20 野音堂
野音堂は、夏の濃い緑の香りに包まれていた。
すり鉢状に組まれた石段の席を、笑いさざめく人々が、思い思いに陣取っている。
イーサとマクシムは、舞台から見て右後方、すり鉢の上方の席で、夕暮れと共に徐々に増えていく観客を眺めながら、開演を待っていた。
「私、音楽劇を見るのは、初めてです」
「そう。俺も、この会場は初めてだよ。劇も新作の初演だから、楽しみだ」
この野音堂は、都でも大きな公園の中にある。庶民的な歌劇などが良く演じられる、気取らない場所だった。周囲の人たちも、気楽な服装の男女や家族連れが多い。
「今日の演目は、『月の王と白銀の騎士』ですね」
「そう、精霊と人との間に生まれた二人の、恋の物語だね」
「私の大好きなお話です」
「それは良かった」
マクシムは、目を細めてイーサを見つめ、それから舞台へと目をやった。
「人と精霊が、種としての交わりを持っていた、と言われているのは、今では神の時代と言われる大昔だ」
マクシムさんはゆっくりとイーサを振り向く。
「今この国で、魔力を持つ人間には、神の時代に人と交わった精霊の血が流れている。力の強い魔術師ほど、見た目が美しいと言われるのも、おそらくその精霊の血の濃さを反映している。かつては、その血は今とは比べ物にならないほど濃く、人間でも想像を絶する強大な力を持つ者がいた。『魔王』と呼ばれる存在ですら、人から生まれたこともあるほどだ」
マクシムさんの語り口は語り部のそれで、イーサは思わず生徒のように耳を傾ける。
「時代が下り、古の時代と呼ばれる頃には、人と精霊は、契約を介しての繋がりを持つのみとなった。使い魔、式獣、ときには竜を従える魔術師もいたと言われる。――そしておそらく、君が操る魔術も、この時代に何らかの理由で主流から外れ、ひっそりと受け継がれてきたものだ」
イーサはゆっくりとうなずく。
「君の魔術を傍で見ていると、そこに俺は、本来の魔術のあるべき姿が見える気がする。素朴で直感的で、そしておそらく、人が侵してはいけない領域を、誠実に守っている」
マクシムさんの声が、ほんの少し苦くなる。
「人と精霊との交わりが失われた以上、時代と共にその血が薄まり魔術師が力を失っていくのは必然だ。俺たちの学んだ、正統とされる魔術は、その技術は洗練され高度化していくと同時に、宿命ともいえる魔力の低下にさらされ、徐々に変質し本来の姿を忘れて行っている……」
そこで彼の言葉は途切れた。
「すまない、つい固い話を。――そろそろ、開演のようだ」
*
舞台がはねた後も、イーサは、その場に呆然と座っていた。
マクシムはそんなイーサの横顔をしばらく眺めてから、そのまま黙って、人の消えた舞台に目をやる。徐々に観客席からは人が減り、わずかに数人を残すのみとなっていた。
すっかり日の落ちた野音堂は、かがり火が落とされ、月明かりのみが白い石段を照らし出している。
「マクシム」
背後から聞きなれた声がかかる。
「サリューか」
「今夜はこれで俺は護衛を外させてもらってもいいだろうか」
(珍しいな)
サリューが、護衛の当番の日に中座をすることは、これまで経験がなかった。
「分かった。どのみち彼女は送っていくから問題ない。今晩は信号は俺が受ける。……いつもありがとう」
「すまない」
サリューの声にわずかに引っかかりを感じたが、マクシムは隣のイーサの様子の方が気がかりだった。
「イーサさん、大丈夫?」
そっと声をかけると、彼女は我に返ったようにマクシムを振り向く。
「すみません。ぼうっとしてしまって。音楽って、凄いですね。まだ体の中で、何かが響いているような気がします」
「……楽しかった?」
「ええ、本当にとっても」
「ここは周りに木が多いけれど、音楽が響いたときには木の人も聞きに来たりするのだろうか」
「ええ、ふふ。みんなくるくる、踊っていました。それもとてもかわいくて……」
「そうか。見えたら本当に、楽しそうだな……」
マクシムは、手のひらからふわりと空中に光球を浮かべた。
「――帰ろうか」
「――マクシムさん」
イーサの声音に、マクシムは動きを止める。
「リンゴ畑で言ってくださったこと、ずっとお返事していなくて、すいません」
「ああ……」
マクシムは思わずごくりと喉を鳴らした。
「その、私、色々考えてしまって……」
「無理しなくていい。君の負担になるつもりはなかったんだ。同じ職場の上司なんて立場で、考えなしに――」
「でも、今日、分かりました。今日の音楽が特別綺麗に聞こえたのも、あの日のリンゴの花が特別に綺麗に見えたのも、きっとマクシムさんが一緒にいてくれたからだって」
「……」
「私がマクシムさんと一緒にいても、マクシムさんにはいいことはないんじゃないかと思っていました。でも、私が隣にいたら、マクシムさんも世界が綺麗に見えるなら、それだけでも、良いのかもしれないって……」
「それは、俺と付き合ってくれるってこと?」
「はい」
「俺のこと、好きになってくれたって、思っていいのかな」
「はい、それは、ずっと前から……」
その時、マクシムの全身から、ぶわりと無数の透明な泡が湧き出した。それは浮いていた光球の光を反射し、キラキラと光を帯びながら二人の周りを漂う。
「わあ……」
「それに触らないで!」
⦅パンパカパーン!!⦆
マクシムの悲鳴のような声と、イーサの脳裏にラッパのような音が響き渡ったのはほぼ同時だった。
「え」
「……っ」
マクシムはうつむいて右手で顔を覆っている。彼のかざした左手に、漂う泡は次々に吸い寄せられ、はじけて消えていった。
やがて彼はゆっくりと顔を上げた。
「……今の、聞こえた?」
「はい、何か、ラッパのような音が……」
「……はあ……」
マクシムは両手で頭を抱えて屈みこんだ。
「あの、マクシムさん……」
「だめだ。猛烈に恥ずかしい」
はあ、ともう一度ため息をつき、マクシムは体を起こす。
「ごめん、びっくりさせた。あれは、『感情球』と言うものなんだ」
「かんじょうきゅう……」
「俺の感情が極端に高ぶった時に、外側にああいう形で漏れ出すんだ。8歳から、君に初めて会った日までの17年間は、完全に抑え込めていたんだが」
「あの時の……」
イーサは、彼と出会った日、自分に触れると必死に謝って消えていったふわふわを思い出す。
「触ると、音になって俺の感情が聞こえてしまう。……その、お願いなんだが、これから、万一またあれが出てしまった時は、できれば、なるべく触らないようにしてくれないだろうか。とにかく恥ずかしいんだ。――君といると、もしかしたら結構出てしまうかもしれない、気がする……」
「……はい」
なぜかこちらまで気恥ずかしくなり、イーサは真っ赤になって返答する。
「……嫌になった?」
「ならないです……」
脳裏に響き渡ったラッパの音を思い出し、イーサの口はへの字に曲がる。
「お願いだから、笑わないで」
「笑ってないです……」
ぐぐう、と喉からへんな音が出てしまい、イーサはもう耐えられなかった。
「いやもういっそ笑ってくれ」
「う、ふふ。マクシムさん、私とっても、幸せです」
「……うあ、駄目だ……」
マクシムからもう一度泡が漏れ出し、それは彼に抱きつこうとしていたイーサを直撃した。
⦅ああ、幸せだ⦆
その声がイーサの脳裏に響いた時には、彼女はもう、マクシムの胸に飛び込んでいた。




