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8 お役に立てたのなら

 研究室のドアの前で木札を裏返し、マクシムは深く息をついた。

 そのままドアを開け一歩踏み入れた途端、眉をひそめる。

 考えるより前に左手が動き、すい、と、身体の表面から数ミリ外側に、透明な膜が張る。

 

「おかえりなさい」


 声が耳に届いた途端、一気に体の力が抜けた。奥の窓から差し込む月明かりを背に、小さな人影がある。


「イーサさん、……こんな時間に」


 右手の上に火球を浮かべ、それをランプに移しながら、マクシムの声には咎める響きが混じる。


「今日は必ず、お帰りになるはずと、ルカさんにうかがったものですから」

「……待っていてくれたのか」


 大きな息とともに、マクシムはソファに、ややぎこちない動作で腰を下ろした。


(……やっぱり)

 イーサは内心で唇を噛む。


「無事、お仕事、終わられたのですか」

「ああ、今日で俺の手は離れた。一区切りついたよ」

 マクシムは微かに笑顔を浮かべる。


「もう少し早く帰ってきたらよかったな。悪かったね。何か飲む? ……いや、ここには何もないか……」

「あの、マクシムさん」


 何故だかイーサはひどく緊張した様子だった。


「マクシムさんに、おまじないをしても、いいですか?」

「え?」

「少しだけ、触ってもいいですか? ジョアンナ先生に、魔術師の方にも害はないと、保証していただきました」

「いや……」


 マクシムは当惑した表情で、イーサの顔を見る。


「いったい何の、おまじないかな? ……多分、必要ないよ。俺はどこも怪我はしていないし、もともと魔力量が多くて補充スピードも早いから、疲れにくいし……」

「少しだけ。失礼します」


 イーサの指が、マクシムの右のこめかみに触れた。

 次の瞬間、視界が突然広く明るくなり、マクシムは目を瞬く。


「え」

「……楽に、なったでしょうか」


 マクシムは何度もまばたきを繰り返している。


「マクシムさん、最近いつも、頭が痛そうで。もともと、片頭痛をお持ちなのでは、ないですか」

「いやまあ、子供の頃は、そうだったけど……まさか」


 そこで彼は目を閉じ、自分の額に右の中指を当てた。

 しばらくすると、彼の眉間にしわが寄る。そして、目が上がった。


「何てことだ。“無痛の寿ぎ”だ」

 愕然とつぶやく。無意識に、自分自身に対して、痛みを感じなくさせる魔術をかけていた。

「全く気付かなかった。いつからだ……」

「多分、2週間ほど前からだと、思います」


 イーサは遠慮がちに言葉をつないだ。


「差し出がましいことを、すいません。お忙しい時期が終われば、すぐ良くなられるでしょうし、必要がなかったかもしれませんけれど……なんだか、心配で」

「……」


 マクシムは黙って天井を見上げ、そのまましばらくじっとしていた。やがてゆっくりとその上体が揺れ始める。


「マクシムさん?」

「……眠いな、うん、猛烈に眠い。とりあえず、知らずに自分にかけていたらしい、その場しのぎの術を全部解いたら、これは……」


 はは、と乾いた笑いを漏らし、そのまま彼は、ソファに倒れこんだ。


「マクシムさん、あの」

「イーサさん、ありがとう。……ごめん、とりあえず、寝るね。明日、話を、させてくれ……」


 途中から言葉も切れ切れになり、すぐに寝息に変わったマクシムを見下ろして、イーサはほうっと息をつく。マクシムは、すぐに深い眠りに落ちたらしく、とても気持ちがよさそうな顔をして、ぐっすりと眠っている。


(お役に立てたのなら、良かったです)


 仮眠の時に使っているらしい、畳んであった毛布を広げて、そっと被せる。

 それから音をたてないように、ゆっくりランプの灯を落とし、月明かりの下で一人、黙って微笑んだ。



「今日は、新市街に出かけます」


 マクシムさんの仕事が一区切りした、翌日。久しぶりに、二人で朝のお茶を楽しみながら、読み上げられるはずの今日の予定に耳を傾けようとしたイーサに、マクシムさんがだしぬけに宣言した。


「ええと、午後までにはお帰りですか? お昼ごはんはどうされます?」


 久しぶりに一緒に仕事ができるかと思ったのに、と少しがっかりした気持ちを声に出さないように気を付けながら、イーサは尋ねる。


 昨日の夜中に疲れ果てて帰ってきて、研究室のソファで寝落ちしたはずのマクシムさんは、今朝には何事もなかったかのようなすっきりとした顔で、にこやかにイーサを出迎えていた。


 彼は、そのままの笑顔で爽やかに言い放つ。


「イーサさんも、一緒に来ていただきます。今日の君の業務は、振り替えを頼んでおいたので問題ない」

「え?」

「そろそろいい時間だな。じゃあ、出ようか」

「ええ?」


 突然のことに、イーサは全くついていけずにその場で固まった。


「あの、マクシムさん。私、お掃除の制服ですし、外に出る用意なんて……」

「大丈夫」


 マクシムさんは全く取り合わず、イーサの手首を握って立ち上がる。そのまま研究室を出ると、ドアに息を吹きかけ、足取りも軽やかに研究棟の出口へとずんずん進む。


 ほとんど引きずられるようにマクシムさんの後ろを歩いていくイーサに、すれ違う隊員たちから同情の目が向けられる。今日もまた、彼の奇行のうわさが部隊内を駆け巡ることだろう。


 研究棟を出ると、マクシムさんは歩調を緩めず立ち並ぶいくつかの施設の間を抜けていく。本当に、このまま外に出るつもりらしい。特務部隊の敷地はぐるりと塀に囲まれていて、各方向に、いくつかの通用口がある。マクシムさんは、イーサが通り慣れている職員用の徒歩の通用口とは違う方向に歩いていく。


「ご苦労」


 敬礼する守衛にひらりと手を振っただけで、何の身分確認もなく二人が通り抜けた門の先は、小さな広場のようになっていた。その真ん中に、2頭立ての馬車が止まっている。

 マクシムさんがずんずんとそちらに進んでいくと、御者台から降りた男の人が、馬車の扉を開け恭しく頭を下げた。

 

「乗って」

 全く状況が把握できないまま、イーサはマクシムさんを見上げる。

「あの、これは……」

 マクシムさんは焦れたように、左手を微かに振り上げた。

「ひゃあ」

 瞬間、イーサの体はふわりと持ち上がり、次の瞬間には馬車の中のふかふかの長椅子に座っていた。すぐに乗り込んできたマクシムさんがイーサの隣に座った時には、馬車は滑るように動き始めている。


「あの、マクシムさん、これは……」

「馬車です」


 それぐらいはイーサでもわかる。

 

「どういうことでしょうか」

「……初めからずっと、昨日も。俺はあなたに恩を受けてばかりだ。お詫びもお礼もしたいのに、考えはじめるといつも、身動きが取れなくなる。だから、もう今日は、考えない。あなたには軽蔑されるかもしれないが、今日一日、俺の持つ世俗にまみれた力で、あなたを全力でを歓待させてもらう」


 マクシムさんは前を向いたまま、青白い顔で、低く一気に言う。イーサには彼の言っていることの半分も理解できなかったが、彼が何かひどく思い詰めているようだということと、何となく、断ることは無理そうだということだけは、感じ取っていた。


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