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7 臨時研究員の日々

 嵐のように始まった臨時研究員としての生活だったが、その後のイーサの日々は、拍子抜けするほど穏やかなものだった。


 研究室に出勤すると、朝一番に、イーサは濃い目のお茶を入れる。マクシムはそれをゆっくりと飲みながら、一日のスケジュールを読み上げる。


 勤め始めて二日目の朝、持参したお茶道具を片手に、お茶係の仕事部屋にお湯をもらいに行こうとしたイーサをマクシムは制止した。身の周りの世話をしてもらうために彼女を採用したのではないというのがその言い分だった。彼には妙に、仕事の線引きに潔癖なところがあるようで、それはイーサが提示された契約書にも良く表れていた。そこには、イーサにしてもらいたい業務、というものが細部まで事細かに列挙されていて、イーサは少々戸惑ったものだ。


「業務外の雑用はする必要はない。そのようなことが積もり積もって、君の業務が変質する」

「そんな」

 大げさな。イーサは思うが、マクシムの顔は怖いほど真剣だった。


 イーサは、ポットを温めたり茶葉を蒸らしたり、丁寧に順番に、美味しくお茶を淹れるのが好きだ。朝の美味しい一杯のお茶は、一日の香りを良くしてくれると、信じている。イーサの生まれ育った家では、食べ物で贅沢する余裕はなかったけれど、庭のわずかなお茶の木からとれる葉を大事に蒸して、もんで、乾かして作るお茶を精一杯おいしく淹れてみんなで味わうのが、一家のささやかな楽しみだった。

 イーサは少し考えてから、口を開いた。


「ついで、です」

「ついで?」

「私がお茶を飲むので、マクシムさんの分は、ついでにお淹れします」


 マクシムは何とも言えない顔で黙り、結局、イーサの淹れたお茶を飲み干して、美味しかった、と少し恥ずかしそうにお礼を言った。それから、朝のお茶の時間は二人の習慣になった。


 午前中、マクシムは、書類仕事をすることが多い。

 彼は、肩書からは想像できないくらい、膨大な書類仕事をこなしている。イーサははじめ、毎日届いては積みあがっていく書類の束の量に唖然とした。会合や伝達係の来訪も頻繁にあり、どうやらこの方は、ただの一研究員ではないらしいと、数日でイーサも薄々気がついてきた。


 マクシムが書類仕事をする間、イーサは、研究室内や、頼まれている他の高機密の研究室を回って、清掃業務をする。これは、彼女が臨時研究員となるにあたり、マクシムに示した条件だった。イーサは、自分の本業は掃除人だと思っている。


 お昼ごはんを食堂で食べて、休憩をして。午後の早い時間帯は、マクシムとイーサの「魔術研究」に充てられていた。

 午後のお茶の時間には、イーサのその日の仕事は終わり。イーサは部屋から帰されるが、その後、マクシムがどのぐらい遅くまで研究室にこもっているのかは、分からないし、教えてはもらえない。

 イーサは研究室を出たその足で特務部隊の資料室へ行き、夕ご飯まで読み書きの勉強をする。


 それは、これまでのイーサの人生で、間違いなく一番豊かで贅沢な日々だった。

 


 「魔術研究」の時間、初めに依頼されたのは、イーサがあのリンゴにかけた「おまじない」の再演だった。同じおまじないを、様々な指示を受けたり、条件を少しずつ変えられながら、毎日毎日、ひたすらに繰り返す。イーサは、仕事始めの日にルカに言われた言葉の意味が、少し分かり始めていた。

 ある程度データが集まったので、一旦分析に回す、とようやくマクシムが言ったのは、ひたすらにおまじないの実演を続けて一か月ほどが経った頃だった。研究は、次の段階に進む予定となった。


 ところが、そこでイーサの研究室での仕事は中断してしまった。


 マクシムが、研究室にほとんど顔を出せないほど忙しくなったのだ。手のかかる案件が舞い込んできた、との話だった。

 まれに研究室にいるときも、一心不乱に書類仕事を片付けている。イーサの魔術の研究は、あれ以降2か月もの間、数日にわけて1、2時間、それも簡単な聞き取り段階から進んでいない。


「留守番ばかりで申し訳ない。好きに過ごしてもらって結構だが、もし、希望があるなら、勉学の時間に当ててもらってもいい。必要な教材その他は、ルカに相談してくれ」


 目の下にくっきりと疲労の色が浮かんだ顔で、申し訳なさそうに言われると、イーサは自分の存在が彼の余計な心労を増やしていることにいたたまれない気持ちになる。


「あの、お気遣いなく。こちらこそ、余計なお手間を」

「……もう少しで、一区切りつくから。そうしたら、君の研究の再開が一番の優先事項だ」


 マクシムは微笑むと、書き上げた書類をつかんであわただしく部屋を出て行く。その背中を見送って、イーサは軽く息をつく。


 午後も掃除人として働けたら良いのだが、マクシムが厳格に契約内容について言い渡したようで、仕事を回してはもらえない。気が咎めるが、勉強の時間に使わせてもらうより無い。実は、ルカには、今の自分のやるべきことについて悩んで、すでに相談していた。仕事の速いルカはすぐに対応してくれて、イーサは少しずつ、読み書き以外にも、一般の教養、この国の魔術の成り立ち、王国警備団について学び始めている。


「イーサちゃん!」


 ぼんやりとドアを見つめていると、朗らかな声と共に、閉じたばかりのそこが押し開かれた。部屋が明るくなるような、華やかな美貌のジョアンナ先生がニコニコと現れる。


「先生!」


 彼女の手には、可愛らしい色合いの紙袋が下がっていた。どこかの流行りのお店のお菓子に違いない。

 イーサはこの綺麗で豪快で優しい女性ひとが大好きだ。周りを威圧するような豪華な雰囲気と美貌で、どこでも上層階級扱いを受けてしまうそうだが、私は都の下町育ち、舐めてもらっちゃ困る、というのが本人の口ぐせである。


 先生は、普段はほとんど、実家の診療所で医師として働いているが、魔術師は国の決めた組織のどれかに属さなくてはいけないとかで、王国警備団特務部隊にも籍を置いている。

 不定期にある警備団の業務で研究棟近くに来訪した際は、必ず美味しいものを手土産に、イーサたちの研究室に顔を出してくれる。多分、男性ばかりの特務部隊でイーサが不自由をしていないか、心配してくれているのだ。何度か、イーサを都の中心地に連れ出してくれて、手頃で質の良い服や下着の店や、信頼できる薬局を教えてくれたりもした。


「マクシムさん、丁度いま、出て行かれてしまったところなんです。お帰りはいつになるかは、分からないそうです」

「そうかあ。ちょっと報告があったんだけど……まあいいか」

「よろしければ伝言を承りますか?」

「ん?……んー、いや、直接連絡するね。ありがとう」


 ジョアンナ先生は、申し訳なさそうに微笑んだ。イーサも何とか笑顔を浮かべる。分かってはいるけれど、自分がここで今、何の役にも立てていないことが、時々とても苦しくなる。


「あ、何か、気にしちゃってる? 違うのよ、これは奴のプライベート案件ていうの? ……とにかく、私が勝手に他の人に言えない話ってだけで、イーサちゃんが信用できないとか頼りないからとか、そういうことじゃないから!」


 ジョアンナ先生は、イーサの顔をのぞき込んで肩をバンバンと叩いた。

 先生のいつもまっすぐな物言いが、とても好きだ。イーサの気持ちが明るくなる。そうだ、卑屈になっても仕方がない。自分でなろうと努力しなければ、役に立つ人間になどなれはしない。


「先生、少し、ご相談があるんです」

「え、なになに?」


 イーサは思い切って口を開いた。


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