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第1章:洞窟の壁に描かれた最初の物語

 都立図書館の参考資料室は、日曜日の午後にもかかわらず静まり返っていた。薫子は大きな窓から差し込む陽光に照らされた古い本棚を見上げ、その厳かな雰囲気に圧倒されていた。


「ここよ」


 千春は迷うことなく、美術史の棚へと歩み寄った。


「ショーヴェ洞窟――人類最古の物語」


 分厚い画集を取り出しながら、千春は懐かしむような表情を浮かべた。


「これ、私が大学院生の時に、指導教授から借りた本なの。今でも覚えてる、初めてこの本を開いた時の衝撃を」


 薫子は姉の横顔を見つめた。いつも冷静な千春が、まるで初恋を語るような表情をしている。


「どんな……衝撃だったの?」


 千春は窓際の閲覧机へと歩き、薫子を促した。


「見てみて」


 開かれたページには、洞窟の壁に描かれた動物たちの姿があった。その線は生命力に満ち、まるで今にも動き出しそうだった。


「これ、すごい……!」


 思わず声が大きくなり、薫子は慌てて口を押さえた。


「でしょう? これが約三万二千年前に描かれたのよ」


「え? そんな昔に、こんな……」


 千春は静かに頷いた。


「しかも、これは単なる絵じゃないの。これは、物語なのよ」


「物語? でも、ただの動物の絵じゃ……」


 薫子の言葉を遮るように、千春は次のページをめくった。


「よく見て。この壁画には順序があるの。まるで、今のマンガのコマみたいに」


 確かに、ビゾンの群れが、ある順序に従って描かれている。狩りの様子、そして祭りのような場面。


「この洞窟が発見された時、考古学者たちは混乱したそうよ」


 千春は声をひそめて続けた。


「だって、これまでの定説では、人類はもっと後になってから『物語を語る能力』を獲得したと考えられていたから」


 薫子は息を呑んで、再び壁画に見入った。三万年以上も前の人々が、この壁に向かって、何を、どんな思いで描いていたのか。


「でも、どうして洞窟の中に? 誰かに見せるためなら、もっと見やすい場所があったはずでは……」


 千春は嬉しそうに微笑んだ。


「さすが、作家の妹ね。鋭いわ」


 太陽が少し傾き、閲覧室の光が柔らかくなってきた。千春は静かに本を閉じ、薫子の目をまっすぐに見つめた。


「実は、その疑問こそが、物語の本質に関わる重要な問いなの」


「本質?」


「ええ。なぜ人は物語を語るのか。そして、誰に向けて語るのか――」


 千春は立ち上がり、別の棚へと向かった。


「それを理解するには、もう一つ見てもらいたいものがあるの」


 薫子は姉の背中を見つめながら、不思議な高揚感を覚えていた。まるで、長い間探していた宝物の在り処を、やっと見つけ出せそうな予感が込み上げてきた。


 千春が持ってきたのは、一冊の古い研究論文だった。表紙には「洞窟壁画における儀礼空間の意味」という題名が記されている。


「これ、フランスの研究者が書いたものなんだけど……」


 千春は論文をそっと開き、一枚の図版を指さした。


「ショーヴェ洞窟の見取り図よ。壁画が描かれている場所に注目して」


 薫子は図に目を凝らした。洞窟は複雑に入り組んでおり、壁画のある場所は洞窟の最も奥まった空間に集中している。


「あ……これって、まるで……」


「そう、劇場みたいでしょう?」


 千春は嬉しそうに頷いた。


「研究者たちは、この空間で何らかの儀式が行われていたと考えているの。つまり、これらの壁画は、儀式の『舞台装置』だったのかもしれない」


 薫子は息を呑んだ。頭の中で、古代の光景が鮮やかに浮かび上がる。松明の明かりに照らされた壁画。そこに集まった人々。儀式を執り行う祭司たち。


「じゃあ、これは……観客がいた物語?」


「その通り! でも、ここからが面白いの」


 千春は声を抑えながらも、目を輝かせて続けた。


「壁画を描いた場所には、人が大勢集まれるスペースがないの。つまり、『観客』は非常に限られていた。もしかしたら、特別な儀式の時だけ、選ばれた人々が見ることを許された物語だったのかもしれない」


 薫子は自分のスマートフォンを取り出し、メモを取り始めた。


「でも、それなら普通の人たちは、どうやって物語を共有したの?」


「さすがね」


 千春は満足そうに微笑んだ。


「その答えは、実は私たちの中にあるの」


「私たちの……中?」


「ねえ、薫子。あなたが小学生の時に書いた『月の上の約束』を覚えてる? あれはどうして書いたの?」


 薫子は少し考え込んだ。


「ただ……書きたかったから。誰かに見せようとか、そういうことは考えてなかった」


「そう。でも結果的に、家族に読んでもらって、担任の先生に見せて、そして今でも私たちの記憶に残っている」


 千春は論文を閉じ、窓の外に目を向けた。図書館の庭では、桜の花びらが静かに舞っている。


「人は、時として誰かに見せるためではなく、ただ表現したいという衝動に駆られて物語を生み出す。でも、その物語は必ず誰かに届く。そして、新しい物語を生む種となっていく」


 薫子は自分のメモを見つめ直した。そこには、断片的な言葉が並んでいる。


「洞窟の奥で始まった物語は、しだいに地上に出てきて、そして……」


「そう、今、あなたが書こうとしている物語にまでつながっているの」


 千春の言葉に、薫子は深く頷いた。スマートフォンのメモ帳に、新しい言葉が浮かび始めていた。


 夕暮れが近づき、図書館の窓から差し込む光が赤みを帯び始めていた。薫子は自分のスマートフォンに記したメモを見直している。「洞窟」「儀式」「伝承」「衝動」――断片的な言葉の間に、少しずつ物語が形を成してきていた。


「あのね、お姉ちゃん」


 薫子は、画面から目を上げた。


「私、今まで間違ってた気がする。新しいもの、斬新なものを書こうとしすぎて……でも、本当は」


「本当は?」


 千春は優しく促した。


「本当は、きっと物語って、ずっと昔から変わらない何かがあるんだと思う。洞窟の中で絵を描いた人も、私も、同じものを求めているような……」


 千春は静かに頷き、再びショーヴェ洞窟の画集を開いた。


「ねえ、この壁画をよく見て。ビゾンの群れが、うねるように動いているでしょう?」


「うん……まるで、本当に走ってるみたい」


「実は、この絵には、もうひとつ秘密があるの」


 千春は、スマートフォンのライトを取り出した。


「松明の光で、この壁画を照らすと、凹凸によって影ができて、動物たちが本当に動いているように見えるのよ」


 薫子は息を呑んだ。


「まるで……映画みたいになるんだね」


「そう。三万年以上前の人々は、既にアニメーションの原理を理解していたのかもしれない。人を魅了する『動き』の表現を、本能的に知っていたの」


 千春は声を潜めて続けた。


「これって、すごいことだと思わない? 現代の私たちが『新しい表現』だと思っているものの種は、もしかしたら、ずっとずっと昔から、人間の中に眠っていたのかもしれない」


 薫子は、自分のスマートフォンを見つめ直した。画面に映る文字は、古代の壁画と同じように、何かを伝えようとする人間の欲求から生まれたものだ。


「お姉ちゃん、もう一つ聞いていい?」


「なに?」


「洞窟に描かれた物語は、神様に捧げるためのものだったの? それとも、人々に見せるためのもの?」


 千春は不思議そうに首を傾げた。


「それは、どちらだと思う?」


「私は……」


 薫子は少し考えてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「きっと、両方なんだと思う。物語を描くことは、祈りでもあり、誰かとつながりたいという願いでもあった。今だって、きっとそれは変わってない」


 千春の目が優しく輝いた。


「そうね。だからこそ物語は、時代を超えて、人の心に届くのかもしれない」


 図書館の閉館を告げるチャイムが、静かに鳴り響いた。薫子はスマートフォンをしまいながら、胸の中に確かな手応えを感じていた。


「お姉ちゃん、今度は『言葉を持たない物語』のことを教えて」


「ええ、もちろん。でも、その前に――今日の発見、書き留めておいた?」


「うん」


 薫子は新しく開いたメモ帳を見せた。そこには、小さな物語が形を成し始めていた。主人公は、古代の洞窟で絵を描く少女。彼女が壁に描く動物たちは、夜になると命を持ち、踊り始める……


 図書館を後にする姉妹の背後で、夕陽が壁画のように赤く染まっていた。


◆なぜ人は物語を語り始めたの?


 図書館の帰り道、薫子と千春は近所の小さなカフェに立ち寄った。夕暮れ時で、店内は温かな明かりに包まれている。


「お姉ちゃん、さっきから気になってたんだけど……」


 薫子はホットココアをかき混ぜながら、言葉を探るように少し間を置いた。


「どうして人は、物語を語り始めたんだろう?」


 千春は自分のカフェラテを置き、ゆっくりと微笑んだ。


「面白い質問ね。研究者たちの間でも、いくつかの説があるの」


 千春はハンドバッグからメモ帳を取り出した。フィールドワークの時に使うという、革表紙の古めかしいノートだ。


「大きく分けて、四つの説があるわ」


 千春は新しいページを開き、ペンを走らせ始めた。


「一つ目は『生存戦略説』。これはね、物語が知識や経験を伝えるための手段として発達したという考え方」


「あ、例えば『このキノコは危険』とか?」


「そう! でも、単なる情報伝達じゃない。『昔々、あの山で、おじいさんが毒キノコを食べて大変なことになった……』というように、物語として伝えることで、より印象的に、そして確実に記憶に残るでしょう?」


 薫子は自分の創作ノートを取り出し、メモを取り始めた。


「二つ目は『共同体強化説』」


 千春は店内に流れるジャズを聴きながら、言葉を選ぶように続けた。


「人々は物語を共有することで、グループの絆を強めたの。共通の神話や伝説は、その集団のアイデンティティを形作る」


「ああ、今でも『国民的物語』みたいなものがあるもんね」


「その通り。三つ目は『認知発達説』。これは特に興味深いわ」


 千春は自分のラテに残された泡模様を見つめながら話を続けた。


「人間の脳は、物語を通じて世界を理解するように発達したという説なの。私たちは、ばらばらの出来事を『物語』として再構築することで、世界に意味を見出そうとする」


「それって……私が小説を書く時にやってることかも」


 薫子の目が輝いた。


「そして四つ目が『想像力開発説』。これは、物語が人間の想像力を育て、そしてその想像力が人類の進化を促したという考え方」


「想像力が……進化を?」


「ええ。例えば、まだ見ぬ土地への冒険を思い描くことができたから、人類は新しい地域へ進出できた。まだ存在しない道具を想像できたから、新しい発明が生まれた」


 窓の外では、街灯が一つずつ灯り始めていた。


「結局ね」


 千春は静かな声で締めくくった。


「物語は、私たち人間の本質なのかもしれない。生きること、考えること、夢見ることのすべてが、物語と結びついている」


 薫子は自分のノートを見つめ直した。そこには、物語について考えていた時の自分の気持ちが、びっしりと書き留められていた。


「お姉ちゃん、私、わかった気がする」


「何が?」


「どうして私が物語を書きたいのか。それは……本能なのかも。人間という生き物の本質的な欲求なんだ」


 千春は優しく頷いた。カフェの窓に映る姉妹の姿が、夕闇の中でぼんやりと重なっていた。


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