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35 イーサの夢

 研究室のドアの前で木札を裏返し、マクシムは深く息をついた。

 そのままドアを開け一歩踏み入れた途端、眉をひそめる。

 考えるより前に左手が動き、すい、と、身体の表面から数ミリ外側に、透明な膜が張る。


「マクシム」


 声が耳に届いた途端、背筋にぞわりと甘い痺れが走った。


「イーサ……」


 帰っていたのか。口の中でつぶやきながら、少しふらつく足取りで、マクシムはソファへと足を進める。


「マクシム、……寝てないの?」

「うん? ……いや……」


 イーサの声を聞くだけで、胸の中にどんどん甘い痺れが広がる。自分の感情を持て余して、マクシムはどさりとソファに腰を下ろした。


 イーサの軽いため息が聞こえる。

 そして、立ち上がって歩み寄って来た彼女の指が、マクシムの右のこめかみに触れた。


「……っ」

「マクシム。また、頭、痛かったんでしょう。駄目よ、ちゃんと寝なくちゃ……」

「うん……」

 

 マクシムはイーサの手をつかむと、そのままその身体を引き寄せ、立ったままのイーサのお腹にぐりぐりと頭を押し付けた。


「イーサ……ひと月ぶりだね。無事に帰って来て良かった。……おかえり」

「……ただいま」


 イーサは、アッシュブロンドのさらりとした髪を、そっとなでる。




 イーサが特務部隊の臨時研究員を退き、ジョアンナ先生と同じ特例部隊員という待遇となり、同時に王立植物園の試用職員となってから、一か月ほどが過ぎていた。

 実験果樹園設営の先行調査、という名目で、王立植物園の職員たちと共に故郷の村に出張し、王都に帰着したのが今日の夕方だ。


 早くマクシムの顔が見たくて、その足で『煉瓦亭』に顔を出したのだが、そこにいたルカ達には、最近彼は全く飲みにも出ず、何なら食事もろくにせず研究室に籠っていると聞かされた。


 急いで向かった研究室で、ランプを灯したまま中座している様子のマクシムを待った。室内は、少し見ない間に大分雑然としていた。そしてそこに、ひどく顔色の悪いマクシムが戻って来たのだった。




 しばらくぐりぐりとイーサのお腹に頭を押し付けた後、マクシムはようやく落ち着いた様子で、ソファの隣に座ってイーサに腕を回している。

 その身体からは、寝不足からなのか久しぶりの再会だからなのか分からないが、本人は気づいていないが感情球がだいぶ駄々洩れに湧き出していた。それは、二人の体の接している部分から、避けようもなくイーサに彼の感情を伝えてくる。


⦅離れたくない⦆⦅ダメだ、我慢だ⦆⦅イヤだ⦆⦅夢を邪魔しちゃダメだ⦆⦅閉じ込めたい⦆⦅ダメだ、我慢だ⦆


 あまりにごちゃまぜの感情で、しかも聞き捨てならない発言が混じっているような気がするが、黙って座る彼が、内心何やらひどく葛藤しているらしいことは読み取れた。

 そして、かなり誤解が混じっていそうなことも。


 マクシムは正面を向いたまま、ふう、と息を吐く。


「――村の跡は、どうだった。果樹園の仕事は順調に進みそうなのかな」

「ええ。もともと畑だった部分は、少し削れば土の状態も悪くないし、準備を進めることになったわ」

「そう。――いつごろから、あちらに住むのかな」

⦅行かないで……⦆


「……」

 かわいい人だな、と、改めてイーサは思う。


「マクシム。私、村には住まないの」

「……え」

「殿下が、王族の特権で、王都の植物園から北の分園まで、直通の移動陣を設営して下さるそうなの。だから、私の出勤場所は、王都の王立植物園。時々、勤務時間中に村の跡に移動することになるわ」

「……そうなのか。それは、良かった……」

⦅⦅ パンパカパーン! ⦆⦆

「……ぶふっ」

「イーサ、どうかした?」

「……ううん、ごめん……」

「イーサ」


 そこでマクシムは、身体を離してイーサの方に向き直った。イーサもマクシムに向かい合う。


「はい」

「改めてだけれど、結婚のこと……不安は多いだろうけど、解消できるように、努力する。考えてくれないか」

「マクシム。……マクシムは、不安なの?」

「……それはね」

「私は、ひとつしか不安なことはないわ」

「ひとつ?」

「そう、ひとつ。マクシムが、私を守れないと、悩んでいること。そのことで、いつか私から、離れて行かないかが不安なの」

「……」


 マクシムは言葉が出ない様子で、しばらく固まっていた。


「どうして、そんなこと……」

「慰労会の日、あなたすごく酔っ払って、ずっとそのことを、私に謝ってたわ。私、とても驚いた」

「え、酔っ払って……? ……マジか。……恰好悪いの極みだろ……」

 マクシムは頭を抱えた。


「私、その時、もう一つ夢ができたの」

「……夢?」

「そう、夢。あなたの側で、あなたに守ってもらわなくても、自分を守れるようになること。それから、あなたを、守ること」

「俺を、守る……?」

「マクシム。あなたは、魔術で人を傷つけられないことを、弱さだと思っているのかもしれないけれど、私はあなたのそんなところも、大好きなの」


 イーサの言葉を、マクシムはただ目を見開いて聞いていた。


「私が初めてあなたの魔術に触れたのは、この部屋で、雇用の契約書を交わした時だった。あとから、あの時あなたが私に用意してくれた魔術が、そのために特別に編み出したもので、とても複雑で大変なものだったということを知ったわ。――私は、自分の魔力を、そういう風に使うあなたが、大好きなの」

 

 イーサは、マクシムの美しい薄水色の瞳をのぞき込む。


「あなたが信じる道を歩くのに、どうしても危険を避けることができないなら、私が、あなたを、守ってあげる。あなたは、あなたがしたいと思うこと、正しいと信じることに、自分の魔力を使ってください」

「……イーサ……」

「そのための力を、私、手に入れてきたの」


 そう言うとイーサは、静かに立ち上がった。そっと右手を下向きにかざし、無音で唇を動かす。

 すると彼女の右手の下に、突然、黒い影が現れた。


 それはきちんとお座りをして、尻尾を振って一心にイーサを見上げていた。


「……犬?」

「ふふ、見た目はそうね。これは、雷獣らいじゅう

「――雷獣らいじゅう?!」


 マクシムは驚きで目を見開く。かつて魔術師が使役したと言われる、高位の精霊、式獣。その中でも、相当に位の高いもののはずだった。


「ええ。()()のひとりよ」


 イーサは悪戯っぽく微笑んだ。


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