2 掃除係のイーサ
やってしまった。
どうしようどうしよう。
イーサは息を弾ませながら、階段を駆け上がっていた。
あの部屋を出てから、もう2時間以上は経っている。手遅れかもしれない。でも、あの部屋の主はきまぐれで、一日二日は全く部屋を使わないこともある。
今日が、運よくその日に当たっていれば。
そんな一縷の望みは、たどり着いたドアの前で打ち砕かれた。ドアに下がったプレートの文字は、赤色。『在室』の意味だ。
はあはあと肩で息をしながら、イーサはドアの前に立ち尽くす。
その時ふいに、ドアが音もなく開き、イーサはびくりと肩を揺らした。
「……入りなよ」
しばらく逡巡していたが、室内から響いた声に、観念する。
おそるおそる室内に足を踏み入れると、ドアが背後で音もなく閉まった。
入って正面、部屋の奥にある窓の前に、壁にもたれて長身の人物が立っていた。真昼の強い太陽の光を背に受け、その姿はシルエットとなり、表情はうかがえない。
しかし、その手元にはっきりと赤い色彩を認め、イーサは絶望に目を閉じる。
この部屋の主は、魔術師だと聞いていた。あのリンゴがただのリンゴでないことは、お見通しだろう。
「これ、君のかな」
「……はい」
目を閉じたまま答えると、シャク、と音がして、ふいにリンゴの香りが強くなる。
驚いて目を開ければ、目の前の人物が、手元のリンゴにかじりついていた。
「……嘘……」
「ん、おいしい。見た目も味も、もぎたての状態のままなんだろうね。強さはそれほどではないけど、ものすごい技量の時空間まじゅ……」
咀嚼し終えて上機嫌な声で話し出した男の声が、そこでふいに途切れた。
「う、ううっ……」
イーサの頭は真っ白だった。自分の口から、声が漏れだすのが聞こえる。かじられたリンゴの、いびつに変わったシルエット。喉元に熱い塊がこみ上げ、視界がぐにゃりと歪む。我に返って押しとどめる間もなく、涙は次々にボロボロとあふれて頬を伝っていく。
一口かじったリンゴを手に、男は薄く口を開いたまま固まっている。
しんとした部屋にはイーサのか細い嗚咽だけが響きつづける。
その時ふいにガチャリと背後でドアの開く音がし、同時に明るい声が響いた。
「マクシム、おかえり。この砦の……え」
「……ドアを閉めろ」
窓の前の男の呻くような声と同時に、背後からドアが閉まる軽い音と、そこからイーサに駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「……女の子!? ……え、え、泣いて……」
優しく肩に手が乗せられ、顔をのぞき込まれる気配がする。ふわりと、明るい茶色の髪が揺れるのが見えた。
何とか泣き止まねばと思うけれど、一度あふれた涙はそう簡単には止まってはくれない。食いしばった歯の間から、切れ切れに漏れる嗚咽を止めることもできなかった。
「おい、マクシムおまえ、何やらかして……」
「いや、その、このリンゴが、いや、リンゴを……」
「リンゴ? ……落ち着けって。どうしちゃったのお前」
肩に乗せられていた手が、軽くポンポンと叩かれ、イーサはいつの間にか誘導されていたソファに座らされていた。
「ちょっと待っててね。まずあいつの頭、冷やさせるから」
そっと手にハンカチが握らされ、肩の手が離れる。ささやかれた声の優しい響きに、さらに泣けてきてしまう。ぎゅうっと目を閉じ自分の肩を抱え込んで、イーサは深呼吸を繰り返す。自分はいったい何をやっているのだろう。とにかく、一刻も早く泣き止まなくては。
「……おいマクシム、その良くわかんないうにゃうにゃを消せ。とりあえず、茶でも飲もうぜ、な?」
少し遠くで、呆れたような声が聞こえる。目を開けて顔を上げ、イーサは思わず息を飲んだ。目の前には、綿毛のような白くふわふわとした物体が、部屋を埋め尽くさんばかりに大量に漂っていた。それはイーサに触れると『ごめんなさい、ごめんなさい』とささやきながらふわりと消えていく。
驚きのあまり、彼女の涙はすぐに引っ込んだ。
*
「……本当に、申し訳なかった」
目の前の人のあまりの萎れっぷりに、イーサはなんだか自分がいじめっ子にでもなった気分になる。
「いえ。こちらこそ、すみません。もとはと言えば、私が置き忘れたのが悪かったんです。子供みたいに泣いてしまって。……お恥ずかしいです」
イーサがこの部屋に置き忘れたリンゴ。それは、彼女の家族の形見だった。
イーサは北の貧しい農村で生まれ育った。実家は、リンゴづくりを生業にしていた。
2年前、イーサが15歳の時、彼女は家族のために現金収入を求めて、ごく短期の出稼ぎに出た。その時ちょうど村近くの国境で小競り合いがあり、王国警備団の部隊が派遣されていた。その駐屯地での雑用をこなす仕事で、ほんの数日の、割のいい仕事のはずだった。
でも、その戦いの最中、イーサの村は焼き打ちされ、村人はほとんどが火に巻かれて死んだ。イーサの家族も、一人も助からなかった。イーサは駐屯地にいたおかげで無事で済んだが、家も畑も、何もかもが無くなってしまった。
イーサが村から持って出ていたのは、両親が持たせてくれた、リンゴだけ。袋いっぱいだったそれは、その時たった一つになっていた。
戦が終わり警備団が都に引き上げる時、イーサのまじめな働きぶりと家の事情を知った司令官から同行許可が下りた。イーサは都に移り、王国警備団の掃除人として雇われたのだった。
「俺の子供じみた好奇心で、取り返しのつかないことをしてしまった。このリンゴにかけられた時空間魔術が見たことのない成り立ちをしていて、つい、破ってみたくなってしまったんだ。少し考えれば、リンゴに時を止める術を施すなど、何か特別な事情があるのが分かりそうなものなのに……」
「……もういいんです」
地にめり込むほど落ち込んだ様子の長身の男、マクシムに、イーサはいっそ晴れ晴れとした笑顔を見せる。
「形あるものはいつか壊れるし、生き物はいずれ死ぬのが当たり前の理です。それを留めようとした、私の方が間違っていたんです」
それはイーサの本心だった。リンゴをあのまま持ち続けていたら、あの愛しいかわいらしい果物は、いずれ自分や他人の思慕や怨嗟が絡みついた、何か恐ろしいものになり果てたかもしれない。
「リンゴにかけたおまじないは、本当は、ひと冬以上の長さで使ってはいけないと教えられていました。もしかしたら、天の神様が、道を誤りそうになった私を叱ってくださったのかもしれませんね」
わざとおどけた口調で話すと、まるでそれが本当のことのように思えて、イーサの胸は少し軽くなる。
「……」
マクシムは顔を上げ、イーサをじっと見つめた。
「リンゴに術をかけたのは、君なのか」
「……? はい。村の女衆なら誰でも使える、簡単なおまじないです。食べ物が傷まないように、良く使っていました」
「なるほど。その”まじない”は、解くやりかたもあるのかな」
「……はい……」
「そうか」
深く息をつき、マクシムは天井を見上げる。
そのまま天井をにらみ黙り込んだ同僚を横目で眺め、明るい茶色の髪の青年、ハンスは胸の内でため息をつく。
「あのリンゴはいつも持ち歩いていたの」
「いえ。どうしてかは分からないんですが、宿舎に置いていたはずのリンゴが、このお部屋で床磨きをしようとしたら、急に目の前に転がり出てきて」
「へえ……」
「あの、私、おとがめは覚悟しています。残りのお給金もいりませんしすぐに出て行きます。ですから……」
「出て行く必要はない」
ふいに言葉と共にマクシムの視線が戻り、真っ直ぐに彼女を射抜いた。ひた、と動かない眼差しにわずかに恐怖を覚え、イーサの身体が強張る。
「マクシム、その眼付き、やめろって。いつも言ってるだろ、お前にジーっとみられるの、慣れない人間には、だいぶ怖いんだぞ……」
すかさず、ハンスの助け舟が入る。途端にマクシムはまばたきをし、きまり悪げに視線を逸らせた。
「ああ、すまない。悪い癖で」
幾分眼光を和らげ、しかし結局、マクシムはイーサの目を正面からのぞき込んで言葉をつないだ。
「君に提案がある。ここ『王国警備団特務部隊 技術開発班』の、臨時研究員になることを、考えてはもらえないだろうか。待遇は保証する」