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第3章:言葉の誕生と物語の変化

 薄暮の図書館で、薫子は古い民話集を広げていた。ページをめくる音だけが、静寂を切り刻んでいく。隣では千春が、ノートに何かを書き留めている。


「お姉ちゃん、不思議だな」


 薫子は開いたページから目を上げた。


「どうして同じような話が、世界中にあるんだろう」


 千春は微笑みながらペンを置いた。


「それはね、人間が言葉を獲得したことと深い関係があるの」


 千春は立ち上がり、書架から一冊の古い本を取り出した。表紙には『失われた民話の起源』という文字が、かすれて見える。


「例えば、『赤ずきん』の物語。知ってるでしょう?」


「ええ、もちろん。おばあさんの家に行く途中で狼に会って……」


「でもね」


 千春は本を開きながら、声をひそめた。


「その物語の原型は、もっとずっと古い。言葉が生まれた頃にまで遡るの」


 薫子は思わず背筋を伸ばした。千春は続ける。


「最古の形は、おそらく『狼の警告』という、部族の娘たちへの教えだったわ。当時、人々は森の中で狼の群れと対峙しながら暮らしていた。そして、成長期の娘たちは特に狙われやすかった」


 薫子は息を呑む。今まで聞いたことのない物語の姿が、目の前に立ち現れてくる。


「その頃はまだ、人々は複雑な言葉を持っていなかった。でも、警告は伝えなければならない。そこで彼らは、簡単な言葉と身振り、そして歌のような抑揚を組み合わせて、物語を作り上げたの」


 千春は本のページを繰り、一枚の図版を指さした。そこには洞窟壁画のような絵が描かれている。若い女性と、その周りを取り巻く狼の群れ。


「この警告の物語は、やがて言語の発達とともに変化していった。より細かな描写が可能になり、登場人物も増えていった。でも、核となる『危険への警告』というメッセージは、しっかりと保たれていたの」


 薫子は自分のスマートフォンを取り出し、メモを取り始めた。


「じゃあ、おばあさんが出てくるようになったのは……?」


「それは、もっとずっと後よ。定住が始まり、家族の形が変わってきた頃ね。おばあさんという存在は、知恵の伝承者としての役割を担っていた」


 千春は一度深く息を吐き、続けた。


「面白いのは、この変化の過程よ。言葉を持つことで、物語はより詳細に、より多層的になっていった。でも同時に、体で表現されていた直接的な恐怖や警告の強さは、少しずつ薄れていったの」


 薫子は自分の原稿用紙を見つめた。そこには、彼女なりの現代の物語が、言葉という記号で描かれている。


「でも、お姉ちゃん。それって損失なの? それとも、進化なの?」


 千春は優しく微笑んだ。


「それは、とても良い質問ね」


 千春は窓際に歩み寄り、沈みかけた太陽を見つめた。


「言葉を得たことで、確かに私たちは繊細な表現を手に入れた。でも、その代わりに失ったものもある。例えば、あの『太陽の死と再生』の踊りが持っていた、直接的な力」


 薫子も立ち上がり、姉の隣に立った。


「でもね」


 千春は続けた。


「それは損失でも進化でもない。ただの変化。そして、その変化の中で、物語は新しい力を見出してきた。言葉という翼を得て、物語は時間と空間を超えて飛べるようになったの」


 図書館の窓に映る姉妹の姿が、夕陽に赤く染まっていく。


「私ね」


 薫子は小さな声で言った。


「今まで、言葉の技巧ばかりを追いかけてた。でも、本当は……」


「本当は?」


「言葉の向こうにある、何か大切なものを探していたのかもしれない」


 千春は静かに頷いた。図書館の古い空気の中で、姉妹は言葉にならない何かを共有していた。それは太古の物語が、現代に伝えようとしているメッセージのようでもあった。


「ねえ、お姉ちゃん」


「ん?」


「もっと聞かせて。言葉が生まれた頃の、物語のこと」


 千春は本を閉じ、微笑んだ。


「ええ、もちろん。でもその前に……」


 千春は窓を開けた。夕暮れの風が、古い本の匂いを運び去っていく。


「この風の音に耳を澄ませてみない? きっと、そこにも物語が隠れているはずよ」


 姉妹は目を閉じ、風の声に耳を傾けた。そこには確かに、言葉以前の物語が、まだ息づいていた。


 風の声に耳を澄ませていた薫子の目に、突然、涙が浮かんだ。


「あ……」


 慌てて目を拭おうとする薫子の手を、千春はそっと止めた。


「言葉にできない気持ちが、あふれてくることってあるでしょう?」


 千春は妹の肩に優しく手を置いた。


「実はね、人類が最初に言葉を必要としたのも、そんな時だったのかもしれないの」


 千春は再び古い民話集を開いた。ページをめくる音が、静かな図書館に響く。


「ほら、これを見て」


 開かれたページには、世界各地の『初めての言葉』についての伝承が並んでいた。


「面白いのは、どの文化でも、最初の言葉は『想いを伝えたい』という衝動から生まれたとされていることよ」


 薫子は涙を拭いながら、ページを覗き込んだ。


「例えば、北欧のある伝承では、冬の間に死んでしまった恋人を想って、若者が初めて歌を作ったという話があるの。それまでは唸り声や叫び声しかなかったのに、深い悲しみが『言葉』という形を生み出した」


「でも」


 薫子は眉をひそめた。


「それって本当なの? 科学的には違うんじゃ……」


「ええ、もちろん、これは伝説よ。でもね」


 千春は窓辺から離れ、テーブルに戻りながら続けた。


「これらの伝承が教えてくれる大切なことがあるの。それは、言葉と物語は、人の心が満ちあふれた時に生まれるということ」


 千春はノートを開き、何かを書き始めた。


「例えば、さっきの『赤ずきん』の原型。あれは単なる警告じゃなかったの。娘たちの命を守りたいという、強い想いが込められていた」


 ペンを走らせながら、千春は語り続ける。


「そして、その想いは言葉を得ることで、より多くの人々に、より長い時間伝えることができるようになった。これこそが、言葉の持つ大きな力よ」


「でも、同時に失ったものもある……って言ってたよね?」


 薫子は自分のスマートフォンのメモを見返しながら訊ねた。


「そうね。例えば、『赤ずきん』の原型には、実際の狼との遭遇体験から来る生々しい恐怖が込められていた。それは身振りや表情、声の調子で直接的に伝えられていたの」


 千春は書きかけのノートから顔を上げた。


「でも、それが言葉という記号に置き換えられていく中で、その直接性は薄れていった。代わりに、物語は別の深さを獲得したけれど」


「別の深さ?」


「ええ。象徴性や重層性という深さよ」


 千春は立ち上がり、書架から別の本を取り出した。


「現代の『赤ずきん』には、単なる狼への警戒以上の意味が込められているでしょう? 見知らぬ人への警戒や、子どもの自立、そして時には大人になることへの不安なんかも」


 薫子は黙ってうなずいた。確かに、彼女が知っている『赤ずきん』には、様々な解釈の可能性があった。


「言葉を得たことで、物語は新しい棲み処を見つけたの」


 千春は本を元の場所に戻しながら、静かに言った。


「それは人の想像力の中。そこで物語は、無限の可能性を持つようになった」


「想像力の中……」


 薫子は思わず、自分の胸に手を当てた。そこには確かに、まだ言葉になっていない物語が、鼓動のように脈打っているのを感じる。


「お姉ちゃん、私、やっと分かった気がする」


「何が?」


「私が書けなくなっていたのは、言葉の技巧に縛られすぎていたから。でも本当は、その前に……」


「その前に?」


「心が満ちあふれる瞬間がなきゃいけなかったんだ。古代の人たちみたいに」


 千春は優しく微笑んだ。夕暮れの図書館で、姉妹の影が長く伸びている。その影は、まるで太古の語り部たちの影と重なり合っているかのようだった。


「ねえ、もう一つだけ話してもいい?」


 千春の声が、柔らかく響いた。


「言葉が生まれた後も、人々は体で物語を伝え続けたの。なぜだか分かる?」


 薫子は首を傾げた。


「それはね」


 千春は窓の外の夕焼けを見つめながら言った。


「言葉だけじゃ、伝えきれない真実があることを、人々は知っていたから」


 図書館の古い空気の中で、姉妹は静かに息をついた。窓の外では、鳥たちが夕暮れの空を舞っている。その姿は、まるで太古からの物語を、今も踊り続けているかのようだった。


 図書館を出た姉妹を、春の夕暮れが優しく包んだ。桜の花びらが、街灯の明かりに照らされて舞っている。


「そうだ、家に帰る前に寄りたいところがあるの」


 千春は薫子の手を取り、住宅街の路地へと足を向けた。


「ここ……」


 薫子は小さな声を漏らした。古びた木造の建物は、かつて彼女が通っていた児童館だった。


「よく覚えてる? ここでお話会があった日のこと」


「うん……」


 薫子の記憶の中で、一枚の光景が鮮やかに蘇る。八歳の頃、地域のお年寄りが昔話を聞かせてくれる会があった。文字も映像もない、ただ声だけの物語。


「あの時ね」


 千春は建物の前で立ち止まった。


「おばあさんたちは、ただ話を読んでいただけじゃなかったでしょう?」


「そう……手振りを交えて、声の調子を変えて、時には歌うように」


「まさにそう。あれは、文字が生まれる前からの、物語の伝え方だったの」


 暮れなずむ空の下で、建物のシルエットが浮かび上がる。今は使われていない窓からは、かつての子どもたちの笑い声が聞こえてくるような気がした。


「実はね」


 千春はバッグから一冊の古ぼけたノートを取り出した。


「これ、あの頃の薫子が書いたお話ノート。私が預かっていたの」


 薫子は震える手でノートを受け取った。幼い文字で書かれた物語の数々。それは、お話会で聞いた昔話に触発されて書いた、彼女の最初の創作だった。


「この頃の私は……」


「ええ、ただ純粋に物語が好きだった。言葉の技巧なんて気にせず、心に浮かんだままを書いていた」


 薫子はノートを開いた。ページの端には、稚拙な絵が描かれている。文章は所々で途切れ、誤字も多い。でも、そこには確かな生命力が宿っていた。


「お姉ちゃん」


 薫子の声が震えた。


「私、この感覚を忘れてた。物語を書くって、こんなに……」


「自由なことだったのよね」


 千春は妹の頭を優しく撫でた。


「言葉は大切な道具よ。でも、それは物語を作るための唯一の手段じゃない。時には踊るように、時には歌うように、時には子供のように……物語は様々な形で生まれるの」


 春風が二人の間を通り抜けていく。桜の花びらが、ノートの上に一枚、そっと舞い降りた。


「ねえ、家に帰ったら、何か書いてみない?」


「え?」


「昔みたいに。ただ、心に浮かんだままを」


 薫子は古いノートを胸に抱きしめた。その重みは、十六歳の彼女に、大切な何かを思い出させてくれる。


「うん……書いてみる」


 姉妹は静かに歩き出した。春の夕暮れが、二つの影を優しく伸ばしていく。その影は時には重なり、時には離れ、まるで太古からの物語の踊りのようだった。


 そして――夜が訪れようとする空の下で、新しい物語の種が、確かに芽吹こうとしていた。


◆コラム:物語が変化するのは当たり前?


 物語は、語り継がれる過程で常に変化を続けてきました。これは物語の「欠点」なのでしょうか? それとも、むしろ「特徴」と考えるべきなのでしょうか。


 実は、物語が変化することこそが、物語が生き続けるための重要な仕組みだったのです。時代とともに変化する社会や価値観の中で、物語もまた姿を変えることで、その意味と役割を保ち続けてきました。


 例えば「赤ずきん」の場合:


- 原初の形態:狼への具体的な警告

- 中世の版:道徳的な教訓

- 現代の解釈:成長の物語


 このように、物語は私たちの社会や価値観を映す鏡であると同時に、新しい意味を生み出す源泉でもあるのです。変化こそが、物語の生命力の証と言えるかもしれません。


 ここで赤ずきん物語の三形態を具体的に見てみましょう。



1. 原初の形態:『獣からの警告』(紀元前後の推定形)


 暗い森の入り口に、若い娘たちが集まっている。部族の長老の女性が、低い声で語り始める。彼女の手には、狼の毛皮が握られていた。


「聞け、娘たちよ。これは血と命の物語」


 長老は狼の毛皮を掲げ、その動きで娘たちの注意を引き付ける。


「満月の夜、一人の娘が森を歩いていた。彼女は、獣の道を避けなかった。獣の足跡を見ても、回り道をしなかった」


 長老は獣の歩みを模して動き、その姿は実際の狼のように見える。


「狼は待っていた。娘の血の香りを嗅ぎ、その若さを感じ取って。彼らは常に、若い獲物を狙う」


 語り手は実際の遭遇体験から得た、生々しい詳細を加えていく。狼の群れがどのように襲いかかるのか、どの道が特に危険なのか、どんな前兆があるのか。これは単なる物語ではなく、実践的な生存の手引きだった。


「娘は二度と戻らなかった。だが、彼女の血は大地に染みて、私たちに警告を残した」


 この原初の形態には、現代版のような救済も教訓も存在しない。ただ、厳しい現実と、具体的な危険からの警告だけがある。



2. 中世の版:『従順な娘への教え』(17世紀頃)


 シャルル・ペロー以前の、口承で伝えられていた中世版。ここでは物語は、既に道徳的な教訓を帯びていた。


「むかしむかし、ある村に、従順で美しい娘がおりました。彼女は、誰もが愛する赤い頭巾を身につけておりました」


 赤い頭巾は、この時代には既に純潔の象徴として描かれる。


「娘は母の言いつけを守らず、見知らぬ男に道を教えてしまいます。その男は実は狼の姿をした悪魔でした」


 中世版では、狼は単なる獣ではなく、悪魔の化身として描かれる。物語は、教会の教えと結びついていた。


「おばあさまの家に着いた娘は、恐ろしい罰を受けることになります。悪魔は、娘とおばあさまの両方を貪り食ってしまったのです」


 この版でも、まだ救済は存在しない。それは、戒めとしての効果を重視したためだ。物語は、「見知らぬ者を信用してはならない」「両親の言いつけを守るべき」という、明確な教訓を持っていた。



3. 現代の解釈:『少女の成長物語』(20世紀以降)


 現代版は、より心理的な深みを持つ物語として再解釈されている。


「赤い頭巾を着けた少女は、自分だけの冒険に出かけることを選びました」


 赤い頭巾は、もはや純潔の象徴ではなく、自己発見への旅立ちを表現する。


「森の中で出会った狼は、少女の心の中の不安や葛藤の具現化でした。それは、大人になることへの恐れであり、また憧れでもありました」


 現代版では、狼との対話のシーンにより重きが置かれる。それは自分の内なる影との対話を象徴している。


「おばあさまの家で、少女は初めて自分の力で危機に立ち向かいます。狩人の助けを借りつつも、最後は自分の知恵で狼から逃れるのです」


 結末では必ず救済が用意され、少女は成長して帰還する。それは現代社会における、個人の成長と自立のプロセスを映し出している。


「家に戻った少女は、もう以前の少女ではありませんでした。彼女は自分の力を知り、一歩大人に近づいていたのです」


 現代の解釈では、物語は単なる教訓や警告ではなく、普遍的な人間の成長の姿を描く物語として読み解かれる。赤ずきんの旅は、すべての人が経験する、自己発見と成長の過程の象徴となっているのだ。


 各時代の物語には、その時代特有の不安や願望、社会規範が色濃く反映されている。そして興味深いことに、これらの層は完全に置き換わるのではなく、現代の私たちの中で重層的に存在している。原初の恐怖、中世の戒め、そして現代の心理的解釈が、一つの物語の中で共存しているのだ。


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