18 サリューの主
故郷からの帰り道、イーサはサリューにねだって、"日の出の特等席"に立ち寄っていた。
山の峰の岩場からの朝日はやはり美しく力強く、イーサの背中を押してくれる。
膝を抱えて日の出を眺めながら、イーサはぽつりとつぶやく。
「サリューさん……リンゴ畑で、私たちの話、聞かれてました?」
「……悪いな、初めだけだ」
「いいんです。……私、どうしたらいいと思いますか?」
「それは自分で決めるんだな。俺が言えることがあるとすれば、魔術師ってやつは厄介な性分で、一人しか、本物の主は持てない」
「主」
「自分を捧げる相手だ。ほとんどの奴はそんなものはなしで生涯を終える。でも、幸か不幸か主を持つとしたら、それは一生で一人だけだ」
「一生で一人……」
「あいつは簡単に人を好きになれる奴じゃない。まあ、そんなところだ」
「……サリューさんにも、主がいらっしゃるんですね」
「どうしてそう思う」
「どうしてもです」
彼が一人でこの場所を見つけて、大事に覚えているのだとしたら、それはきっと、忘れられない人がいるからだ。
「敵わんな。……でもまあ、大分、それに疲れていた。そんなときにお前たちに出会って、何か知らんが、生きることが面白くなった」
「……私も、サリューさんにお会いできて、良かったです……」
二人は黙って、輝きを増していく朝日を眺め続ける。
*
俺には初めから、親も、名前すらもなかった。
覚えている限りの一番古い記憶は、大きくてごつごつと硬い手に、右の手首をつかまれて引かれていく光景だ。自分は裸で、吹きすさぶ寒風に体中がちぎれるほどに痛かった。
そこから先は、少しずつ景色は違えどほとんど同じ記憶の繰り返しだ。ひもじい、寒い、痛い、苦しい。
どうして気が狂ってしまわなかったのかは、今でもわからない。いや、もしかしたら初めから、俺は狂っていたのかもしれない。
生き物と言うのは、ぎりぎりまで追い込まれた時に、生き延びるために異様な力を発揮する。俺たちは、そうして繰り返し無理矢理に自分の力を引き出され、覚え込まされていった。
周りでは、たくさんの子供が連れてこられては死んだ。俺よりも、はるかに体格が良く強そうに見えた子供も、どんな魔術でもうまかった子供も、たった一回の失敗で死んで行った。
俺は生き延びた。
名前もないまま、組織に連れて来られて10年が経っていた。
その人に初めて会ったのは、夏の終わりの夜の庭だった。
「どうしてそんなところに座っているの」
薄暗がりの縁側で、美しい緑色の瞳がこちらを向いて、彼女の唇がそう言葉を発した時、俺は庭のすみの闇の中、驚きで硬直した。
庭番が対象者、しかも年端もいかない子供に看破された。
やっと死と隣り合わせの修業期間を終えて、一人で護衛を任されるほどになった。自分は、無意識に浮かれていたのかもしれない。
俺は、不始末の罰としての死を覚悟した。
どうせ死ぬ、と思えば、怖いものなどない。
「どうしてって……あなたを、お守りするためですよ」
俺は、あどけない表情で俺を見つめ続けている少女に応える。
目の前の少女はアルミラ王女、8歳。遠方の小国から嫁いで来た第2王妃の一人娘で、この時、母を亡くしたばかりだった。
後見人もなく、母と政略結婚であった父からも関心を持たれず、彼女は王宮の敷地の片隅に小さな別邸を与えられ、ひっそりとそこで暮らしていた。外出は許されず、訪う者もない。数人の侍女と教育係以外とは、誰とも接することのない日々。
俺は、王宮の『影の警護人』の一員として、その別邸の護衛を命じられていた。王女には、名もないたった一人の護衛しか、つけられてはいなかった。
「そんなところで、守っていただかなくても結構よ。私を狙う者など、いるはずはないのだから」
8歳とは思えない、大人びた口調だった。
「あなた、お名前は」
「……ありません」
彼女は軽く首をかしげる。
「それではお友達になれないわね」
「友達」
聞きなれない単語に俺は顔をしかめる。
「そう。お友達になるときには、名前を交わして小指を結ぶのよ」
彼女は無邪気に、右手の小指を差し出した。
「私が名前を、つけてあげる。……サリュー、でどうかしら」
「サリュー……」
その瞬間、俺の中で何かがバチンと弾ける音がした。俺の手足は軽くなり、代わりに、胸に重い枷がはまった。
こうして、彼女は俺の主になった。
彼女は聡く美しい少女だった。いずれ政略結婚の駒となるための教育を幼いころから施され、大陸の主だった複数の言語を操り、たくさんの物語を知っていた。俺は彼女の声に乗って、遠い砂漠を渡り、西の不思議な国々の人々の暮らしを知った。
彼女は巧みに楽器を奏で、美しく舞を舞った。
俺は彼女が、月の光の下で舞う姿を見るのが好きだった。その姿は羽根をもがれた天女のようで、俺の胸をいつも甘い痛みで満たした。
それでも彼女にも苦手なものはあった。カードゲームでは、彼女は俺に一度も勝てなかった。いつでも、最後に残った正解のカードを俺が彼女の手から引き抜くと、彼女は地団太を踏んで悔しがった。
華やかな王宮の一角の、ひっそりと忘れ去られた小さな屋敷で、そうしてゆっくりと、俺たちの時間は過ぎて行った。
彼女が13歳の春、嫁ぎ先が決まった。彼女は血筋を買われ、砂の森の向こう側、遥か遠いザランド王国の、親よりも年の離れた王族に第4妃として嫁ぐこととなった。
俺は、密かにその王族の評判を調べて絶望した。彼女に幸福な未来が待っていようとは思われなかった。
出立の朝、彼女は初めて会った時と同じ、庭に面した縁側に一人、ぽつりと立っていた。
そして曙の光の中、彼女は初めて、自分の足で庭に降りた。俺は彼女に招かれ、彼女のそばにひざまずいた。
「お別れを」
ぽつりと彼女が言った。
それから、彼女の手が出会ってから初めて、さらりと俺の頭に触れた。
うつむいたまま、俺は歯を食いしばる。
「もしも、もしも貴方様がお望みになるならば、私は、……地の果てであろうと、何処へでも、貴方様をお連れ致します」
彼女と出会って5年。俺は、他の誰にもできないくらい空を高く長く飛ぶことも、素早く刃を操ることもできるようになっていた。いつかここから、彼女を連れ出してやりたい、そのためだけに、俺は以前にもまして過酷な修練を続けてきた。
彼女はしばらく、黙って俺の髪をなでていた。それから、いつのも静かな、鈴の音のような彼女の声が聞こえた。
「思っていたより、ずいぶん柔らかいのね。……ごめんなさいね。一度、触ってみたかったの、あなたの髪。……初めて会った時から。……ねえ、私たちが初めて会ったときのこと、覚えている?」
「……っ」
忘れると、忘れられると、この方は思っていらっしゃるのだろうか。
「ねえ、サリュー。あなたが今、私に言ってくれたこと、私、忘れないわ。……私は、自分に与えられた義務を果たします。ザランド王国に嫁ぎ、その役割を全ういたします。あなたの言葉を支えに、王女の、誇りを、忘れずに」
「自分も、お供を」
「許しません」
彼女の声は揺ぎ無く、凛と響いた。
「サリュー。これまでありがとう。幼いころより未熟な私に尽くして下さったあなたに、何も報いてあげることができなかったこと、許してね。……サリュー。私からの、最後のお願いよ。……絶対に、命を無駄にしないでください。この先何があろうとも、絶対に、絶望しないで。生きるために努力し続けることを、手放さないで……」
俺はただ、うつむいたまま、彼女の指が俺の髪を撫で続けるのを感じていた。
あの日の夜明け程、美しい朝を俺は知らない。
ザランド王国に向けて発って行った彼女の一行は、砂の森の途中で消息を絶った。
送り出された彼女の警護は驚くほど手薄だった。彼女の祖国は、あわよくば彼女が無事にザランド王国へたどり着かないことを狙っていたのだ。
おそらく、彼女はそれを知っていた。
俺はただ、彼女の最後の命を果たすために生き続けている。
逃亡しこの国に流れ、顔のない男として多くの人間を殺め、傷つけて来た。
彼女の許へ行きたいと思わない日はなかったが、俺は彼女の命を違えることはできない。
魔術師は生涯でただ一人しか、主を持たない。
俺の主は、今でも彼女ただ一人だ。