輪廻転生について
異世界転生というものがある。
小説家になろうを利用されている皆さんには、お馴染みの概念であろう。死後、我々が住む世界とは言語も生態系も法則も異なる(例えば、剣と魔法の)世界へ生まれ変わることだ。
これは新しくも、しかし古くからある思想である。古代インドでは、輪廻転生という概念があった。つまり、現世で善行を積むか、あるいは悪事を働くかによって、死後に天界へ行くか、あるいは地獄へ落ちる、といった思想である。
要するに、これも異世界転生である。そして、異世界転生がそう思われているように、輪廻転生もまた、多くの人にとってはファンタジーだ。
しかし古代インドの人々にとっては切実な現実であった。人間界や天界に生まれるなら良いが、まかり間違えば地獄へ落ちるかもしれない。いや、そうでなくても現実は苦しみの連続なのである。古代インド人から見れば天界に住むような贅沢をしている我々にとってさえも。
そこで、そうした輪廻転生からの解脱、すなわち生まれ変わる事がないように修行して悟りを得ようと考える思想家が現れた。日本人にとって最も有名なのは仏教の開祖ゴータマ・ブッダ、すなわちお釈迦様であろう。以下、釈迦と記述する。
このエッセイの主題は、釈迦が輪廻転生を語ったのは事実である、ということである。
昨今は、初期仏教の合理性をもてはやすと同時に「だから釈迦が輪廻転生を語ったとするのは誤りだ」という向きが出てきた。前述の通り、我々にとっては輪廻転生はファンタジーであり、だからこそ合理主義者である釈迦がそんな事を事実として語るはずがないというのである。
そうは言っても古くからあるお経には輪廻転生が語られているではないか。輪廻転生否定派の、それに対する反論は二つある。
一つは、お経は釈迦が死亡した後に弟子が編纂したので、釈迦自身の思想とは違う可能性があること。
もう一つは、輪廻転生の話は一種の例え話であり、人は人間界にありながら心の持ち様で地獄に落ちた心地になることを意味している、というものだ。
私の意見として、一つ目の主張がまかり通るなら、結局お経は全て信頼できないことになってしまう。仏教の合理性をありがたがりながら、その一部しか信用しないのならば、それは仏教ではなくその学者流の思想でしかない。つまみ食い仏教である。
二つ目の意見については、それなりに合理性のある主張である。現世での心の修行を重視する釈迦の思想とも合致しているように見える。
それでも私は釈迦は輪廻転生を事実として語ったと考えている。つまり、人間には死んだ後の、その後の生、つまり後生があるという考え方だ。
なぜか。例えば、我々に死後の生、つまり後生が無いと仮定してみよう。その場合、我々にとって合理的な生き方とは何か?
それは快楽に生きることである。生きている間にこの世の快楽を求め続けるのだ。人生は短い。死ねば全て終わりになる。ならば、ありったけの快楽を浴びてから死なねば損ではないか。
当然、仏教はそんな生き方を認めていない。釈迦本人が王族であった事を思い出してほしい。彼は、望めばこの世のあらゆる快楽を手に入れられたのだ。病気や老化が嫌なら、若いうちに自殺することもできる。なぜなら、死ねば全てが終わりならば、それが最も合理的だからだ。だが釈迦はそうしなかった。
あるいは他人の金を盗んで贅沢をし、女性をレイプして快楽にふける悪人がいたとしよう。彼は報いを受ける前に自殺してしまえば、もう無罪放免である。何も彼を裁くことはない。果たして、そうだろうか?
仏教には因果の法則というものがある。簡単に言えば、行動(原因)が変化(結果)を生むという思想だ。死ねば全てが終わり、という考え方は、この因果の法則に反している。全てが因縁、因果であると考える仏教では、これはありえないことなのだ。つまり、死後も生前の影響は必ずあるのである。
長々と説明したが、そもそも死ねば終わりという考え方を仏教では断滅論と称して、誤りであるとはっきり否定している。たったそれだけで、実は輪廻転生否定論は終了なのだ。
しかし、実は人間には魂があり、その魂が別の生物に宿って生まれ変わるということも仏教は否定している。これを常住論という。記憶を保ったまま異世界転生する可能性は、仏教では否定されているのだ。残念ながら。
さて以上が古くからあるお経で説かれた輪廻転生についてである。ただし、確認する方法はない。私も死んだことはないからだ。しかし、やる事ははっきりしている。輪廻転生の思想において、善行を積めるのは人間界だけだとされている。ならば、そうして生きてみようではないか。後生の事ははっきりわからないが、そうした態度をとれば今を生きる私たちにとって有意義な人生になるだろう。




