4 実働班長ハンスとイーサの秘密
「イーサちゃん、何を飲む? お酒は飲めるのかな?」
ハンスは微笑みながら、向かいに座った女の子を眺めた。
あの日、たまたま同僚の変人研究員マクシムがこの子を泣かせるという、衝撃的な場面に出くわしてしまった。仕方がなく彼女をなだめ、マクシムを落ち着かせ、場を収めたのは確かに自分だ。だが、ハンスからすれば、もらい事故である。ところがそのせいで、今度はなんと仕事が飛んで来た。つくづく、とんだ貧乏くじだ。
しかもだ。
掃除係だという、イーサという女の子は、確かにとても綺麗な子だ。きっちりとまとめられた艶やかな黒髪。北方の生まれと言うだけあって、肌理の細かい白い肌は透けるようになめらかだ。黒目がちのぱっちりとした目に、小さくてふっくらとした唇。頭が小さくて、手足が長いすっきりとした身体つきだが、細すぎない健康的なところも良い。
貴族や裕福な家の子女にありがちな、表面的な表情をすることはほとんどなく、感情が素直に顔に出るように見える。総じて、とても良い子だと思う。
(しかしだからって……)
テーブルを挟んで向かい合うハンスとイーサの間には、解析班長のルカが横向きに座っている。彼女の内情を探れと指示を出してきた張本人であるが、邪魔な事この上ない。
(心外だ。いくら俺が手が早い男だからって、誰彼見境なく手を出すわけじゃないぞ。少しは俺を信用しろってんだよな、マクシムの野郎)
ハンスが対象者、特に若い女性から情報を得ようとするなら、一対一が基本に決まっている。むさくるしい男二人に挟まれて、いきなり心を開く女の子がどこにいる。
だがマクシムは、自分の目が届かないところで、彼女がハンスに心を開きすぎる展開になることを、恐れているのだろう。
先日から、彼は様子がおかしい。あまり見覚えのない、その合理的でない姿は、人間らしくてなかなか悪くない、とハンスは思う。
仕方がない。ハンスは笑顔を浮かべたまま、この監視付きのやりにくい仕事を何とか進める算段をする。
「あの。お酒は、ちょっと……」
イーサの表情は固い。飲めないわけではなさそうだが、警戒されている。
まあ致し方ないだろう。些細な用件で上司の掃除係長に呼び出され、呼び出し部屋から出たところで、特務部隊の班長2人にいきなり声をかけられて酒場に連れてこられれば、用心しない方がおかしい。
直前にルカに事情を聞かされたハンスは思わず舌打ちしそうになったものだ。対象者との接触、話の進め方、壊滅的にへたくそである。
まあしかし、今回は何とかなるだろう。目の前の対象者は非常に素直な人物だし、加えてハンスがつけた目算では、おそらく本人自身の事情は、マクシムやルカが考えているほど複雑なものではない。
そういう場合には。
「そう? ここは、食事もお酒も、味は保証する。突然付き合ってもらって、悪かったね。君に、どうしても確認しなきゃいけないことがあって……」
正面突破だ。にこやかに告げると、イーサの顔はさらに固くなる。
「まあ、大体予想はつくと思うんだけど。君のリンゴを駄目にした、例のマクシム、ね。あいつの申し出の件なんだけどさ……」
「あ、の。私なんかには、過ぎたお話なのは、分かっています。でも、やっぱり、お受けすることは、できません」
「そんなに構えるような話じゃないと思うよ。何なら、椅子に座って居眠りしてるだけですんじゃうようなことなんだ。体に害が出ることもないし。報酬も、周りには分からないように支払うことだってできる」
「……違うんです……」
「……もしかして、王国を、恨んでいる? 君の村を守り切れなかった警備団なんかには、協力したくない?」
「い、いえ! 私を雇ってくださったことに感謝こそすれ、恨みなんて。お役に立てるなら、ご協力したいです。嘘じゃありません」
「じゃあ、どうして?」
傍らで二人の会話を聞きながら、ルカは微かに眉を寄せる。この展開は予想外だった。口調は優しいが、ハンスの追い込みは容赦がない。わざわざ相手の壁を厚くするようなやり方に、思わず口を開きかける。
しかし、ちらりと視線を寄越したハンスの眼の光に、言葉を飲み込んだ。
「……私では、お役には立てません。研究員、なんて、とても……」
「それなら、一回だけの被験者ならどう? 数時間でいい」
「……」
「契約書はなしでいい」
「契約書、なし……」
イーサの顔が上がった。再びルカの眉が寄る。
ハンスの声は、変わらず柔らかく朗らかだ。
「そういえば、それはそれとしてさ。マクシムの置手紙を、触りもしないで無視してるって聞いたけど、それは何で? もう触れたくもないくらいに嫌いなの? できれば、はっきり断ってやった方が、君のためにもあいつのためにもいいんじゃないかと思うんだけど」
「置手紙……」
イーサの瞳が戸惑ったように揺れた。
(やっぱり、そうか)
ハンスの胸がチクリと痛む。ここからの話は、本当は、彼女と二人きりの場でしてやりたかった。
「……まあいいか。とりあえず、何か頼もう。何が食べたい?」
ハンスは、店の壁に下がった黒板に書かれたメニューを指し示す。それを虚ろに見つめるイーサの瞳は揺れたままだ。
「あ、の。私、何でもいいです……」
「そう? じゃあ、俺がお勧めで選んじゃって、良いかな」
「はい……」
ハンスの目が一瞬だけ、わずかに眇められた。イーサの目が彼の顔に戻った時には、そこには先ほどと同じ穏やかな笑顔の青年がいる。
それからふいに、彼は真顔になった。
「イーサちゃん。意地悪して、悪かった」
「……意地悪」
「俺はさ、この国の東の端っこの辺境の出身なんだ。砂の森、って知ってるかな、あの砂漠との境目あたり。そこの貧乏な羊飼いの、3男坊だった……」
突然のハンスの身の上話に、イーサの目が微かに見開く。
「11歳の時に魔力持ちって分かって、この都で学校に入れられるまで、俺は本を見たこともなかった。多分今の君と、おんなじだよ。だから、気持ちはよく、分かるんだ……」
ハンスの明るい茶色の瞳が、イーサをのぞき込んだ。
イーサの顔が歪む。
「研究員なんて言われたら、不安にもなるよね」
「……私、恥ずかしくて……」
「君が恥じることなんて、何もないよ」
イーサは浅い息を吐き、何とか言葉を絞り出そうとする。
俺の商売は、因果だな。ハンスは彼女の震える可愛らしい唇を、苦い思いで見つめていた。
「……ハンスさんが考えられている、通りです。……私、文字が、読めないんです」