10 二人の外出(2)
大通りからひとつ入った路地に面した、表はカフェ、奥はレストランという造りのこじんまりした店で、マクシムさんとイーサは昼食をとった。
2人がカフェの庇の影の下に入るか入らないかと言うあたりで、もうすでにレストランの入り口の扉は開け放たれ、サロンエプロン姿の初老の男性が、柔和な笑顔で腰を屈めていた。そのまま一番奥の個室へ通される。
「食べ物で、苦手なものはない? 肉は何が好き? 生の海産物は平気だろうか」
イーサはいくつか質問されただけで、マクシムさんはオーナーらしき初老の男性と、軽く談笑しながら素早くオーダーしていく。
しばらくして、順に運ばれて来た皿の上の料理はどれも美しく盛り付けられ、凝った複雑な味のソースが添えられ、そして、さりげなく食べやすく切り分けられ整えられていた。
「……口に合わなかっただろうか」
食事の最後に、香りのよいお茶を味わいながら、マクシムさんが少し沈んだ静かな声でイーサに尋ねた。
「まさか。全部、とっても、美味しかったです」
びっくりしてイーサは答える。本当に、どれもこれも、生まれて初めて食べる美味しさだった。
「そう? なんだか、元気が、ないようだから……」
マクシムさんは、目を落としてくるくるとお茶をスプーンでかき混ぜ続けている。イーサの胸には、切ないような苦しいような、不思議なぞわぞわが駆け抜ける。傲慢なようで繊細で、鈍いようで鋭い、不思議な人。
一対だけのカトラリーで進められた食事。徹底的に丁寧な、間違いを犯しようがない給仕。
マクシムさんのイーサへの、そしてお店のマクシムさんへの気遣いに、食事が進むにつれイーサはだんだん、怖くなってしまっていた。
「……出ようか」
マクシムさんはにこりとして、立ち上がると優雅にイーサに腕を差し出した。
*
都の目抜き通りに立ち並ぶ店は、どれをとっても、店構えから一流の自負、華麗さや重厚さを醸し出している。マクシムさんに腕を預けてゆっくりとそれらの店の前を歩きながら、イーサはますます困惑していた。
気になる物はない、とか、遠慮しないで、とか、マクシムさんは優しく耳元でささやいてくれるのだが、正直に言って、遠慮などではなく、全く欲しいものが無い。きれいだな、と思うものはたくさんあるのだが、それを自分の手元に置きたい、とは、微塵も思えないのは何故なのだろう。
「イーサさんは、あんまり買い物は好きではないのかな」
「……そうみたいです」
とうとう、本音がポロリとこぼれてしまった。
マクシムさんは少し黙ってそのまま歩いた後、右手を挙げて辻馬車を止めた。
イーサに続いて乗り込んだ彼は短く告げる。
「王立植物園へ」
そしてたどり着いた場所は、控えめに言って天国だった。
*
「見てください! 塀みたいです、迷路みたいです! すごいですねえ、すごいですねえ!! 生きてるんですよ、これ、木の根っこなんですよ!!」
イーサのあまりのはしゃぎぶりに、マクシムは思わず苦笑する。
温室の入り口の「多肉植物」の一角辺りから、イーサの様子が明らかにおかしくなった。眼差しはうっとりしたりギラギラしたり、道を行ったり戻ったり、四方八方から食い入るように観察したり。
その様子を眺めている方が、熱帯や砂漠の植物などよりマクシムにはよほど興味深い。
「あ! あれは……見て下さい、凶器です! 人を刺し殺すために生まれたとしか思えません!!」
穏やかではない。幹から凶悪な棘を無数に生やした木を見つめて、イーサは身もだえしている。
「これは!! 酔っぱらいの木!!」
異様に幹が膨れた木に駆け寄り、抱き着かんばかりに見上げる。
「……気に入っていただけたようで、何よりだな」
見たことのないイーサのテンションに、やや気圧されて後をついて歩いているマクシムの背後で、穏やかなバリトンが響いた。
「ロイ。邪魔させてもらっている」
「構わないよ、マックス。それにしてもお連れさんは、ずいぶんと可愛らしい方だ。私のコレクションにここまではまってくれる人もなかなかいない。よほど変わった植物が好きなんだな」
「……俺も初めて知った」
王立植物園の温室。ここの管理者の長である男を、マクシムは振り向く。
「少し、緑の多いところに案内しようと思っただけだったんだが。まさかこんなに堪能することになるとは」
「ははは。存分に楽しんでいってくれ。東屋に茶でも用意させよう」
「ありがとう。……すまない。すっかり無沙汰で」
「いいや、ここを思い出してくれたのは、嬉しいよ」
年の離れた従兄は、穏やかに目を細めている。そして、マクシムの肩にポンと手を置くと、踵を返し、離れて行った。
「随分歩いたね、疲れてない」
広大な温室をじっくりと歩き回り、入り口の付近に戻ってきてようやく落ち着いた様子のイーサに、マクシムは穏やかに声をかけた。
「あ、はい、すみません、私……」
「ふふ。ずいぶん楽しそうだったね。……休憩できる場所があるんだ、もう少しだけ、歩ける?」
温室を出ると、水辺の植物が植えられた、人工の小川の流れる遊歩道を抜け、やや小高い位置にある東屋を目指す。
東屋には、先ほどの言葉通り、ティーセットと焼き菓子が用意されていた。
広大な植物園を見下ろす形の東屋には、さわさわと優しい風が吹き抜けている。
「……きれい」
「都には、いくつか緑に触れられる公園があるけど、ここはまあ、量質共に断トツだね。今日は一般開放日じゃなかったみたいだから、人がいなくて、ラッキーだった」
マクシムは、風を楽しむように目を細める。
「しかし意外だったな、イーサさんは変わった植物が好きなんだね」
「ええ、はい」
ほんのり赤くなるイーサの、耳たぶまでかわいいな、とマクシムは思う。
「子供の頃に、近所の家で読み聞かせてもらった絵本に、大きな不思議な木が出て来たんです。それがずっと、忘れられなくて。警備団に来て、資料室で本を見られるようになった時、木がたくさん出てくる、図鑑というものがあって……」
「ふふ。動物より、植物の方がいいんだ」
「はい。好きです。植物の方が、静かで、優しくて」
「優しい?」
「あ、ええと、噛みついたりは、しないから……」
「ふふ。そうだね」
「――マクシムさん」
そこでイーサの声が、少し緊張をはらんだものに変わった。マクシムは一度軽く目を閉じてから、カップを置いて息をつく。
「今日は、とても、楽しかったです。ありがとうございます。全部が、夢みたいで。特別な方のための場所を、たくさん教えて、いただきました……」
マクシムは、薄く微笑んだままイーサの言葉の続きを待った。
「マクシムさんは、特別な、方なのですね」
「特別、か……」
イーサを見つめていた彼の瞳が伏せられる。午後の傾きかけた日差しを背に、彫像のような硬い微笑みを浮かべたその顔は、胸を衝かれるほどに美しかった。
「まあ、そうだね。俺は、王弟の子供なんだ。警備団の特務部隊を作った時に、家は出ているけれどね。身分はどうあれ、血の繋がりは、結局無いことにはできない」
「オウテイ?」
「今の国王の、弟だよ」
イーサは目を見開き、言葉もなくマクシムを見つめていた。
マクシムの目が上がる。その顔からは、すでに強張ったものは消えていた。
「今日俺は、自分自身の手で掴み取ったわけでもない”特別”で、君を喜ばそうとしたんだ。やっぱり恥ずかしいものだな。――でも、君が今日一日を楽しんでくれたなら、それ以上のことはない」
そう言うと目を細めて、もう一度カップを取り上げる彼を眺めながら、イーサはそっと思う。
(今日のマクシムさんは、何もかもが素敵だったのに、どこが恥ずかしいのか、私には良く、分からない。――特別なものを持ちすぎている方たちにも、きっと、その方たちの悩みがあるのね)