよろしくお願いいたします
僕、佐原椿は昔から年齢の割に背丈が低いこと、僕自身が自分で鏡を見てもそう思ってしまう程に中性的な顔立ちであり、酷いときには下手な女の子より女の子に近い、等と事を言われて同級生等に馬鹿にされる事が多く、その度に憤慨していた。
とは言っても体育の成績が万年クラス最下位争いレベルで、痩せきずの体の僕には生憎体力に自信など無く、分かりやすく腕っぷしで解決するなど夢のまた夢の話であり、必然的に僕は知識で相手を打ち負かそうと図書室へと通い、理科学、生物学、歴史学等ジャンルの関係なしに本棚の本を端から端まで読破する勢いで片っ端から本を読みあさっていた所、気が付けば僕の成績は大幅に上がり、小学校卒業と同時に僕は実家を離れて私立中学へと入学する事が決まった
慣れ親しんだ故郷と自宅、まだ幼いながらも僕を『お兄ちゃん』と舌ったらずな口調で無邪気慕ってくれている最愛の妹である牡丹を残し、一人別の土地に行くのは僕にしても大きな勇気が必要だったし不安だったがそれでも尚、『皆に外見で馬鹿にされたくない』と言う思いだけで僕は名残惜しみながらも故郷を離れる決意を決めたのだった……と、そうして引っ越しを決めて半年と少し。馴れない土地ゆえに何かと多かった苦労が収まりつつある今、現在、僕は一つの大きな問題に直面していた
「つーばーきーくーん。貴仍お姉さんが来ましたよ~開けて下さ~い~」
「……はぁ……なんですか月野さん」
学校が終わり、自宅と比べれば狭苦しいながらも何処か愛着さえ沸いてきたアパート自室の中心に置かれたちゃぶ台の上で学校の提出課題を終え、ついでに明日の予習を始めていた頃、やたらに間延びする声と共にドアがノックされ、僕は非常に放置したい思いに囚われたが放置をすればそれこそ僕がドアを開くまで延々とドアの前に居座るだろう、と、言うことを知っている為、ため息をつきながらも手にした筆記用具を机の上に置き、昔ながらのシンプルな鍵が取り付けられたドアのロックを外して、ため息をつきながらドアノブを回して扉を開いた
「あ、今日はあっさりと開けてくれた~、ふふっ、椿くんってやっぱり素直でいい子だね~。これで名前で呼んでくれるともっと嬉しいんだけどなぁ……」
「……そんな事を言いに来ただけなら、ドア、閉めますよ? 月野さん」
開いたドアから僕の顔を見た瞬間、月野さんは一瞬で顔を輝かせると自身が着ているセーターの特徴的な長めの袖をパタパタと嬉しげに揺らし、何故か得意気に僕に目配せを送り、月野さんのその仕草が妙に苛立ち、ついでに小馬鹿にされているような気がした僕はそう言って再びドアノブに手をかけ扉を引く
「待って! 待って~! 確かに大きな理由の一つではあるけれど、もっと大切な用事もあるからぁ! ドアを閉めないで椿くん!」
と、その瞬間慌てて月野さんは閉まりかけたドアに駆け寄り、手でドアを押さえながら僕にそう懇願してきた。しかも近寄ってきた事で月野さんの顔をよく見てみればうっすら涙目にさえなっているのに僕は気が付いた
「あー……分かりました。ドアは開けます。開けますよ月野さん……。だから早く泣き止んで入ってください」
立派な大人がドアを閉じられたくらいで何をやっているんだと。と、心底呆れた気持ちが芽生えながらも、流石に公衆の目が行き交う廊下で泣かれるのは良心の呵責を感じるので僕はため息を一気に吐き出すと月野さんをドアから離させれると、そのまま扉を大きく開いて月野さんを中に招きいれた
「ありがとう椿くん~! やっぱり椿くんは優しいね~」
部屋の中に入るなり、月野さんはいっそ見事も言える程に全く躊躇無く僕を抱きつき胸元に抱き寄せると、さながら子犬でも相手をしているように頭を撫で回してきた
「月野さん……身動きがとれません。離してください」
月野さんの力加減がしっかりしているのか、全く体は痛かったり苦しくは無いものの、月野さんの着ているセーターの布越しからでもハッキリと分かる女性特有の柔らかい肌と月野さんの体から発せられる女性を強く意識させる甘い香りに埋もれるような形でしっかりと抱き締められ、もがこうともその肌に手が埋もれてしまい抵抗らしい抵抗にならず、全く身動きが取れなくなった為にたまらず僕は月野さんにそう抗議して離して貰うよう催促した
「え~……?あっ、それじゃあ、『月野さん』じゃなくて『貴仍』って呼んでくれたら離してあげる。でも、勿論そのままがいいなら……」
「離してください貴仍さん」
「一秒も迷わず即答!?……あっ……」
月野さんから言い出した提案をコンマ一秒程悩んで受け入れた僕は、何やらショックを受けた様子の月野さんを尻目に僕を押さえ付ける力が弱まった隙を突いて月野さんからの腕からすり抜ける形で脱出に成功した
「……それで? 月野さん、大切な用事って一体何ですか?」
離れても尚、僕の体に残る月野さんの柔肌の感覚の名残と香りを意識しないように注意しながら、あくまで呆れてるだけのように見せるために、僕はため息をつきながら服のシワを伸ばしつつ月野さんにそう尋ねた
「名前で呼んでって言ったのに、もぅ……椿くんったら相変わらず素直じゃないんだから……。そこもかわいいけどね」
そんな僕を見ると何故か月野さんは矢鱈にニマニマとした、例えるならば微笑ましいものを見ているかのような微笑みを浮かべ、とても満足気にそうにそう言った
「……月野さん、前から言ってますが僕は男です。常識的に考えて男に対して『かわいい』と言う言葉は間違ってると思いますが? 正直に言えば言われるのは好きじゃありませんし……」
月野さんの『かわいい』と言う言葉に心の底で若干の苛つきを感じながら僕はそれをあまり表に出さないよう意識しつつ注意するような口調でそう言った
「え~? 折角の椿君の良い所なのに……でも、少し考えたら、しっかりと自分の意思を通せるって子はかっこいいよねぇ。うん、私は椿君はかっこいいと思うよ」
僕の主張を受け、月野さんは若干悩むような仕草を見せたものの直ぐに何か納得したかのようにそう言うと手を伸ばし、髪が乱れぬ程度の力で僕の頭を丁寧に撫で回し始めた
「……!ほ……誉めてくれるのは嬉しいですが、撫でるのは控えてください」
心中に秘めている事を正直に語れば、僕の頭を撫でる月野さんの手の感覚はとても心地が良かったし、そして何より妹以外の女性に『格好良い』と誉められたのは初めてなのだから僕が嬉しく感じるのは驚くべきでもない当然の事なのだ
そんなことを思いながら僕は自然とだらしなくにやけてしまう顔を月野さんに見られまいと、痛くなる程に首を捻って月野さんから顔をそむけ、口元を着ている服の袖で覆い隠すのであった。
なお、そんな僕の精一杯の努力はそれから1分とかからず月野さんに看破され更にからかわれる事になるのだが、当然、その時の僕が知るはずも無かった
◇
「…………」
「椿君……あの……ごめんね? 私が悪かったから……そろそろ機嫌を治して……ねっ?」
「……怒ってません。それより邪魔だし危ないですから離れていてください。月野さん」
キッチン脇に取り付けられたポットから急須に湯を注いで中の二人分の茶葉を蒸らし、たった今炊き上がったばかりのご飯を炊飯器の中で少しかき混ぜてから二人の茶碗によそう僕に月野さんが一定の距離を保ちながら妙にそわそわした様子で話しかけてきたが、僕はそれを無視しぶっきらぼうに返事を返す。
僕の行動について誤解をするかもしれないので予め言っておくが、これは子供では無いのだから決してからかわれた事を怒っている訳では無く、湯などの熱いものを扱っている最中にあまり話しかけては手元が狂って火傷しかねないと言う僕の静かなる警告と、人をおもちゃにしてはいけないと言う月野さんに対する抗議を表しているだけで、繰り返して言うが決して僕は怒っている訳では無いのだ
「……そんな事より月野さん。お鍋、沸いてますよ? 僕に構ってる暇はあるんですか?」
故にしつこく言うが決して壁に掛けられた時計から計算して丸5分以上、頭を撫で回されたり息が出来ないくらい抱き締める等して散々からかわれた事を怒ってなどおらず、極めて冷静な僕はコンロの火にかけられている月野さんが持ち込んできたド鍋の様子を見て、そう指摘した
「えっ……? わわわっ……!! 渾身の一作がぁ!!」
僕の言葉を聞いた瞬間、月野さんは大慌てで僕から離れて片手に鍋つかみを装着して土鍋に向き直った。
「良かった……まだセーフかな……? でも、もう少し遅れてたら危なかったかも……」
「月野さん、準備が出来たなら鍋を机まで持ってきて下さい。食器や鍋しきは僕が出しておきます」
そんな風に心底慌てている月野さんを見てた事で、まぁ決して怒ってなどいない僕だが少しだけ溜飲? のようなものが下がり心が軽くなった僕はごく自然な動きで自分がよそったご飯とお茶を手早く机に置くと自分に出来る月野さんのフォローに入った
「あ、ありがとう椿君……! いつも思ってるけど、やっぱり椿君は優しい良い子だね」
僕がそう言うと月野さんは僅かに鍋から視線を外し、何故か少し感動したような口調でそう言いながら微笑みかけた
「べ、別に……僕は当然の事をしたまでですから……」
と、不意打ち気味に月野さんの微笑みと純粋な誉め言葉を受けた僕は瞬時に自身の頬が赤くなって行くのを感じ、慌てて視線を月野さんから反らす
客観的に見ても月野さんは当人の性格が出ているようなふわふわした髪と女性特有の柔らかさと丸みが良く似合う穏やかな美女であり、そんな美女に完全に油断している時に純粋な好意を込めた微笑みを浮かべられれば男として、否、人として当然。生理的反応であり僕の反応は何も間違ってはいないのだ
「さっ……椿君。早くご飯食べよう? 今日は少し失敗しちゃったけど……それでもお姉さんの自信作なんだから」
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか月野さんは僕が動揺している間に僕が置いていた鍋しきに土鍋を置き終え、いつも僕が座っている座布団を軽く叩きながら僕を手招きしてきた
「……分かりました」
繰り返して言うが先程の僕の反応は論理的に考えても間違った反応では無い。が、しかし、だからと言って実際に照れている事を月野さんに気付かれても全く平気。と言う筈は無く、ともかく僕は短く深呼吸をして心を落ち着かせると、月野さんの手招きに答える形で机へと歩み寄った
◆
思い返せば僕が月野さんと出会ったのは引っ越して来てから2ヶ月後、ある休日の夕方だった
その日、引っ越して以来勉学に集中するあまり引っ越しの時に持ってきて以来、食材の補充を忘れていた事に夕方になって冷蔵庫を開けた事で気が付いた僕は大慌てで近所のスーパーに出掛け、取り敢えずは今日の分の夕食。そして利用したスーパーがセール中だったのを利用して一週間ほどの食材を一気に購入して帰る途中だった
別に食材は買わず、その日の分の食事となるお惣菜やインスタント食品だけを買うと言う手段もあったが、矢鱈に買ったお惣菜やインスタント食品だけに頼るのは何となくではあるが子供っぽく、僕の理想とする大人の姿とはかけ離れている気がしたので僕はそれを拒絶して、それなりに自身のあった家庭科の知識を生かしてこれから自炊していく決意を決め
『おっ……おもっ……! おもたくなっ……いっ!! 全然全く重くない!』
その日の僕は一週間分の食材が入った買い物袋を運んでおり、正直に言えば袋の限界近くまで食材が詰められたその袋は滅茶苦茶と言える程に大変な重量となっており、自宅アパートへ続く300メートル程の短い道でさえ数キロの遠路に感じているのを、弱音を吐かないと精一杯の意地で堪えて自身を鼓舞する強がりを言いながら、よろよろとふらつきながら岐路を歩いていた
『……あっ……!』
そんな風に歩いて、ようやくアパートの全体が見えてきた所まで近付いてきた時だった。大きな荷物を抱えていた僕は荷物に意識を向けすぎた事で足元の注意がおざなりになり、道路のアスファルトに出来た小さなひび割れにつまづいて大きく体制を崩した
咄嗟に受け身を取ろうかと考えたが、両手は荷物で塞がっており、荷物の重さゆえに投げる事も出来ず、体が傾き過ぎていて踏みとどまるなどとても出来ない。そのまま僕の体は空中へと投げ出されて
顔面から柔らかい物に受け止められ僕も、そしてついでに言えば荷物地面に激突する事無く守られた
『ッ!? ッッ!? ンンンッッッ!?』
『あらあら……君、大丈夫?』
突然、顔面で柔らかく、それでいて程よく温かい物に顔面を覆われ盛大に慌てる僕にどこかおっとりとし過ぎている女性の声がかけられる。
そう、これこそが僕と月野さんの初めての出会いであり、最初に見せてしまったこの失態を助けられた故にホイホイと事情を月野さんに話してしまった僕は、事情を知って何か思うことがあったらしい月野さんに家が近所だった事もあって今日まで、ほぼ一方的に何かと世話をかけられるようになるのでたのであった
◆
「椿くん……今日の夕食はどうだった?」
月野さんの自信作だと言う夕食を食べ終え、食休みをしながら月野さんと出会った昔の事を思い出していた
「えっ……あぁ、とてもおいしかったですよ? えぇ
本当に……調理途中に一回トラブルがあったのが分からないくらいにです」
「うっ……厳しいね椿君……本当の事を言ってるから反論出来ないけど……」
思い出しながらぼうっとしていた所に突然、声をかけられた事で僕は動揺して上ずった声を発してしまい、思わずそれを誤魔化すように余計な一言を継ぎ足してしまい、それを聞いた瞬間、月野さんは図星を突かれたかのように、ぎくりとした表情をして恥ずかしそうに肩をすくめると口ごもる
「で、ですけどね……さっきも言った通り、凄くおいしかったのは事実ですから。……その、ありがとう……ございます……」
しまった、恥ずかしさを誤魔化すためとは言え幾らか言い過ぎてしまった。そう思った僕は慌てて月野さんをフォローしようと恥ずかしさを堪えて、素直に感謝の気持ちを伝える
「椿君……やっぱりか~わいい~!」
「うわわわっっ!? むぐっ……?」
結果、自ら弱味を見せてしまった僕は照れで隙だらけの体を月野さんに抱き締められ全く身動きが取れなくなるのと同時に豊満な胸を顔に押し付けられて呼吸が困難になり、結果、月野さんが満足するまで十分近く抱き締められる事になるのであった
◇
「……何てことだ……僕としたことが……」
休日が明けたある日、四時間目の授業終わりに、人の目を気にする余裕も無く、全くの予想外の方角から襲いかかってきた絶望に包まれた僕は自分の机の上でがっくりと項垂れる
「まさか……まさか自分の弁当を作り忘れてるなんて……それを今、気付くなんて……!!」
思い出す度に涌き出る恥ずかしさと悔しさとが半々に混ざりあった感情をぶつけるように僕は自分の机を拳で叩いた
そう、何とも恥ずかしい話だが昨夜、色々な事があった末に歯磨き等は済ませたのだが月野さんに抱き締められたまま眠ってしまった僕は、今朝になって隣で僕を抱き締めたまま眠る月野さんを見て盛大に動揺して、月野さん用の合鍵を置いただけで自分の昼食である弁当を作り忘れたまま家を出てしまったらしく、今の今まで自分の弁当だと思って鞄の中に入れていた四角形の固形物が先日僕自信が購入した読みかけの漫画雑誌だと言う事にたった今、気が付いたのだ
「財布の中身は……150円……!? しまった……この間、購買で買い物してから補充するのを忘れていた……」
こう言った事態に備えて鞄の中に非常用に入れておいた財布を探るがその中には100円玉と50円玉がそれぞれ一枚しか入っておらず、僕は思わず驚愕の声をあげ、ますます周囲のクラスメイト達からの視線を集める事になったのだが、大きく動揺している僕にはそんな物に気が付く余裕は今の僕には無かった
「(これじゃあ購買に行っても買えるのは精々、菓子パン一つで飲み物は無し…………うぅ、自分のせいながら何とも侘しい昼ごはんになっちゃうなぁ……)」
僕はあまり回りの男子と比べると、少食と呼ばれる部類であり、平常でも食事は多くは取らない。 しかし、それでも僕は成長真っ盛りの中学生男子。流石に昼食が菓子パン一つだけと言うのは色々と厳しい
しかし、だからと言って他に解決策など見つからず、お金を貸してくれる程に打ち解けているクラスメイトもまだ僕にはいない。昼休みが終わる前に涙を飲んで早々と購買に出掛けよう。そう、思った僕が片手に150円を握り締め席を立った時だった
「つ~ば~き~く~ん~忘れ物だよ~!」
突如、教室の入り口の方から嫌に聞きなれた特徴的な間延びする声が聞こえ、僕は思わずギクリとして立ち上がって一歩を踏み出そうとした体勢のまま体を硬直させた。無理な体勢の為に腰に負担がかかって痛かったが、そんな事を気にしている暇は無い。どうか、さっき聞こえた声が幻聴の類いであってほしい。心の中で願いながら僕は恐る恐る声のした方向へと首を動かして視線を向ける
「あ、いたいた、つ~ば~き~く~ん~!」
「…………月野さん」
そこにいたのは、やはりと言うべきか当たって欲しく無かった通り、何が楽しいのか満面の笑顔を浮かべながら僕に向かって手を振る月野さんの姿であり、しかも月野さんが手を振る度に豊かな胸元が揺れ、そのせいであっという間に周囲のクラスメイトの男達(あと、一部の女子)の視線が月野さんへと集まってゆく
「つ、月野さん、用事ならここじゃなく別の場所で聞きますよ! ええ、別の場所が良いです。移動しましょう!」
そんな風に、正しく突き刺さる視線にいよいよ耐えられなくなった僕はそう言いながら月野さんの元へと駆け寄ると、その手を握り、出来うる限り人目のつかない場所を探して全速力で走り出した
◇
「はあっ……はあっ……ぜぇぜぇ……こ、こ、ここなら大丈……ぜぇ……夫……」
数分後、どうにか校舎裏の一部に人通りが少なく、なおかつ校舎の窓からは木々が邪魔をして良く見えない場所を見つけた僕は、全力疾走を続けた代償として発生した脇腹の痛みを堪えながら荒く呼吸をする
「あらあら……椿くん大丈夫? ほら、息が楽になったら、これを飲んで落ち着いて」
一方で特に抵抗せず僕に手を引かれるが一緒に走ってきたはずの月野さんは額にうっすらと汗を滲ませているが、特に息を乱している様子は無く、何故だか妙に上機嫌な様子で手にしたバックからペットボトルに入ったお茶を僕に差し出した
「……ありがとうございます」
椿さんは大人で、僕はまだまだ成長期の少年。故に体力に差があるのは当然。頭ではそんな事実は分分かりきっていたが、矢張『女性に体力で負けた』と、言う事実がどうにも僕のプライドが簡単には許してくれず、かと言って純粋に僕を気遣ってくれている月野さんの厚意を無下にするわけにも行かず、結果として僕は不機嫌な顔をしながらお礼を言ってお茶を受け取る
と、言う、何とも中途半端な行動をしてしまい、その恥ずかしさを誤魔化すかのように僕は月野さんから渡されたお茶が程よく冷えている事を確認すると、口につけるなり一気にペットボトルを傾けて口内に大量のお茶を流し込んだ
「うっ!? げほっげほっ……!」
結果、まだ呼吸が整って無かった故に食道から何割かのお茶がずれて気管に入り込み、僕は盛大にむせかえり、背を丸めて大きくえづいた
「……椿くん落ち着いて、落ち着いてゆっくりと深呼吸して?」
と、むせかえる苦しさから滲んだ涙で視界が滲む中、椿さんの落ち着いた優しい声と、僕の背骨に沿ってそっと月野さんの暖かい手の平で背中を撫でる感覚が伝わり、その声に従って僕はゆっくりと深呼吸する事で呼吸を落ち着かせ、次第に気分も楽になってきた。と、同時に子供のような失態をした事、月野さんに世話をかけた事、その二つの確かな事実を一気に理解した僕は瞬間的に羞恥で頬が一瞬に熱くなるのを感じた
「つ、月野さん……その……」
「うん、良かった。椿くん落ち着いたね」
僕が頭が混乱している故に上手く呂律が回らない口で必死で何も浮かばないが何かを言おうとしていると、月野さんは特にそれをからかおうとはせず、ただ僕に優しく微笑みかけると頭を撫でてきた
「あぷぴっ!?……だ、だから、頭を撫でるのは子供じゃないんですからやめてください月野さん……」
月野さんの突然の行為にますます混乱した僕は思わず奇声を発してしまい、その羞恥を堪える為に月野さんにそう懇願する
「うん……本当にかわいいね椿くんは……」
「つ、月野さ……ひゃあっ!?」
しかし月野さんは決して僕の頭を撫でる事を止める事は無く、それどころか空いた片手で僕の体を引いて抱き寄せ、月野さんの豊満な胸が顔面に押し付けられた僕は悲鳴をあげた
「うふふ……少し……我慢が出来ないかな……。椿くん……嫌なら嫌って言って抵抗してね?」
そんな僕の声を聞いていても尚、月野さんは抱きしめる事も頭を撫でる手も止めようとはしない。いや、羞恥と謎の興奮で沸き立ちそうになる頭を必死に落ち着かせてよく見てみれば僕の体を拘束する月野さんの腕は一部が緩み、僕の顔は月野さんの胸から解放されて月野さんの顔を下から除きこむ形になっていた
「つ、月野さん……」
しかも、事態はそれだけでは終わってはくれない。月野さんの腕でしっかりと拘束されて動くことが出来ない僕の顔に今までに見たことが無いような月野さんの顔、頬がうっすらと朱に染まって唇が艶やかに濡れ目じりが下がった、はっきりと『女』を意識させる顔がゆっくりと僕に迫り、それに呼応される僕も熱と共に自然と『男』としての部分が下
「ちょ、ちょ、ちょっと!? ちょっと待ってください月野さんっ!! そ、そう言えばっ、ぼ、ぼくに何かお届けものがあるっていってましたよね!? あれはなんでしょうかでございます!? い、いやぁ~気になりますね~」
「む……椿くん、それはちょっとずるいよ……仕方ないなぁ……」
その瞬間、僕は胸の奥から込み上げてきた欲望を持てる理性を総動員して鎮め、咄嗟に思い付いた事を口にする。動揺が酷かった為に後半辺りは僕自身も何を言っているのか分からなかったが、ともかく不満げな顔ながらも月野さんは顔を近付けるのを止め、ついでに僕の体に絡めていた腕もほどいて半歩ほど僕から離れ、その瞬間、僕は月野さんに聞き取れないように押さえながら安堵のため息を吐き出した
「ほら、これだよ。これを椿くんに持ってきてあげようとしたの」
幸いにも月野さんは、僕のため息に気が付いた様子は無く肩に背負っていたバックのジッパーを開くと丁寧に青色のナプキンに包まれ、ほんのりと甘いトマトケチャップの匂いがする四角いお弁当箱を僕に差し出した
「これは……」
「お弁当。椿くん今日、お弁当作らないまま出ていっちゃったでしょう? これは私が作ったんだけど、その代わりにならないかなっ……って、あっ、ごめんね早く椿くんに届けたいって思っていたら迷惑かけちゃったよね……」
空腹のお腹に染み渡るような良い香りが漂う弁当箱をぼくがしげしげと見つめていると、月野さんは少し申し訳なさそうにそう言うと僕に頭を下げた
「あっ、でも、もしこれが要らないって言うな…………」
「い、いえっっ!! 月野さんっ!」
その瞬間、月野さんが悲しげな顔をしながら言おうとする言葉を精一杯の大声を出して僕は強制的に中断させた。何故、そうしようと思ったのは自分にも分からない。しかし、どうしてもせずにはいられなかったのだ
「椿くん……?」
「あの……その……とっても嬉しいですし……助かりました……えっと……」
やはり勢いだけで言ったこと故に、僅か一瞬で棟の置くから急激に羞恥が込み上げて来た僕は普段から意識して行っている落ち着いた口調で話すのも忘れて、まるでおぼつかないぼそぼそとした口調で話す。正直に言えば今すぐにでも逃げ出したい気持ちで一杯であったが、それでも僕にはこの機会を利用して是非とも月野さんに伝えたい事があったのだ
「ありがとうございます……貴仍さん……」
それこそがこれ、月野さんへの感謝の言葉である
思えば、初めて出会った時から僕は月野さんに助けられっぱなしかつ、一度もお礼らしき事も出来ず、更には年上の女性にまるで子供の如く面倒を見てもらっているという気恥ずかしさから、普段から大人っぽく見えるようなクールな態度や口調を意識しているせいで録に感謝の言葉も言えていない。だからこそ僕は人目が殆んど無く実質、月野さんと二人きりという状況を利用して勇気を振り絞ってこの場で伝えたのだ
「…………」
恥ずかしさを堪えて僕が言い切った瞬間、恐る恐る視線だけで月野さんを見てみれば、月野さんは呆気に取られた表情でぽかんとした様子で僕を見つめていた
しまった、チャンスとは言え、いくらなんでももうちょっとタイミングを見定めるべきだった
「い、いえ、月野さん、今のはですね……」
自分のした浅はかな行動を後悔しながら、僕は慌てて数回行きを吸ったり吐いたりする事で呼吸を整えながら、必死に弁解の言葉を紡ぎだそうとし
「椿くんっ……!!」
「ふわあぁっ!?」
その瞬間、僕は飛び掛かるように向かってきた月野さんに再び抱き締められ、その不意打ちに僕は再び奇声を発してしまった
「私が頼んでないのに、名前で呼んでくれるなんて……椿くん……私、嬉しい……! んっ……」
「!?」
先程より強い力で僕を抱き締める月野さんの腕から、呼吸困難になる前にどうにか逃れようと僕がもがいていたその瞬間、ノーガードとなっていた僕の額に柔らかく、暖かい何かが触れた
「きゅう…………」
それが月野さんの唇の感触だと理解した瞬間、度重なる羞恥で僕の脳は限界を迎えたらしく、月野さんに抱き抱えられたまま僕の意識は闇へと落ちていくのであった
◇
「全く……僕とした事が、一日でこんなに失敗するなんて……今日はなんて日なんだ……」
放課後、周囲から向けられる視線から早く逃れるべく急いで帰り仕度をしながら、静かに込み上げてくる自らの精神の未熟さ苛つきを僕はそう小声でぼやいた
あの後、校舎裏で気を失った僕が次に目を覚ましたのは保健室のベッドの上だった。特に何の意味もないのだが意識がはっきりと覚醒した僕は自分の服が乱れていたりしないか、普段から身だしなみ用に持ち歩いてる手鏡で自分の顔や首筋をじっくり見て何か残ってないかを丹念に確認し、何も無いどころかむしろ気絶前より着ていた制服はシワが殆んど分からないほど丁寧に治されて綺麗にされている事が分かると僕は意味は無いのだが大きく安堵のため息を吐きだした。
「貰ったお弁当も何か子供っぽいし……やっぱり月野さんは僕を子供扱いしてるよなぁ……おいしかったけど」
さらにそれだけでは今、僕が月野さんに抱いている不満は終わらない。幸いか否か気絶していた時間はそう長くはなかったらしく保健室から出て教室に戻った時にでもまだ十二分に昼食を取れるだけの時間は残されており、僕は大半のクラスメイトが食事を終えて雑談をしていたりする教室の中で自分の席につくなり月野さんから貰ったお弁当を取り出すと慌てて、その蓋を開き
『んな……っ!?』
まず目についたのはきちんと足が八本あり小さく切ったパスタで目まで描かれている二匹のタコさんウインナー。当然のようにその隣には同じくウインナーで出来たカニもいる。その他のおかずは甘い卵焼きに、星型に切られた野菜が目立つサラダ。そして何より印象的なのは白米に複数のふりかけを使って大きく描かれた某猫型ロボットの若かりし姿。と、何処からどう見ても小学生それも言ってしまえば低学年が喜びそうなお弁当だった
そんなお弁当を前にして本日二度目にして今、再び、教室内で奇声を上げた。唯一、僕の精神的にも幸いだったのは教室内は先程の昼休みとは違って賑わっており、奇声を上げた直後、可愛らしさ全快の弁当を見られるのが気恥ずかしく慌てて一気に弁当を駆け込む僕に構ってくる人は殆んどいなかった事くらいか。
「よし、決めた。改めてここは一回、月野さんにしっかりと言っておこう。『僕は背が低く、童顔だとしても子供じゃない』って……!」
帰宅路を歩きながらこれからの月野さんへの対処法を考えていると、そう決意した時には僕はアパートまでたどり着いており、早速、明日、いや今日にでも月野さんに言おうと決めた僕は自室のドアノブを捻り
「あ、椿くん、お帰りなさ~い」
当然のように僕の部屋に上がり込んで、テレビを見ながらお茶を飲みつつ、くつろいでる月野さんの姿を見た瞬間、僕は玄関で派手に転んで辺りに靴をぶちまけた
「な、な、何でっ、何で勝手に僕の部屋に上がってくつろいでいるんですか月野さんっ!!」
強く打ち付けたせいで額が激しく痛み、泣きそうになるのを堪え、同様のせいで盛大にもつれる舌を何とか動かすと僕は一気に玄関に靴を投げ捨て、そのままの勢いで月野さんに詰め寄った
「えっ? だって椿くん朝、出るとき置き手紙も無かったし、学校でも『鍵返して』って言わなかったから……私にくれたのかなぁ……って?」
僕の問いかけにも月野さんはまるで動じた様子は無く、むしろ僕が何故怒っているのかが分からない。と、でも言いたいかのように不思議そうに首を傾けた
「……朝については遅刻しそうだったから焦ってつい書き置き等をする事を僕が失念していただけです。本来ならば何らかの形で月野さんに返却を要求するつもりでした」
「えぇ~っ? そうだったの……?」
小さく深呼吸する事で息を整えると共に、基本は落ち着いた口調を意識しつつ、いつもの冷静な自分を強くイメージしながら僕は月野さんにそう反論する。そうすると、月野さんは露骨に不満げな表情をしつつ口を尖らせたがここで反論を止めるつもりは無い僕は更に言葉を続ける
「昼については、そもそも月野さんが急にやって来た上にあんなこ……!」
その瞬間、僕の脳内では校舎裏で全身から味わった月野さんの体の暖かさと柔らかさ。そしてあの時、額に伝わってきた唇の感触がフラッシュバックするかのように一気に再生され僕は思わず言葉を詰まらせ、一瞬にして体を硬直させた
「うふふ……どうしたの椿くん? 急に黙っちゃって……」
威勢良く飛び出したかとそんな僕の変化は当然と言うべきか月野さんにはしっかりと気付かれており、月野さんはいつもと違う、そう今日の昼間、校舎裏で僕に迫ってきた時と非常に似た顔をしながら僕をゆっくりと近づいてきた
「い、いえ……何でもな……」
そんな月野さんを見て直感的に身の危険を感じた僕は、口ごもりながらも月野さんから距離を置こうとし
「何でもない? 本当にそうなの?」
次の瞬間、気が付いた瞬間には僕はあっという間に月野さんに壁際まで追い詰められ、どうにも身動きが出来なくなっていたなっていた
このままじゃ危険だ、と本能が最大級の警報を鳴らすが既に月野さんの柔らかい胸やら腕やら脚が僕の体に押し付けられ、その柔らかさに心を奪われそうになり、僕は何も考えずただその感覚に溺れたいと言う考えが頭の中に
「月野さんごめんなさい! うっ……えええいいぃっっ!!」
「きゃっ!?」
頭が煩悩に飲まれる前に僕はどうにか掛け声と共に両腕の力を振り絞って月野さんの両腕をはね除けて、そのまま体全体でごろごろと床を転がる事で月野さんから距離を取った
「あ、あのですね……僕を普通にからかうのはこの際、構わないですが……仮にも月野さんは二十歳とは言え成人していて僕はまだ未成年の学生です。冗談でも社会的にこんな事は正しくないですよ……今後は止めた方が月野さんの為にもなりませんか?」
そう僕は心臓が緊張で破れてしまいそうになるほど激しく鳴り続ける中、一言一言をしっかりと伝えるように、いや、伝わってくれるよう意識して語りかける
「…………」
そんな僕を月野さんは何も語ることは無く、ただ黙って僕を見つめる。良かった、僕の話は月野さんに通じてくれたんだ
「…………だ」
そんな風に勝手に安堵して息をついていたからだろう。僕は溢れるように小さく呟いた月野さんの一言を完全に聞き逃していた
「えっ? すみません……月野さん、今何て言っ……」
「嫌だっ!!」
僕が聞き返そうとした瞬間、突如、月野さんは今までに聞いたことが無いような声量と思わず立っていれば確実に腰を抜かしていたであろうと確信出来る程の迫力でそう僕に向かって叫んだ
「つ、月野さん!? 一体どうしたんで……」
「嫌だ……! 私がやってきた事は冗談なんかじゃない……! だって私は……私は椿くんを……椿くんが……」
異変に気付いた僕は慌てて月野さんに問いかけるが月野さんは僕の言葉が届いてるのか届いてないのか、三角座りに似た体制で背中を丸め、よく聞き取れない程に早い口調で何かを呟き続けていた
「落ち着いてください月野さん……!」
ともかくこのままじゃあ埒があかない。そう判断した僕は胸の中から真っ黒な墨が染み出してくるようにじんじわと、しかし確実に感じている嫌な予感を降りはらい僕は月野さんを落ち着かせようとし
「ひっ…………!!」
月野さんの顔を覗きこんだ瞬間、凄まじい恐怖に捻り出した勇気は一瞬に霧散され、僕は本能のまま悲鳴をあげて後ろへと飛び退く。その拍子に部屋に置いてあった本棚にぶつかって納めてあった本が何冊かこぼれ落ちたがそんな事を気にしている余裕は今の僕には無かった
そこにあったのは、僕が月野さんの目に見たのは『闇』そのものだった。見ただけでおぞけが走り、そこに魂が吸い込まれてしまいそうになる程に暗く淀みきった暗闇であり、しかも恐ろしいのはそれだけでは無い。心底、逃げ出したい程に恐ろしくて仕方がないと言うのに蛇に睨まれた蛙の如く僕は全くその目から視線を反らす事が出来ないのだ。そんな絶え間無い本能的恐怖感に晒され続けた僕は身体の震えから、やがて尿意と共に下半身がじんわりと濡れて温かくなっていくのを感じていた
「ごめん……椿くん、今日はもう帰るね」
そんな僕が果たして目に入っているのかいないのか、月野さん顔を上げないまま、恐怖で動くことが出来ないそれだけを言うと僕の前を横切り自身の手荷物を持って玄関から出ていってしまった
「……っはぁ……! い、今のは……今のは一体……!?」
ドアが閉じ、去っていく月野さんよ足音が聞こえなくなった瞬間、僕は今まで無意識のうちに止めていた呼吸を思い出したかのように一気に息を吐き出すと、まるでたった今、マラソンを終えたばかりのように酷く荒れて乱れた呼吸を繰り返す。その間も心臓は痛いばかりに激しく鳴り響いて当分、収まりそうには無かった
◇
それから丸二週間、僕は月野さんと会話どころか顔を合わせる事すら全く無かった。いや、そんな簡単な話では無い。決して住人も多くない同じアパートの隣部屋に住んでいる相手だと言うのにこの一週間、そもそも月野さんの姿を僅かでも見たことが無く、僕にはそれがどうも月野さんの方から僕を避けているように感じられたのだ
「はぁ…………」
そんな事を思い返しながら一人、帰路を歩いていた僕は肩をすくめて再び大きなため息を吐き出す
もとより僕には表面上の薄っぺらな付き合いでも友達と言えるような存在は非常に少なく、小学校時代には僅かながらいた『トモダチ』もここに引っ越してからはゼロ。僕が心許して話を出来るのは、両親と大切な妹の牡丹。そして
『椿くん、夢の為でも一人暮らしって、大変そうだね……よし、決めた。これから私が椿くんをお助けしてあげましょう!』
『椿くん、インスタント食品ばっかり食べちゃ駄目だよ? 出来るだけ自分で……うーん、それも椿くんはもう少しお肉食べた方が良いと思うなぁ……』
『椿くん、せっかくの休みだし一緒にお出かけしない? あぁ、大丈夫、お金と車は勿論私が出すからね?』
と、そんな調子で初めて会った時から僕の心の壁をのらりくらり、ふわりふわりと言った様子で避けながら、どんどん僕の心の中に踏みいってきた月野さんだけだった。つまり僕は今、月野さんが不在の状況に寂しさを
『嫌だっ!!』
「……っっ!!」
そんな風にセンチメンタルな想いにふけながら月野さんとの想い出にふけっていた瞬間、フラッシュバックのように、あの日、あの時に見た月野さんの声が、表情が、そして何よりあの目付きが僕の脳裏に甦り、僕は胃が締め付けられるような恐怖感に思わず人目も気にせず路上で恐怖で暴れだしそうになる自分の体を押さえつけるように抱き抱えてうずくまった
「はぁ……はぁ……はぁ……」
立ち込める恐怖を振り払い、僅かでもその気持ちを軽減させようと僕は何度も口から大きく息を吸い込んでは吐き出し、深く深呼吸をしてゆく。幸いにも深呼吸はそれなりに効果はあったらしく、しばらくすると僕は次第に落ち着きを取り戻し、ゆっくりでどこかぎこちない動きながらも何とか自力で立ち上がれる程に回復していた
「駄目だ……! これじゃあ駄目だ!」
自分の中でこびりついて拭いきれない恐怖心を振り払うように僕は叫ぶ。ただの虚勢でしか無かったのだがそれだも叫ばずにはいられなかったのだ
「絶対に、もう一回……何としても月野さんに会わないと……」
二週間前のあの日、その時から僕の胸に込み上げ続ける寂しさと恐怖。それをしっかりと振り払い、この問題に決着を付けるためには例え今、僕が思い出しただけで恐怖してしまうような状況でも月野さんと僕だけの力で向き合って話をしなければならない。そんな確信じみた想いが僕の胸の中にはあったのだ
しかし、そう決めたのは良いとして、その為には月野さんの方から僕を避けているこの現状を打破する方法を考え付かなくてはいけない
そんな事を考えながらアパートの自室へとたどり着いた僕は、靴を脱いで部屋に上がるなり早速、計画を練ろうといつも使ってる通学用カバンから筆記用具とまだ使ってばっかりの一冊のノートを取り出し、机の上に広げようとして
「あれ……?」
使いなれた茶色いちゃぶ台の上、そこにいつも置いてあるテレビのリモコンの近くにきちんと封がされた白い封筒が一つ、ぽつりと置かれている事に気がついた。当然、朝僕が家を出るときには間違いなくこんなものは無かった筈だ
「こっ……れは……っ!?」
そして、次の瞬間、封筒に書かれていた文字を見た瞬間、僕の体は一瞬にして硬直した
「月野さん……!?」
書かれている文字数自体は非常に短く、実際には、やや封筒の余白が目立つような大きさの文字であったが、僕にはその短い『椿くんへ、月野貴仍より』と言う宛名が、まるで、目に映った途端ずいっと眼球の中に飛び込んでくる程に大きく、強い存在感を放って見えていたのだ
「はぁ……はぁ……はぁ……」
緊張で呼吸が荒くなり、それと同時に手に震えが来はじめるが僕はそれを精神だけで無理矢理押さえつけ、封筒の封を開く
正直な事を言えば僕より先に月野さんから、アクションを起こして来るのは予想していなかった。しかし、これは機会を伺うタイミングを見誤る心配が無くなった分、好都合と考えるべきだろう。そう無理矢理に近い形で自分に思い込ませながら僕は開いた封筒の中を覗き、中に入っていた封筒と同じく折り畳まれた真っ白な一枚の便せんを取り出すと、もう一度覚悟を決める為に深呼吸すると破れない程度の力で一気に開いてそこに書かれている内容に目を通し始めた
『 椿くんへ
今更、椿くんへ許して貰おうとは思ってないけど、本当にあの日のは怖がらせてしまってごめんなさい。私、あの時は椿くんとお別れになっちゃうかと思い込んでどうかしていたの。それでも、本当に本当に勝手だけど私が椿くんを初めて出会った時から大切に想っていた事、椿君に笑顔でいて欲しかった事、それは皆纏めてずっと本当だった事はどうしても椿くんへ分かって欲しくてこうして勝手ながらお手紙を書かせていただきました。
この手紙を読んでもしも、椿君が私を許してくれると言うなら封筒の中に入っていた袋を開けてみて下さい。 どんな結果になろうとも私はいつまでも椿君の返事を待っています。
貴仍より』
「…………」
月野さんからの手紙を読み終えた僕は、片手で便箋が入っていた封筒を逆さにし、封筒の口にそっともう片方の手の平を添えた
その瞬間、小さな音と共に僕の手の中には綺麗な手の中に容易く収まるほどの大きさの青色の折紙で丁寧に梱包された一つの包みが転げ落ちた
「月野さん……」
僕は、先程まで読んでいた白地の便箋にボールペンで書かれ、改めて注意してよく見てみるとあちこちに訂正した後が残る手紙に視線を向けながら自分の今の想いを確かめるように呟いた
手紙を読み終えた今、少なくとも僕の目には書かれていた内容に嘘が含まれているとは到底思えない。この内容は間違いなく月野さんの本心が書かれた物としか考えることが出来なかったのだ
ならば、どうするか。そう頭で考えた時には既に僕の体は自然と動き出しており指で折紙に封がわりにしてあった紙テープを剥がしていた。
正直な想いを言えば、胸に渦巻く不安は大きい。しかし、怖いからと言って例えここで僕が逃げたとしても解決しないだろうし、何よりそんな行動は僕の理想とする『大人』とはかけ離れたあまりにも情けなくて弱い行動だ。だから、僕は堂々と正面から受け止めて見せる。そう決意した僕は勢いのまま人差し指と中指の二本の指を折り紙の中に突っ込むと、折り紙の底辺りで指先に当たった金属製の物体を掴んでそのまま包みの中から引っ張りだし
「えっ……?」
手にしていた物の正体を目で見た瞬間、僕は思わずそう呟いた。
僕の手に握られていたのは蛍光灯の光に照らされて鈍く銀色に光るどこか見覚えのある一本の鍵とそれにチェーンで繋がれた目立ちやすいネームプレート。名前が書いてある以上、間違いはしない。包みの中から出てきたこの鍵は二週間前、僕が月野さんに渡した僕の部屋の合鍵だった
その途端、胸の中に一瞬にして疑問が沸き上がる
僕が帰宅した時、部屋の戸の鍵はしっかり施錠してあったし、部屋の窓にも鍵がかかっていた。そしてこのアパートは比較的新しく作られた為に天井や壁や床にも痛みは殆ど無い。では、そんな出れそうな場所が全て施錠されている中、この手紙を書いて机の上に置いた月野さんは一体どうやって部屋から出ていったのだろうか? 否、どう考えても、それは不可能だ、すると必然的に考え出される結論は-
「やっぱりちゃんと開けてくれたんだ。私、椿君ならきっと開いてくれるって信じていたよ」
その瞬間、どこか楽しげに歌うように聞こえた月野さんの声が聞こえた瞬間、僕は背中に一気に冷蔵庫から取り出したばかりの大量の氷を突っ込まれたような寒気と共に鳥肌が立つのを感じ、思わず恐怖の本能のまま逃げ出そうとした
「私ね、ずーっと押し入れの中で待ってたの。椿くんがいつ帰って来てくれるか……手紙をちゃんと読んでくれるかなぁ……って……」
しかし、それより早く背後から伸びてきた月野さんの両手が僕の両肩を素早く、それでいて僕が身動ぎした程度では到底動かない程にしっかり捕まえるのと同時に取り押さえ、僕はたちまちのうちにその場から動くことが出来なくなった
「本当……椿くんは優しいね……だから、私は最初から……ふふっ……」
背後から吐息が耳にかかるのがはっきりと分かる距離で月野さんの言葉が、必死で拒絶しようと思っていてもまるで止まらず、一言一言が僕の心にゆっくりと詰めいって行くように響いてゆき、恐怖で歯が鳴るのと体の震えが止まらない。ただ、あまり考慮せずに封を切った数分前の自分の浅はかさを心底恨む事しか出来なかった
「じゃあ……行こっか? 椿くん。これからはずーっと二人で暮らしていこうね? 大丈夫、私がぜーんぶ椿くんにしてあげるから……」
そうして僕は抵抗する精神力すら月野さんに奪われ、なす統べなく月野さんに抱えられ--
◇
「はぁ……はぁ……」
そこで僕は目をかっ開き、荒い呼吸と共にベッドの上で体を起こすと辺りを見渡すと、再び自分が絶望の底に叩き落とされているのだと言う事を感じた
あぁ……あれが、もしも陳腐な小説のように僕が見た悪夢に過ぎなかったのなら、いや、この忌まわしい現実がどうして嘘であってくれないのか。過去の記憶を追体験するような夢の世界から、更に残酷な現実に引き戻された事に、僕はいっそのこと既に無駄だとは分かりきっていても大声で叫びさえあげたくなってきていた
「ああああああぁあああぁぁあああああああああっっ!!」
結果、僕の口から漏れてきたのは慟哭の叫びにも悲鳴にも似た奇っ怪なだみ声であり、窓から夕日が差し込む部屋の中、僕は感情のままに頭を掻きむしると首につけられた鍵つきの首輪と鎖が掻く振動に合わせてがしゃがしゃと酷く耳障りな騒音を立てた
あの日、月野さんに拐われた僕は気が付けば部屋の作りから僕が暮らしていたアパートの一室らしき部屋に鎖で繋がれた状態で拘束されていた。ご丁寧な事に予め月野さんはこの準備をしていたらしく、部屋は窓から床壁までしっかりと防音設備が施されており、例え僕が声が枯れるまで叫んでも外部の人は誰も気付いてくれないのは昨日僕自身が証明してしまった。おまけに、その際に月野さんが得意気に語った事が正しいならば、このアパートには一週間前にから既に月野さんと僕しか暮らしている人間はおらず、隣部屋の人間に助けを求める事も物理的に不可能。
とどのつまり、現在、僕はどうあがいても月野さんから逃れる事は出来なかったのだ
「もぅ、駄目だよ椿くん? そんなに叫んじゃまた喉が枯れちゃうよ?」
と、叫び声をあげていた僕の耳に妙に甘ったるいそんな声が聞こえた瞬間、僕の無駄な叫びは一瞬で止まるのと同時に身体が縮みあがった
「ひっ……!」
「だから椿くん、そんなに怯えなくても大丈夫だよ。私は絶対に椿くんを殺したり、体に傷をつけたりしないよ? まぁ……私がどれくらい椿くんを愛しているかは分かって貰うけどね」
悲鳴をあげて必死に鎖が伸びる限界地点、ベッドの端へと身をよせて逃げる僕だったが、月野さんは僕の拒絶を無視して満面の笑顔を浮かべたままベッドの上で四つん這いになると少しずつ少しずつ僕へと歩みより、まるで弄ばれるように、じわりじわりと僕は追い込まれていった
「(神様……いや、この際誰でもいい……誰か……誰か僕を助けてよ……!)」
また昨日のように月野さんの本能の赴くまま、身体を貪られるであろう事に耐え難い苦痛を感じながら僕は必死で誰にでも良いから届いてくれとばかりに心の中で助けを求めて叫んだ
「うふふ……うふふふ……」
当然、そんな都合良く奇跡など起こるはずも無く、その日も僕は月野さんが満足するまで身体中を貪られる事になった
◇
「はぁ……はぁ……ううぅ……」
あれから何時間が過ぎたのだろう? 僕を抱き抱えながら満足しきった様子で月野さんが眠り始めたのを確認してから、何とか月野さんの腕を動かして腕から抜け出し、肌がふやけてしまうほどに染み付いた僕と月野さん両方の体液で濡れた自分の身体をベッド横に備え付けられたウェットティッシュで拭き取り始める
昨日、今日を経験して分かりたくも無いのに分かってしまった事だが、どうにも月野さんは僕の体に爪痕など決してつけないように意識しつつ『自分の匂いを付ける』事に半ば執念じみた想いがあるらしく、その根拠として昨日、月野さんが起きている間に体液を拭き取ろとしたら、月野さんがたちまち不機嫌になり、僕が拭き取った分を上書きするように更に体液をかけられたと、思い返すだけで気持ちが沈むような嫌な記憶がある
「ううっ……こんなの……こんなの嫌だ……っ!」
自分の置かされた状況の惨めさ、そしてこんな悪夢のような状況なのに僕の身体を熱心かつ執拗な程に貪る月野さんの与える快楽に既に幾度も負けて、肉欲に溺れてしまい自分の意思で体液を吹き出してしまった自分自身があまりにも情けなくて僕は思わず、声を必死で噛み殺しながら叫び、同時にやりきれない気持ちをぶつけるように体を拭いていたウェットティッシュを丸めて出鱈目な方角に向かって投げ捨てた
「牡丹……弱いお兄ちゃんでごめん……僕はもう……耐えられないよ……」
苦しみと絶望で押し潰されそうな中、僕の口からは自然とそんな言葉が漏れ、視界が滲むのと顔を伝う水の感覚に頬を触った事で気付けば意識しないうちに涙まで流している事に気が付いた
「………………?」
そうやってうつむいた首を上げる気力も無い状態で、涙に滲んだ目で当てもなく視線を適当な場所へ向けていると、ふと薄暗い部屋の中で窓から差し込む弱い光に照らされ、月野さんが脱ぎ捨てた衣服らしい布切れに挟まれて顔を出している小さく銀色に輝くものを見つけた
普通ならば僕は、それが単なる銀箔の包装紙のゴミか何かの金属部品が外れた部品だろうと勝手に判断して見向きもしなかっただろう。だがしかし、この日常ではあり得ぬ異様な状況が僕をそうさせているのか、鎖が伸びている範囲かつ腕が届く距離に光る物がある事を確認すると、僕はまだ寝息を立てている月野さんを決して起こさないよう鎖が鳴らず、月野さんに触る事も無いよう逸る気持ちを押さえ込みつつ、ゆっくりとそれこそ見てくれなど気にせずカタツムリかナメクジが這うような動きで少しずつ光る物へと近付いていった
「これは……!」
そうやってたっぷり時間をかけて光る物の元へとたどり着いた時、僕はそれが何かであるかを理解し咄嗟にそれを手に掴んで顔の前に持ってきて確認し、思わず声をあげる
それは、キーホルダー等が取り付けられてなく飾りも無い地味な姿を晒す、僕の手のひらにすっかり収まってしまう程小さな銀色の鍵であり、普通に見れば雑貨店等にも行けばすぐ見る事が出来るようなありふれた物でしか無い。だがしかし、僕はこの鍵の大きさ、そして何よりこの鍵が『月野さんの着てた服のポケット』から出てきた。と、言う事実が鍵を見た瞬間から僕の胸に希望にも似た一つの予感を感じさせていた
「これがもし違ったら……」
手に入れた鍵を痛い程強く握りしめ、自分の首につけれた首輪の位置をすぐ近くに設置してあった姿見で確認しながら、僕はそこまで言いかけた所で緊張でカラカラに乾いた喉で無理矢理続く言葉を飲み込んだ
絶望はこの二日間でたっぷりした、だったら今くらいは希望に目を向けるべきだ
自分でも浅はかで何の根拠にならないとは思ったが、それでも無いよりはマシだと自分に無理矢理言い聞かせながら僕は勇気を絞りだし、未だに背後のベッドで寝息を立てている月野さんに悟られないよう鏡に映った怯えた顔の自分の姿を頼りに首輪に取り付けられた錠前、その鍵穴に向かって震える手で鍵をもってゆきー
かちゃん
「今だ……!」
音にすれば拍子抜けしてしまう程に小さな音を立てて共に僕を拘束していた首輪が外れた瞬間、僕は月野さんに脱がされて以来、そのままになっていた衣服を片手で掴むともたつく脚をもどかしく感じながら無我夢中で部屋の出口となるドアへと向かって走り出した
◇
「はぁ……はぁ……」
頑丈そうなコンクリートブロックの塀を体の支えにして立ち上がりながら僕は吹き出し続ける汗をぬぐい、精一杯深呼吸をして呼吸を整える。情けない事に二日ぶりに走り出した僕はアパートから300メートル程走った所で体力を殆ど使い果たし、こうやって亀の歩みのような速度で一歩ずつ歩く事しか出来なかった。既に脱出と同時に持っていった服は着ており、靴もサンダルを履いているが、通勤時間態になれば交通量が多くなるこの道で端から見ればただならぬ形相と汗だくの体と皺だらけの服を着て朝霧が立ち込めている街をフラフラと歩く僕の姿は警察に通報されてもおかしくないだろう
「でも……今はむしろ通報されて貰った方が助かるかな……はは……」
自分の体と心に鞭を打ち、少しでも確実に歩き続ける為にそう僕は笑えないジョークで無理に笑顔を浮かべた
「大丈夫……まだ歩ける……もう少しなら歩ける……」
感情のままに勢いよく部屋を飛び出し、外へと走り出した僕ではあったがそこに何の策も無かった訳では無い。特に利用する事も無かった為に地図上でしか位置を知らないが僕は以前見た街の地図の記憶を手繰り警察署を目指して進んでいた。幸いかどうかは分からないが部屋から出るのと同時に体力の全てを使い尽くす勢いで走ったお陰で体力は尽きかけていたが既に目的としていた警察署は霧に紛れてはっきりとは見えないが視界の先っぽ辺りには入っており、もう少し歩けばそこにたどり着けそうであった
「はぁ……はぁ……う、うぅ……」
だが、精神や肉体の疲労を無理矢理押し込める形で進めていた僕の歩みも限界に達してしまったらしく、鉛のように重くなった脚をそれ以上動かすことが出来ず、僕はそこで膝から崩れてアスファルトの地面に座り込んでしまった
「だ、駄目だ……止まっちゃ駄目だ……」
脱出こそ運良く月野さんに気付かれる事が無く出来たものの、いつ月野さんが僕が逃げ出した事に気付くのか分からない。だからこそ、何としても一秒でも早く警察署へと辿り着いて保護を求めなければならない。もはや、手段など選んでる暇は無いのだ
「だっ……たら……!」
かけるような恥は監禁された時に既にかきつくした。ならば朝方の多少の人目等はもはや気にしない。僕は起き上がる事を一時、諦めると地面に這いつくばり、勝手が分からない為に見よう見まねでのほふく前進で前に進みはじめ
「あの……どうかされましたか?」
突如、頭上から可愛らしいながらも落ち着いた声でそう尋ねられ僕は、思わず始めたばかりのほふく前進を止めて顔を見上げた
「散歩中ただならぬ様子の声が聞こえたので来てみましたが……。もし具合が悪いのなら私が救急車を呼びましょうか? 携帯電話は持っていませんがテレフォンカードは持っていますし、近くに公衆電話があるのも知っています」
屈んで僕を見下ろす形で声をかけていたのは霧に紛れていつの間にこれほど接近していたのだろうか(外見だけ見れば五歳程だろうか?)牡丹とさほど年齢が変わらないように思える幼い女の子ではあり、幼児向けのシンプルな靴の側面には恐らく女の子の名字なのであろう『ひむら』の平仮名三文字が黒いフェルトペンで書かれていた。
その口調は大人と比べても何の違和感も無い程に落ち着きと冷静さに満ちており、それは違和感を感じる程に女の子には子供らしさが欠けているように見えた
「……きゅ、救急車はいいよ……それよりは……警察署からおまわりさんを呼んで来てくれるかな……?」
だがしかし、この千載一遇のチャンスに今はそんな小さな事を気にしている余裕など無い。と、僕は心の中に沸いた疑問を捨て去り、かすれる声でその女の子にすがり付くように頼み込んだ
「……分かりました。すぐに呼んできます」
僕の言葉を聞くと幸いな事に理由も聞いていないのに女の子は直ぐに納得してくれたらしく、立ち上がると僕に背中を見せると遠くに見える朝霧に包まれた警察署に向かって歩きだしていった
「っ……! ありがとうっ! ぼ、僕は変わらずここで待ってるから……急かすようで悪いけど出来れば急いでくれないかな?」
それを見た瞬間、僕は口から安堵の息を吐き出しつつはやる気持ちを抑え、女の子に感謝の想いを伝えながらそう言って女の子の背中を見送る。と、その瞬間、無意識のうちに再び口から安堵の息をついていた
今の僕は地面に倒れたまま起き上がれない不恰好な状態だが、何はともあれこれで助かった。その事実だけで僕の心は満たされ、安心すると疲れのせいからかうとうととした眠気まで出始めた
「(そう言えば監禁されてから、落ち着いて眠った記憶が無いなぁ……でも、丁度いいか助けが来るまで少しくらいは眠っ……ても……)」
もはや焦る事は無いかと判断した僕は、そのまま体が訴えてくる眠気を受け入れ、瞳を閉じると本能のまま緩やかに意識を手放していく
「……そう言えば、一つだけ聞いてもいいですか? さっきから凄く気になっていて……」
と、その時、僕に向かって遠くから助けを呼びに行ってくれた女の子の声が少し遠く聞こえてきた。その声に落ちかけていた意志が僅かに覚醒し
「さっきからあそこで殆ど瞬きもしないでお兄さんを見つめてるお姉さんは……知り合いですか?」
「え……?…………っ!!」
直後、心底不思議そうに尋ねる女の子の声が聞こえ、僕はそれを理解した瞬間、頭からバケツ一杯の冷水をかけられたの如く、眠気が一瞬で消え去り、背筋が絶対零度にまで凍り付くのを感じた
そして、僕が迫りくる危険に疲れた体に鞭を入れ、腕に力を入れて飛び起きようとした瞬間
「はい、ざーんねんっ」
歌うように、笑うように、月野さんの声が僕の耳元で響いたかと思った瞬間、僕の体の下へと二本の腕が入り込み、僕の体は重力に逆らって宙へと持ち上がった
「あ……あ……」
「ランニングは楽しかったかな? 椿くん。でも、それも、もうおしまい」
抱き寄せた僕に顔を近付け、あくまで笑顔で生暖かい吐息が顔の皮膚に当たる程の距離で話す月野さんを前に、僕は無意識のうちに歯を鳴らし体を痙攣させて激しく恐怖する
全てが無駄になった、水泡と化してしまった、目の前まで見えた希望が瞬時に断ち斬られてしまった。恐怖に支配された頭の中では、そんな言葉ばかりが延々と溢れ続け僕は怯えるばかりで指一本動かすことが叶わなかった
「ふふっ、椿くん私達の部屋を出たときから汗まみれになって凄く頑張ってたよね。私、ずーっと見てたんだ……格好よかったよ?」
「うっ…………ううっ……!」
夢心地のような口調で語る月野さんの言葉を尻目にせめてもの抵抗とばかりに、僕は必死に月野さんの腕の中でもがくが月野さんの拘束は全く緩む事は無く、それどころか真綿で絞められるかの如く徐々に拘束する力は強くなり、骨がきしみ始めた事で思わず僕は悲鳴をあげた
「分かってるよ? 椿くんはずっと部屋にいるのは嫌だっただね? 外に出たかったんだね? でも、私はずっといつだって椿くんと一緒にいたい……なら、二人の理想を一緒に叶えるには……」
「つ、月野さん……っ!? く、苦しい……」
そんな僕の悲鳴も聞こえているのかいないのか、月野さんは僕の返事も待たず、笑顔のままふらふらとした足取りで何処かへと歩みを進める。何故だか、それが僕には何故だか堪らなく不吉な事である気がしてならず、僕は思わず声を張り上げて月野さんに呼び掛けるが返事は帰ってこず、拘束も決して弱まらない
「これしか……ないよね?」
その瞬間、月野さんにしっかりと抱き抱えられている筈の僕の体を不自然に一瞬の浮遊感が包み込み
「え」
無意識のうちに僕の口から自然とこぼれた声がこぼれ、空中へと吸い込まれてゆくように空しく響き渡った時、僕は月野さんが道路へと身を投げ出したのが理解した
「う、ふふふふ……これで、ずっと椿君と一緒に……」
その瞬間、鼓膜が割れそうな程妬ましい車のクラクション音と霧の向こう側からヘッドライトの光が眩しくて、恍惚しているかのような月野さんの声と悲鳴のようなブレーキ音が聞こえ、そして--
ぐちゃり
そんな短い音と共に僕の身体は僕を抱えて放さない月野さんと共に迫ってきた大型車のタイヤにあっさりと踏み潰された。
「げ……はっ……」
僕の身体中の骨が折れ、砕ける音が聞耳の奥から響き、口からは目の前が真っ白になるほどの激痛による嗚咽と共に大量の血液が吹き出した
「な、なんで…………」
そんな風に体をさながら使いふるされた雑巾の如くボロボロにされながらも最悪な事に僕は意識が失う事無く、いつ死ぬとも分からぬ虫の息の状態ながらもまだ生きてしまっていた
「だ……れか……」
自分の体から流れる血液で塞がれて殆ど見えていない目を精一杯開いて周囲に助けを求めるものの、体は両腕と両足が完全に折れてしまっているらしく無茶苦茶に動かそうとしたもまるで動くことが出来ず、感覚も無いうえに、そもそも僕の声は自分の耳にすら漸く届くほどにか細く小さな物だった
「い、嫌だ……ごふっ……嫌だ嫌だいやだ……!!」
もうすぐ、どうしようも無くこの耐え難い苦痛の中、間違いなく自分は死ぬ。死を目前にして嫌と言う程それを理解してしまった僕は思わず口から血を吹き出しながら本能的な恐怖にかられて叫ぶ。
冗談じゃない、僕はまだたったの12年しか生きていない。大人になるどころか高校生にすらなってない、まだまだやりたい事が沢山あるんだ。こんな所で終わり等と絶対に受け入れられない。と、その時、そんな事を想いながら必死で動かない体を動かそうともがく僕に二本の腕が伸ばされる
「だい……じょうぶ……つばき……くん……私が、いっしょに……いるからね?」
骨が折れていると一目で分かるほどに不自然な方向を向いている指と、血にまみれあちこちにある傷口からは骨が覗いている洋なしボロボロの両腕で、月野さんは声量自体は小さいながらも最早隠そうとしないほどに執着心と独占欲に満ちた声で僕を強く握り締め、胸元に引き寄せた
「ひっ……! 離してください……! 離して! はなしてよぉっ!!」
「最後まで……死んでも……ずっと一緒だよ……」
自身も轢かれているのにも関わらずまるで緩んでいない力で拘束する月野さんに心底恐怖した僕はすっかり我を忘れて懇願するようにそう叫んだ。しかし、月野さんは額が切れているのか血まみれの表情で満足そうにそう呟くだけで叫ぶことしか出来ない僕の声をまるで聞いてはくれない
「たす……けて……牡丹…………」
激痛による苦しみ、そして恐怖で意識が失われていく中、僕が最後に呟いたのは最愛の妹の名前だった
◇
「あ、いたいた、そこにいたのか。不安になるから何も言わず動くのは止めてくれよ」
休日てがら訪れた図書館で澄は、何かに導かれるように歩き出し、何も言わずどこかへと行ってしまった恋人、志那野を見つけると安堵した顔で彼女が座っていた四人がけ用のテーブル、その中で他の席も空いている中、自然と志那野の隣の席へと腰掛けた
「あぁ、悪かった澄。急に、どうしても気になって仕方ない事があって……な」
「だったら先に俺に……って、これ……読んでるの古新聞か? どうしたんだ志那野。お前にしては珍しいじゃないか」
基本的に冷静に落ち着いた行動(世間一般的に見れば変態レベルの愛情表現も含む)している志那野のいつにない行動に困惑しながらも文句の一つでも行っておこうかと考えていた澄は、机の上に置かれていた、つい先程まで志那野が見ていたと思わしき一枚の新聞紙の写しを見た瞬間、再び困惑し、志那野に問いかけた
と、言うのも志那野は『一度目を通せば覚えるから』と、普段から一度、新聞を読んでしまえばそれ以降目を通す事は無く。実際にその言葉が本当であるように、数年前の新聞に小さく書かれていた記事の情報さえ何も見ることなくさらりと言ってのけたのを澄自身、幾度か目撃しているのだ
「あぁ、流石にここまで昔の新聞となると恥ずかしいが私でも記憶に無くてね。こうして人並みに図書館の力を借りさせて貰っているのさ」
最後に『あの頃は新聞よりも算数パズルと柚木の世話に夢中になっていてね』と、付け加えると志那野は小さく過去を懐かしむように笑った
「なるほど……それで理由は分かったけど、一体何の記事を読んでたんだ? 確実にこの大見出しの離婚騒動が云々とか言うのじゃ無いと言うのは分かるけどさ」
志那野の言葉に澄は納得したように頷くとより、新聞に書かれている内容を良く見てみようと体を傾け、より志那野の方へと体をよせる
「あぁ、私が見ているのはそれじゃあない。これさ、この記事だよ」
そんな澄を見て、志那野は再び小さく笑うと自然な動きで、空いた片手を利用して澄の肩を抱きよせると、もう片手で新聞の一角、小さな記事を指差した
「……早朝、濃霧の中の交通事故、二名死亡……? って……この犠牲者の一人の名前って……!?」
言われるがまま志那野が指指した記事の内容を読み始めた澄は、その瞬間、この場が図書館だと言うことも忘れる程の驚愕のあまり思わず声を荒げてしまい、次の瞬間、慌てて声を封じ込めるように自身の口を手の平で覆った
「あぁ、そうだ。この記事に書かれている犠牲者、佐原 椿は牡丹ちゃんの実の兄だ。以前、皆で牡丹ちゃんの家に訪れた時に仏壇に位牌と写真が飾られていたのを見ただろう? それで、話はここからなんだが……」
そこまで言うと志那野は口を開くのを一旦止め、数秒ほど思案するように口ごもると僅かに表情を曇らせながらも、再び口を開き
「私はこの記事に書かれている事件、これを私自身の目で目撃した。そう、偶然ながら私はこの現場にいたんだよ、澄」
「なっ…………!」
志那野から告げられた衝撃的な言葉に澄は今度は驚きを通り越して絶句してしまい、先程とは違って声は風が吹けば消えてしまいそうなかすれ声しか出すことが出来なかった
「……すまない澄。君に隠し事など無い。と、今も神に誓って言えるのだが……どうにも、こればかりは話を切り出すタイミングが掴めなくてな。不快だと思うなら軽蔑してくれても構わないよ」
「い、いや、そんな事で俺がお前を軽蔑したり嫌うなんてありえないけどな……でも、だったら何故、今日に限ってその記事を……あっ」
動揺によって額から流れ始めた汗を持参したハンカチで拭っていた澄は、再び新聞記事に目を通した事である事に気付き、息を飲んだ
「そうだよ澄、今日、この月、この日こそが十五年前の事件を私が目撃した日なんだ。それで、つい気になってしまってね。改めて、あの時の事件の詳細を知りたいと想ってしまったんだよ。それが、今日の独断行動の理由だ」
そこまで言うと志那野は胸に秘めた想いを全て出してしまうかのように深く息を吐き出すと、隣に腰掛け、身を寄せあっている澄にだけ聞こえるような小さな声で語り出す
「あの頃の私は未熟さ故に、現場にいながら何もする事が出来なかった……。後悔は……今でもしているよ」
「志那野……」
いつになく弱気な志那野の言葉、それを聞くうちに澄はここが公共の場という事も忘れて志那野を自ら抱き締めていた。
志那野が語ったこの話は最早、これは過去の出来事であり、今更解決など出来る筈も無い。そんな事は当然理解していた澄ではあったが『愛しい恋人の為』それをせずにはいられなかったのだ
「(……あぁ、そうだ勿論私は椿さんを、ボロボロの体で私に助けをあのお兄さんを助ける事が出来なかったのを未だに悔やんでる。それは真実だ)」
澄の腕に抱かれ、その暖かさを全身で味わいながら志那野は静かにそう思案する。抱き締められながら志那野が澄の顔を見てみればその表情は自身に向けられる労りと慈愛に満ちていた
「(だがな澄、君にもそして駆け付けた警察官の人達にと『聞かれなかったのでいわなかった』が、私は、あの時見ていたんだよ。お兄さんの最後を。あれが決して事故などでは無いと言う証拠を)」
澄に答えるように腕を伸ばし、その背中を優しく抱き締め返しながら志那野は静かに目を瞑り脳裏に浮かぶ記憶を甦らせる
突如、目の前から名も知らぬ年上の少年が消えた事を不可解に感じて霧の中を懸命に走って追いかけた先、そこで息を切らしながらも幼少の志那野は目撃したのだ
踊るように大型車の前に飛び出る影を、そして恐怖する少年と対照的に心底満足そうだった女性の顔を
「(あの出来事に遭遇するまで私は、『死』と言う物は私達人間にとって最も忌むべきものであり、誰もが必死で避けようとするものだと考えていた。だからこそ、私は激しく興味を持たされたのだ。死を全く恐れさせない程に人を動かす感情、即ち『愛』と言うものに……な)」
と、その時、志那野と抱き当たっていた澄の体温が不自然に上昇するのと同時に体がもぞもぞと動き出し、それに違和感を感じた志那野は閉じてた目を開くと澄を抱き締めたまま何気なく視線を周囲へと動かし
「………………」
「わぁ…………」
そうやって志那野が自分達が座っている机の反対側に視線を向けて見れば、そこにはいつの間にやって来ていたのだろうか、志那野と澄の友人の一人である田上とその義妹であり彼女、先程話題に上がった牡丹がそこに立っていた
田上は公共の場でさながらさながら恋愛映画の如く堂々と抱き合っている志那野と澄を見て半分は呆然と、もう半分は『いつもこいつら自重しないな』と、でも言いたげな呆れた顔で棒立ちしながら見ており、牡丹はと言うとその隣でどこか羨望にも似た矢鱈にキラキラとした視線を向けつつ時折、田上の方を幾度となく見ており、田上はまるで気が付いていない様子ではあるが、隙あらば自身も田上に抱き付かんとしていることが口にしなくても見てとれ、志那野は思わず苦笑する。先程の澄の変化はこれが原因に違い無かった
「し、志那野……俺からやっといて何だが……その……離してくれ……」
そんな二つの視線に晒され続けるのが耐えきれないのだろう。そう言いながら志那野の腕の中で澄はもがき、出来る限り志那野に向けて力を入れないように注意しながら腕から逃れようとしていた
「分かった。でも……もう少し」
「ちょっ……志那野……!?」
そんな澄の気持ちを汲み取りつつも、志那野はもう少しだけ甘えて見たくなり、こっそりと口元に笑みを浮かべると更に強く澄を抱き締め、澄が焦る声を聞きながら、もう少しその体の温もりを味わう事にした
「(……結果として私は、こうして心底愛しくて愛しくてこの身の全てを捧げたいと想える人、澄と出会う事が出来た。牡丹ちゃんには少々、悪いとは思うが……あの事件こそ今の私を形作る原点なのだ……)」
息を吸い込み、鼻腔を澄の香りで一杯に満たしながら志那野は目を閉じ、出来ればこんな風に澄と過ごす穏やかな時間が長く長く続くことを願いながら目を閉じた