36 サリューの贈り物
「ただいま、翠玉」
ひと月の留守の間、マクシムに預かってもらっていた雫石の鉢に、イーサはそっと声をかける。今夜の彼女は、静かにうずくまったままだ。
「――黒い犬が怖いのかな。大丈夫だよ、優しい子だから……」
翠玉の反応はない。
イーサは微かに微笑んで、窓の外の細い月を眺める。
*
2週間前の夜更け。イーサは故郷の村の近くに、植物園の他の職員と共に宿をとっていた。出張のメンバーのうち女性は一人なので、イーサは一人部屋だ。
コンコン、と部屋の窓が叩かれた時、もちろんイーサには誰だかすぐ分かった。
「サリューさん!」
「良い月だな。……少し、出られるか」
「はい」
イーサは身支度をして、窓の外で浮いていたサリューの腕につかまる。
イーサを軽く抱えて、サリューはゆっくりと低く飛んだ。イーサの村の跡の草原が足元を過ぎる。
やがて、エルザおばさんのリンゴ畑の近くの木の枝の上に、二人は腰を下ろした。
リンゴ畑は、月明かりの下、ただ静かに遥かまで広がっている。二人は黙って、並んでその光景を眺めた。きっと、思い出していた景色は二人とも、同じだった。
「……ロイモンド殿下のところで働くのか」
「はい。もう、試用職員になっています」
「そうか。……俺はもう、戻ってもお前に張り付けないな。あの方にはずいぶん、嫌われているから……」
「サリューさん……。もう、十分です。これまでずっと気にかけて下さって、ご自分の時間を犠牲にして私を見守ってくださって、ありがとうございました。これからは、アルミラさんのことだけ、見守っていてあげてください」
「俺がしたくてしていたことだ。それに、アルミラのことでお前達に受けた恩はとても返しきれていない。これからも、一生かけて返していく。俺が、満足するまではな」
「……サリューさんたら……」
「だがまあ、やり方は変えることになるな」
サリューは夜空を見上げる。
「悪かったな、お前が襲われた時、すぐに助けに行けなくて。あとで聞いて、情けなくて歯噛みしたよ」
「いいえ。結局、無事に済みましたし……」
サリューとアルミラは、アルミラが薬物の害から快復したのち、ザランド王国の北の国境近くの街に滞在していた。
ジョアンナ先生に、故郷の舞踊や茶道を教える仕事をしてみてはどうか、と提案された時、アルミラは、自分が仕込まれた嫁入り修行にそんな使い道があったのか、と嬉しい驚きを覚えた。自分自身は商品になっても、自分の技術や知識が売りものになるとは思ってもみなかったのだ。
一方で、ためらいもあった。
特に舞踊に関しては、アルミラの故郷では、人に教えるには免状が必要だった。例え他に知る者のいない舞を遠い異国で教えるとしても、中途半端な技量で、お金をいただいてレッスンをするのは、アルミラの矜持が許さなかった。
そんな折、サリューが、ザランド王国の北の国境近くに、アルミラが得意とする舞踊、ワカヤギ舞の師範がいることを調べて来てくれた。
アルミラは、その先生の元へ通い、師範の免状をとることに決めたのだった。
「アルミラさん、お元気ですか」
「ああ。国にいた頃とはレベルの違う熱心さで舞の稽古をしている。やはり、目標があると違うものなんだな。……その内、会いに来てやってくれ」
「はい」
イーサの故郷の村から、アルミラたちが滞在している街は比較的近い。
アルミラの美しい姿を思い浮かべ、イーサは思わず笑顔になる。
「そっちはどうなんだ。マクシムの奴、落ち込んでるんじゃないか」
「……そうですね……」
イーサが襲撃された後、マクシムは一度しか言葉には出さなかったが、イーサを危険にさらしたこと、自分が力でイーサを守れないことを、ずっと気に病んでいるようだった。
一度そうしかけたように、いつか、イーサを危険から遠ざけるために、彼はイーサから離れていくのではないか。それは、イーサに常に付きまとっている不安だった。
「あいつが直接戦闘をできない理由は聞いたのか」
「はい。ルカさんやハンスさんから。そんな大変な思いをして来たんだって、びっくりしました」
「そうだな。あいつは難儀な性質だよ、精神感応にしても、感情球にしても」
「そう、ですね……」
「イーサ」
サリューは、隣に座るイーサを振り向き、目を細めた。
「はい」
その声色に、イーサは居住まいを正してサリューに向き直る。
「お前は、あいつと生きていくと、決めたのか」
「はい」
ためらいなくイーサはうなずく。
「そうか。……そのために、自分の力を人に向ける、覚悟はあるか」
「……はい」
植物園で襲撃を受けた時、閉じ込められた結界の中で、イーサは初めて人に向かって攻撃の力を使った。それは、故郷では禁じられた力の使い方だった。でも、あの時の自分の行動に、イーサは今でも後悔はない。
「そうか。それなら、俺から、お前に贈りたいものがある」
サリューはイーサの腕をつかむと、夜空へとゆっくり浮き上がった。
*
サリューがイーサを連れて来たのは、イーサが慣れ親しんだあの森だった。
「夜の森は、初めてか」
やや身を固くしているイーサに、笑いを含んだ声でサリューが尋ねる。
「はい、危ないから絶対に行くなって、両親から、止められていて」
「だろうな。夜行性の動物も多い。大人の人間でも危険な場所だ」
サリューが右手を頭上にかざすと、そこに大きめの火球が浮かんだ。
「イーサ。都で雷を使った時、思った大きさのものは出せたか」
「……いいえ。殺してもいいと思って放った雷だったのに、相手を気絶させることも、できませんでした」
「そうだろう。植物の精霊の魔力では、雷は限界があるだろうからな」
「え……」
「お前がこの森で雷を落とさせた精霊は、木の精霊じゃあない」
「木の精霊じゃ、ない……」
「そうだ。この森のお前の友達には、それよりずっと力を持った存在がいる。そいつは姿を隠しているが、本当は、お前に見つけて欲しがっている。多分、お前が初めてこの森を訪れた時から、ずっとだ」
「力を持った、存在……」
「――出て来いよ。お前がもう一度主人を得る、最後のチャンスだぞ」
サリューは、森の闇に目線をやると、静かに声を発した。
その時、火球の光の届くギリギリの地面に、むくりと黒い影が現れた。
何かがぱたりぱたりと、その影の横で動いている。
サリューの手の火球がゆっくりと大きくなる。やがて、その光が、黒い影を照らし出した。
「……犬?」
そこに見えたのは、お座りをしてゆっくりと尾を振る黒い犬だった。
その目はひたすらに、イーサを見つめている。
「こいつは、雷の精霊だ。精霊の中でも力の強い、かつては式獣と呼ばれていた存在。人と精霊が分かたれた時、他の式獣は人と契約した過去を忘れ、ただの精霊に戻った。だが、こいつは人とのつながりを忘れられなかった。なぜなら、こいつは人の手で生み出されたものだったからだ」
「人の手……」
「古の時代の、伝説の精霊使いを知っているか。希代の魔術師と言われた銀碧の魔術師の、妻となった人物だ」
「はい」
「その女性の使う精霊に、人の手で書かれた絵画から生まれた、雷獣がいた」
「雷獣」
「それが、こいつだ」
イーサは言葉もなく、目の前で満面の笑みで尻尾を振る黒い犬を見つめる。
雷獣は、きらきらと期待に満ちた目でイーサを見つめている。じっとその目を見返すと、イーサの頭の中に、ふいに誰かの声が響いた。
『いい子ね、シャーリー』
それはとても柔らかくて優しい、女の人の声だった。
「……シャーリー」
イーサがつぶやくと、黒犬の姿の雷獣ははじかれたように立ち上がり、ぶんぶんと尻尾を回し始めた。あまりに嬉しそうな様子に思わずイーサが手を伸ばすと、彼女はいっさんに駆け寄って来る。
手元に駆け寄る雷獣の頭をなでてやる。雷獣は、耳を倒して上体を伏せ、全身で歓喜を現わした。そして、おもむろにごろりと横倒しになり、うねうねと身体をよじって、イーサに腹をなでろとせがむ。
「うふふ……」
雷獣の、全開になった腹をなでながら、イーサは思わず声を出して笑った。
*
戯れる黒犬とイーサを眺め、サリューの唇には笑みが浮かぶ。
(――お前の主を、大事にな)
心の中で、雷獣にそっと話しかける。
自分は、子供のころから、あらゆるところで精霊が見えていた。植物も水も風も、物についたものさえも、世界中に精霊は溢れている。
自分の異様な力の理由は一体何なのか、それがおぼろげながら分かったのは、マクシムのイーサへの魔術史の講義を聞くようになってからだ。
おそらく自分の体には、半分かそれ以上、精霊の血が流れている。神の時代以降は無くなったと言われる、精霊と人間の交わりが、何らかの理由で行われた結果なのだろうと思う。
自分は、今この世に生きている魔術師の中では、おそらく一番強い。
どんな結界でも破ることができるし、どんな術でも、今の自分を傷つけることはできない。自分が望めば、世界の魔術師の頂点に立つことすら、可能かもしれない。
でも、自分はそんなことは望まない。
自分は一生、ただひとりの主と、恩人たちのためだけに、自分の魔力を使うと決めている。
サリューはひとり、星空を見上げて口笛を吹く。




