34 マクシムの贈り物
研究室でのイーサの魔術の研究は、順調に進んでいた。
一年近くをかけ、様々な術の実演を繰り返し行い、この冬の終わり、徐々に空気が緩み出して木々の枝の先も膨らみ始めるころ、ついに二人の研究は、一応の区切りを迎えることになった。
マクシムは、一連の研究を文書にまとめ、イーサが魔術師としての印を得られるよう、魔術師連合に申請を出すことに決めた。
「今回の研究は、君の魔術の分析や観察に留まった。やはり口伝で受け継がれてきた術にはそれなりの理由があったというべきか……指南書をつくるというレベルに到達するのは相当に難しいが、それでも、魔術の心得のある者が読んで、ある程度君の魔術を理解することはできるレベルの書物に仕上げるつもりだ」
イーサの淹れたお茶の香りを楽しみながら、マクシムは湯気越しに微笑んだ。
「無事に申請が通ったら……君を、連れて行きたい場所がある」
*
マクシムはイーサの手を引いて、半歩前を足早に歩いている。
その少し汗ばんだ手のひらに、彼の緊張がありありと感じられ、イーサは落ち着かない気分で、彼に遅れないように足を進めていた。
いまいるのはイーサにはおなじみの、もしかしたら都ではいちばん慣れ親しんでいるかもしれない場所だ。
植物園の遊歩道を足早に抜け、マクシムは迷わず、ロイモンド殿下の私庭に足を踏み入れる。
「え、マクシム……」
「ロイには断ってある」
そのままイーサの手を引き、アルミラの治療を行った庭を抜け、彼はずんずんと進んでいく。そして、イーサが足を踏み入れたことのない、殿下の私邸の裏側、裏庭へと進んでいった。
そこへ足を踏み入れた瞬間、イーサには、分かった。
目の前に、鉢植えのひょろりとした若木が一本立っている。そしてその木の上には、忘れようもない懐かしい人の姿があった。
「イーサ、この木は……」
「ええ、分かるわ。――私の、リンゴの、木ね」
リンゴの木の精は、イーサに向かって一目散に飛んでくると、くるくると回り、それからキラキラ輝きながら、縦横無尽に辺りを飛び回る。彼女の歓喜の波動が、イーサを包んだ。
イーサの目から涙があふれる。
リンゴの精はあわてて飛び戻り、一生懸命にイーサの涙を掬っては飲み干そうとしてくれている。
「紅……、消えて、なかったんだね……」
イーサはしばらくうつむいて肩を震わせた後、顔を上げ、涙を払って微笑んだ。
少し離れたところで、イーサと彼には見えない精霊の再会を見守っていたマクシムは、ほっと息を吐く。
「あの時かじってしまったリンゴの種から、育てたんだ」
「……すごい。大変だったでしょう」
「恥ずかしながら、自力では発芽もさせられなかった。無理を言ってジョアンナに協力してもらって、途中からはロイにも助力を頼んで、何とかここまで育てて来た……」
ジョアンナ先生は、人と植物では違いすぎるから、と何度も断ったらしいが、マクシムが押し切って、魔術でのリンゴの木の生育補助をしてくれていたらしい。
先生はイーサにはこれまで一言もこの話はしなかった。途中で枯らしてしまったら今度こそイーサに与える傷が深すぎるから、と、マクシムが頼んで口止めをしていたらしい。
「本当は、できたリンゴの実を渡して謝りたかった。でも、種から育てたリンゴの木が実をつけるまで、10年もかかるものだとは思ってもみなかった……」
マクシムは苦笑いをする。
「そうね、それに、リンゴの木は一本では実は成りません。別の木の花粉で受粉をさせないと……」
「そうらしいね。ロイに笑われた」
イーサはしみじみと、リンゴの若木を眺めた。忙しいマクシムが、どれだけの手間をかけてここまで育ててくれたのだろう。
「紅」
イーサがそっと名を呼ぶと、リンゴの精は彼女の顔の前で静止して、じっと目をのぞき込んだ。
「ごめんね、あの頃、きっとずっと呼びかけてくれていたのに、私、気がつかなかったんだよね。村を離れて、あの実におまじないをかけ続けていた間、私、友達が見えなくなっていたの。きっと心が、壊れかかっていたんだね。……あの時、マクシムの部屋で、私の前にあの実を転がしてくれたのは、お前なんでしょう?」
精霊は、キラキラと輝きながら何度もくるくると回って見せる。
「ありがとうね。私、元気になったよ……」
イーサはそっと、その木の枝に口づけた。
「……イーサ」
呼びかけるマクシムの声に緊張を感じ、イーサは振り返る。
「俺たちの研究は終わった。これで、君の、特務部隊技術開発班の臨時研究員の任は解けることになる」
イーサはゆっくりとうなずく。
「君はこの先、どうして行きたいだろうか」
「……それはある程度はもう、決めています」
イーサの返答に、マクシムは静かに息を飲んだ。
「私の魔術は、やっぱり、生活の中でさりげなく使われてきたものだし、これからもそうありつづけたいと思っています。私は、魔術師として生きていきたいとは思っていません」
「……そうか」
マクシムは静かに息を吐き、うなずいた。
「実は、ロイモンド殿下から、王立植物園の職員にならないかと、お話をいただいています」
初めて聞く話に、マクシムの眉が寄った。
「殿下は、私に故郷の村の土地を譲渡しようとしてくださったのだけれど、あまりにも過分だし、ご辞退しました。そうしたら、その代わり、村の跡に王立植物園の分園、実験果樹園を作るので、そこでのお勤めも考えないかと言っていただいて。……どんな形でお勤めをさせていただくのか、いま、相談しています」
「……そうか……」
「故郷にもう一度リンゴ畑を作るのは、私の、ひとつの夢でもあったので」
「夢、か」
マクシムは静かに頷いた。
それからしばらく目を伏せた後で、思い切ったように口を開いた。
「君のこの先の人生には、俺は関わることを許してもらえるのかな」
「え……」
「例えば君が故郷の村に帰るのだとしても、会いに行くよ。職権濫用で、移動陣を使い倒して」
マクシムは不敵に微笑む。
「だから、君がどんな道を選んだとしても、もうこれきりなんて言わないで。――俺との結婚を、考えてくれないか」
*
どこからどう見ても、締まらないプロポーズだった。
マクシムは、研究室の窓から上りかけの半月を眺め、深いため息をつく。
イーサから奪ってしまった大切なリンゴをどうにか再生して、二人の出会いを良い思い出に変えたい。それができたら、自分は彼女に、人生の伴侶になる許しを乞おう。
イーサのリンゴの種が芽吹き、イーサから、好きという言葉をもらってから、マクシムはずっとそう考えて来た。
実がなるところまでは行けなかったけれど、やっと育ってくれたリンゴの木の前で、今日マクシムは、心を込めて愛の言葉を告げ、結婚を申し込むつもりだった。
しかし、現実は残酷だ。彼女が、自分のもとを去り、はるか遠い故郷での生活を考えているなどとは、想像だにしていなかった。
その話を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。彼女がこの手から、するりと逃げ出してしまうような気がして、異常な焦りが全身を満たした。
その結果が、あの格好悪いセリフだ。
そしてあの時、自分は初めて気づいた。自分の中の執着心の強さというものに。
この先の彼女の人生にとって、果たして自分は有益な存在なのだろうか。彼女を力で守ることもできず、彼女の夢を応援することが一番だと頭では分かっていながら、心の奥底では、彼女を縛り付けてでも、ずっと自分の側にいてほしいと願っている。
「心というのは、ままならないものだな」
足元に目を落として、マクシムはぽつりとつぶやいた。




