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33 殿下の贈り物

 イーサはゆっくりと、東屋に向かって歩を進めていた。晩秋の空にはひつじ雲が続き、植物園の中は、落ちたばかりの木々の葉から立ち昇る独特の秋の香りが漂っている。

 精霊たちは、それはそれは嬉しそうにイーサの周りをキラキラと飛び回っていた。


 やがて丘の上の東屋の横に、髪をなびかせすっくと立つ長身のシルエットが見えた。自然に早くなる歩調を止められない。


「――殿下!」

「イーサさん。――よく、来てくれたね」


 たどり着いた東屋の下、穏やかなバリトンボイスでいつものセリフを口にしながら、目を細めたロイモンド殿下はイーサの右手を両手で包み込むように握りしめる。

 それから、思わずというように一歩踏み出すと、イーサを胸に抱きしめた。


「……イーサさん、本当にありがとう」

「殿下……」


 イーサを抱きしめている殿下の身体からは、ゆるぎない生命の気配がする。痛む場所も、不自由な場所も無いようだ。イーサは心から安心して、軽く息をついた。




「あの時、襲撃者の術を受けて、体は全く動かなくなったが、意識はずっと保たれていた」


 人払いされた東屋で、テーブルを挟んで向かい合った二人は、ゆっくりとお茶を楽しみながら、事件の時を思い返していた。


「私もです」

「奴らの狙いは、意識も知覚もある状態で私たちをなぶり殺しにするという、卑劣なものだったが、結果的にはそれが幸いしたな。武術の心得のある者を物理的に拘束せずに転がしておくなど、愚かなものだ。魔術師によく見る慢心、はなはだしかったな……」


 イーサの脳裏には、どうしても『物理は正義よ』というセリフが浮かぶ。


「死を覚悟した、あのとき。君は、ひとかけらの躊躇もなく私を全身でかばってくれていた。感じた君の小さな体の重み、流れ込んでくる温かさ……、あの時自分の心に広がった感情を、私はきっと、生涯忘れないよ」

「殿下……。でも、殿下を救った力は、ここの精霊たちのものです。殿下が心から愛され大事にされていた植物たちが、殿下に恩返しをしたんです、きっと」

 

 殿下は唇に微笑みを乗せたまま、ゆっくりとカップを揺らしている。


「あの時、おそらく一度、私の心臓は止まったのだろう。背に衝撃を受けた直後、急激に周囲の音が遠くなって、気がついたら、それはそれは美しい花園にいた。間違いなく、これまで見た中で最も美しい光景だった……」


 今更ながらに、殿下の命を救えたのは、紙一重だったのだ。イーサはあらためてゾッとしながら、殿下の話を聞いていた。


「このままどんどん先へ歩いていきたい、感じたことのない強烈な誘惑にかられた。ところが、歩き出そうとする私は腕を引かれて引き留められた。とても不愉快で、腕を引く人物を振り返った……」


 その光景を思い出しているのだろう、殿下の微笑みが深まる。


「そうしたら、そこには、白い長い眉と顎髭の、見たことのない老人がいて、私の腕をつかんでいた。彼を見た瞬間に、分かったよ。彼は、私が子供のころから愛してきた、あのくすのきだと」


 ふわり、殿下の髪が秋の涼風にたなびいた。


「彼はひどく心配そうな、哀し気な顔をしていた。それを見た瞬間、私は、君の体の下で死にかけている、自分の体に、引き戻された……」


 殿下は風に向かい目を細めた。


「今も、彼は、いるのかな」

「そうですね」


 殿下の頭の上をふわりふわりと回るおじいさんの精霊に、イーサはそっと微笑みかける。


「……ありがとう」


 殿下の言葉は風に乗り園内に広がり、精霊たちはいっせいにくるくると回る。

 それはどこかにあるという、桃源郷のような光景だった。




「殿下、これは……」


 ひとしきり互いの無事を喜び合った後、おもむろに殿下が侍従に合図を送った。そこで運ばれてきた書類を、殿下から微笑みながら差し出され、イーサは戸惑う。


「私からのささやかな、御礼だ。私の君への感謝と信愛の情は、とても金品で表せるようなものではないが、せめてものしるしに受け取って欲しい。……君はあまり宝飾の類は好かないと、ジョーから聞いたものだから……」


 そこに書かれていた文字に、イーサは言葉を失った。


「君の故郷の村の、土地の権利だよ」





「ねえ、翠玉。身分の高い方々のすることって、本当にびっくりしちゃうようなことばっかりよね……」


 特務部隊の宿舎の一室。いつものように月明かりの下、鉢のふちに腰かけて、首をかしげてイーサを見つめている美しい緑色の瞳の人に、イーサはしみじみとつぶやく。


「いきなり、村の土地をまるまる、下さろうなんて……」


 イーサの村は焼き打ち後、村民が不在となり、土地は王家に返納されていた。ロイモンド殿下は、その所有権をイーサに譲渡する手続きをするつもりだとおっしゃった。


 確かに、ある意味それは、イーサの願いを叶えることではあった。

 村の焼き打ちの後、イーサが都に出て警備団で働こうと決めたのには、理由がある。もちろん、思い出の詰まった土地で一人生きていくのが、辛かったということもあった。

 でも、イーサはいつか、故郷の村の土地を借り、もう一度、家族と共に大事に育てていたリンゴ畑を作り直したいと思ったのだ。それが一番の、家族の供養になるように思えた。そのために、賃金の良い場所で一生懸命働いて、たくさんお金をためようと決めたのだった。

 

 それは目標と呼ぶにはあまりに遠い、かすかな光だった。でも、その光があったから、イーサは、ひとりぼっちで働くこと、生きていくことを続けてこられた。故郷のリンゴ畑は、ずっとイーサを支える夢だった。


 そんな話を、ふとした時にジョアンナ先生にはしたことがあったように思う。

 それでもいきなり、こんな形で夢が叶いそうになるなんて、想像もしたことがなかった。


「殿下のお気持ちはとってもありがたいし、受け取ったほうが殿下が喜ぶって、きっとマクシムなら言うのだろうけれど……」


 故郷の村に帰る。

 そこで、もう一度、リンゴ畑を作る。先に逝った家族を感じながら、生まれ育った土地の、大切な森の木々と、たくさんの()()たちに囲まれて暮らす。


 その夢は今、手を伸ばせばすぐに届く、イーサの目の前にある。


 でも、今の自分には、他に叶えたい夢ができてしまった。あの村に眠っている大切な人たちは、そんなイーサを許してくれるだろうか。


 イーサは黙って、鉢の中の雫石の、透き通ってほのかに輝く丸い葉を見つめていた。


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