◆第十三ヤンデレ タイプ(病弱)
大遅刻ですいません!
なお……今回の話は今までとは違うタイプの主人公ですので受け入れれず不快に感じる方もいますでしょうが、今回の彼のようなタイプは出来うる限り控えるつもりです。
今回の時間は、田上達が生まれるより前の話、ある意味0話十もとれる話です
その青年、自らを流龍人と名乗り、誰もが見上げ、驚くような人並み外れた立派な体格を持つ彼にはいつだって一つの悩みがしつこく渦巻いて離れなかった。その悩みは困った事に世間一般的な物ではなく、龍人の財布には常に一週間くらいは自宅に帰らずとも生活出来る程の金を入れていたし、仕事も儲かるとは余り言えないがそれなりの職に付いており会社内での立場にも文句はさほど無い、恋い焦がれる意中の女も、両親や兄弟も、そもそも龍人にはいなかった
「かぁ~……暇だ……」
仕事終りに何となく立ち寄った海辺、そこにあったテトラポットの一つに腰掛けて水平線に沈む太陽を眺めながら龍人は大きくあくびをした
「何か、こう面白い事は無いもんかねぇ? こう毎日、同じような事の繰り返しじゃあ茹で蛙になっちまう……」
夕日に照らされてオレンジ色に光る海原にでも語りかけるように、寒い海風が吹き付けるのも構わず、心底気だるげに龍人はそう口にした
そう、龍人の悩みとはただ一つ『退屈』。端から見れば単純明快ながらも、それは龍人当人にとっては非常に重要な事であり龍人が生まれてから、おおよそ二十年と少しが過ぎた人生の中で未だに完全には解決した事の無い問題だった
二十年とおおよそ、言うのも龍人が高校生になるまで通っていた孤児院に記載されていた記録が正しければ、龍人の出生と言えば嵐の夜に海岸に奇跡的に無傷で流れ着いた全く身元不明の赤ん坊であり、とりあえず『流れ』ついた子供だったので名字を流、唯一の所持品である体を包んでいた汚れた布に書かれていた『龍』の字を元に『龍人』と名付けられた事のみであり、年齢も龍人を診察した医者が大まかに決めた物でしか無い。
故に、誰も龍人が本当はいつ生まれたのか、龍人の両親は誰なのか、そもそも本当の名前は何なのかさえ、知る者はただ一人としていない。龍人は常に孤独だったのだ
「この全く解決しない嫌~な、退屈な感情はそこから生まれる孤独? から来ているのかもなぁ……」
さほど気にしている訳でもないが、儚く沈む夕日を見ていた影響か何気無く自身の過去を思い出し、少しだけ感慨深げにそう呟くと、夕日から目を反らし自身が腰掛けているテトラポッドの下にそっと視線を向ける
「なぁ、流石にもうガキじゃああるまいし、そりゃあ無いだろう?」
まるで世間話でもするような自然な口調で龍人は、足下に向かって呼び掛ける
「うっ……うう……」
「い、いてぇよぉ……」
「助けてくれ……骨が……骨が折れた……」
龍人の座っているテトラポッドの下に広がっていたのは、目が疲れそうな装飾の派手な服装と髪型をした複数の男達であり、その周囲には彼らが流した血痕と折れた数本の歯。殆どが原型をとどめていないがそれぞれが龍人に対して使用したナイフやバット等の武器が散乱していた
「骨が折れた? なぁに、人間には百本越えるくらい骨があるし、お前らには病院行きゃあ治る程度の怪我しかさせてねぇよ。だったら男なら気にすんなよな……まさか、喧嘩売っといてやられる覚悟は無かったとか言うなよ?」
かなりの人数相手に自分一人でそれを成し、しかも当人は無傷な上に仕事着に返り血すらも殆ど浴びてないのにも関わらず、龍人にはまるで達成感も喜びも無い。あるのは、拭いきれない程の、例えるならばこの世界に一人だけ置き去りにされたような虚無感だけだった。
「どうすりゃあ良いんだよ……俺は」
再び大きくため息を付くと、龍人は完全に水平線の向こう側に沈んだ夕日に背を向け、テトラポッドから飛び降りて自宅マンションまでの帰路を歩き出す
こんなことは龍人には日常茶飯事だった。昔からほんの少し勉強しただけで学園生活を送る中で学年トップの成績を維持し続け、身体能力も県内記録を軽々と塗り替え、喧嘩でも遥か昔に片手で数える程に負けた事は無く今では大抵の相手を一撃でひねってしまう
そんな生活を続けた結果、殆どの人間が規格外の能力を持つ龍人を恐れて離れてゆき、龍人は会社でもプライベートでも録に友達も仲間もいなかったがそれに不満を感じた事は無かったし、誰にも看取られる事無く死ぬのも構わないとさえ思っていた。そう
「あぁ……ちきしょう、暇だなぁ……」
この体に泥のようにまとわり付く退屈さえ解消出来るのなら。勝利が当然過ぎていくら勝てども全く心が満たされない無限地獄のようなこの生活が変わるのなら、それこそ龍人は自身の命を平然と極限にまで賭けられると確信できていたのだ
◇
その日、休日の為に仕事と言う、非常にささやかながらも暇潰しの一つの手段を失った龍人は何気無く、久方ぶりに自宅からバスで十分ほど離れた所にある大型公園に荷物を片手に徒歩で訪れていた
ちなみにその公園は、あらゆる分野に手を伸ばし、世界にまでその名を馳せている大企業の『実相寺財閥』その経営者が資金を惜しみ無く使って作り上げた子供達が使う最新鋭の遊具は勿論、テニスコートやサッカー場に野球場に陸上競技場、プールまで兼ね備え、その殆どが無料か格安で利用できる『市民の為の公共施設』と、なっており。公園の隣に建てられた実相寺家の別荘では公園の安全を監視しており、こんな素晴らしい公園を特に利益も求めずに作り上げた実相寺財閥経営者を多くの市民は大絶賛した。
しかし龍人は知っていた。この公園を実相寺財閥経営者は市民の為を想い、正義感と優しさで作った物等では無いと言うことを
「しかし、自分の娘一人の為にここまでするとは……俺は呆れを通り越して、むしろ尊敬すら出来るな」
数ヶ月ぶりに来ても全く衰えるどころが、むしろ喝采している公園の様子を見て龍人はその盛況っぷりに溜め息を付いた
何故、龍人がそんな事情を知っているのかと聞かれれば龍人自身は特段知りたいと思っていた訳でも無いが偶々、先日学生時代の後輩だった石井に招待されて飲み会に参加した際、心地よく酔っていた彼自身の口から『ここだけの話ですが、俺は前に実相寺財閥に勤めてましてね……』と、言う語りから始まった話であり。
曰く、実相寺財閥の若き経営者、実相寺 光二の多くの子供達。その末っ子の娘が、それこそ実相寺財閥の医療化学部門が豊富な資金を元手に総力を結集しても尚、症状の進行を押さえる事くらいしか出来ないような難病を患っているらしい。
そんな難病を抱えて滅多に自宅から出る事も叶わない娘を不憫に思っていた実相寺光二が、ある日その娘が呟いた『自分は満足に動けないけれど、元気に体を動かしてる人々の姿を見たい』との願いを聞き、まるで自転車か何か買うような感覚であっさりと建設したのがこの公園と言うのだ。正直、普通ならば誰もが真偽を疑うような話だが、龍人の見る限り話してる石井の口調に嘘は感じる事が出来なかった
「ま……誰が何の目的で作ろうが、俺には知った話じゃあねぇがな……」
龍人はつまらぬそうに呟くと、遊具で楽しそうに遊ぶ子供達やテニスコートや野球場で熱い勝負を繰り広げる少年少女達には目もくれず、広い公園内を歩き続け、新品なのか汚れが殆ど無いベンチや机と椅子が置かれた、あまり人目の無い休憩所にたどり着くと無造作にベンチに腰掛けた
「さて……と、こいつは今日くらいは暇潰しになるかな?」
ベンチに腰掛けると龍人はあまり期待していないような口調で手にした荷物、持ち手付きの紙袋を脚の間に置いて開く。その紙袋の中に入っていたのは、公園に訪れる前に雑貨店で購入した手のひら程の大きさをした沢山の色とりどりのゴムボールだった
「まずは……軽く7個かな」
そう言いながら龍人は紙袋に両手を突っ込むと次々にボールを取り出し、空中に放り投げると、ゴムボールでのジャグリングを開始した
「7個では楽すぎるな……ならば14個だ」
器用に7個のボールでジャグリングを開始した龍人ではあったが直後、まだまだ自分に余裕が残されている事に気が付くとジャグリングを続けながらさらに紙袋からボールを取りだし、その数を一気に倍に増やす。それでも尚、ジャグリングは全く乱れる事は無く、少しだけ龍人の眉がつまらなさそうに動いた
「こうなりゃ買ってきた分、一気に全部使ってみるか……」
早くもジャグリングに飽きが来はじめた龍人は、その気持ちを誤魔化すように当然のように14個のボールのジャグリングを続けながら、紙袋の中に入っていた残りのボールを全て取りだしジャグリングに加えた
「…………!」
更にそれだけでは飽き足らず、龍人は少し息を吸い込むと、腕を動かす早さを2倍程の早さするとジャグリングをらしながらベンチから大きくジャンプをして立ち上がり、紙袋を背にする
「よっと……」
と、そこで龍人は何気無い様子でジャグリングを止めると全く背後を見ずに、手元に落ちてくるゴムボールを後ろへ、後ろへと投げていく。そのボールは狙い違わず紙袋の中へとビデオで巻き戻し映像を見ているかのように次々と入ってゆき、しかも龍人自身が微妙な調節をしているのか紙袋は揺れすらするもののまるで倒れる気配を見せない
「これで、おしまい……っと」
手元に落ちてきた最後のボールを背後に投げて、龍人が振り向くと丁度、ボールは紙袋の中へと吸い込まれ心地よい音を立てた
「はぁ……」
それを見て龍人は再びため息を付いた、何気無く今日の朝に立ち寄った本屋でたまたま見かけた雑誌に書いてあったジャグリングの特集。せめて半日くらいは暇潰しになってくれるかと、心のどこかで龍人は思っていたのだが……。龍人は既に三時間で飽きを感じてしまっていた
「(ボールじゃなくて、ナイフとか……いや、斧とか鉈とかチェーンソーでやった方が面白いのか? しかし、それだと人に見られると面倒だしなぁ……)」
飽きは感じていたが何かの縁だ、どうにか自分なりに楽しめるようには出来ないかと龍人が考え始めた時
「すごい……凄いです……あの……もう一回見せてはくださいませんか?」
突如、拍手する音と共にそんな嬉しそうな少女の声が聞こえ、龍人は声のした方向、正面へと顔を向けながら悟られないように相手を観察しながら声をかける
「ぶしつけで失礼だが、あなたは……?」
そこにいたのは丁度龍人の正面のベンチに上品に腰掛け、上質な茶色のコートに袖を通し首には白いマフラーを巻いた、まだ二十歳にすらなってないような幼い顔を持つ一人の少女だった。龍人に向かって可愛らしい笑顔を向けながら厚手の手袋をした手で拍手を送る少女の肌は純白を通り越して病的な程に白く、何か普通の人間とは異なる異質な物を龍人に感じさせた
「あぁ……すいません。名乗りもせずにアンコールなんてしてしまって。私は……」
龍人に話しかけられると少女は、拍手の手を止めるとそう言って謝罪して小さく頭を下げる。全くムラが無い事から恐らくは天然の物と思われる少女の長く伸ばし、緩く結んだ薄い茶色の髪が揺れた
「私の名前はですね……えぇと……うん。でも……」
と、そのまま龍人に名乗ろうとしていた少女が何やら妙に口ごもり、明らかな迷いを見せる。が、次の瞬間に決意したかのように口を開き
「私は、実相寺……名前は春奈。ええ、実相寺春奈と申します……っ!」
「どうも丁寧に……俺は流、流龍人です」
少女、春奈は本人としてはかなり思い切って自分の名を名乗ったようだが、自分がジャグリングに集中している間に目の前に座っていた春奈の姿を見て大体の事を予測していた龍人はまるで動じる事無く、冷静に春奈に自分も名乗り返して答えた
「……驚かないんですか? 私が実相寺の者と知っても」
そんな龍人の様子を疑問に感じたのか、春奈は小首を傾げながらそう尋ねる。それに対し、龍人は無言でマフラーを指差し
「失礼ですが春奈さん……あなたが巻いてるマフラーに実相寺家の家紋が縫い込まれてるのがハッキリと見えますぜ。それで察しねぇ方がおかしいかと」
「えっ?…………はうっ!?」
龍人の指摘を受け、春奈は一瞬だけ呆気にとられたような表情をしたが直ぐに慌てて首に巻いていたマフラーを緩めて確認し、龍人の言っている事が真実だと言うことに気が付くと清楚な見た目からは想像も出来ないような声をあげた
「や、やだ……私ったら……こんな……」
声を上げた春奈自身もそれは気恥ずかしい物であったらしく、あっと言う間に白い肌を赤く染めてマフラーでその顔を隠す。まるで液温計のような奴だ、と何となく春奈のその様子を見ていた龍人は思った
「あっ…………」
そこでマフラーで顔を隠していた春奈が視線を動かし、ようやくすぐ近くで腰掛けている龍人の存在を思い出したように目を見開き、慌ててマフラーを外して再び首に巻き付けると改めて龍人に向き直った
「あっ! あの……私、一人で勝手に騒いでてて、すいません……。あの……龍人さん?」
「あぁ……その呼び方で構いませんよ。実相寺さん」
春奈の謝罪を軽く、受けとめると龍人は当人が余り力を入れていない為に所々怪しい所があるものの、ひとまず仕事時等に使う敬語でそう返答した
「はい、分かりました龍人さん。あっ……それから私の事は出来れば名前で読んでくれると嬉しいです。出来れば、敬語も……その止めてくれても構いませんよ?」
と、そこで春奈は龍人の様子をどこかおずおずと伺いながらそう口にした。それを聞いた龍人は春奈に答えるように口元に柔らかく笑みを浮かべ
「あぁん? お前がそう言うなら遠慮無く俺は普段通りの態度で接させて貰うぜ? まさか文句はねぇよなぁ? 春奈ちゃんよぉ……」
「そ、それは流石に極端過ぎませんか!?」
そんな風に突如、口調を垂直効果の如く余りにも急激に変えた龍人に衝撃を受けた様子で春奈が若干ベンチから身を乗り出しながらそう叫ぶ
「まぁ、今のは流石に冗談だがな」
一方の龍人はそんな事など特に気にした様子は無く、ベンチに腰掛けたまましれっと真顔でそんな事を言ってのける
「も、もぅ……龍人さん!!」
そんな龍人の態度に春奈は頬を膨らませるて睨み付けるが身に持った可愛らしい顔がここに来て影響し、春奈自身の声も対して大きくは無く、高かった為に、気の弱い子供でも全く怖がらないと誰もが断言出来る程に迫力が無かった
「(こいつ……結構、面白いな。少しだが田上の奴に似ているかもしれん……)」
そんな春奈の様子を見ていた龍人はひそかに心の底で会社内での自身の部下、少々過酷な仕事を与えたり、自分が冗談を言った時のリアクションがそれなりに楽しめるので会社内でそれなりに重宝していた部下の田上と今の春奈の姿を重ね、先程まで通行人と大して変わらぬ程にしか興味が無かった実相寺春奈と言うに少しだけ興味を持ちつつあり、適当な所で適当な事を言って別れようなんて気はその時点で龍人から無くなっていた
「ところで……さっきお前が『もう一回見たい』つまて言っていたジャグリングな、別にもう一回見せても構わないぞ」
だからこそ龍人はそう少し口調を柔らかにし、出来うる限り春奈の警戒心を薄めてより自身がおちょくれるようにする為に距離を縮める
「えっ、よ、良いのですか?」
そんな龍人の作が成功したのか春奈は先程まで見せていた怒りはすっかりと消え失せ、目を輝かせながらそう龍人に聞き直してきた
「あぁ……もちろんだとも。俺も今日は暇潰しに公園に来るくらい、暇だからな……」
まんまと予想通りに動いた。そう思って龍人は表面には決して出さないながらも、内心では今にも大笑いしそうな程にほくそ笑みながら答え、早速紙袋からボールを取り出すと、さきほどより動くボールをより美しく鮮やかに『魅せる』ように意識しながら春奈の前でジャグリングを始めた
「うわぁ……すごい……」
すると春奈はまるで生まれて始めてサーカスほショーを見た少女のように夢中になってジャグリングをする龍人を見つめる
「(これから、更に倍に増やしてジャグリングのスピードを三倍にしたら……こいつ、どんな顔をするかな……)」
そんな春奈を眺めつつ、先程のようにジャグリングをしながら龍人がボールを追加しようと紙袋へと手を伸ばした時だった
「うっ…………」
突然、何の前触れも無く春奈が胸元を押さえながら苦しければ呻き、ベンチに腰掛けていたその体が大きく揺れた
「おい……どうした?」
驚くようなテクニックでジャグリングを続けながらも片手間ながらもしっかりと春奈の様子を見ていた龍人は咄嗟にジャグリングを止め、空中に浮かべていたボールを一纏めにキャッチし、そのまま一気に投げて紙袋に戻すと素早く春奈の肩を支えた
「だ、大丈夫です、龍人さん……ちょっと……ふらっとしただけですから……」
龍人の肩に支えられた春奈はそう言って弱々しく微笑みかけるが、よく見てみれば額からは脂汗が滲み、いつの間にか白い肌はもはや白さを通り越して青白く変わっていた。おまけに龍人が肩を支えた時に感じた体温は平熱にしては高すぎるような気がするし、目に見えて呼吸が荒い。誰がどう見ても春奈の体調が優れていないのは明らかだった
「ふん、今のお前を見て『あ、本当に大丈夫なんだ?』なんて思う奴はよほどのマヌケ以外にはいねーよ。そんな体調で歩かせる訳にはいかねぇからな……ひとまず公園の隣のお前の家まで俺がおぶって連れていくぞ」
そんな春奈を見て龍人は小さくため息を付くと、これも乗り掛かった船だと割りきり、肩膝を付く形で屈むと春奈に背を向ける
「す、すいません龍人さん……で、では……」
龍人のその行動を前にして流石に観念したのか春奈は、恥ずかしそうにしながらも龍人に背後から抱き付く形で肩に手を伸ばし、そっとその背中に体重を預けた
「よし、行くぞ……」
春奈がしっかり抱きついた事を確認すると龍人は緩やかに立ち上がりると、大きな歩幅かつ素早く、しかし背中の春奈は殆ど揺れずに振動も感じさせない。と言う何とも器用な走行で公園脇の実相寺邸の別荘となってる屋敷に向けて真っ直ぐに走り出した
「わ、私……始めて男の人に……龍人さん……」
お屋敷から公園までの決して長いとは言えないような移動の最中に熱を込めた口調で龍人の背中で春奈はそう呟いていたが、その時の龍人はそんな事にはまるで興味は無く『面倒だが、久しぶりに暇潰しの相手になりそうな奴を潰すのは勿体無いからなぁ……』などと、考えながら全く乱れないペースで屋敷への道を走り続けるのであった
◇
「な、流様……公園でも春奈お嬢様のお世話と救助、並びに私どもの使用人達の不手際……なんと申し上げれば良いか……っ!」
それから数分後、屋敷にまで春奈を送り届けた龍人は、普段ならば立派な髭と白髪が特徴的な見た目にそぐわぬ穏やかな口調であった実相寺邸の執事長から必至の謝罪を受けていた。執事長の顔は先程の春奈にも負けない程に真っ青に変わり、限界間近で体も震え、あと一歩で破裂して崩れてしまいそうな程に動揺していた
「あー……この通り俺は無傷ですし、春奈さんも大事では無かったのでしょう? でしたら、俺は別にそんなに……」
そんな執事長の様子を見て盛大に面倒な事になりそうな予感を嗅ぎ付け、適当に話を済ませようと龍人は面倒臭そうに頭を掻きながら、出来うる限り執事長を落ち着かせようと柔らかい口調で語りかけ始めた
「いいえ、流様がそう申されても、こんな事をしでかしておいて、そんな訳にはございませんっ!!」
そんな龍人の言葉に執事長は白髪の頭が乱れるような勢いで首を横に振ると二人の近く、芝生の上で正座させられている三人の若い執事達を睨み付けた
「うっ……申し訳ございません……」
「すいません……本当にすいません流様……」
「この志波反省の極みです……いや、本当に……」
執事長に睨まれた三人の執事達は冷や汗を流しながらそれぞれ龍人に向かって正座したまま、謝罪する。そんな、彼らの顔にはそれぞれうっすらと違う位置に痣が出来ていた
「全く……録に守衛と確認もせずに、お嬢様を抱えた流様を勝手に不審者と判断して! 三人がかりで流様に襲いかかるとは何事だ!?」
そんな三人を睨み付けながら執事長は苛立ち収まらぬ口調で怒鳴り付ける
そう、春奈を屋敷にまで運ぶのは問題無く、門を守っていた守衛からも話が通って龍人は難なく正門から実相寺邸へと入ることが出来た。
が、偶然にも守衛から連絡を受けていなかった三人の若き執事が玄関近くにおり、更に偶然にも彼らは休憩時間中にアクション映画を見て熱く血が騒いで一種の興奮状態であり、また更に偶然にも三人と龍人は出会い頭に視線がばっちり合い、彼らにはぐったりとした春奈を背負う龍人がお嬢様を誘拐して堂々と正面から出ていこうとする悪党にしか見えなかったのだ。だから三人は執事として賊である龍人を倒そうと龍人の話も聞かずにタイミングを合わせて一斉に襲いかかり
全員が龍人のビンタ。それも無用な揉め事を控えたかった龍人が冷静に手心を加えて放った一撃で沈み。そこに守衛から連絡を終えて春奈を向かえに駆けつけた執事長が現れ、メイド達に春奈を預けてから、部下の勝手な行動に怒り心頭だった龍人の前で説教を始め、今の現状に至るのである
「百歩譲って、お嬢様を背負った流様を見て驚愕で冷静差を失うのは分かる……。だがしかし! 何故、お前達は事情を聞いたり、お嬢様を救出しようと試みるより早く先制して攻撃したんだ!? お前達の仕掛ける攻撃でお嬢様にケガを負わせてしまう事くらい考えて無かったのか!? 特に志波! お前はその二人の纏め役だろうがっ!!」
怒髪天な様子で怒りながら説教をつづける執事長、その勢いに二人の中では一番の年上である志波を始めとした三人の若き執事達は何も言うことが出来ずにビクビクと更に身を縮こまらせ、龍人はそんな状況に業を煮やして額にうっすらと血管が出てくるまでに苛立ち始め、そろそろ行動に移そうとした時だった
「待ちなさい……っ、志波達はもう十分に反省しています。それ以上、お客様の前で叱りつける事は私が許しませんっ……」
突如、その場に数人のメイドを従え、多少ふらつきながらも春奈がその場に現れると少しだけ龍人と話していた時よりも厳しい口調で説教を続ける白髪の執事長にそう告げた
「は、はいっ!?……う、承りました春奈お嬢様! ……私は屋敷の作業に戻るからお前達も、もう下がれ」
春奈の言葉を聞くと執事長は咄嗟に説教を止めると慌てて礼儀正しく礼をすると、志波達に正座を止めさせると気まずそうに屋敷に向かって立ち去って行き、その後に慌てて三人も続いた
「は、春奈お嬢様、ありがとうございます私達みたいな者の為に……」
去り際に足を止め、先導していた白髪の執事長が屋敷に引っ込んでしまったのを確認すると代表するように志波がそう言って春奈に深々と頭を下げる。すると、その様子を見ながら春奈は優しく微笑み
「いえ、皆さんも仕事とは言え、この屋敷を守ってくれている大事な私の家族ですから……当然ですよ、志波さん」
「お嬢様……っ!」
そう優しく語りかける春奈に、次の瞬間、一瞬で志波の目が感動で潤んだ
「ありがとうございます! 未熟者の私ですが、この志波 猪蔵、精一杯お嬢様のお力にならせていただきます!」
感激の為かやたら素早い口調でそう言いながら再び志波が丁寧にお辞儀をすると、所々で春奈に向かって振り返りながら屋敷へと向かって走り出して行った
「ふっ……中々、見た目よりもいいお嬢様じゃあないか……お前」
そんな一連の様子をしっかりと見ていた龍人は口元に笑みを浮かべると、間の感覚が不自然に長い拍手をしながら、すっかり怒りが収まった様子でそう言うと春奈を冗談っぽく誉め称える。春奈がひき連れてきたメイドの何人かが龍人が春奈を『お前』呼ばわりした事で、軽く睨み付けてきたのだが、そんな事は龍人はまるで気にしていないように上機嫌に口笛まで吹いて見せた
「そんな……龍人さん。私がいいお嬢様なんて……」
一方の春奈とは言うと、龍人に誉められた事が嬉しかったのかはずか恥ずかしそうに両手を頬に当てて身をくねらせるが、その表情は非常に満足そうに微笑みを浮かべていた
「はっ……! た、龍人さん! な、長々とお待たせしましてすいません! よければお茶をどうぞ……っ! あっ、わ、私はもうお医者様に見てもらって休憩したから大丈夫ですから! ねっ!?」
「はは……頂くぜ」
そうして数秒ほど身をくねらせていた春奈ではあったが、それを面白そうに眺めていた龍人の視線に気が付くと慌てて姿勢を但し、心が大きく乱れた彼女に出来る精一杯の優雅な姿勢と口調で庭に設置されたテーブルセットへと龍人を招待し、龍人はあえて直前の春奈の言動には『今は』触れずに後で散々弄って楽しむ事を決めながら春奈の招待に乗り、にやにやとした笑顔をしたまま春奈の後へと付いて行くのであった
◇
「いや……本当に我ながら振り返ってみても単純だとは思うがよ……人生、案外捨てたもんじゃあ無いかもしれねぇな。『人生、視野は広く、行動あるのみ 』……ふふ、こんな言葉を俺が言うんじゃ傑作だな」
雄馬や騎士などの豪華な彫刻が施され、観葉植物で美しく彩られたベランダに体重を預け、湯気が立ち込めるカップに入ったコーヒーを口に運びながら龍人はベランダから景色を眺め、満足そうにそう呟いた
思い返せば数ヵ月前、春奈に誘いに自らの意思で乗って、庭でのお茶をマナーを守りつつ、しかし全く崩れないマイペースで楽しんでいた龍人は何の因果か、そこで偶然にも忙しい仕事の合間に自身の愛娘たる春奈の様子を見に来た実相寺財閥の経営者、実相寺光二と鉢合わせ、光二にとっては見知らぬ客人であった龍人が素性を尋ねられ、龍人が名乗ろうとした瞬間
一人で散歩に出かけていた自分に素敵なジャグリングを見せてくれた上に体調を崩した自分を屋敷にまで運んで助けてくれた事を、少し前の体調不良が嘘のように興奮した様子の春奈が
龍人が春奈を抱えたまま鍛えていた誤解して襲った自分達三人を手加減して軽く圧倒した事を庭の手入れと掃除の為に狙ったようなタイミングで再びやってきて妙に熱く志波が
二人揃ってやや誇張が過ぎる言い方で龍人について語り、それを怪訝に感じた龍人がお茶菓子のシュークリームを食べる手を止め、紅茶をテーブルに置き二人を止めようとした瞬間、龍人は何故か妙に目を輝かせた光二に手を握られ、次の瞬間にはこう言われていたのだ
『龍人君と言ったね、君、この屋敷で働く気は無いかい?』
「まさか、この俺でも断りきれねぇとは……巨大財閥を支えているだけの事はある」
当時の事を思い出すと、龍人はさもおかしそうに含み笑いをしながら軽く足に履いた真新しい茶の革靴をタップダンスでもするようにリズミカルに鳴らした。
少し前まで単なる中流企業の一社員の自分が唐突に世界に名を馳せる財閥の経営者に働かないかと熱心に誘われ、『執事とボディーガード達の実戦的格闘術師範兼、病気で滅多に外出が出来ない春奈の話し相手兼お世話役』と言う使用人とはまた違う聞いたことも無いような職業に就く。そんな波乱万丈舞台の演劇のようなこの一連の出来事は龍人にとっては泥のような退屈を少しだけ忘れさせてくれるような、久しぶりに気分が晴れやかな気分にたり、味わいのあると言える楽しい事であった。
あの日常に未練があるかと聞かれれば、会社に辞表を出した後に自らの役職の後任に選んだ田上の事だけであったが、それでさえ『田上なら妻も出来て必死になってるから、どうにかするだろうし、どうにかならなきゃ連絡してくるだろう』と、龍人は呑気に考えていた
「龍人さん? ここにいたのですか……」
と、そこでベランダから少し身を乗り出して真下に広がる広々とした庭を見つめながら過去を思い返していた龍人に背後から春奈の声がかけられた
「よぉ、おはようさんだな春奈」
そんな春奈に(本人が言ったのもあるが)龍人は屋敷で働くようになる前と全く変わらぬ口調で春奈に返事を返すと革靴でタイルの床を叩いて軽やかな音を立て、屋敷で働く為の仕事着として光二じきじきに手渡された新品の真っ白な長袖のシャツと光る紺色のズボンをなびかせ、優雅にコーヒーカップを持ちながら挨拶を返すと、淡い色のゆったりとした普段着の上にカーディガンを羽織った春奈にじっくり視線を向ける
「な、なんでしょうか龍人さん……? わ、私、どこかおかしいでしょうか?」
そんなあからさまな龍人の視線に春奈が気が付かないはずも無く、春奈はうっすらと頬を赤く染めると慌てて自分の身なりが何処か乱れているのかチェックを始めた
「いや、なぁに大したことはねぇよ……」
そんな様子を見て、龍人は小さく笑いながらそう春奈に告げる。龍人にとって自分が小さく行動しただけで盛大に慌て、狼狽えながらも、決して自分を苛つかせない。そんな春奈が龍人の中では、屋敷で数週間ほど働く頃にはただの『お気に入り』から『大のお気に入り』と言えるまでの存在まで昇華していた。
そう大のお気に入りの春奈だからこそ龍人は
「ただ、体調どうやら戻ったみてぇだなっ……て、おもってな。今日も体調が悪かったら今日は『ちりとてちん』でも聞かせてやろうと思ったんだが……」
ついつい、からかいたくなってしまい、そんな風に特に心にも思ってないような意地悪な事を春奈に言ってしまうのであった
「えっ、ええええっ!? そ、それは困りますよ龍人さんっ!!」
そして春奈も春奈で、そんな龍人の言葉を殆ど疑わずに信じてしまい、彼女にとっては最近の楽しみの一つであった龍人の語る落語が無くなると分かりやすく狼狽した
「まぁまぁ……落ち着けよ春奈」
「でっ……でもっ……!!」
そんな春奈を見て今日もまた、自分の悪戯が成功した事を理解すると思わず溢れそうになりそうな笑顔を堪え、あくまで落ち着いた口調を装ってそう告げ、それに未だに落ち着き無く手をばたつかせて慌てている春奈が食い付いた瞬間
「俺はな、『聞かせてやろうと思ったんだが……』ってお前に言ったんだ。決して『今日は聞かせない』とは言ってない……後は分かるな?」
そう言って、自身が雑に隠した種を春奈に明かした
「え………………?」
そんな龍人の言葉を受けて春奈は唖然とさせられたのか、口を開いて暫く呆けていたが
「も、もうっ! た~つ~ひ~と~さんっっ!!」
自身がまたしても龍人の掌の上で自在に踊らせていた事に気が付くと、頬を膨らませてって龍人に詰め寄った
「おっと……ほいっ……」
そんな春奈を龍人は余裕を持って背後にジャンプして回避し、空中に浮いたままコーヒーカップだけをベランダの手すりに置くと、そのままのベランダから地上へと飛び降り、落ちる前に空中回転する余裕まで見せながら庭の芝生に軽く着地して見せた
「あっ……もう、龍人さん! 危ないですよ! あなたが怪我したら私……」
そんなアクション映画顔負けの素早い龍人の動きに目を白黒させていた春奈は数秒遅れでベランダからかなり控えめに身を乗り出して地上の龍人に向かって必死にそう呼びかける
「はっはっはっ、じゃあ皆今度は全員で俺と組み手だぁーっ!!」
龍人はそんな春奈の声も大して耳を貸さず、向こうから自分が準備体操がわりに屋敷の周りを走りに行かせた執事達が戻ってくるのを確認すると上機嫌のまま、次の訓練内容を告げる
少しだけ退屈が晴れ、絶望していた未来に僅かな希望が見え始めた生活。そんな生活がいつまでも続くのだろう。と、油断し始めたのか龍人はそんな柄にも無い事を思い初めていた。そう、だからこそ
「達人さん……」
ベランダから瞬きすら殆どせず、暗く淀んだ目でじっと一心不乱に自身を見つめている春奈を龍人は見逃してしまっていた
龍人が現在味わっている大きく変化した日常。そんな物は、これから起こる本番への序章となる茶番しか過ぎなかったのだ
◇
片手にフルーツの盛り合わせと数種類のサンドイッチ、そして暖かい紅茶が乗った銀のトレイを持ち、慎重な顔付きで龍人は春奈の部屋の大きな扉をノックした
「…………どうぞ」
「俺だ、龍人だ、大丈夫か春奈?」
扉の向こうから弱々しいながらも春奈の返事が帰ってくると、龍人は一応自身の名を名乗ってからドアを開き、シンプルで機能的な家具がどこか淋しい、広々とした春奈の部屋へと入っていく
あれから暫くして、それまで調子が良かった春奈は急激に体調を崩し、しかもそれは日を追う事に悪化しており、最近では春奈は部屋から出れずにずっとベッドで寝てばかりの生活を送っていた
おまけとばかりにストレスの影響か春奈は、出された食事さえ録に取らず、唯一の例外として、龍人の話している時のみに食事を取ろうとするので必然的に春奈と龍人の食事は同じ部屋で同じものを食べる事になり、龍人が春奈の部屋に入る頻度は異様と言えるレベルにまで増えていた
「龍人さん……」
龍人が部屋に入ってくるとベッドに寝ていた春奈はベッドの上でもぞもぞと動き、その姿をより鮮明に見ようとしているのか身を起こそうとしていた
「おっと……病人のお前が無理すんじゃねぇ」
それを見た龍人は素早く反応すると、食べ物が入った銀のトレイをベッド脇の机に置くと、春奈の背中に手を入れ春奈を補助するようにそっと起き上がらせる
こんな行為も決して普段では相手が女性だろうが基本的に龍人がしない行動ではあったが、何分龍人の『大のお気に入り』である春奈を失う事は龍人には惜しい事であったが為の特別措置とも言えた
「ありがとうございます……龍人さん」
春奈はその礼ように言葉と共に龍人の腕を自身の胸元にそっと引き寄せると、両腕で抱きしめた
「何、これくらいの事を気にするなよ」
そんな龍人の腕にはしっかりと春奈の胸の感触があったが本人は対して気にした様子は無く、いつも自身が春奈の部屋を訪れた際に使用している木製の椅子を空いた手で引き寄せるとリラックスした様子でそれに腰かけた
「龍人さん……少しだけお話させて、貰ってもいいでしょうか」
そんな龍人を見ながらその腕を開放すると、何故か俯きながら春奈がそう口を開いた
「あぁ……いいぞ?」
そう春奈に返事を返しつつ龍人は、少しだけ皺が残ったシャツの袖を元に戻しており、首を曲げて俯いたまま春奈はそれに気付いた様子も無く、そっと体半分だけを覆ってる掛け布団の下に自身の右手を滑り込ませながら話を続ける
「私の体調は……龍人さんと出会ってから少しは良くなったのですが、それも一時的な物で最近ではますます悪化しています……」
「あぁ、そうらしいな……しかし、俺と出会った位で体調が変わるんじゃあ必死でお前を診てる医者達が阿呆のようでは無いか」
淡々とした様子で話す春奈、その内容の一部を苦笑しながら修正しつつ自身が持ってきたフルーツの一部を口に運ぶ
「このままでは……私は持ったとしても数年以内に亡くなるでしょう。ですから……」
「おいおい、冗談でもそんな事を……」
春奈の言葉を冗談と判断し、龍人が軽く笑い飛ばそうとした瞬間
「ですからね……龍人さん……私に……」
俯いていた春奈が顔を上げ、ぞっとするほど美しい笑顔でにっこりと龍人に向かって微笑みかけ
「私に、あなたをくれませんか?」
そう躊躇い無く口にすると、春奈は今まで掛け布団の下に突っ込んでいた右手を勢い良く引き抜き
「ん……なっ……!?」
次の瞬間、具体的な時間にすれば瞬きなぞより遥かに速く、龍人を持ってしても探知すら不可能とするほどの間、冗談にしか思えないような早さで春奈が手にした一本の包丁が、まるで手品のように龍人の腹に深々と突き刺り刺された部分からは包丁の刃を伝わって龍人の血が包丁を握る春奈に向かって流れてゆき、春奈の着ている揺ったりとした寝巻きに一つ、赤色の染みを作った
「ばっ……か……な……っ!」
遅れて遅いかかってきた痛みと、腹から背骨にまで染みていくような体内に侵入した金属の冷たい感触を味わいながら、龍人は口元からじわりと溢れそうになる吐血を手で押さえて堪え、思わず目を驚愕で見開いた。龍人が意識せずとも自然と心臓は自分でもハッキリと探知出来る程に激しく鳴り響き、意識が少し白みがかかったようにぼやけ始め、まともに動けない龍人は包丁を払いのけようとすらせずに、ただ春奈を見ていた
「龍人さん、私、前から……いえ正直に言いますと、公園であなたがジャグリングを私に見せてくれた時から……あなたが私を背負って助けてくれた時から……あなたより先に死ぬのが嫌で嫌で仕方が無いんです」
そんな龍人の様子を見ても当然のように不気味な程ににこやかで上品な笑みを浮かべたまま包丁を更に龍人の『ナカ』に押し込もうとしているのか、握る手を動かし、くちゃり、と、また龍人の肉が刃に斬られる音が響くと満足そうに春奈は口元に更に笑みを浮かべ、笑いながら言葉を続ける
「当初は、それが見ず知らずの私を利益も求めずに助けてくれた龍人さんへの、感謝の尊敬の気持ちなのだ。と、私自身も思っておりました。でも……もう一年近く龍人さんと過ごして、龍人さんとの思い出だってある、今ならそれが違うって、はっきり言えます」
そう言うと春奈は血がべっとりと滲んでいる、龍人の傷口に片手を伸ばし手のひらに鮮血を掬うと、まるで上質な頬紅を塗るようにそれを器用に自分の両頬へと広げ、伸ばして行くと春奈は包丁を突き刺したま再び龍人の正面で笑顔を浮かべる
「龍人さん、私はあなたが好きです。私に楽しい事を沢山教えてくれたあなたの傍にずっと居続けたいんです」
「がっ……ふっ……」
そう、一生懸命に龍人に自身の想いを告げる愛の言葉を語る春奈。言葉だけならばそれは心が暖まるようなシチュエーションだったのかもしれないが、笑顔のまま『愛している』と語った春奈が想い人たる龍人に包丁を突き立てているその光景はおじましい狂喜の図でしか無く、龍人の口からは堪えきれなくなったように口を押さえていた指の隙間から血が零れ初め、道寺に龍人の体が震え始める。そして、次の瞬間、龍人は
「ふっ……ふっ、くっくっくっ……がはははっっ! わははははは!! 最高だぜお前!……いや、春奈よ!」
腹部に包丁が刺さっているのも気にせず『体を震わせ』龍人は大口を開けて満足そうに笑う。刺された事での痛みはハッキリと感じていたが、それよりも龍人は視界に白みがかり、心臓が破裂しそうな程に歓喜する程の強い興奮を感じていたのだ
「(そうだ……そうだ、そうだっ!! これだ! この痛みと緊張感なんだよ、俺が求めていたのは!! 俺が探し続けていたは!! はっ、はははっ!!)」
屋敷で暮らし指導役としての生活の中で龍人の心から僅かに薄れていった一つの感情。昔、散々喧嘩を繰り広げられても満たされる事の無かった感情、自分に全く悟られずに致命的攻撃を命中させるよつな『自分を越えうる相手』との全く予想だにしない遭遇に、龍人は心底この機会を自分に与えてくれた神に感謝してさえいた
「そうか、そうか……俺が欲しいか春奈よ! いいだろう。お前には世話になったからな……その礼だ! この俺の体を好きなだけ貪れ! ……お前自身の力でな」
そう言うと、龍人は腹筋に力を込めて自身の腹に刺さった包丁を押し退け龍人は笑う。龍人の心は今までにないに満たされていた
自分でも全く予想出来ない攻撃が出来る春奈が、『自分を殺せる春奈』が龍人に愛しくて堪らなかった。自分の胸から涌き出るこの想いは間違いなく狂気そのものだと龍人は理解し、それと同時に、実相寺光二は春奈が今、自分に見せている『これ』を認知した上で半ば人柱のような形で素性も良く分かっていない初顔合わせにも関わらず自分を雇ったのでは? と脳内では考えてはいたが、そんな物はこの興奮と感動を全身で味わう為には取るに足らない問題に過ぎなかったのだ
「あぁぁ……龍人さん、あなたはどうしてそう凛々しく気高く優しく愛しのでしょうか……龍人さん、龍人さん、龍人さん、龍人さん……んんっ」
「ふはっ……」
そんな龍人の行動に春奈も心を震わせられたらしく、狂気に歪んみながらも、どこか美しい歓喜の笑みを浮かべると龍人に飛び付き無我夢中でその唇を奪いさり、龍人もそれに答えて侵入してきた春奈の舌に答えて絡ませ春奈の胸を優しく揉みしだき、互いに隠さずに卑猥な水音を響かせる
「あはっ……あはははっ……なんて素晴らしい!! 何て心が満ちるのでしょうか! 私は今最高の気分ですよ龍人さん!」
そう狂ったように笑いながら包丁を振りかざし、再度身構えると突撃する
「はははっ! そいつは俺の言葉だ、来いよ! 春奈ぁぁっっ!!」
対する龍人はそんな春奈を抱き締めようとするように手を広げ、歓喜に満ちた表情でそれを受け入れる
そして、再び赤い鮮血が部屋の床へと飛び散った
◆
「ふぃ~、久しぶりに良い暇潰しになったかなぁ……」
たまたま『母の実家』である実相寺家から送られてきた『父の手記』を昼休み中に従事している署の屋上で一気に読み終え、流 大和は珍しく満足したような表情で息を吐いた
「それにしたって親父とお袋が、こんな出合いだったとはなぁ……やはり縁は巡るもんだな」
そう言うと大和は自身の定期券に入れている唯一、家族全員、小学生時代の自分と、自身とは十歳、年齢が離れている為にまだ生まれたての弟の隼十、そして父の龍人と母の春奈が写し出された写真を取り出す
父、龍人との手記に最後に書かれているのは、その日、春奈に刺された時の感動と興奮ばかりが書かれているのでその後、二人に何が起きたのか今になっては大和もさっぱり分からない
分かっているのは、それから近いうちに二人が結婚した事。その結果、病気で体が弱っているのにも関わらず自身と弟の隼十と言う二人の子供を母の春奈が産んだ事。そして
『俺は隼十を任せた、あの子は俺達の血をしっかり受け継いだお前と違って普通の子供なんだ。俺は……春奈に付き合って、楽しませてくれな褒美をやらなきゃならないからな』
そう言って、まだまだ子供だった頃の自分にだけ龍人がそう告げ、病気の悪化が進んでまともに立つ事すら叶わなくなった春奈と共に車に乗り込み、自分達に1軒のマンションだけを残して立ち去ってしまい、それからもう10年が過ぎていると言う事だった
『もう二度と両親が自分達の元に帰ってくるはあるまい』
そんな確信染みた考えが大和にはあったが、それを悲しいとは特には思ってはいない。それは最後に見た両親が共に満足そうに大和には見えていたし
そんな事を意識する暇が無い程に彼の心を満たしてくれるものが、それこそ無数にあったからだ
昨年に起きた佐原牡丹と田上太郎の事件、そして石井渡と志波三奈子の二つの事件
それに呼応するようにように、一人の少女によって行われた連続殺人事件、不良グループを一人で壊滅させ病院送りにさせた異様な力を持つ少女による事件、誘拐グループの血痕のみが残り犯人達が行方不明の奇怪な事件。そして最近になって自らが引導を渡した『樋村柚木の事件』他にも確かな証拠は無いがここから離れた町村や山岳地方のロッジ、小さな小島でも似たような事件の香りを大和は感じていた
「さぁて……次はどんな事件が俺を楽しませてくれるかねぇ……?」
そう言うと、今までの事件を思い出しつつ大和は小さく興奮した笑みを浮かべる。彼のその表情には龍人、そして春奈に良く似た確かな狂気が現れていた
一応、言っておきますとこの話の龍人のパートで出てきた『田上』、『石井』、『志波』はそれぞれ『田上太郎』、『石井渡』、『志波四木乃』の父親の若き姿です。幼い田上達も出したかったのですが……断念