エピローグ:物語の環
春の夕暮れ、薫子は自宅の庭にある古い藤棚の下で、スマートフォンを見つめていた。画面には、新しい物語の構想がびっしりと書き込まれている。
「どう? 進んでる?」
千春が二つのハーブティーを持って現れた。藤の花が優しく揺れ、薄紫の花びらが二人の間に舞い落ちる。
「うん。でも、まだ何か足りない気がして……」
薫子は深いため息をついた。この一週間、彼女は童話の歴史を巡る旅をしてきた。洞窟壁画から現代の創作童話まで、物語の本質を探る旅路は、彼女の中に確かな何かを残していた。しかし同時に、新たな戸惑いも生まれていた。
「お姉ちゃん、昔の私って、もっと自由に物語を書けてたと思う」
薫子は『月の上の約束』の原稿が入った古いノートを広げた。十歳の時に書いた物語は、稚拙な文字で綴られているにもかかわらず、不思議な輝きを放っていた。
「ねえ、このページを見て」
千春は藤棚の下に腰掛け、薫子の肩越しにノートを覗き込んだ。
「……月の上には、約束を守る妖精が住んでいます。人々が大切な約束をすると、その言葉は星になって空に昇っていきます……」
千春は懐かしそうに微笑んだ。
「この物語を書いていた頃の薫子は、何を考えていたの?」
「そうね……ただ、月を見ていたの。窓辺で。そしたら、雲が流れて、まるで誰かが踊っているみたいに見えて……」
薫子は遠い目をした。その記憶は、まるで別の人生のもののように感じられる。
「そう、それこそが大切なことよ」
千春は静かに言った。
「物語は、時として最も単純な瞬間から生まれる。洞窟の壁に最初の絵を描いた人も、きっとそうだったはず。ただ、目の前の獣の姿に心を奪われて……」
藤の花の香りが、春の風に乗って漂ってくる。
「でも、今の私には……」
「今の薫子には、新しい物語を作る力がある」
千春は薫子のスマートフォンを指さした。
「お菓子の家の魔女の物語、とても素敵だと思う。SNSでのいじめ、学校でのプレッシャー、家族との関係……現代の子供たちが抱える問題を、ファンタジーの力を借りて描こうとしている」
薫子は自分の構想をもう一度見つめ直した。確かにそこには、かつての『月の上の約束』とは違う、新しい輝きがあった。
「ねえ、お姉ちゃん。物語って、結局何なんだろう?」
千春はハーブティーの香りを深く吸い込んでから、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「それはね、人の心が描く虹のようなものかもしれない」
「虹?」
「ええ。実体はないけれど、確かにそこにある。見る角度によって違って見えるけれど、誰の目にも美しい。そして、古代から現代まで、その本質は変わらない」
薫子は空を見上げた。夕暮れの空には、まだかすかに日の名残があり、最初の星がまばたきを始めていた。
「私ね、やっとわかった気がする」
「何が?」
「どうして物語を書きたいのか。それは……」
薫子は言葉を探るように、少し間を置いた。
「きっと、誰かの心に虹を架けたいから」
千春の目が優しく輝いた。
「素敵な表現ね。でも、それは薫子だけの思いじゃないの。洞窟に絵を描いた古代の人も、踊りで物語を伝えた民族も、グリム兄弟も、宮沢賢治も……みんな同じ思いだったはず」
藤棚の隙間から、夜空の星々が少しずつ姿を見せ始めていた。
「あ!」
薫子が突然、身を乗り出した。
「お菓子の家の魔女の最後の場面、思いついた!」
「どんな場面?」
「魔女の家に集まった子供たちが、自分たちの物語を集めて一冊の本を作るの。その本は、また新しい子供たちの手に渡っていって……」
千春は静かに頷いた。
「物語が物語を生む。まさに『環』ね」
「そう! ちょうど『月の上の約束』みたいに。人々の約束が星になって、その星が新しい物語を紡ぎ出して、その物語がまた新しい約束を生む……」
薫子の指が、スマートフォンの画面の上を踊るように動き始めた。そこには新しい物語が、まるで泉から湧き出るように流れ出ていく。
「ねえ、お姉ちゃん。昔の童話って、みんな『むかしむかし』で始まるでしょう?」
「ええ」
「でも私の物語は、『いまいま』で始めようと思う」
千春は優しく微笑んだ。
「それも素敵ね。でも、その『いま』の中にも、きっと太古からの物語の記憶が息づいているはず」
薫子は深く頷いた。彼女の中で、新しい物語が確かな形を成し始めていた。それは現代の子供たちの苦悩を描きながらも、どこか懐かしい温もりを持つ物語。古くて新しい、新しくて古い物語。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「何が?」
「私に物語の環を教えてくれて」
千春は薫子の頭を優しく撫でた。
「いいえ。環は最初から、薫子の中にあったのよ。ただ、それに気づくために、少し遠回りが必要だっただけ」
藤の花の香りが漂う中、姉妹は静かに夜空を見上げていた。そこには無数の星が、まるで古代からの物語のように、確かな光を放っていた。
そして、新しい物語の種が、確かに芽吹こうとしていた。
次の日の朝、薫子は早くに目を覚ました。カーテンを開けると、庭の藤の花が朝日に輝いている。スマートフォンには、夜中まで書き続けた原稿が残されていた。
「朝、早いのね」
千春が台所から顔を覗かせた。エプロン姿の彼女は、すでに朝食の支度を始めていた。
「うん。なんだか、胸がいっぱいで」
「その気持ち、よくわかるわ」
千春はコーヒーを二つ淹れながら言った。
「私も、シベリアで初めて『母なる大地の物語』を聞いた時、同じような気持ちだった」
薫子はダイニングテーブルに着きながら、不思議そうな顔をした。
「母なる大地の物語?」
「ええ。大地が母として語られる物語よ。そこでは、川は母の血管であり、木々は母の髪の毛。私たち人間は、その懐の中で生かされている子供たち」
朝の光が、テーブルの上のコーヒーカップを温かく照らしていた。
「お姉ちゃんは、物語を集めるために、世界中を旅してきたんだよね」
「そうね。でも不思議なのよ」
千春は窓の外を見やりながら続けた。
「どんなに遠い場所で聞いた物語でも、どこか懐かしい響きがある。まるで、人類が共有する古い記憶のように」
薫子は自分のスマートフォンを開き、昨夜書いた原稿を見つめた。
「私の『お菓子の家の魔女』も、もしかしたら……」
「きっとそうよ。古い記憶と新しい想像が、そこで出会っているの」
朝食のトーストの香ばしい匂いが、台所から漂ってくる。
「ねえ、お姉ちゃん。私の物語、聞いてもらえる? 最後まで書けたから」
「もちろん!」
千春は嬉しそうに椅子を引き寄せた。
薫子は少し緊張した様子で、画面を見つめ、読み始めた。
「いまいま、都会の片隅に、お菓子の家がありました。そこに住む魔女は、心に傷を負った子供たちに、特別なお菓子を作ってあげていました……」
薫子の声が、朝の静けさの中にゆっくりと溶けていく。物語は、現代の子供たちの苦悩を優しく包み込みながら、確かな希望を紡いでいった。
「そして、魔女の作る不思議なお菓子は、食べる人の心の中に、小さな光を灯すのです。その光は、やがて新しい物語となって、また誰かの心に宿ります……」
読み終えた薫子の頬には、小さな涙が光っていた。
「薫子……」
千春の声も、感動で少し震えている。
「この物語、本当に素晴らしいわ。現代の子供たちの孤独や不安を描きながら、それでいて希望を失わない。まるで……」
「まるで?」
「まるでね、グリム童話が教訓と残酷さの中に希望を紡いだように。アンデルセンが現実の苦しみの中に美しさを見出したように。そして、賢治が科学と信仰の間に架けた虹のように」
朝日が次第に強くなり、藤の花が作る影が、テーブルの上で揺れている。
「でもね、お姉ちゃん」
薫子は少し躊躇いがちに言った。
「この物語、本当に私のものなのかな? だって、古い物語の要素をたくさん借りているし……」
千春は優しく微笑んだ。
「そもそも、完全に『オリジナル』な物語なんて、存在するのかしら?」
「え?」
「グリム童話だって、古い民話を基にしている。アンデルセンだって、民間伝承からインスピレーションを得ていた。賢治だって、仏教思想や民話の影響を受けていた」
千春はコーヒーを一口飲んでから、続けた。
「大切なのは、その『借り物』の要素に、自分の魂をどれだけ吹き込めるか。薫子の物語には、間違いなく薫子の魂が宿っているわ」
薫子は深く息を吐いた。胸の中で、何かが大きく解き放たれていくような感覚。
「そうか……私の中の物語は、ずっと昔から続く大きな物語の流れの、ほんの一滴なんだ」
「でも、その一滴が、また新しい流れを作っていく」
千春は立ち上がり、窓を開けた。春の風が、部屋いっぱいに満ちる。
「ねえ、この風の音が聞こえる?」
薫子は目を閉じ、耳を澄ませた。風に揺れる藤の花の音。遠くで鳴る鳥の声。どこかで子供たちが笑う声。それらが重なり合って、不思議な物語のように響いてくる。
「うん……なんだか、色んな音が聞こえる」
「そう。物語も同じよ。一つの声じゃない。たくさんの声が重なり合って、新しい響きを作っていく」
テーブルの上のトーストが、香ばしい匂いを漂わせている。千春はジャムの瓶を開けながら、静かに言葉を継いだ。
「薫子の『お菓子の家の魔女』も、きっとこれから色んな人の心の中で、違う形に育っていくわ」
「違う形?」
「ええ。読む人によって、違う意味を持つの。SNSでいじめられた子は、自分の居場所を見つける物語として。成績のことで悩む子は、自分らしさを取り戻す物語として。親との関係に苦しむ子は、理解し合える可能性の物語として」
薫子は自分のスマートフォンを見つめ直した。画面に映る言葉たちが、まるで生き物のように見えてくる。
「お姉ちゃん、もう一つだけ聞いていい?」
「なに?」
「私ね、この物語を書き終えた時、なんだか不思議な気持ちになったの」
「どんな気持ち?」
「まるで……この物語は、ずっと前から私の中にあったような。でも同時に、誰かが私に託してくれたような……」
千春の目が、深い理解を湛えて輝いた。
「それこそが、物語の環の神秘ね」
「物語の環……」
「物語は決して、一人の中だけで完結しない。太古の人々から現代まで、そしてこれから先も、ずっと続いていく環の中の、私たちは一つの結び目なの」
朝の光が強くなり、藤棚の影が庭に複雑な模様を描いている。その模様は、まるで古代の洞窟壁画のようにも見えた。
薫子は立ち上がり、窓際に歩み寄った。庭の藤棚の下では、近所の子供たちが何かを指さして笑っている。
「あ……」
「どうしたの?」
「あの子たち、藤の花の影で遊んでる。まるで影絵みたいに……」
その光景は、十歳の薫子が『月の上の約束』を書くきっかけとなった、あの夜の月明かりとの出会いを思い出させた。
「お姉ちゃん、私、わかったかも」
「何が?」
「物語は、いつも私たちの目の前にあるんだ。洞窟の壁にも、踊りの中にも、子供たちの笑い声にも……」
千春はトーストにジャムを塗りながら、静かに頷いた。
「だから物語を『作る』んじゃなくて『見つける』のね」
「うん。私の新しい物語も、きっとずっとそこにあったんだ。お菓子の家の魔女も、傷ついた子供たちも、みんなどこかで私を待っていた」
朝食のテーブルに、二人は向かい合って座った。窓からは子供たちの歓声が、春の風と共に響いてくる。
「ねえ、薫子」
「ん?」
「今度はどんな物語を見つけに行く?」
薫子は庭の藤の花を見つめながら、少し考え込むように言った。
「まだわからない。でも、きっと物語の方から私を見つけてくれると思う。だって……」
「だって?」
「私たちは皆、大きな物語の環の中で、繋がっているから」
千春の目が潤んだ。妹の言葉には、この一週間で得た深い理解が込められていた。
朝の光の中で、姉妹は静かに朝食を共にした。テーブルの上には、新しい物語が完成したスマートフォンと、十歳の薫子が書いた『月の上の約束』の原稿が並んでいる。
それは新しくて古い、古くて新しい物語の環。永遠に途切れることのない、人類の心の記憶の環だった。
春の風が、また新しい物語の種を運んでくる。
(了)