29 チェックメイト(2)
「マクシム、気になることが」
魔術師連合の会合場所の程近く。特務部隊の主だったメンバーが詰めている小部屋で、ハンスが小声でマクシムにささやいた。
「何だ」
マクシムは、閉じていた目を上げて応える。今まさに、魔術師連合の総会では、マクシムとその同志の悲願とも言える、魔術師連合の暗部へのメスが入れられている最中である。
しかしハンスの声には、後回しにはできない切迫した響きがあった。
「――イーサちゃんがつけている魔石の信号が途絶えた」
「何だと」
マクシムが立ち上がる。
イーサがつけている魔石には、彼女が危険を感じると緊急の信号が発せられる魔術が仕込まれている。それ以外にも、継続的に緩やかな魔力の信号が発せられており、警護担当は、意識の裏では常にそれを感じながら自らの担当の時間を過ごしている。
ハンスは、一番手の警護の当番は外れているのだが、もともとが心配性な性格であることもあり、イーサが魔石をつけて以来、ほとんど常時、信号を確認し続けていた。
「どういうことだ」
「信号が遮断される環境にいるということだ。不可侵結界内なら考えられなくはないが、今日、一人で彼女がそんな結界内に入る状況がありえるのか……」
その時、部屋の隅でルカが立ち上がった。
「ハンス、マクシム、有事だ。近衛騎士団から緊急信号が発信されている。場所は王立植物園、対象者はロイモンド王子殿下。もう一人、女性が拘束されているようだ」
「!!」
3人は目を合わせると、ハンスが二人の手をつかむ。瞬時に、3人の姿は部屋から掻き消えた。
*
しわがれた声は、ぶつぶつと何かを唱え続けている。
それが何かの呪文なのか、精神が壊れたものの無意味なつぶやきなのかは、イーサには判断がつかなかった。
イーサは必死に、目まぐるしく頭の中を回転させる。
(さっき、あいつらは私に、ここでは魔術は使えないと言った。でもそれは、あいつらの知っている世界だけの話)
結界の中、イーサたちの周りには、精霊たちがぐるぐると飛び回っている。彼らが必死にイーサに呼びかけてくる気配を、イーサは感じ取っていた。精霊たちの魔力は、失われていない。
イーサは、ゆっくりと胸元に意識を集中させる。普段のイーサのおまじないは、たいていは言葉か動作のきっかけが必要だ。でも、体が動かない時専用の、おまじないがあった。
(“金縛りほどき”)
集中し、頭でその歌を思い出す。ゆっくりと、胸元から、全身に温かみが広がって来る。それが指先まで達した時、イーサはごく微かに、右手を動かした。
(動かせる)
歩き回る敵の魔術師たちの気配は、それほど近くではない。ただ、彼らの視線がどこを向いているのかは、イーサには確かめるすべはない。
胸の中で必死に祈りながら、イーサはじりじりと右手を動かした。
右手が、何かの布地に触れる。ロイモンド殿下の服だ。おそらく倒れた瞬間のまま、イーサと並んで横たわっているのだろう。
このまま何とか身体に触れて、殿下の状態を確認しなければ。
「こいつ、何をしている」
直後に、これまでとは違う、比較的若い声が叫んだ。
(しまった)
イーサは飛び起きる。
殿下の身体に自分の背中をつけつつ、声の聞こえた2方に向かって手をかざす。イーサの両てのひらから、青白い光が迸る。精霊の雷だ。
バリバリ、という音が響き、腰の曲がった老人と、太った壮年の男がのけぞった。
二人の動きが一瞬止まる。
「この」
もう一つの声の方向に、振り向きざまに雷を放つ。比較的若い細身の男は電撃を受け、前のめりに倒れかかるが、踏みとどまる。
(弱い。せめて失神させなければ)
人に攻撃をすることなど生まれて初めてで、どうしても手が震える。イーサが両手を構えなおした瞬間、シュイン、と音が響いた。
壮年の男から、何かの力が放たれる。
(しまった)
「女は殺すな!」
しわがれた声。
イーサをかすめ、背後の殿下の背中をその力が直撃した。殿下の身体がびくりとのけぞり、血の匂いが広がる。
(ああ……!!)
殿下の身体から、みるみる生命の気配が流れ出していくのが分かる。
(だめ、だめ……)
その時、周囲を飛び回っていた精霊たちの気配が変わった。イーサの体に、精霊たちの膨大な魔力が流れ込んでくる。
イーサは殿下に覆いかぶさり、触れている全身から魔力を注ぎ込んだ。
“金縛りほどき”と、“傷なおし”。同時にここまで大掛かりなまじないを行うのは初めてだったが、はっきりと手ごたえがあった。
その時。
「イーサ!!」
少し遠くから、聞きなれた声が聞こえた。
(マクシム!!)
同時に、ドン、バリバリ、ギュインといった複数の音がする。
「くそっ」
ハンスの焦った声。
「無駄だ」
しわがれた声は歪んだ愉悦の色を帯びていた。
「くそ、あいつら、3人のうち2人は結界師だ。俺たちではこの結界を破るのは無理だ!!」
「サリューを呼べ!」
「無理だ、あいつはいま北の国境だ。間に合わん!!」
ルカとマクシムが叫びあっているのが聞こえる。
イーサはロイモンド殿下の上に伏せたまま、魔力を注ぎ続ける。徐々に殿下の体に力が戻って来るのが分かった。
背後でシュイン、と音がする。
「イーサ!! 避けるんだ!!」
マクシムの叫び声。
ドンと、何かの衝撃が背中を襲う。でも、イーサの体にはかすりもしなかった。
「むうっ、なぜ風刃が効かぬ」
背後で冷酷な声が呻く。
イーサの目の前では、精霊たちが、恐ろしい勢いで膨れ上がり、イーサと殿下を覆いつくしている。魔術師たちの攻撃は、全て彼らが弾き返していた。
(もう少し)
その瞬間、イーサの頭に鋭い痛みが走り、視界が反転する。髪をつかまれ、引き倒されたのだ。そのまま、重い身体にのしかかられ、首に手をかけ締め上げられる。
「ぐっ」
イーサの視界に星が飛ぶ。
「イーサ、イーサ!!」
キーンという耳鳴りで、マクシムの叫び声が遠くなる。イーサの意識が暗闇に飲み込まれていく。
(――ああ、殿下。どうかご無事で。どうか、”傷なおし”が、間に合っていますように――)
刹那、
……ゴキッ
不気味な音が頭上で響いた。
同時に突然、呼吸が解放される。
イーサが息を吸い込む間もなく、間髪を入れずゴキッ、ゴキッと、不気味な音がもう二つ、二か所から響き、この世のものとは思えない悲鳴が響いた。
「下種が」
深いバリトンボイスのつぶやき。
ひゅうと、風が吹き抜ける音がする。
「イーサ!!」
「殿下!!」
直後にばらばらと、複数の足音が駆け寄ってくるのが聞こえた。
咳き込むイーサの周りを、ふわりとやわらかい感触が包む。薄く開けた瞼の向こうに、アッシュブロンドの髪が流れるのが見えた。
「イーサ……」
震える手が、イーサの首元に触れる。
イーサは、抱き起こしてくれたマクシムにすがり付き、何とか息を吸いこもうとする。
すると突然、イーサの頭に、どす黒い声が響き渡った。
⦅殺してやる――⦆⦅殺してやる!!⦆
必死に目を見開くと、イーサを抱きしめるマクシムの全身から、黒い炎の玉が湧き出しているのが見えた。
(いけない)
「やばい、ハンス、マクシムを止めろ」
ルカが叫ぶのが聞こえる。
イーサは必死に手を伸ばす。怒りに燃えた目を正面に向けていたマクシムの右のこめかみに、そっと触れた。
「――っ!」
マクシムが目を見開き、その目がイーサを見下ろす。
「だめよ、自分を、痛く、しちゃう……」
必死に紡がれるイーサの言葉に、一瞬マクシムは硬直した。
それからフッと息を吐き、全身の力を抜いて、イーサをしっかりと抱き寄せる。
「イーサ……」
荒い息を繰り返す、震えるマクシムの身体を抱き返しながら、ゆっくりと、イーサは意識を手放した。




