23 顔のない男と名前のない女(3)
2日後、王立植物園内のロイモンド王子が所有する庭園で、日の出から薄暮までの時間をかけ、イーサのアルミラへの治療は終わった。
横たわったアルミラの隣に座り、ひたすらに彼女の額に手をかざして、目を閉じ集中し続けていたイーサは、その瞬間パタリ、と手を落として背後に倒れかかった。
すかさず駆け寄ったマクシムはイーサを抱きとめると、横抱きにして顔をのぞき込む。
「イーサ」
「……たぶん、全部、とれました」
イーサはふにゃり、と微笑むと目を閉じる。マクシムは唇を噛み、イーサを抱えたまま立ち上がると、
「失礼する」
の一言を残し、瞬時にその場から掻き消えた。
ジョアンナとアルミラをその場に残されたロイモンドはあっけにとられる。
「呼吸、脈拍、体温……体の状態は、悪くないわね。あとは、目を覚ますのを待って意識状態の確認をして、その後はしばらく経過を見ましょう」
消えたマクシムを気にする様子もなく、てきぱきとアルミラの診察を終えたジョアンナは、おもむろにアルミラを横抱きに抱え上げた。
「え、特例侍医殿……」
ロイモンドは再びあっけにとられる。
「……何か?」
アルミラを抱えたまま、ジョアンナはすたすたと歩き出しながら答える。その揺るぎのない足取りに、ロイモンドの困惑はますます強まった。
「その、重くはないですか。私が代わろう」
「そんな。殿下のお手は煩わせられませんわ」
ジョアンナは振り返りもせずに答える。
「いやその、流石にそれは……」
「大丈夫ですわ。鍛えておりますので」
ジョアンナの声には笑いが混じる。
ロイモンドはあわてて手を叩く。途端に複数の侍従が、庭の外から二人に駆け寄って来た。
「この女性を馬車までお運びしろ」
「……まあ、お気遣いを……」
侍従たちにアルミラを抱え渡しながら、ジョアンナは心底申し訳なさそうにつぶやく。
ロイモンドは、額に汗をにじませて、目の前の線の細い女性を眺めた。
庭に多くの人間を入れたくない自分の要望で、治療には最低限の人間しか立ち会っていなかった。治療者のイーサ、患者のアルミラ以外には、ジョアンナが緊急対応の医師として待機し、マクシムが記録係兼立会人。そして、見学者の自分のみ。
全てを取り仕切るはずのマクシムが突然立ち消えたのにも驚いたが、ジョアンナがそれに全く動じず、その後の処理を全て一人でこなそうとしたことに、ロイモンドは驚愕していた。
「一体マクシムは何を……」
「彼がああなるのは予想していました。殿下にもお判りでしょうけれど、彼はああいう気性なのです。むしろ予想通りでほっとしましたわ。私に後を任せられると思ってもらえたようですから」
ジョアンナはクックッと笑っている。
「どうして助手の増員を申し出てくれなかった……」
「あら、私一人で、何も足りないことはありませんでしたでしょう。……殿下。大切なお庭に、4人もの外の者をお入れ下さり、本当にありがとうございました。マクシムは今日中には、お礼とお詫びに戻って参りますわ、……多分」
再び微かに思い出し笑いをして、ジョアンナは優雅に一礼すると、そのまま立ち去ろうとする。
「その、君たちにはそれが、普通なのか」
「普通、とは?」
思わずつぶやいたロイモンドの言葉に、怪訝な顔で、ジョアンナが振り返る。
「女性一人にこのような、……力仕事をさせることだ」
「まあ」
ジョアンナはこらえきれないように噴き出した。
「殿下。医師と言うのは、多分に体力仕事なのですよ。それに私は、警備団特務部隊では平均程度の筋力は持っております。体を鍛えるのが、趣味なので……」
ロイモンドはもう一度あっけにとられて、その王宮でも稀な美貌の女性を見つめた。
「それに、特務部隊の任務は、基本は皆、一人ですわ。それぞれが、常に自律的に為すべきことを為す。これが、発足当時からの部隊の方針です。いわゆる軍人とは、私たちは違うのです」
淡く微笑んで礼をとると、ジョアンナは今度こそ、足早にロイモンドの庭を出て行く。
ロイモンドは立ち尽くしたまま、その美しい後姿を見つめていた。
*
「……アルミラ様」
ぼんやりと目を開けた先には、懐かしい漆黒の瞳があった。
「アルミラさん、目が覚めた? どこか苦しいところはない?」
穏やかな女性の声がして、アルミラの瞳に光が当たる。それから、目を閉じて、だの、舌を出して、だのと指示されながら、素早く全身に温かい手が触れて行った。
ひととおりの指示が終わると、そっと抱き起され、ほんのりと温かい水が、口元にあてがわれる。アルミラは子供のように喉を鳴らして、夢中でそれを飲み干した。
「……落ち着いているみたいね。私は別室にいるから、何かあったら呼び鈴を鳴らして頂戴」
軽い足音がドアの向こうに消えていき、部屋には静寂が満ちる。
アルミラは深く息をつく。
自分の身の内にも、静謐が満ちている。あの耐えがたい焦燥感や、皮膚を虫が這いまわるような違和感が、きれいさっぱり消えていた。
目の前にあるのは、知らない天井だった。ランプの明かりだろう、部屋の片隅から届いた温かい光がその天井にゆらゆらと影を作っている。
手のひらに触れる寝具はさらりとした感触で、清潔に洗い清められているのがよく分かる。
「……アルミラ様」
ふいに右手のそばから、懐かしい声が響く。それだけで、アルミラの胸が疼いた。
「サリュー……」
「……良かった」
彼の声ははっきりと震えていて、アルミラの胸の痛みははますますひどくなる。
「サリュー、ごめんなさい。ひどいこと、言って……」
「そんなことはいいんです」
アルミラはそっと、声の方に右手を伸ばす。その手は温かく大きな男の手に包まれ、手の甲に柔らかい感触が触れた。
やがて手の甲に押し付けられていた唇が離れると、サリューの低く抑えた声が聞こえた。
「もう一度おそばであなたをお守りすることを、許していただけますか」
「許す、なんて……」
アルミラは目を閉じる。
「サリュー。薬の呪縛が解けたとしても、私はもう、誰かに守ってもらえるような、人間ではないの。一度落とし穴に落ちてしまった者は、もう二度と、戻っては来れないのよ」
アルミラがそっと引こうとした手は、しかし男の優しくがしりとした手で、その動きを阻まれた。
「いや、あなたは何も、変わっていない。踊りや笛が天女のように上手で、嘘が下手で――」
アルミラの手の甲に、サリューの額が押し付けられる。
「寂しがり屋のくせに強がりな、――俺の、主だ」
彼女の手に、彼の柔らかい髪が触れる。
この髪。
「……いつも、思い出していたの。あなたの、この、髪……」
柔らかくて少し癖のある髪。呼べばいつでも応えてくれた、低くて少しかすれた声。振り向けばいつも優しく光っていた、漆黒の瞳。
どんな夜でも、恋しかった。
アルミラの目には、こらえきれない涙があふれ出す。
「もう私は王女でも、あなたの主人でもないのに、ね……」
アルミラの手が、サリューの手をそっと握った。サリューが息を飲む気配がする。
「サリュー。隣に、来て。――ぎゅうっと、してくれる?」
「……っ」
少しの間の後、ぎしり、と、ベッドの右側に人の重みがかかった。おずおずと、サリューがアルミラの隣に横たわる。そして掛け布の上から、力強い腕が、彼女をそっと抱きしめた。
「サリュー。……こんな私でも、そばに、いて、くれる……?」
「アルミラ……」
サリューの腕に力がこもる。
その胸に顔を押し付けて、アルミラは静かに身を震わせて泣いた。
それは二人がそれぞれに歩んできた日々の中で、疑いようもなく、最も甘く温かい涙だった。




