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第4章:神々の物語から人々の物語へ

 朝もやの立ち込める公園で、薫子は古びたベンチに座っていた。膝の上には、千春から借りた『ギリシャ神話と童話の系譜』が開かれている。


「どう? 面白い?」


 千春が二つのホットコーヒーを持って戻ってきた。薫子は黙ってページを指さす。そこには「眠れる森の美女」の原型とされる神話が記されていた。


「これ……本当なの?」


「ええ。『眠れる森の美女』の原型は、古代ギリシャの英雄ペルセウスにまで遡るのよ」


 千春はコーヒーを薫子に手渡しながら、ベンチに腰を下ろした。


「でも、どうして英雄の物語が、お姫様の物語になったの?」


 朝靄の中で、千春は静かに微笑んだ。


「それがね、とても興味深い変化なの。神々や英雄の物語が、どうやって人々の物語になっていったのか――それは人類の意識の変化を映し出しているわ」


 千春は自分のコーヒーに口をつけ、物語を紡ぎ始めた。


「古代ギリシャでは、美しい乙女メドゥーサを救うペルセウスの物語として語られていたの。メドゥーサは呪いによって石化の力を持つ怪物になってしまった悲劇の存在。彼女を救えるのは、純粋な心を持つ英雄だけだった」


 薫子は息を呑んだ。まさか、あの「眠れる森の美女」が、こんな深い起源を持っているとは。


「それが中世に入ると、少しずつ形を変えていったの。メドゥーサの石化の呪いは、眠りの呪いへと変化した。英雄ペルセウスは、一人の王子へと姿を変えた」


「でも、なぜそんな変化が……?」


「それはね」


 千春は遠くを見つめながら言った。


「人々が求める『救い』の形が、変わっていったからよ。古代では、神々の介入する劇的な救済が求められた。でも、次第に人々は、より身近な、より人間的な救いを求めるようになった」


 朝もやの中で、二人の吐く息が白く舞う。


「面白いのは、物語の核となる部分は、ほとんど変わっていないことなの」


 千春は本のページを繰った。


「『呪われた女性』『救いをもたらす純粋な愛』『試練を経た後の解放』――これらのモチーフは、形を変えながらも、しっかりと保存されている」


 薫子は自分のスマートフォンを取り出し、メモを取り始めた。


「まるで……遺伝子のように」


「その表現、素敵ね」


 千春は嬉しそうに頷いた。


「実際、物語の研究者たちは、そういう言い方をするわ。物語の『遺伝子』が、時代や文化を超えて受け継がれていくって」


 朝日が少しずつ靄を晴らし始めた。公園のベンチに、温かな光が差し込んでくる。


「もっと他の事例も見ていきましょう」


 薫子は千春が指し示した図書館の古い資料を前に、目を見開いていた。そこには世界中の「シンデレラ」型物語が整理されていた。


「信じられない……」


 千春は微笑みながら説明を続けた。


「最古のものは、紀元前1世紀の古代エジプトの『ロドピスの物語』よ。ナイル川で水浴びをしていた美しい娘の蓮の花のサンダルを、鷹が王のもとへ運んでいく」


 その物語は、まるで砂漠の風のように古く、優美だった。


「中国には『イェ・シェン』の物語があるわ。紀元9世紀には既に記録されていて、靴のモチーフは金の靴だった。彼女は継母にいじめられながらも、洞窟に住む神秘的な魚の助けを借りて、春節の祭りに参加するの」


 千春は一枚一枚、丁寧にページをめくっていく。


「ベトナムでは『タム・カム』という物語。主人公のタムは、継母と義姉にいじめられる。でも彼女には、転生した母親の魂が宿った小さな鳥が寄り添う。祭りの日、その鳥は彼女に美しい衣装と靴を用意するの」


 千春は別のファイルを開いた。


「『美女と野獣』も興味深いわ。最古の原型は、古代メソポタミアの『イナンナとドゥムジ』の神話。美しい女神が、牧羊神との結婚を最初は拒絶するけれど、やがて愛を育んでいく」


 薫子はスマートフォンでメモを取りながら聞き入る。


「インドには『蛇の王子ナーガ』の物語があって、人間の姫と蛇の姿をした王子の恋。ギリシャには『エロスとプシュケー』。北欧には『白熊の王子様』」


「でも、野獣の姿は違うのに……」


「そう。形は違えど、本質は同じ。見た目の醜さと内なる美しさ。偏見と理解。変容と愛」


 薫子は物語の持つ深淵さに言葉を失ってしまう。


「そして、これが特に興味深いの」


 千春は世界地図を広げた。そこには赤い点が無数に打たれている。


「これらすべてが洪水神話の発見地点よ。メソポタミアの『ギルガメシュ叙事詩』、ギリシャの『デウカリオンの話』、中国の『大禹治水』、アメリカ先住民の『大洪水伝説』……」


 地図上の点は、まるで星座のように結びついて見えた。


「ねえ、薫子はローマの『ロムルスとレムス』を知ってる?」


 薫子は頷いた。


「日本にも『山幸彦と海幸彦』がいて、アステカには『ケツァルコアトルとテスカトリポカ』、アフリカのヨルバ族には『イベジ』という双子神が……」


 千春は言葉を選びながら続けた。


「人類の心の奥底には、『二つの力の対立と調和』というテーマが深く刻み込まれているの」


 夕暮れが近づく図書館で、最後の物語が語られる。


「春の女神ペルセフォネ、エジプトのオシリス、日本の黄泉がえり……」


 千春は静かに語った。


「死からの帰還、再生の物語は、人類最古の願いを映し出しているのかもしれない」


 薫子は自分のメモを見つめ直した。そこには人類の物語の大きな流れが記されている。


「お姉ちゃん、これって……私たちの中に、何か共通の物語を作る力があるってこと?」


「ええ。ユングは『集合的無意識』と呼んだわ。でも私は、もっと素直に『人類の心の記憶』と呼びたい」


 図書館の窓から差し込む夕陽が、古い本の背表紙を赤く染めていく。その光の中で、世界中の物語たちが、静かに息づいているように見えた。


「結局ね」


 千春は最後にこう締めくくった。


「物語は、私たちの内なる星図のようなもの。どんなに遠く離れた場所でも、人々は同じ星を見上げ、そこに物語を見出してきた。それは今も、これからも、変わらない」


 その言葉は、薫子の中で深く響いた。彼女は自分の物語もまた、この大きな星図の一部なのだと、静かな感動とともに理解し始めていた。


「でもね」


 千春は続けた。


「神話から民話への変化には、もう一つ重要な意味があったの。それは、物語の『所有権』の移行よ」


「所有権?」


「ええ。神話は神官や特別な語り部だけのものだった。でも民話は、誰のものでもあり、同時にみんなのものになった。お母さんが子どもに語り、子どもが友だちに語り、物語は自由に形を変えながら広がっていった」


 薫子は自分の書きかけの小説のことを思い出していた。スランプに陥る前、彼女は「完璧な物語」を書こうとしていた。一字一句、まるで神託のように揺るぎない物語を。


「お姉ちゃん」


「ん?」


「私ね、今まで勘違いしてたのかも」


 薫子はコーヒーカップを両手で包み込むように持ち、その温もりを感じながら言った。


「物語って、完璧である必要なんてないんだね。むしろ、人の手から手へ渡っていく中で、少しずつ形を変えていく。それが本当の姿なんだ」


 千春は静かに頷いた。


「そうね。例えば、『かぐや姫』の物語を知ってるでしょう?」


「もちろん。竹取の翁が竹の中から見つけた……」


「実はあれも、もともとは天女の神話だったの。でも人々の間で語り継がれるうちに、より身近な『竹取物語』になった。そして、その過程で新しい意味が付け加わっていった」


 千春は本を閉じ、空を見上げた。朝日が完全に靄を払い、清々しい青空が広がっている。


「神話が民話になることで、失われたものももちろんあるわ。荘厳さ、神秘性、儀式的な重み……でも、その代わりに物語は新しい豊かさを手に入れた」


「新しい豊かさ?」


「ええ。人々の日常の知恵、笑い、涙。そして何より、物語を語る一人一人の想像力が加わっていったの」


 公園の向こうで、子どもたちが遊び始めていた。その声が、朝の空気に溶け込んでいく。


「ねえ」


 千春は立ち上がり、子どもたちの方を見つめた。


「あの子たちが『眠れる森の美女』を語るとき、それはもうギリシャ神話とも、中世の民話とも違う、新しい物語になるわ。でも、その中核にある『遺伝子』は、しっかりと生き続けている」


「それって、私たちが物語を書くときも同じ?」


「そうよ。誰も、完全に新しい物語は作れない。私たちは皆、古い物語の『遺伝子』を受け継いで、それを組み替えながら、新しい形を生み出しているの」


 薫子は深く息を吐いた。肩の力が抜けていくのを感じる。


「なんだか、ホッとした」


「どうして?」


「私の中にある物語も、きっと誰かから受け継いだもの。完璧な創造主である必要なんてなかったんだ」


 千春は優しく微笑んだ。


「そうよ。むしろ私たちは、長い物語の流れの中の、ほんの一瞬の担い手。でも、その一瞬に、自分だけの色を加えることはできる」


 春の風が吹き抜けていく。薫子は立ち上がり、伸びをした。


「お姉ちゃん、図書館に行かない? もっといろんな神話と童話の関係が知りたくなった」


「ええ、行きましょう。でもその前に……」


 千春は薫子のスマートフォンを指さした。


「今の気持ち、メモしておいたら? きっといつか、あなたの新しい物語のどこかで、この朝の発見が息づくはずだから」


 薫子は急いでスマートフォンを取り出し、タイプし始めた:

『物語は、神々から人々へ。そして今、私へ。完璧な創造主である必要なんてない。大切なのは、この遺伝子の流れの中で、自分の色を見つけること――』


 公園を後にする姉妹の背後で、春の日差しが青空いっぱいに広がっていた。



 図書館に着いた姉妹を、いつもの静謐な空気が包み込んだ。


「ここよ」


 千春は神話研究の棚の前で立ち止まった。


「これを見て」


 取り出したのは『世界の神話と民話――比較文化研究』という分厚い本だった。


「ほら、この表を見てみて」


 開かれたページには、世界各地の物語の対応表が広がっていた。


「シンデレラの物語は、古代エジプトにもあったのよ。ガラスの靴の代わりに蓮の花を落とすお話。それが時代を超え、文化を超えて、今の形になった」


 薫子は思わず息を呑んだ。


「こんなに古くから……でも、どうしてそんなに似た話が?」


「それはね」


 千春は静かに微笑んだ。


「人類に共通する『憧れ』や『祈り』があるから。不当な扱いを受けている人が、最後には幸せになれる。愛する人との出会いが、人生を変える。そんな普遍的な願いが、物語の形を取ったのよ」


 薫子は自分のスマートフォンを取り出し、急いでメモを取り始めた。


「でも、神話と民話では、その『願い』の描き方が違うの」


 千春は本の別のページを開いた。


「神話では、それは神々の意志として描かれた。でも民話では、人々の知恵や努力、そして時には運として描かれる。人間たちの手の届く場所に、希望が置かれるようになったの」


 図書館の窓から差し込む陽光が、本の上で煌めいている。


「私ね」


 薫子は小さな声で言った。


「今まで、物語は特別な才能から生まれるものだと思ってた。神様から選ばれた人だけが、書けるんだって」


「それで、プレッシャーを感じてたの?」


「うん。でも、違ったんだ。物語は、みんなのものなんだね」


 千春は本を閉じ、妹の肩に手を置いた。


「そうよ。だからこそ、物語は生き続けられる。神々の時代が終わっても、新しい語り手たちが、新しい意味を見出していく」


 図書館の奥から、子どもたちの読み聞かせの声が漏れてくる。


「ねえ、聞こえる?」


 千春が耳を傾ける。


「今、また新しい物語が生まれようとしているの。あの子たちが聞いている物語は、きっと彼らの心の中で、また違う形に育っていく」


 薫子は目を閉じ、その声に耳を澄ませた。確かに、古い神話の残り香のような何かが、新しい命を得て、子どもたちの間で息づいている。


「お姉ちゃん、もっと教えて」


「何を?」


「この後、物語はどんな変化を遂げていくの? 神話から民話になって、その後は……」


 千春は微笑んだ。


「それはね、とても面白い変化なの。教訓と娯楽のはざまで、物語はまた新しい姿を見せていく。特に、グリム童話の時代には、大きな転換点があったわ」


 図書館の古い時計が、静かに時を刻んでいく。その音は、まるで悠久の物語の鼓動のようだった。


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