11 それぞれの夜
「今日は、いろんなことがあったねえ」
宿舎の部屋の窓辺で、十三夜月を見上げながら、イーサはぽつりとつぶやく。
鉢の中で、雫石はじっと黙ってうずくまっている。
月明かりの下、ほんのり輝いて見えるその愛らしい丸い葉に、イーサはそっと顔を近づけた。
「ごめんね、知らない場所で一人にして……」
雫石は黙ったままだ。
午後いっぱいをかけて、ゆっくりと見回らせていただいた植物園を辞そうとした時、出口の門のところで、背の高い体格の良い男性に呼び止められた。
マクシムさんの、いとこにあたる方だそうだ。親しい仲のようだった。
その方はとてもやさしい笑顔で、イーサに小さな鉢植えを差し出した。
「雫石です」
深くて良い声で、その宝石のような美しい植物に見惚れているイーサに、説明をしてくれる。
「多肉植物の中でも、丈夫で手間のかからない種です。世話の仕方は、メモを作りましたので」
「あの、そんな、貴重なものを……」
「あなたに、お持ちいただきたい。久しぶりに、私も植物も、人に愛でられる喜びを思い出しました。ありがとう」
「もらっておきなよ。その方がロイが喜ぶ。メモは、後で俺も一緒に見よう」
マクシムさんが、そっとイーサにささやく。
「あの、はい。では……」
おそるおそる鉢植えを受け取ると、イーサの手の中で、雫石はふるんと笑ったように見えた。
夕食は、イーサがお願いして、歓迎会で行った『煉瓦亭』になった。マクシムさんは少し不満そうだったけれど、イーサはあの気安い雰囲気と、熱々の料理がとても気に入ったのだ。
それに。
「よお、マクシム。今日休みだろ? 何でいるんだよ。お前たまには遊びに出ないと、カビ生えるぞ」
「うるさい」
「ハンス。心配いらないぞ。今日マクシムは、お前が想像できないくらいながーく羽根を伸ばしたんだ。見ろ、このニヤけた面を」
「黙れ。ルカ、お前どこから」
「解析班なめんな」
「え、なになに? 確かになんか、めかしこんでんな。お、イーサちゃん、今晩は。今日、とっても素敵だね。……え、ちょっと、まさかお前、イーサちゃんと……」
「う、る、さ、い」
「えええ、イーサちゃん、こいつのデートコースとか罰ゲームじゃなかった? 大丈夫?」
「――『沈黙』」
「むぐ」
イーサは思わず笑い声を上げながら、マクシムと愉快な面々のやり取りを聞いていた。
生まれ育ちがどうであろうと、でくの坊なら馬鹿にされ、できる奴は惚れられる。自分が今いる世界はそういう世界で、それが全てだ。マクシムさんは、植物園の東屋で最後にそう言った。
イーサが文字を読めないことを、馬鹿にする人は、ここには誰もいなかった。
ここが好きだ、イーサは思う。
「マクシムさんのお家のことは驚いたけど、確かに、お父さんが誰でも、マクシムさんは、マクシムさんだものね」
月を見上げたまま、イーサはつぶやく。
「ねえ、雫石さん。私も、自分のこと、全部お話するべきだと思う?このまま黙っていると、きっとマクシムさんの研究は、うまくいかないよね……」
鉢の中で、雫石がふるりと震える。そこから、ふわりと湧き出してきた透き通った人影に、イーサは微笑みかける。
「出てきて、くれたんだ。嬉しいな。……わあ、あなたの目、綺麗だね……」
雫石の人は、透き通ったグリーンの瞳で、じっとイーサを見つめて、それからくるりとひと回りした。
「お友達になってくれるの? お名前、欲しい?」
くるり、くるり。人影は輝きを強めながら、イーサの周囲を飛び回る。
「うれしいな。お名前は、――翠玉で、いいかしら」
ぱあっと、一瞬、飛び回る人影から強い光が放たれる。それは、イーサの体を包み込み、やがてゆっくりほろほろと、消えていく。
「うれしいな。私たち、もう、寂しくないね……」
月明かりの下、ふわふわと回り続ける半透明の人の姿を、イーサは微笑みながら、いつまでも眺めていた。
*
今夜は月が大分明るい。彼女はもう眠っただろうか、マクシムはウイスキーを嘗めながら、昼間のイーサの笑顔を思い出していた。
多少なりとも歳を取り、経験も積んで、いくらかは思慮深くなったつもりだったが、今日の自分の行動は、あまりにも衝動的だった。彼女について考え出すと湧き上がるこの焦燥感の正体は、一体何なのだろう。
「今日のあれ、囮のつもりなのか」
ふいに背後から投げかけられた声に、びくりとする。瞬時にマクシムの全身を覆うように展開される不可侵結界に、ふふんと失笑する気配がした。
部屋の隅の凝集した闇に溶けるように、人影がある。
「刺客なら、お前はもう死んでいる。相変わらず、鈍いな」
「……敵わんな」
「お前に気取られるようになっちゃ、俺の商売は終わりだよ」
「……囮、とは」
「そのままだよ。連合とのゲームはまだ、終わっちゃいない」
「まさか。あれだけ下準備をして渡したんだぞ」
「そこがお前の甘いところだ。連中も、お前と同程度の頭は持っている。追い詰められたタヌキは、何をするか分からんぞ」
「……何てことだ、彼女を巻き込むのは……」
「しばらくは、注意してやるんだな」
マクシムは頭を抱えた。
「……サリュー。彼女の護衛を、頼めるか。俺では限界がある」
「へえ、お前が俺に、頼みごとねえ」
暗闇から発せられていた声に、面白がる響きが混じる。
「いいよ、面白そうだから。でも、あの子に、気付かれちまうかもしれないぜ」
「まさか」
「ちゃんと紹介してくれよな。それじゃ」
次の瞬間には、人影は消えていた。
マクシムは、グラスのウイスキーを一気に煽り、顔をしかめる。そして、天井を睨んだ。
窓の外の月は、西の山の陰に沈もうとしていた。