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◇第十四ヤンデレ タイプ(芸術少女)

 お久しぶりです! 相変わらずの長文になってしまいました……これからは、調子を取り戻して以前のように更新出来るよう頑張ります

 一種の恒例行事の如く気象庁の出した『暖冬』の予想も大外れし、狂気染みている程に寒い冬がようやく終わって雪も溶け、気温も高く、待ちに待った大好きな春が訪れ初めてきたある日の朝、僕、蒲生(がもう)吉春(よしはる)はいつものセットを手持ちの鞄に詰め込み、『センセイ』が一人で暮らす自宅である、そう大きくも無い一軒家を訪れていた


「おーいセンセイ! 春になったから、今日は外にスケッチしに行こう! 花が咲き始めて綺麗だよ!? センセイったら!」


 センセイの家のインターフォンのカメラは無事だが、ドアチャイムは見事に壊れており、しかもセンセイが修理を渋っている為に仕方なく、僕はいつものようにセンセイの家のドアの前でそう大声で叫びながらノックし、まだ寝ているであろうセンセイを呼び掛ける。反応は返って来ないが、呼んだら直ぐに返事をするなんて常識的な事は最初からセンセイには期待していない。しつこくセンセイを呼び続ける


『ん……ふわぁ……おはよ……』


 そうやって呼び掛け続けて十分ほどが過ぎた時だっただろうか? 見てもいないのに『たった今、起きました』と分かるような大あくびと共にようやくインターフォンの受話器を取る音と共にセンセイの声が聞こえた


「はい、おはようセンセイ。準備をしたら早速、スケッチに行こうよ。なんせ春が来たからね! 外には描くものが一杯あるよ!」


 多少の時間はかかったがセンセイが素直に起きてくれた事に安心しつつ、僕はインターフォン越しにセンセイに向かって声を大きくし、出来るだけ楽しそうにそう呼び掛ける


『んー……』


 すると、インターフォンからはセンセイのそんな間延びした声が響き

      

『……あと、5700時間したらね』


 と、非常に眠そうに告げると再びガチャリと受話器を置く音が聞こえ、その瞬間、僕の頭でも何かがカチンと切れる音がした


「5700時間……って、一日24時間、十日で240時間として………ええいっ! 一体何ヵ月、寝る気なんだあんたはぁぁっ!? 流石にそれは許さんっ!!」


 余りにも気力の感じれないものぐさな答えに僕の頭の中でセンセイへの説得は、既に説教へと変わっていた。中からセンセイがドアを開けてくれるのを待つのを止め、怒りの勢いのまま鞄から預かっているセンセイの家への合鍵を取り出すのと同時に鍵穴に突っ込んで回すと、扉を開いた


「……くぉらぁぁあっ! センセイっ!!」


 例の如く余り掃除されていない玄関に突入した僕は、家に上がってから脱いだ履き揃えてから、明かりの付いていない部屋奥に向かって強く叫んで呼び掛ける


「ちぇっ……そんなに叫ばなくても出てくるよ……」


 すると、ついに観念したのかセンセイ、俺に絵の書き方を教えてくれる少女にして、家庭教師をしている俺の教え子、青の四角眼鏡が特徴的な友影(ともかげ)深雪(みゆき)が非常に眠そうにぶつくさ言いながらドアを少しきしませて開きながら、その姿を表した。


 半ば予想はしていたが格好はいつも寝るときに着ている『心太』と大きく書かれた、見るたびに何処で購入したのかいつも疑問に感じる伸びた水色のパジャマ姿であり、肩上まで伸ばしていり栗毛の髪も申し訳程度に前髪がヘアピンで止められてるのみで、全体的に『独特のファッションスタイル』等とでは誤魔化せない程に寝癖でボサボサ、それが服装と合わさって小柄だ可愛らしい彼女の魅力を打ち消してしまうような、驚く程のだらしなさを醸し出し手いた


「はぁ……先生、昨日は一体何時まで起きてた?」


 なんと言うか伸びたパジャマの端からは下着も見えていると言うのに全く色気を感じないセンセイのだらしない姿に針で突かれた風船の如くすっかり怒りが消え失せた僕はセンセイに近づくと、元々延びてるので焼け石に水だとは心の底で想いながらも最低限、下着は見えないように服装を整え、センセイの体が動かぬように片手で押さえつけながら、こんな事もあろうかと事前に準備していた櫛を鞄から取りだし、ボサボサの髪を慎重に整えながらそう尋ねた


「昨日? うーん……三時半過ぎくらい……かな」


 そんな風に僕の手で、まるで着せ替え人形のように扱われてもセンセイは慣れのせいか全く動じる事はなく、僕の片手に体重を預けながら、欠伸をしつつそう答えた


「午前3時……って、そりゃあ今も眠そうにしてる訳だ。センセイも若いけど、そんなに夜更かししちゃ肌も髪も痛んじゃうよ?」


「だって……昨日は数日ぶりにインスピレーションの神様が私に囁いてきてくれたんだもん」


 僕がそう指摘すると、センセイは頬をぷうっと膨らませると、少し拗ねたような口調で僕にそう反論してきた


「歯を磨いて、お風呂に入って、髪も乾かして、パジャマに着替えて、さぁ寝ようとしていたら……突然新作のアイディアが浮かんでね? 私は、それを最近、ミニスランプに悩んでいた私の為に送られたインスピレーションの神様のお告げと思ったんだ」


 僕にされるがままの状態で髪を整えられ、新たなヘアピンを付けられながもセンセイはそう、何故か得意気に話を続ける


「神様のお告げなら、従うしかないでしょ? そう、思ったから私は眠気にも負けずに筆を取って一つの作品を時間を度外視して心血注いで作ってたんだよ。それが三時半まで起きてた訳」


「センセイ……ちなみにその作品って?」


 言い訳と屁理屈だと思っていた言葉だったが、一応、僕の絵画の教師たるセンセイが『心血を注いで作った作品』と言うのが気になり、気付けば僕は髪を整える手を止め、そう自然とセンセイに尋ねていた


「ん、それはこの私だよ? 当然、一度インスピレーションが沸いたら終わりまでは止まれない……完成してなきゃ寝ないっての」


 僕の問いにそう言ってセンセイは得意気に鼻を鳴らしながら笑うと、僕の手が止まった隙を付いて体を小刻みに動かすと腕から抜け出した


「んじゃまぁ、私は着替えてくるから朝食作っておいて。……朝食がおいしかったら、昨日作った作品を『先生』にも見せてあげるよ」


「はいはい……分かったよセンセイ」


 全くぶれないマイペースさを見せる、僕のセンセイであり教え子である深雪に僕は呆れて溜め息を付きながらも鞄からいつも使っているエプロンを取り出すのであった



「ね~先生……まだ?」


 それから数分後、パジャマからいつも愛用しているゆったりとした私服に着替えたセンセイが、ダイニングテーブルに設置された自分の椅子に腰掛けつつ、TVに移る放送中のアニメを見ながら台所にいる僕に声をかける


「はいはい、もうちょっとで出来るから待っててくださいね……っと」


 僕は右手にフライ返し左手にフライパンを持ち、調理を続けながら、頭上で稼働している換気扇の音に負けない程度の声量でセンセイに返事を返す。

 

 センセイは美術の腕こそまだ15才にも関わらずほぼ我流の技術でプロ入り出来るような冗談のような実力を持っているが、それ以外は見事に人並み以下であり、誰もいなければ三食インスタント食品で済ませるなんてざらで、センセイの健康の事を考えると、こうして家庭科の学習程度の技術しか持たない僕が定期的にセンセイの食事を作らなければならなかった。


 ちなみに今、僕が作っているのはセンセイの大好物である、かなり甘めのフレンチトースト。最初こそ焦がさぬように作り上げるのには苦戦したが、センセイが毎度のように朝食にと頼むため、今では料理本も全く見ずに作り上げる事が出来る


「よし……これで完成っと」


 と、そうこうしているうちにフレンチトーストは綺麗なきつね色の状態で無事に完成し、僕はそれをフライ返しですくって皿に乗せると、ある程度切り分け、冷蔵庫からフレンチトーストを作り始める前にあらかじめ野菜を切っておいて仕上げておいたトマトとレタスのグリーンサラダを取り出し、テーブルに座っているセンセイの前にナイフとフォークと一緒に順番に置いていく。ちなみに飲み物は赤いマグカップに入ったホットミルクだ


「おぉ、出来たの? さすがは先生、仕事が早い」


 自分の前に料理が置かれた瞬間、センセイは鼻をひくつかせ、視線をTVからテーブルへと移す。良くみれば、その口元にはうっすらと涎が滲んでいた


「僕は、本当は学業の先生なんだがなぁ……」


 知らぬ人が聞いたら謝った認識をしそうな言葉を語るセンセイに僕はぼそっとそうぼやくが、センセイはそんな事はまるで気にした様子は無く、すっかり眠気も取れたのか元気に『いただきます!』と告げるとフォークとナイフを手にしてフレンチトーストに手を付け始めていた


「はぁ………」


 毎度の事ながら僕の主張がセンセイに聞き届けられなかった事に溜め息を付きながら、僕はセンセイの正面の席に座り、センセイの使ってる物と造形が良く似た青色のマグカップに入ったインスタントコーヒーを口にした


「(センセイ、こんな調子で将来、この先やっていけるんだろうか? 冗談とかじゃなくて本当に)」


 思い返せば今から二年前、大学の学費を稼ぐために一人で始めた家庭教師のアルバイト。その記念すべき一人目の生徒がセンセイ……いや、まだ僕がセンセイを深雪と呼んでたあの頃から、今のお互いに相手を先生(センセイ)と呼ぶような、どうにも奇妙な関係への切っ掛けは始まっていたのだと思う。 

 

 本当にその時までは単なる週一で通う家庭教師だった筈の僕が、娘の作品を世界に知らしめる為に海外に出ざるを得なくなってしまった深雪の両親に『給料を倍にするから』と止めなければ土下座しそうな勢いで泣きつき、それを引き受けてしまった僕は家政婦の如く食事や掃除、深雪のお世話までするようになり、その影響か気難しい深雪は少しずつだが僕に慣れてくれ、自ら距離を縮めてきてくれた。


 僕もそんな深雪の気持ちに答えようと、誰にも言わなかった秘密、ひそかに画家になる事を夢見ていた事を語り、深雪から教えを受けるようになり、半ば冗談も含めて年下の深雪を『センセイ』と呼ぶようにし、そしてその言い方が予想に反する程に気に入り、それが現在に至っている


「ん、ごちそうさま……」


 僕が過去の事を思い出し終えたその瞬間、なんの偶然か丁度同じタイミングでセンセイも朝食を終え、手をあわせながらそう言った。作った朝食を全く残さず綺麗に食べてくれたことは嬉しかったし、一部の何か履き違えた風潮に流されずに『いただきます』と『ごちそうさま』を言えるのも僕個人としてはセンセイに好評価ではあるのだが、いかんせんその口元にはしっかりとフレンチトーストの欠片とグリーンサラダにかけたマヨネーズやドレッシング等のソースの一部が付着していると言ったオチを付けており、そのある意味で何ともセンセイらしい姿に僕は自然と小さく笑っていた


「ほらセンセイ、食事が終わったのはいいけど口元が汚れてるよ?」


 とりあえず僕はセンセイにそう、声をかけてからいうもテーブル近くに置かれてるウェットティッシュが入った容器から何枚かを取りだして手に取り、センセイの肌を傷付けぬように出来うる限り慎重に口元の汚れを拭き取り始めた


「んぶっ……!? せ、先生……くすぐったいよっ!」


 そんな自然な流れで急に口元を触られたのが恥ずかしかったのかセンセイは一瞬、口元をモゴモゴさせながら顔を赤くし、僕に抗議の声を上げてきた


「全く……普通に食事してるのに口元にソースを付けるなんて、センセイは何て言うかまだまだ子供っぽい……? のは、センセイ実際にまだ子供だし違うか」


「むっ…………」


 特に他意は無く僕が呟いた『子供っぽい』と言う一言。それを聞いた瞬間、湯気が出なくなるくらいにまで冷めたホットミルクを一気に飲み干している最中だったセンセイの額がピクリと動き、目だけでじろりと僕を睨み付けると赤いマグカップを口元から離しテーブルに置いた


「10000歩譲って、15才だし私が子供っぽいのは認めるけどさ……これみると、先生も成長してないって意味じゃあ人の事言えないレベルだと思うよ?」


 むすっとしたままの表情で口元をティッシュで拭き取りながらセンセイはそう言うと、空いた方の手で先程、調理前にセンセイへと提出した僕のクロッキー帳、それに僕がセンセイから先週に出され、鉛筆で十点程の課題を書きこんだページを開き、半ば投げるように渡してきた


「…………うっ」


 まぁ、センセイの話からして決してして良い評価を付けられた訳では無いだろう。と、少し自分に言い聞かせながら帰ってきたクロッキー帳を見た僕は思わず顔をしかめて呟いた


 Sを最高とする大まかに分けて五段階評価のうち、僕の作品に付けられていたセンセイからの評価は最悪一歩手前のCやC-が大半であり、中には一つだけたが最低評価のDが付けられたものまであった


「前にも言ったはずだけどさぁ……先生は線を力強く書きすぎなんだよ。ほら、こんなに針金みたいに直線的でカクカクしてるし過ぎているバッタなんていないでしょ?」


「うぅ……」

                       

 と、そうしてセンセイはテーブルの上に身を乗りだし、クロッキー帳に僕が書き込んだトノサマバッタのスケッチを例にして説明を入れてくる。そこで、ようやく先週、ひいては先々週も辺りにもセンセイから似たような事を注意されたのを思い出し、僕は自分のミスに小さく苦悶の声をあげて顔をしかめた


「ねっ、だから気を付けなよ? 子供みたいに同じミスを繰り返す先生」


 そんな僕に気が付くとセンセイは、矢鱈とニヤニヤした笑みを浮かべて得意気に笑いながら、そんな言葉を送って来た


「………………」


 うん、実際センセイからの課題を何回もミスしたのは事実だし、それは真摯にセンセイから絵画を習おうとした身としてはあるまじき事であり、全ては僕の責任だと言うことも身に染みて理解している。


 だが、それでもその瞬間、あまりにも得意になってるセンセイの笑みは、僕に僅かにカチンとした小さな怒りを引き起こさせた


「そうかそうか……センセイが課題返しをするなら……僕も返さなきゃあならないな……この間の模擬テストの答案を」


「あっ……」


 僕が出来うる限りにこやかな笑みを浮かべ、そう告げた瞬間、センセイが『しまった』と、言わんばかりに言葉を詰まらせ、顔を青ざめさせる。そんなセンセイの顔を見ながら先程の意図返しのまま、あえて一気に出すなんて無粋な真似はせず、一枚ずつゆっくりと出していく事に既に僕は決めていた


「まずは一番良かったのはいつも通り理科学で92点、世界社会は80点。数学は……頑張ったねセンセイ、なんと75点にまで上がったぞ」


「………………」


 まずは五大教科のうち、軽いジャブとしてセンセイの成績が良かったものを少しの誉め言葉と共に取りだし少しだけ安心させる。それに対してセンセイは何も口にはしなかったものの、警戒するようにつり上がっていた目がほんの少し緩むのを僕は見逃しはしなかった


 だからこそ


「だから英語50点、国語38点ってのはちょっと頂けないかなぁ……」


 すかさずその瞬間に今回、悪かった二教科をセンセイの目の前に突きだした


「僕、この二教科はセンセイが苦手だって言ってるから重点的に細かく予習したよね? ってか、この問題、九割が宿題の問題まんまのサービスだったんだけどそれでも間違えるって事は……」


「んむぅぅうっ!……なにさ、なにさ! 私、まだ15才だもん! どうせ子供っぽいさもーん!!」


 僕があえて淡々とした口調のまま言葉を続けてちるいると、そこでセンセイは限界が来たのか頬を膨らませてだだっ子のように腕を降りながらそう叫び始めた


「先生の馬鹿! 意地悪! ひねくれもの!」


 最後にそう言うとセンセイは座ったまま、ぷいっとそっぽを向いてしまった


「はは……ごめんねセンセイ? 」


 僕は、そんなセンセイにせめてもの誠意として頭を下げて謝罪しながらもその胸の中では


「(勝った……!)」


 と、自分でも説明出来ないような奇妙な高揚感を感じ始めていた




 そうしてセンセイの期限が直らないまま、僕がセンセイに総合教科を交えた授業をし、昼食を挟んでから、今度は僕がセンセイに絵を教わっていると、あっと言う間に時間は過ぎて、既に夕方へと変わっていた


「センセイ……僕が悪かったから、いい加減、機嫌を治してよ……」


「ふん……嫌だ」


 夕食の材料を買い出しに来たセンセイの自宅近くのスーパーマーケット。その店内をショピングカートを押しつつ僕は、有無も言わせない様子で同行してきたセンセイにそう告げるものの、あれから10時間近く経つのにその期限は治った様子は無く、センセイは少しむくれた様子で僕を睨み付けながら、そう答えると僕から視線を逸らして横の商品棚の方に視線を向けてしまう


「(これは……少し、弱ったなぁ……)」


 そんなセンセイの様子を見て、僕はそう思いながら内心で深くため息を付いた


 別に不機嫌なセンセイが怖いと言うことは全く無く、むしろ同世代の女の子と比べても小柄で童顔気味のセンセイが起こっても微笑ましい光景にしかなないのだが、もうすぐ夕食前だと言うのにまだ不機嫌なこの状態があまり宜しくは無い。

 普段ならば、僕が作った夕食に嫌いな食材を出されても明らかに嫌そうに顔をしかめるだけで、何も言わずに完食してくれるセンセイではあるのだが、不機嫌な時は散々文句を言い、食べてもらうには結構な根気と気力と勇気が必要になる。自分が撒いた種ではあるのだけど、さてどうやってセンセイに機嫌を治して貰おうか? そう僕が考え始めた時だった


「あれ……? 深雪ちゃん?」


 突如、憮然とした態度のまま、僕とは視線を合わさず商品棚を見ながら歩いていたセンセイにそんな、高く、かわいらしい声がかけられた


「その声は……牡丹?」


 とたんにセンセイはピクリと体を動かして反応すると、さっきからずっとそっぽを向いてた視線を正面に向け、少し顔からずれ気味だった眼鏡を元の位置に戻すと、目を細めて視線を声の主へと向け、少しだけ確信が持てないようにそう告げた


「うん……久しぶりだね深雪ちゃん!」


 センセイに話しかけられると声の主、既にいくらかの食材が入った買い物籠と、小さなポニーテールと、それに合わせたようなセンセイよりも更に低い身長。そしてその体からは少し不釣り合いな程に豊満な胸が特徴的な少女、牡丹は嬉しそうに笑うとスキップでもするように小さく跳ね、その瞬間、小さなポニーテールと胸元が揺れる


「先生……一体、牡丹のどこを見てるの?」


 と、そんな風に僕が牡丹と言う少女を観察していると先生が明らかに不機嫌な表情で僕の右足脛に向かって小さくローキックを放ってきた


「い、痛っ……ごほん、ノーコメントで……」


 もちろんセンセイは手加減しているが、誰だってスニーカーの底で脛を蹴られれば痛いのは当然だ。僕は、脛の痛みに耐えながらセンセイにそう言った  

「……一応、センセイにも紹介するね。この子は佐原牡丹。私の中学生時代からの友人さ」


 そんな僕の言葉では当然、センセイの機嫌は直る筈もなく、センセイは相変わらずの不機嫌な様子でぶっきらぼうに僕に説明した


「は、はじめまして佐原さん……俺は蒲生吉晴。一応、このセンセ……深雪くんの家庭教師をしているよ」


 とりあえず紹介されたので僕は脛の痛みを堪えつつ、少し引きつった笑顔でそう佐原さんに挨拶を返す。危うく普段の癖で人前なのに『センセイ』と言いそうになってしまったが、どうにか誤魔化せた。……と、思う


「はい、はじめまして蒲生さん」


 一方で佐原さんは、そんな僕の様子を見てからかったり、見下す様子は全く無く、軽くお辞儀をしながら花が咲いたかのような可愛らしい笑顔を向ける。僕自身は決して幼女趣味だとかそんな特殊性癖は持っていないはずなのだが、僕に見せてくれた佐原の笑顔は純粋に『かわいい』と無意識のうちに判断させられた


「牡丹がかわいいのは私も認めるけど……認めるけど……!」


「って!?……センセイ、痛いって! ごめんごめん! センセイの事を忘れた訳じゃあないよ!?」


 と、そこで何故かまた急激に不機嫌になったセンセイが僕の脛に蹴りを入れ始めた。その理由は考えてみてもさっばり分からないがとりあえず、これ以上蹴られないためにも怒りを沈めるべく、僕は適当に謝罪しておいた


「あ、謝るのならいい……今回は許す」


 そして、その目論見は上手く言ったらしく僕が『ごめん』と口にした瞬間にセンセイは蹴りを止め、更に懐からハンカチを取り出すと自身が先程まで蹴りを入れていた僕の脛をそっと拭き始めた


「ふふっ、良かった……深雪ちゃんを大事にしてくれているんですね」


「は、はは……」


 そんな僕とセンセイの様子を見ていた佐原さんは口元に手を当てると小さく笑った。正直、それで何で僕がセンセイを『大事にしている』と判断するのかは全く分からなかったが、何にせよ相手を笑顔にするのは良いことだと思うので僕はとりあえず、と言った形で笑っておいた。


「おーい牡丹、お前が言っていた牛乳とカレー用の牛肉って……これで良いのか?」


 と、その時、僕とセンセイから見て正面に立っている佐原さん。丁度、その間に割り込むような形で右手に牛乳パック、左手に切り分けられた肉が入ったトレイを手にしたくせっ毛の多い少年がそう言いながら近付いて来た 


「あっ……お兄ちゃん!!」


 その少年を見た瞬間、先程見せてくれた笑みが霞んでしまいかねない程、例えるならまさに光に照らされて輝く宝石のような笑顔を、会話の内容からして恐らくは佐原さんの兄と思われる少年に見せなるとスキップするような足取りで一気に少年の元へと駆け寄っていく


「うん……うんっ! 流石は太郎お兄ちゃん、これで完璧だよ!」


 少年が少し腰を落として屈み、佐原さんから見やすくしてくれた商品を見ると、佐原は満足そうにそう言って再び笑顔を見せた


「お、そうか? そりゃあ良かった。……けどな、何度も言ってるけどあんまり人前で名前で呼ぶのは……」


 そんな風に無邪気に佐原さんに微笑まれると、良く言えば真面目で実直そうな、悪く言えば個性のあるような特徴が全く感じられない顔を持つ、太郎と言う少年も、佐原さんの発言に少しだけ苦言を言いながらも満更でも無いようにそう言い、何となく二人を中心として周囲には暖かい空気が流れ始めた


「じゃあ、頑張ってくれたお兄ちゃんにはご褒美……あげるね?」


 その瞬間、佐原さんは笑顔のまま、つま先立ちで背伸びをしてそっと太郎少年の肩に手を乗せ


「えっ、ちょっ……牡丹? ここ、人ま……」


 突然の事態に理解が追い付いていないのか動揺して狼狽えているだけの太郎少年が反応する早く


「ちゅっ……」


『!?』


 佐原さんは太郎少年のその唇を幼い外見からは想像も出来ない程に大胆に、かつしっかりと『女』の雰囲気を纏わせながら妖艶に奪い取った。そんな先程まで確かに存在していた筈の穏やかな空気を瞬時にして吹き飛ばしてしまうような、あまりにも現実離れした異様な光景に僕とセンセイは絶句し、ついでに言えばされている本人である太郎少年もが驚愕に目を見開いて硬直していた


「……ぷはぁっ……」


 そんな風に実際の時間にしては十秒と少し、しかし僕やセンセイにはどう考えても数分以上の時間感じられた頃に佐原さんは名残惜しそうに唇を太郎少年から離す。運が良いのか悪いのか佐原さんと太郎少年の周囲には僕とセンセイしかおらず他の客も気付いた様子は無かったのたが、それでも驚いた事に佐原さんは公共の場で舌を入れるレベルの『深い』キスをしていたらしく、佐原の舌からは小さく糸が引いていた


「な、な……な、何やってんだ牡丹んぅっっ!?」


 数秒のタイムラグを置いて、太郎少年は瞬時にして顔を真っ赤にすると、滅茶苦茶に混乱した様子で、盛大にどもりながら佐原さんに向かってそう叫んだ。しかし当の佐原さんはと言えば、それに怯むどころか、逆に不思議そうは顔をし


「何って……もちろん頑張ってくれた、お兄ちゃんへのご褒美だよ?」


 と、佐原さんは先程まで重なっていた自身の唇を指でそっと触れつつ、実に軽く、それが何でもない事のように言ってみせた


「だからって、人前でディ……ご、ごほん!」


 そんな佐原さんに太郎少年は直ぐに反論しようとし、そこでハッと太郎少年を見ている僕とセンセイに気が付くと、そこで自分が人前で何を言おうとしたのかに気付くと誰だって分かるような誤魔化しの咳払いをした


「……ありゃあ無いだろう? なっ牡丹?」


 咳払いをし終えた後は太郎少年は先程までの雑な誤魔化しをまるで最初から無かったかのように、いや言葉こそ佐原に向けてはいるが、まるで自分自身に『さっきの失態は無かった』と言い聞かせているようにそう佐原さんに告げた


「うーん……確かに、今回は私も嬉しくてやり過ぎちゃったかも……ごめんねお兄ちゃん?」


「ぼ、牡丹! 分かってくれたか!? 本当に!?」


 そんな太郎少年の言葉に、先程までの行動を見れば以外と言える程に佐原は素直に動くとそう言って太郎少年に謝罪する。一方で太郎少年もまさか素直に佐原さんが謝るとは想定していなかったのか、先程までの額に汗が滲む程に焦っていた顔を笑顔に変え、小さな佐原の肩を抱き締め、太郎少年に抱き締められた瞬間、佐原さんは『あっ』と、余り周囲には聞こえないような小さな物ながらも非常に嬉しそうな声をあげた


「うふふ……だって私はお兄ちゃんの一番だもん。勿論、お兄ちゃんの気持ちは分かるよ!」


 そうしてたっぷりと文字通り全身で太郎少年に抱き締められる感触を味わいつつ、蕩けきった表情で非常に満足そうに言う佐原さん。その表情は昼間にも関わらずさながら良い夢を見ている子供のようであり、そんな、本能で父性を刺激させるような佐原の可愛らしさに、よく手入れしてある細く綺麗な指に、思わず僕は惹かれ、気付けば自然と夢中になって佐原を見ていた。そう、僕の隣には『センセイ』が居ると言うことを完全に失念して


「『吉春先生』、さっきから牡丹をジロジロ見て……何をやってるのかなぁ……?」


 その瞬間、冗談でもなく背中にドライアイスでも放り込まれたんじゃあないかと錯覚してしまうような恐ろしい悪寒と共に、冷たいセンセイの声が僕にかけられた


「セ、センセイッ……!? い、嫌、これは無意識に『僕に娘が出来たらあんなふうに無邪気なのかなぁ……?』とか考えただけで、決してやましい気持ちは……うん、確実に微塵も無いぞ!」


 その時、明らかにいつもとは違う様子のセンセイに僕は自分でもおかしいと感じる程に声を震わせ、ひきつりそうになる顔を精一杯に顔面の筋肉に力を込めて笑顔を作り、包み隠さない真実をセンセイに語る。具体的な理由は説明しろと言われてもさっぱり分からない。でも、何故だかそうしなければならないと確信していたのだ


「…………」


 そして、そんな僕にセンセイはじっと視線を向ける、嫌な汗がじわりと背中から滲み、妙な緊張感が周囲に漂う


「それならいいや……早く買い物済ませて帰ろう?」


 と、その瞬間センセイはそう言うとぶいっと僕から視線を反らし、それと同時にさっきまでに見せていた気迫が風に吹かれた線香の煙のごとく冗談のように消え失せた


「あ、あぁ……分かったよ……食材も痛んじゃうしな……」


 今にも限界を越えて破裂しそうな心臓を僅かでも大人しくさせようと深呼吸し、出来るだけ平静を保って僕はセンセイにそう告げると太郎少年達にセヲ向けるとレジに向かって歩き出す。


 太郎少年と佐原、彼等に全く罪は無いことは理解している。だが、しかしセンセイが今までに見たことが無い異常な変化を見せたこの場が何となく恐ろしい気がしてならず、とても居続ける自身が僕には無かったのだ


「じゃあ、牡丹。また会おうね」


 背後からそう牡丹に別れの挨拶をするセンセイはすっかりいつも通り。僕の知っている『深雪』のものに戻っていた





「それじゃあ今から早速、私の新作を先生に見せてあげよう!」


 夕食のハンバーグとオニオンスープ、サラダを電光石火の『もう少しだけ味わってくれ』と言いたくなるくらいの勢いで食べるなり、そう言って席を蹴り飛ばすような勢いで立ち上がりアトリエへと向かっていくセンセイ。既に日は沈んでいるのだがそれとはセンセイのテンションは上昇しっぱなしだ


「気持ちは嬉しいけどさ……せめて食器は流し台に持っていくくらいはしてくれよセンセイ……」


 僕はそんなセンセイの背中を見送りながら、ため息を付きセンセイが使った食器を纏めて流し台へと持って行き、食べかすが散らばる机の上をふきんで拭き取った。


 ……全く、相変わらず一つの事に集中すると周囲が全く見えなくなるクセは変わらないな。センセイは。


 そんなセンセイは2年前の出会った頃とちっとも変わらず


「(でも……あの時、あのセンセイは……)」


 だからこそ、僕には昼間に見せたセンセイの姿に激しい違和感を感じていた。それこそ、思い出すだけで寒気が走る程度には


「(出来ればそうであってほしいが、偶然だとか、気のせいだとはどうしても思えない……でも、だとしたら、ますます分からない。一体なんだっていうんだ……!?)」


 僕の胸の中の恐怖心を現すように腕に広がる鳥肌を誤魔化すように無心でテーブルを吹きつつ、僕はそう考え込む


「おーい、先生……? 新作を持ってきたよ。見ないの?」


「…………!」


 と、そこで思考に集中していた僕は、つけていたエプロンの裾をくいっと引っ張っりながらそう言ってくるセンセイにようやく気付き、不意をつかれた僕は思わず体をびくりと跳ねさせてしまった


「ご、ごめんなセンセイ……ちょっと後片付けに集中していて……」


「え~……そりゃ先生が一生懸命に掃除して机をピカピカにしてくれるのは嬉しいけどさ……だからと言ってそれに集中して私の事に気がいかないってのは……どうかと思うよ?」


 僕が慌てて言い訳をすると、僕のエプロンの裾を引っ張っていた右手を戻し、両手を腰に当てながらそんな風にセンセイは少し拗ねたように頬を膨らませながらそう言った


「まっ、それはいいか。それより早速新作を見てみてよ先生! じゃーんっ!」


 しかし、センセイがそれを気にしていたのはほんの一瞬であり、すぐに何事も無かったかのように機嫌を治すと直前まで秘密にしておきたかったのか、わざわざ少し厚めの布で覆われていたキャンバスの布端を、余程テンションが上がっているのか自身の口で発した効果音と共にさながら隠し芸で見るようなテーブルクロス引きにも似た勢いで一気に取り払った


「……!!」


「凄いでしょ、自信作なんだよ!」


 その絵を見た瞬間、先程まで心の中でくすぶっていた感情は一気に吹き飛ばされた


 センセイが見せてくれた絵は青と白と二つの色をメインとし、寒風吹きずさむ冬の一場面を描いた美しい水彩画だった。


 荒れ狂うように描かれた吹雪は絵だと分かっているのにも関わらず今にも唸る風と雪の音が聞こえて来そうな程な迫力を感じ、うっすらと青が混じった降り積もる雪は本物にも負けない程に鮮やか。そして、それらが付け合わせになるような形で絵のメインとして何より特徴的なのが


「見て分かるかもしれないけど、絵のタイトルは『怠け者の末路』。私から見ても久しぶりに大満足な一枚だよ! これは!」


「………………」


 胸を張り、自信たっぷりにそう断言するセンセイ。それはセンセイの小柄な体格もあって、どこか可愛らしさを感じれる仕草ではあったが今の僕にはそれはあまり目に入らず、センセイが自ら『大満足な一枚』と評する絵を前にして、一言も発する事が出来なかった。それほどまでに僕は絵のメイン


 朽ち果て、ボロボロになって雪が薄く積もった太い枯れ枝を背に脚が縮こまり、体がどこか色あせた色に変わり、特徴的な触覚が凍り付いた状態で息絶えている一匹のキリギリスのおぞましさとどこか美しさを持った死骸の姿にさながら、底無し沼に脚を突っ込んだの如く心の底から飲まれ始めていたのであった


「こ……れは……」


 何とか声を出そうと、跳ね馬の如く暴れる心臓を押さえるべく出来うる限り静かに呼吸をし、気力を振り絞った僕の口から出てきたのはそんな風に今にもかすれて消えそうな程に弱々しく、誰が見ても分かるほどに力の籠って無い情けない声だった


「うん、先生からの意見も聞きたいな! どう思う?」


 そんな僕の様子を知ってか知らずか、当のセンセイは期待に胸を膨らませた様子で僕にそう問いかけてきた


「えっ……と、センセイ……」


「(まただ、またセンセイの『クセ』が出ている!)」


 どうにか頭を冷やしてセンセイへと告げるべき言葉を捻りながら、同時に僕は半ば戦慄し、薄く冷や汗を流し始めながらセンセイの絵を見て一つ心中でそう呟いた


 学生でありながら現役のプロ画家として、活動しているセンセイは依頼されたり出展する作品ならば、暖かくのどかな風景画や人物画、抽象画のように万人受けする絵を書くことが出来るし、そんな絵を書くことを決してセンセイは嫌いではなく、楽しんで描いている。


 が、しかし、センセイの真の本領発揮は決してそんな『ごく普通の絵』では無い。センセイ生まれ持つ才能を100パーセント発揮できる絵であり僕がそれを悪癖と判断する絵。それこそが今回見せてくれたような『死体の絵』


 通常の人間が恐れ、忌み嫌い、もう二度と動くことは無く朽ち果てている、そんな死体の絵を書くときこそセンセイは筆が通常時とは比べ物にならない程に軽やかに動き、最高の力を込めた大傑作が可能となるのだ


「あのさ……センセイ……気に入ってるのは良く理解してるし、この絵もそれ自体は文句の付け所が無い程に凄い絵だけどさ……やっぱり死体の絵をメインに書くのは控えなよ」


 しかし、だからこそ僕はセンセイのその『クセ』をどうにか治そうと試みていた。それが、角を矯めて牛を殺すような行為に匹敵する愚行になるのかも知れないと理解しても、止めずにはいられなかったのだ


「え~? 自信作なんだけどなぁ……先生は素直に誉めてはくれないの?」


 どうにか聞き取れる程に小さく、それでいて震える声で発せられた僕の言葉を聞いたセンセイは露骨に不満そうに顔をしかめると、どこか子供じみた文句を口にしてきた


 僕は知っていた。いや、ある日の夕方の帰宅途中に偶然にも知ってしまっていた。


 今はこうして15才の少女相応の表情を見せるセンセイ、深雪が自宅近くで、車にでも跳ねられたのか脇腹が裂けて中から内蔵がはみ出し、アスファルトに出来た血だまりの中心で生前は柔らかかったであろう毛皮を真っ赤に濡らして息耐えた子猫を目撃した事を。

 見た瞬間、深雪が悲鳴をあげたり、嫌悪や悲しむ訳でも無く、おもむろにアスファルトの上に膝立ちの状態で座ってより猫の死体に顔を近付けると、いつも携帯しているクロッキー帳とHBの鉛筆を取り出して、素早く息耐えた子猫の姿を一心不乱にスケッチし始めていた事を。


 そして、純粋で子供っぽさが色強く残っていると思っていたはずの少女がしていたその行動が現実とは思えなくて、激しい恐怖のあまりとても直視し続ける事が出来なくなった僕が物影に隠れていても、分かるほどにその時の深雪が目をギラギラと怪しく輝き、口元に成人もしていない少女が決してしてはいけないような狂気的な笑みを浮かべていた事を。


 結局、スケッチを終えた深雪が満足そうに鼻歌を歌いながら自宅へと帰ってゆき、ドアを閉じるのを見ても恐怖でへたりこんだまはま動く事が出来なかった僕であったが、その日から決心したのだ



 年上として、そして何より、教員免許を取得してはいるがクラスを受け持ったどころか学校で働いた事も無いが、それでも深雪の担当教師を名乗っている立場として何としても深雪の持つ異常性を治して、まともな人間にしようと


「(それが、どれくらいかかるのか……そもそもほぼ素人同然の僕に可能なのかも分からない。それでも必ずやりとげて見せる!)」


 流れ続ける額の冷や汗を拭い、深呼吸してどうにか心を落ち着かせる事に意識を集中し、冷静さを取り戻そうとしながら僕はそう強く決心していた


 だからだったのだろうか


「先生なら分かってくれてると思ったんだけどなぁ……うん、ならもっと……工夫して……練って……より素晴らしい物を作らないと……」


 横で僕の顔を伺いながら、そう呟く深雪の声を、その時の僕はすっかり聞き逃してしまっていた





「はぁ……これで僕の持ち物は全部ですが……他にも何かありますか?」


 センセイが僕に新作の絵を見せてから何ヵ月かの時が過ぎて季節は初夏へと変わり、心配だったセンセイの様子もあれから特に何か変化も見せず、相変わらずセンセイに五大教科を教えつつ、センセイから絵を教わる日々を送っていたある日、僕はセンセイと僕の夕食を買いに行った帰りに出くわした、僕と同じ程の年に見える自転車に乗った若い警察官から職務質問を受けていた


「あ、いえいえこれで結構ですよ! すんません、わざわざ買い物帰りに呼び止めちゃって……何分、上司からここらの見回りを特に厳しくするように言われていましてね……」


「……この辺りで事件でもあったんですか?」


 指示に従うまま、僕が手持ち鞄と買い物の籠の中身を全て出し終えると、どこか初々しさが残る若い警察官は苦笑しながら何回か頭を下げて謝罪してきた。警察官、と言う職業にありながはもその控えめな姿勢はどこか好印象を感じさせ、気付けば自然とその警察官に質問していた


「え、ええっと……それは機密により教えられません……って言いたいけど、でも、あなたには今日、唯一積極的に協力して貰いましたし……」


 僕の質問に対し、若い警察官はそう言いながら腕組みをして悩見に悩んだ末、最後に『くれぐれも他言無用で、あっ、僕が言ったってのも内緒でお願いしますね』と念を押してから、周囲に人気が無いことを入念に確認して、小声で話を始めた


「……ここ最近、この街を含めた、あちこちで殺人事件が起きてるのは知っていますね? ニュースや新聞でも取り上げられてるし」


「…………ええ。昨日のワイドショーでも取り上げられていましたね。番組内で『現代社会の闇』とか言われていたのを覚えてますよ」


 小声でひそひそ話を始めた若い警察官に合わせて、僕も小声で警察官に返事を返す。


 この若い警察官の言う通りここ数ヵ月の間、一定の感覚で下は小中学生からは上は20代後半の会社員と言った若い女性ばかりが狙われ、その腕を肩口から鋭利な刃物で切り落とされて殺害される。と、残忍な事件が頻発しており、警察組織がその犯人探しに躍起になっている事も僕は知っていた


「それでですね……さっきも話した僕の上司……今は他の事件解決の為に出張してるんですが……ともかくその人が言うには……」


 話が進むにつれ、警戒しているのかさらに声を小さくし、同時に真剣な口調でそう語る若い警察官の様子に押されて僕も思わず緊張しながら軽く身を乗りだし、耳を澄ませて若い警察官の次の言葉を待つ


 と、その瞬間


「……!」


「わっ!? ととと、すいませんっ!」


 まるで狙っていたようなタイミングで若い警察官の腰に下げられた無線機が鳴り響き、突然の音に驚いて一瞬硬直してしまった僕にそう言って短く謝罪すると、流石に無線の内容まで一般人の僕に聞かせる訳にはいかないのか、背中を見せて何歩か進んで距離を取ってからホルダーから無線機を取り出して無線に出た


「すいません……本当に話そうとは思ってたんですが……何か発見があったらしくて、すぐ署に戻ってくるように言われてしまいました……」


 数秒後、無線での通信を終えた若い警察官はそう、申し訳無さそうに頭を下げて謝罪した。そう言えば先程、この警察官は今日の取り締まりで僕が『唯一、積極的に協力してくれた』と、言っていたがひょっとしてそれは、こんな少し謙虚すぎる態度と機密である筈の情報を会ったばかりの僕に話そうとする甘さこそ原因なのではないだろうか? と、そこで僕は会って間もない相手にそんな失礼な想像をしてしまっていた


「あ、いえいえ! 仕事なら仕方ないじゃあないですよ! ええ!」


 そんな後ろめたい気持ちを誤魔化すように僕は少しオーバーな様子で若い警察官にそう答える


「……? すいません、それでは僕はここで失礼します」


 そんな不自然な僕の態度を若い警察官は一瞬だけ不信そうな目で見るが、特にそれを深く気にかけた様子は無く。短く僕に礼を言うと自身が乗っていた自転車に再び乗ると、軽くペダルを漕いて少しせわしげに、その場から立ち去っていった


「ふぅ…………」


 次第に小さくなっていくその背中を見送り、やがて普通に話す程度では僕の声が聞こえない程、遠くに行った事を確認すると僕はそう深く深く『安堵のため息』をついた


「…………!?」


 直後、僕は自らの行動と無意識に抱いてた感情の意味が理解出来ず、思わずため息を止めるように口を掌で覆った


「(なんでだ!? 何で僕は……)」


 咄嗟に自問自答をするが正確な答えは頭をフル回転させてもまるで浮かんではこない


「……………」


 ただ、ここで敢えて無理矢理な形で言葉にして言うならば若い警察官が僕に語ろうとしていた言葉に底無し沼に足突っ込んだような漠然とした不安、そして確実に恐ろしい事が語られる。と言う動物的直感にも通ずる恐怖を感じていた


 肝心の若い警察官が立ち去ってしまった以上、結果どうする事も出来ず、僕は解決出来ぬ悩みに頭を悩ませながら一人、センセイの家への帰路を歩いていくのであった




「……生、先生ったら! ねぇ、聞こえてないの!?」


 帰り道での出来事が気にかかったまま夕食が終わり、ぼうっと半ば機械的に皿を洗っていた僕は、少しむっとしたようにそう言うセンセイの声で眠りから覚めたように、思考の海から帰ってきた


「う、うんっ!? なんだいセンセイ?」


「なんだい……じゃないよ。私は先生にさっきから何回も話しかけてるんだよ?」


 心の動揺がそのまま表面に表れてしまったかのように、盛大に声を上ずらせながら僕がどうにかそうセンセイに答えると、センセイは両手を腰に当て、ため息を付きながらそう言う


「さっきから言ってるじゃない……『先生、なんで紙袋を水洗いしてるの?』って……」


「あっ…………」


 と、そこで呆れ果てるようなセンセイの指摘を受け、僕は自分が今夜のデザートとして買い、センセイにも出したドーナツが入っていた紙袋を洗っていた事に気付いた。センセイが何度も言った、と言うように既に僕が紙袋を洗い始めてからそれなりの時間が流れているのか、綺麗な四角形をしていた紙袋は水道の流水を浴び続けた事と僕が洗剤と水が染み込んだスポンジを幾度も押し付けたて洗った事によって、あたらこちらに穴が開き、たとえ乾燥させても再利用など出来ないただのボロクズの塊と化していた


「食事中にもぼうっとしてたし……今日のセンセイ……なんかおかしいよ? なにかあった?」


 とりあえずは本当に洗わねばならない食器は既に洗い終えてある事を確認し、まず使い物にならないであろう紙袋をシンクの三角コーナーに押し込んでいるとセンセイは心配そうにそう聞いてきた。

 僕をじっと見つめるその瞳は一点の曇りも見つける事が出来ない程に綺麗で澄んでおり、心底僕の事を気遣っている事が理解できた


「……いや大丈夫、何でもないよセンセイ。本当に心配しないで」


 そんなセンセイの瞳にほだされ、つい真実を語りそうになってしまった僕ではあったが、どうにか危うい所で理性が打ち勝ち、僕はそんな風に話をはぐらかしてセンセイを誤魔化した


「そっか……先生がそう言うなら……私は先生が言わない限り聞かないよ」


 意外にもセンセイは自分から見てもたどたどしいものだった僕の話を目を閉じて軽く頷くと、納得そう言ってすんなりと受け入れ、台所から立ち去ってゆく


「……本当に聞かないの?」


 てっきり矢継ぎ早に質問しているかと思っていたセンセイが、あまりにもあっさりと身を引く。目の前で起きた出来事に気付けば薮蛇だと言う事は理解していたが思わずそう直球で尋ねていた


「聞かないってば本当に、センセイが言わなければね……」


 そんな僕の問いにセンセイは特に動じた様子も無く、リビングのテーブル、自身の席に腰掛けると今日届いたばかりの自分宛のファンレターに目を通し始めた


「そう……ありがとうセンセイ」


 いつもと比べても妙に大人しいセンセイの態度にやはり妙な感覚を感じながらも、とりあえず僕はセンセイにそう礼を言うと少しでも曇りがちな心を少しでも晴らそうと、意識を集中させて皿洗いに熱中し始めるのであった


 その後、僕はこんな成り行きに任せて行動していた事を激しく後悔する事になる


 あの時、センセイが妙に大人しいのを僕が追求していれば


 センセイが読んでるファンレター、そこに書かれている『内容』を少しでも目を通していれば


 あんなにもおぞましく、狂気に満ちた結末は少しでも避けることが出来たのかもしれないのに



「ん……それじゃあ行ってくるよ」


 ドアを開く直前、僕の方を振り返ると不機嫌な表情と顔色を隠そうともせず、センセイは短くそう僕に言いながら画材用具を手にした


「全く……お父さんもお母さんも海外にいるのに……わざわざ日本の近場での仕事を取ってくるなんて器用過ぎるよ……どんな商売のテクニックなんだよ……」


 ブスッとした表情で、センセイにとってはよりにもよって僕からの課題の無い今日、日曜日に急に近場での仕事の予定を入れてきた両親への文句をぶつぶつと呟く


「まぁ……文句を言ったって仕方ないだろう? いきなり海外よりはマシじゃあないか」


 そんなセンセイをどうにか宥めながら僕は仕事が予定通りに進んでもセンセイが午前中には帰れないと知って、自分が作ったおかずが詰められた弁当箱を持たせる


「そりゃあ、海外と比べちゃったらそうだけどさ……先生、その例えは極端じゃない?」


 僕がそう言うとセンセイは不平不満たっぷりと言った様子で弁当を受けとり


「……それじゃあ……じゃないか」


 直後に短く、しかも早口で何かをセンセイは小声で呟いた


「? センセイ、今最後に何て言ったんだ?」


「……何でもない、じゃあ行ってくるね」


「あっ……ちょっとセンセ……」 


 唐突にそんな事を言われた為に正確に聞き取る事が出来なかった僕は思わずセンセイに尋ねるが、センセイが僕が投げ掛けたその問いに答える事は無く、まるで僕の問いに応対するのも拒否するように、僕から視線を反らすとさっさとドアを開いて出かけてしまった


「はは……まるで一人相撲だな、これじゃあ……」


 後には玄関に、我ながら情けなさに自嘲するしか無かった僕の乾いた笑い声が響くだけだった



「はぁ……どうにも上手く行かないもんだなぁ……」


 センセイが出かけてから、しばらく寝転がってリビングでTVを見ていた僕ではあったが相も変わらず頭に霧がかかったようなモヤモヤとした感覚を取ることが出来ず、僕は今日だけで何回目に達するか分からなくなるほど吐いたため息を再びついた。


 あの若い警察官から話を聞いてから今日まで既に一週間以上の時間が過ぎていた。その間にもやはりと言うべきか連続殺人事件は決して終わっておらず。何日か前に再び一人、今度はここから近い、僕もよく利用しているスーパーのパート帰りの女性店員が犠牲になったと、ニュースで報じられているのを見て愕然としたのが記憶に新しい


 そして、時間が過ぎても尚、あの時から抱いていた尻尾すら掴めぬ正体不明の不安感は全く消える事は無かった


 それは普通ならば『気のせい』と断言出来るほどに曖昧でハッキリしないものではあったのだが、どういう訳かそれは30cm先も見通せぬ濃霧のようにしつこく僕の頭に居座り続け『決定的な事を見逃している』と、静かに警告し続けているのだ


「あぁ……もうっ!! ……少し体を動かして頭を冷静にさせるか……」


 そんな考えで脳が埋め尽くされ、押し潰されそうになった僕は感情のまま頭を掻きむしるとTVの電源を切って勢い良く立ち上がる。寝ていた状態から急に立ち上がった事で一時的に立ち眩みに襲われたが、両脚に力を込めてそれを堪える。と。そうして脚に力を込めよう足下を見た瞬間、僕の視界に小さな埃が目に入った


「そうだ……掃除でもすることにしよう。流石にセンセイが帰ってくるまでに掃除してれば気も晴れるはずさ」


 センセイが仕事に出かけてしまい、僕一人になってしまったせいか、矢鱈に広く感じる家で、誰に宣言するわけでも無いが、取りあえずは自分に言い聞かせる為。と、自分に言い聞かせると僕はさっそく掃除用具を集めるべく体を動かし始めた。どうせ、このまま自分の家に帰宅しても気持ちは晴れずにぐだぐだと無駄に時間を消費して行くだけだろう。ならばセンセイの家で少しでも有意義に動いた方がいい


「……とは言え、自分で言い出した行動ながら、やってる事は完全に家庭教師と言うより、家政婦だな……」


 家庭教師と言う仕事からは明らかに逸脱している自分の行動を振り返って僕は、自虐的にそう言いながら苦笑した。慣れとは実に恐ろしい物で、自然と好きでは無かった家政婦まがいの仕事を自らやり出すようになっているのだ。これもある意味では一種の『職業病』と言えるな。と、考えていると自然とまた苦笑する


 内容はほぼ自虐ではあるのだが、笑顔を浮かべた事で心にずっしりとのし掛かっていた悩みと言う名の枷はほんの少しだけ軽くなっていた気がした



「~♪ ん……この廊下を拭き終えれば概ね、家の掃除は終わりかな」


 家に一人きりと言う状況を利用して誰にも遠慮せずに鼻歌を口ずさみながら倉庫から取り出したモップで廊下を掃除していた僕は、そう言うと足を止め大きく伸びをした。沈みがちな気分を気分をほんの慰めレベルでも良いから明るくしようと思って始めた鼻歌ではあったが、僕が想像していたよりも遥かにその効果は有ったらしく、集中出来ていたのか掃除は実に軽やかなスピードで進み、センセイの弁当を作る際に余ったおかずを利用した昼食を食べおいて再び再開した頃には廊下を除いて家の掃除をほとんど終え、同時に幾分か晴れていた。の、だが


「あとは、ここさえ拭き終え……れば……」


 再び廊下の掃除を再開しようとした僕は、そこでようやく落ち着きを取り戻して正面、ほんの五メートル先を見たことによってフリーズさせられる


 そこにあったのは、騒音が届かないように配慮され他の部屋からポツンと離れて廊下の突き当たりに部分に儲けられた部屋と、普段ならば取り付けられた鍵でしっかりと施錠しているはず部屋一枚のドア。

 が、しかし、何と言うタイミングでの偶然か今日と言う日に限ってドアに鍵はかかっておらず、遠目でもドアが半開きにかりほんのちょっとドアを押すだけで何の問題も無く部屋の中に入れる事が分か利、それに気付いた瞬間、僕は背中にじっとりとした汗の感触を感じ取り、同時に小さく震えた。


 そう、何故ならあの部屋は、僕がこの家に来てからも『いくら先生でも、人のディープでコアなプライベート部分を詮索するのは止めてよね』と、自分の寝室に入る事をも許したセンセイが、決して曲げずに頑なに僕が入るのを拒んだ部屋


「センセイの……アトリエ……」


 あぁ、これで僕が妙な胸騒ぎを感じてなければ、奇怪な連続殺人事件が起きてなければ、若い警察官から犯人がこの辺りに潜伏しているという話を聞きさえしなければ、僕は何も迷うこと無く掃除をしながら半開きのドアを閉めて終わりだったのだろう。


 しかし、今の僕はそうはいかない。頭の中で抱いていた小さな疑惑は今や手に付けられないほど大きく膨れ上がり、ここで何もしない事などは不可能。抱いた疑惑を晴らさずにはいられない


 そんな想いで頭が埋め尽くされそうになった時、僕の体は半ば無意識に動いて手にしていた掃除用具を床に置き、一歩進む度に緊張のせいか心臓の鼓動が早さを増していくがそれでも足は止まらず、僕は半開きだったドアを引いて全開になるまで開き、そのまま吸い込まれるようにセンセイのアトリエの中へと足を進めていった



 窓が小さく、電気の消えた薄暗いアトリエ内部に一歩、足を踏み入れるとまず最初の一呼吸でセンセイが書くのに使っている絵の具の臭いが一斉に鼻孔に襲いかかり、僕は思わず咳き込んだ。

 あまり掃除をしていないのか、床には失敗作と思わしき下書きの絵の一部分にだけ絵の具が塗られただけで乱雑に丸めて捨てられた紙や、最後までキチンと使用したらしく透き通っている絵の具が入っていた空き瓶、何に使ったのか分からない古新聞等がアトリエの廊下のあちらこちらに散乱しており歩きにくい。その上、放置された物の一部は捨てられてそれなりの時間が経過しているのか埃が薄く積もっており、それを気付かずに蹴り飛ばしてしまった僕は再び咳き込んでしまった


「ゴホッ……ゴホッ……ん、あれは……?」


 センセイのアトリエに入って数分もしないうちに即座に引き返して掃除用具を手に、この部屋に落ちてるゴミの山から床まで丸ごと一掃する勢いで掃き取りたくなるような気分になっていたがそれを堪えて廊下を進んでいると、物が散乱している床の中で物を押し退けて不自然に開けたスペースが見つかった。何故だかそれが妙に気になった僕がゴミを掻き分けながらその不自然に開いた場所にあったのはゴミの散乱した床と開けた床を分断するように床に僕の体でも全身が入るような面積を持つ正方形に刻まれた溝、そしてその正方形の一片部分には小さな持ち手が取り付けられている


「これは……地下貯蔵庫……いや、地下室への入り口か?」


 一見すれば、それは単に床下に作られた貯蔵庫にしか見えなかったし近づいて観察するまでは僕もそう思っていた。が、しかし、その近くにうっすらと残るセンセイの足跡。そして『何か重いものを引きずったような跡』が直感的に僕に『違う』と感じさせた


「鍵は……かかって無いな……」


 入り口を良く確かめ、取っ手部分を持ちながらながら僕は一人呟く。と、言っても僕は特段誰かに伝えている訳では無い。あえて例えるのならば、そう


『決断』


 僕自身にハッキリと決断させる為の言葉だ


 込み上げてくる緊張感は先程、アトリエのドアを開けたときの非では無く、胃がじわりじわりと痛み始め、思わず腹に手を当てる


 アトリエに入った時点なら、恐らくギリギリではあるが僕はやり直す事が出来た。だがしかし、もしここから先に進めば決して戻れないと言うのが、この場に立つ事で、この場の空気を知ることで良く理解出来た。しかし、それでも僕の心中は未知への恐怖と同じくらい、真相を知りたいと言う想いが大きくなっていたのだ


「…………」


 もはや自分の感情を押さえ付けられはしないと判断した僕は、意を決して持ち手を思い切り引き上げれば予想していた通りなんの抵抗も無く扉は持ち上がり、地下室の入り口である急角度の階段がその姿を現した


 僕のような大の男が進むにはどうにも注意しなければ頭をぶつけてしまうのでは、と、思うほど低い天井に注意を払いながら階段を一歩、また一歩降りながらカビと埃の臭いがする地下を降りてゆく。


「やっぱり……この階段にも引きずった後が……」


 やはりと言うべきか地下階段にも何かを引きずったような痕跡は特に隠そうとした様子も無くはっきりと残っており、それを見ながら階段を降りる度にますます嫌な予感は強まっていく。と、そうして歩みを進めていた時、突如として階段の終わりが見え、暗闇の奥から切り取ったようにぼけた茶色に塗られた一枚のドアが姿を表した。階段の登り始めからずっと続いていた引きずった後もここで途切れている為、間違いなくここが終着点なのだろう


「……よし、行こう」


 今日だけで何度にもなるかも分からない緊張に包まれながら、いよいよ真相にたどり着けると言う僅かな期待を胸に僕はドアノブに手を伸ばすと、ゆっくり回し


「ガッ…………!?」


 その瞬間、ドアノブを握った手から激しい衝撃が一瞬にして腕を駆け抜け、それが瞬きするより早く心臓に、そして脳に伝わった瞬間、僕は体を襲う骨を軋ませ、肉を砕かんかとするような電気の痛みと衝撃に悲鳴を上げた


「ううぅっ……あ"あ"あ"あ"ぁぁっっ!!」


 痛みで悶絶しながらドアノブから手を離そうとするが、体に流れる電流のせいか腕は接着剤で固定されたかのようにぴったり張り付いて全く動いてくれず無慈悲な電流が僕に襲い続ける


「ぎっ……!! いっ………」


 どうにかしてこの苦痛から逃れようと右足に精一杯力を込めて、蹴破れ無くとも何とか離れようとドアを蹴り飛ばしたが、電流でボロボロに傷付いたこの体ではバランスを崩してドアにもたれかかる事しか出来ず、力を使い果たした事で僕の意識はそこで苦痛に蝕まれながら薄れてゆき、床に頭をぶつけた瞬間、完全にブラックアウトして消えていった




「~♪ ~♪」


 暗い闇の奥から一定のリズムを刻んで楽しげに唄う鼻歌が何処からか聞こえ、朝、寝床から起きるように寝惚けた頭で僕はゆっくりと意識を覚醒させ


「…………っ!!」


 耳に聞こえるその声が、センセイのものだと気がついた瞬間、水を頭からぶっかけられたかのような衝撃で一気に僕の眠気は吹っ飛び、それと同時に体全体を包む浮遊感。更には頭、そして顔に妙な熱を感じた


「!?……うっ……えっ……!」


 突然の事態にパニックを起こして叫びそうになるのをどうにか堪えながら、少しぼやける目を見開いて慌てて故意なのか、そうでは無いのか、やたらに薄暗い部屋を見渡して周囲を確認すると、まず目の前に広がったのは所々に赤黒く変色したものやらまだ鮮烈な赤さが残る血痕が飛び散った灰色のコンクリートの床。そしてその後に鼻腔と胃袋の中に吐きそうになるほどに濃厚な錆び臭さが襲いかかり、僕は不快感で呻きながら、吐き気が込み上げてくる口を押さえようとし、そこで僕の両手が、体が、そして両足が堅く強靭なワイヤーでがっちり拘束されている事に気が付いた


「なっ…………!」


 しかも僕は単純に拘束されている訳ではない、痛む頭を動かして良く見てみれば僕の体は数本のワイヤーに巻かれた状態で床から1メートル程の宙に吊られており、脚が天井、頭が床を向いている逆さ吊りの状態にされていた。と、なると間違いなく意識が目覚めたばかりの時に感じた熱は体を逆さ吊りにされ、ある程度以上の時間が経過した事で頭部へと集まった血液が引き起こしたものに違いない


 そう理解した瞬間、僕の全身からは沸きだすように汗が溢れ、無数の汗粒は僕の体を蛇が這うような動きで進むと頭部までたどり着き、凝縮された汗が

頭の先に貯まると、やがてそれは一粒の水滴となって頭を離れると、僕の目の前に広がる血痕で汚れたコンクリートの上に落下すると、先程から続いているセンセイの鼻唄に混じり、高く小さな水音を出した


「~♪ ……うん? 先生起きたの?」


 その一言で急にセンセイ、深雪は僕の意識が戻っている事に気付いたらしく、鼻歌を中断すると薄暗闇の奥からゆっくりと歩いて吊るされたま僕まの視界の中心になる場所にまで移動してきた


「セ、センセ……!」


 その姿を見た瞬間、僕は思わず拘束されている事も忘れるような、正に食い付かんばかり勢いで深雪に話しかける。自分の立たされている状況が分からない今、『何故僕を拘束したのか』、『この部屋は何なのか』等と聞きたいことはそれこそ山のようにあった


「良かった、もうすぐ完成なんだ。特に先生には見てもらいたかったんだ『これ』。中々、良い『材料』が手に入らなくて苦労したんだよ?」


 しかし、その疑問が僕の口から出るより早く


「うっ……おえええええっっ……!」


 いつも見せるのと変わらないような笑顔で平然とそう言う深雪が身に付けている白いエプロンにまるで故意に塗り重ねでもしたかのようにこびりついた生々しい血液と皮膚と臓器の一部らしき肉片

 深雪の足元に無造作に並べられ、あちこちにつけられた真っ赤な切断面から骨や筋肉が飛び出している明らかに数人やそこらから回収したとは思えない量の人間の腕。


 そして、何より深雪が自信満々と言った様子で見せる背後の『ソレ』を見た瞬間、僕はそのおぞましさに盛大に口から吐瀉物を吹き出し床にぶちまけた


「凄いでしょ? これが私の正真正銘最高傑作。画材の一つ一つから全て拘り、私の持てる全ての技術を練り込めた間違いない生涯最高の一品。まぁ……そのせいで先生に早く見せてあげたかったのに時間がかかっちゃったけどね。後、何もかも初めての試みだから失敗も多かったし……」


 僕に背中を見せ、『ソレ』をどこかミスが無いのかチェックしている深雪は、僕が聞いているのかもあまり気にしていない様子で得意気に語り続けるが僕の耳にはもはやそんな聞こえてない。どうして余計な好奇心など出してこのアトリエに入ろう等と考えたのかと言う激しい後悔。そして何よりコンマ1秒でも早くこの部屋から立ち去りたいと思う程の激しい不快感が僕の全身を包み込み、拘束しているワイヤーの頑丈さから無駄だとは頭の隅で理解できていても僕はワイヤーを引きちぎり脱出しようと狂ったようにもがく


「でもね先生。この作品はまだ完成じゃない。まだ一番大切な物が欠けているからね」


 と、そこで深雪は拘束されたま一心不乱にもがく僕をたしなめるように、そっと片手を僕の首に添えて固定すると同時に乱雑に散らばった腕の山の中から何かを取り出そうとしていた


「な、何を……」


「だから完成させるんだよ先生。この作品は私の為……そして何より先生の為を思って作り上げた作品だからね」


 そう僕に囁くように語る深雪の言葉は澄み、底すら無いかのようにどこまでも優しさと慈愛と言う僕への善意に満ちたものであり、だからこそ僕は激しく背骨から凍りついていくような恐怖を感じた


「みゆ……っ!」


 無償に立ちめるおぞけに僕が思わず叫ぶように深雪が何かをする為に呼びかけようとし


「これで、最後で最高の『材料』が揃う」


 次の瞬間、満足げな深雪の言葉と共に僕の首筋にスッと鋭く、ぞっとする冷たい感覚が走った


「えっ…………?」


 突然の感覚に訳が分からないまま、呆然と深雪の方を見てみればその手に握られているのは良く磨がれているのかこの薄暗闇でも刃はしっかりと銀色に光る一本のナイフ。そのナイフはべっとりと血で濡れており


 それを見た瞬間、僕の首筋から非常に揺るかに、しかし決して止まる事など無いと確信出来る程の大量の液体が流れ、それが独特の臭いと共に僕の顔まで来た途端、僕はそれが他ならぬ自分の血液であると理解させられた


「うっ……わああああああっっ!!」


 それを自覚した瞬間、脳の芯に響くかのような激しい激痛が僕に襲いかかり、僕は思わず悲鳴をあげ何とか体を拘束するワイヤーを引きちぎろうと懸命にもがく。が、当然のようにそんな程度ではワイヤーが切れる事などあるはずも無く。単に揺れた衝撃で涌き出る血を撒き散らしただけだった


「良かったぁ……思ってた通りに切れたかな。噴水みたいに飛び散ったら困っちゃうからね……あぁ、センセイ器で受け止めてはいるけど、あんまり暴れないでね」


 一方で深雪はそんな僕を見てうっとりとした表情でそう言うと、暴れる僕を母親が泣きわめく子供をあやすような口調でそう言い、動かぬよう押さえつけた


「あっ……ぐあぁ……げほっ……」


 現在進行形で大量の血を失っているせいか、ただそれだけで僕の体はそれ以上暴れる事は出来ず、渾身の力を込めてもなお体の力は抜けていき、だらりと垂れ下がったまま次々と鼻や口の中に入ってくる鉄錆び臭い血液を吐き出す事すら満足に出来なくなってきていた


「た、助け……し、死にたく……な……」


 寒さと共にどうしようも無く確実に避けられない死を前にして僕は恐怖し涙を流したが、それでも体から流れる血は決して止まってはくれない。ただ無慈悲に僕の頭部の下に置かれた大きな深皿に血が溜められていくだけだ


『……大丈夫だよセンセイ、真の完成には私も……』


 血液を失った事で視界が一寸先も見えないような暗闇に覆われ、意識が消失するなか僕は最後に慈しむようにそう言う深雪の声を聞いた気がした



「うげっ……おえっ……!」


 匿名での通報により、緊張しながら先輩達と共に駆け付けたある一軒家の地下。そこで一人の若い警察官は余りにも悲惨な現場を前に吐き気を堪える事が出来ず、思わず口元を押さえて床に手をついて踞った


「おいおい、しっかりしろよ三河(みかわ)。現場で吐いて荒らすんじゃねぇぞ?」


 と、そんな三河の様子を見て、現場に複数いる捜査員のの一人、調査資料を元に事件の詳細を改めて確認していた、警察官としてもやたら体格のいい男性刑事が呆れたように、しかし僅かに情を見せたような口調で話しかけた


「や、大和先輩……でも、僕、こんな……こんな酷い現場は……それに……」


 三河は震える声で答え、現場の一方向。この現場で特に目立つ一人の犠牲者、顔の穴と言う穴から全ての液体が流れ出し、だらんと口を開いて息耐えている吉春の死体を指差す。それを見た瞬間、大和は納得したように『あぁ』と呟いた


「そう言えば、この犠牲者の蒲生吉春……お前が事情聴取した相手だったか? まぁ、そんな関係とは言え顔見知りを『材料』にされてたら来るもんがあるかもな。お前はまだ三年目の新人だし」


 大和はそう言うと、部屋の中央にまるで誇り高いものを見せるかのように展示してある『作品』に目を向けた


 それは、手を繋いで宙に浮かぶ二人の赤色の男女のシェルエットが書かれた絵だった。二人の足元には拍手して祝っているかのような複数の手が描かれており、一見すれば赤と白で描かれた幻想的でとても美しい絵に見えた。


 が、絵を良く見ようと閲覧者が更に近付いた瞬間。その絵の『材料』に気付いてしまう


 拍手するような手は一枚、一枚、本物の人間の手から傷が付かないよう丁寧に皮を剥いで張り付けられてあった


 絵の赤の部分には血液を、白の部分には人骨を惜しげもなく使用しており、異様な臭いがしていた


 そして何より、この絵のメインとなる二人の男女を書き上げたのは作者の友影深雪自身が自らの頭髪を切り取って作り上げた黒く不気味な筆。それで、男性部分を吉春の血を描き、そして女性に使った血液は


「しっかし、自分の命をかけてまで作るとは……どうかしてんな……それが元からかどうかは俺も知らんが」


 額縁の隅に書かれた『完全なる愛』と言う作品名を見ながら大和は呆れたように呟く


 大和達が現場に駆け付けた時、既に連続殺人事件の容疑者がかかっていた深雪は息耐えていた。死因は手首からの出血多量。鑑識の分析によれば『作品』完成と同時に息耐えたらしい


「『この作品を親愛なるファンの、H・S氏に捧ぐ』……か、全く一人で勝手に満足そうなもんだ」


  最後に深雪の残した遺書らしき手紙を見ると大和は皮肉げにそう言い。目を閉じた


 絶望と苦しみの中で息耐えたのが死後もなおハッキリと分かる吉春とは相対的に、深雪は心底満ち足りた表情をしていた


 『あの絵はあれだ、自分と好きな相手を決して離れる事がなく、例え肉体が朽ちても永遠に共にいる事が出来る作品に閉じ込めてやる事。それが、全てだ。それが奴にとって最大の愛情だったんだろ。まぁ、純粋に歪みまくっていやがるが』


 そう、後に大和は対して面白く無さそうに語ったと言う。だが、その真実を知る物は作者の深雪自身が絶命している為に誰もいない


 しかし、深雪が書いた『完全なる愛』は現物が処理されても尚、一体如何なる方法で作成したのか複製が出回り、それは裏の世界で出回り、あちこちの国や地域に『完全なる愛』広がり続け、それが終わる事は無かった


 そう、ある意味でだが二人は永遠になったのだ

少しだけ種を明かすと、最後に少しだけ出てきた『H・S 』氏が深雪にファンレターを送り、『永遠の愛』へのヒントを送りました(手紙は処分済み)

……そう、HSは彼女の事です

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