17 リンゴ畑のセレナーデ
「エルザおばさん!」
「……イーサちゃん!?」
イーサが道案内をして、馬車がたどり着いたのは、村の跡から馬車で30分ほどの民家だった。
農家らしい、横に広い造りの家の軒先で、頬かむりをした女性がこちらに背を向けて屈んで、何かの野菜を洗っていた。
馬車が家の前に差し掛かると、馬が足を止めるのももどかしく、イーサは御者台を降りてその女性へと駆け寄る。
振り向いた女性は目を丸くして、抱きついてくるイーサを受け止めた。
「まあまあまあ、すっかり綺麗になって。……戻ってきたの?」
「ううん。お墓参りに来たの」
「……そうかあ。もう行ってきた?」
「うん。……ありがと、おばさんでしょ、石をきれいにしてくれてるの」
「ああ、うん、時々ね。しばらくは天気が良かったから、石もきれいだったかねえ。……良かったねえ」
二人は手を握り合いながら、懐かしそうに話をしている。
そこでイーサははっとして、少し離れて二人を見守っているマクシムを振り向いた。
「おばさん、あの人は、マクシムさん。今の私の仕事場の、偉い人なの。今日は、用事があったから一緒に来てくれたのよ」
マクシムが軽く会釈をする。
「そうなの。……なんかえらく綺麗な人だねえ。ちょっと怖いくらいだよ」
会釈を返しながら、エルザおばさんはひそひそ声で言う。
「そうなのよね。でも、いい人よ。――それよりおばさん、畑を見せてもらってもいい? あの人、今日お帰りになるんだけど、今の季節のリンゴ畑をお見せしたいのよ」
「ああ、それはもちろん、構わないよ。――うちらが唯一自慢できる景色だからねえ」
「ありがとう!」
イーサはマクシムのもとへ駆け戻ると、彼の手を引いて早足で歩き出した。
「イーサちゃんもすぐ帰るのかい? 泊って行ったら?」
背中におばさんの声がかかる。
「うーん、馬車だから」
「馬車は俺が宿に留め置くように手配しよう。明日は宿までサリューに運んでもらえばいい」
マクシムがイーサにささやく。
「――ありがとうございます。――おばさーん、やっぱり泊めて!」
「分かったよ。準備しておくね」
イーサはひらひらと手を振りながら、早足で小道を進んでいく。
やがて、眼前に、一面に薄桃色の色彩が広がってきた。
「これは……すごいな」
「これが、リンゴの花です」
それは圧倒されるような光景だった。
見渡す視界いっぱいに、延々とリンゴ畑が広がっている。ちょうど目線の高さのその木々は、枝一杯に白い花を咲かせていた。
まるで白と桃色の海原のようだ、マクシムはため息をつく。
「リンゴの花は白くて、つぼみがピンク色なんです。かわいいでしょう。ちょうど花の咲いている時期に来られるかは賭けでしたけれど、ぴったりでした。私が一年で一番好きなリンゴ畑の眺めです」
「……本当に美しい」
「リンゴを作っていたころは、この季節は嬉しいけどあわただしい季節でした。美味しいリンゴを成らせるために、摘花と言って花を摘んだり、種類によっては人の手で受粉をさせたり、一家総出で……」
そこで、イーサの声が詰まる。
すう、と息を吸いなおして、イーサは言葉を続けた。
花盛りのリンゴ畑を見つめながら、ひたすらにリンゴ農家の生活について語っていくイーサの背中を、マクシムは黙って見つめる。
この地に来てから、イーサは一度も泣いていない。自分の肩を抱き込んだ背中は細い棒のようで、触れればぽきりと折れてしまいそうに見えた。
午後の日は徐々に傾き、風には少しずつ冷たさが混じり始める。
頑なに前を向いて話し続けるイーサの体を、ふわりと温もりが包み込んだ。
「寒いだろう」
耳元で、マクシムさんの声が響く。
イーサは息を飲み、黙り込んだ。
「寒いのも痛いのも、一人で我慢しない方がいい。君が教えてくれたことだろう?」
イーサを後ろから抱きしめながら、マクシムさんの手が、イーサの冷えた両手を包み込んだ。
「イーサ、今の君は、一人じゃない。俺たち仲間がいつでも、側にいる。寂しい時は隣にいるし、痛いときには、そこに手を当てよう。君がしてくれたように」
背中から響くマクシムさんの声は、低くて優しい。
ずっとこらえていたものが堰を切ってあふれ出しそうになり、イーサは奥歯をかみしめる。
「でも、もう泣かないって、決めたんです。ただ、苦しく、なるだけだから」
「……そうか」
マクシムさんの声が、温かすぎる。イーサの頬を、一筋涙が伝う。
「お願いです、何でもいいです、何か、何か話してください」
何とか泣き出すまいと、イーサはマクシムさんの腕に縋りつく。
「何でも、か……」
イーサの耳元で、マクシムさんが軽く息を吸った。
「……君が好きだよ、イーサ」
あまりの不意打ちに、溢れかけていた涙も、イーサ自身も、凍りついたように固まってしまう。
「今は返事はいらないよ。――もう少し、こうしてリンゴの花を見ていよう。都に戻っても、ずっと忘れないでいられるように……」
日はますます傾き、夕暮れの光に、花をつけたリンゴの木は徐々にシルエットになって行く。二人は寄り添い合ったまま、そのみるみる変わりゆく光景を、いつまでも黙って見つめていた。
*
(いやー、抱きしめといて俺たちって言いだした時には、どうなることかと思ったけど、意外とやるもんだな、あいつ)
あわてて耳を閉じながら、リンゴ畑から少し離れた木の枝の上で、サリューはひとり、息をつく。
(――いい夜だ)
頭上に輝き出した宵の明星を見上げながら、その唇には、こらえきれない笑みが浮かんでいた。