30 チェックメイト(3)
「すまない、加減しきれず、一人、殺してしまった」
「――いいえ、十分すぎるお手並みです、殿下。あらためて、深謝申し上げます」
(加減、て)
ハンスは、目の前のベッドで半身を起こして枕にもたれかかり、淡々とバリトンボイスを響かせている美丈夫をこわごわと眺める。
植物園に駆け付け、このロイモンド王子殿下と、非戦闘員のイーサが囚われた結界が、この国でも頂点に近い二人の結界師が結んだものだと分かった瞬間、ハンスは最悪の結果を覚悟した。
結界の内側に術者がいるということは、逃走を捨てたということだ。自爆をも覚悟した戦法だった。あの3人は、捨て身で、警備団特務部隊、とりわけマクシムにできうる最大限の打撃を与えようとしていたのだ。
イーサが結界内の魔封じを破り術を繰り出している様子だったのには度肝を抜かれたが、いずれ力尽きるのは目に見えていた。ハンスは、マクシムの精神を殺さないための手段を考え始めざるを得なかった。
その時、目の前で、ロイモンド殿下とイーサを守っていた力が破られた。正体不明の力に魔術攻撃を弾かれ続けた魔術師は、こともあろうに魔術攻撃を捨て、イーサに素手でつかみかかったのだ。
非力な彼女は、男の力にすぐに引き倒され縊り殺される、かに見えた。
その瞬間、彼女たちの背後に横たわっていたロイモンド殿下が消えた。
次にハンスの目が殿下をとらえた時には、イーサにのしかかっていた男の首が捻じ曲げられるところだった。文字通りの瞬殺。そこから殿下は、残り二人の魔術師のあいだを軽く走り抜けているように見えたが、若い魔術師は肩をはずされ肝臓を打たれ、老人は何をされたか分からないが悲鳴を上げうずくまった。顎が外されているらしいことだけは分かった。
そして目の前の結界はきれいさっぱりと消えてしまっていたのだ。
ハンスの頭の中には、
「やっぱり最後は、筋肉なのよね、きんにく。筋肉は裏切らない」
という、いつかの誰かの言葉がこだましていた。
*
「……傷は表面がふさがっていない場所はありませんが、まだ組織はもろい状態です」
背中を向けて手桶で手を洗いながら、ジョアンナは低い声で言った。
「1,2週間は、特に背部に強い外力を与えないように安静が必要です。数日は、ねじったり屈めたりもなるべくお控えください。失われた血液が戻るまでにも、同様の時間がかかります。内臓の損傷がどの程度だったかは推測の域を出ませんので、まずは胃腸の負担の少ない重湯などから――」
そこで振り向いた彼女は、思わず口をつぐんで目を瞬いた。
「殿下――」
ロイモンド殿下は、青白い顔で眉根を寄せて、顔を仰向けていた。
「痛みますか」
「――ああ、少しだけね」
殿下のこめかみを汗が伝う。
あわてて駆け寄ると、枕を抜いて背を支え、横たわらせる。同時に、『無痛の寿ぎ』の呪文を唱えた。
徐々に、殿下の息づかいが平静になる。
「やはり事後の話し合いなど後日にされればよろしかったのです」
つい、苛立った声を出してしまう。
ロイモンド殿下が、イーサと共に暴漢に襲撃され、瀕死の重傷を負ったのはほんの数時間前のことだ。直後にイーサが施した魔術治療により、損傷した部位は全て修復されてはいるが、それは完全な治癒とは程遠い状態だ。
事件直後に緊急呼び出しがかかり、植物園内の殿下の居室で状態を診察したジョアンナは、事件の状況確認は後日にするように進言したのだが、殿下本人によって退けられた。
殿下は平静な顔で特務部隊の調査員との面談を終えられたが、やはり、体には相当の負担がかかっていたのだろう。
「叱られてしまったな」
殿下は目を閉じたまま、ふふ、と笑う。
「笑い事ではありません」
「――王族というものは、弱みを見せないでなんぼ、なのだよ。こういう場合に、どれだけ平静を装って迅速に対応できるかが、己の政治的、身体的寿命を決める」
「殿下は、もうそのようなお立場ではないではありませんか」
「まあ、刷り込まれた癖は、抜けないということかな。倒れそうな時ほど、立っていたくなる」
「なんて因果な……」
ジョアンナはため息をつく。
「でも今回は、役得かな。あなたにこんなに心配してもらえるなんて」
「そのような……」
ジョアンナは返答に詰まった。
普段は口数の少ない方だが、大けがによる興奮状態が残っているのか、今夜の殿下は多弁だった。
「――もう、お休みくださいませ」
「侍医殿」
そこでふいに、殿下が目を開いて眉を寄せた。
「あなたこそ、どこか調子が悪いのでは」
「……え」
「先ほどから、ずっと呼吸が不安定だ」
これだから、体術の達人などは嫌なのだ、とジョアンナは思う。
この方たちは、下手な魔術師などよりもずっと、人の気配や変化を察知する術に長けている。
「そのような事は……」
「苦しそうだ。医者を呼ぼうか」
「いえ……」
思わずジョアンナは噴き出した。それから、抑えきれない嗚咽を漏らしてしまう。
「どうし……」
「殿下。急に起き上がってはいけません」
体を起こそうとするロイモンド殿下を、ジョアンナは慌てて押しとどめる。
「ジョアンナ殿。泣いて、おられるのか」
「……そうですね」
「何が……」
「殿下のせいですわ」
「私の?」
「……今日わたし、心臓が止まるかと思いました。殿下が襲われたと、知らせを聞いて……」
「……それは、すまなかった」
「いえ。……申し訳ありません。殿下に、八つ当たりなど」
「八つ当たり?」
「この涙は、ただ自分の不甲斐なさが情けないからですわ。私、動揺してしまって、なかなかまともに診察もできませんでした。今も……」
そう言って泣き笑いをしながら、ジョアンナは自分の震える手を差し出す。
「こうなるから、嫌なのです。特別な誰かを作ることなんて……」
「特別……」
殿下は口の中でつぶやき、何度も目を瞬いた。
「気のせいでなければ、私は今、とてつもなく嬉しい言葉を聞いたような気がする」
「……殿下。今の言葉はお忘れになって、とにかく今日は、早くお休みください」
「とても眠れそうにない気がする」
「殿下!」
ロイモンド殿下は、ジョアンナの震える手をそっと握る。
「ジョアンナ。明日も、来てくれるね」
「……それは、もちろん、私は、殿下の侍医ですもの」
うなずいて目を閉じたロイモンド殿下の子供のような無垢な寝顔を眺め、ああ、ついに私も捕まってしまった、と、ジョアンナは思った。




