1 研究員マクシム
「……?」
仕事部屋のドアを開け一歩踏み入れたとたん、マクシムは眉をひそめた。
いつもと、何かが違う。
考えるより前に左手が動き、すい、と、身体の表面から数ミリ外側に、透明な膜が張る。全身が覆われたことを確認すると、詰めていた息を吐き、ゆっくりと室内へ踏み込み周囲を見回した。
何かの気配が残っている。集中しよくよく探るが、正体は判然としない。ただ、明確な悪意を伴ったものではなさそうだった。
ゆっくりと部屋の壁に沿って歩きながら、くまなく視線を巡らせていく。奥のデスクの上に視線をやった時、違和感の正体に気づいた。
机上の乱雑に重なった紙片の上に、赤くて丸い物が一つ、ぽつりと載っている。
「……リンゴ」
思わず声に出してつぶやく。
左右にうずたかく積み上げられた本の山と、無造作に散らばる紙片とペン。モノトーンの殺伐とした机の上で、その果物は場違いに赤くツヤツヤと輝き、ほのかに甘く清涼な香りを放っていた。
(この香り、だったのか)
思わず苦笑いが漏れる。それからもう一度眉をひそめ、そっと慎重に、その果実に手をかざす。ふわりと持ち上がったそれを、慎重に掌の上に浮かせたまま、マクシムは部屋を出た。
ドアを出たところで振り返り、『王国警備団特務部隊 技術開発班 第一研究室』と書かれた金属板の下の木の札に軽く息を吹きかけ、「在室」の表示を「不在」へと裏返す。軽く目を閉じて、ドアの周囲にしっかりと結界が結ばれたことを確認する。
彼はそのまま踵を返し、入り組んだ廊下を進みはじめた。時折、警備団の制服を着た若い兵士たちとすれ違う。皆一様に、リンゴを捧げ持ちしずしずと歩むマクシムに一旦目を見張り、それからそっと目を逸らし、表情を整え、軽く顔を伏せて無言で隣をすり抜けていく。この変わり者の研究員が、おかしな挙動をするのはいつものことなのだ。明日あたり、また彼の奇行が部隊の詰め所では笑いの種になることは間違いないが、当のマクシムにとっては、そんなことはどうでもよい些事だった。
やがて、彼の足は『王国警備団資料室 分室』と書かれたドアの前で止まった。軽く息を吹きかけると、そのドアは音もなく内側へ開く。彼はそのまま、手のひらに浮かせたリンゴを注意深く見つめながら、ドアの先の部屋へと滑り込んだ。
「……いやだから、こういうのは越権行為だって言ってんだろ。なんなんだよ、それ……」
室内に入り込んできたマクシムの手元を一目見て、ルカは顔をしかめる。
「リンゴだ」
「……いやさすがにリンゴは俺でもわかるわ。何で王国警備団特務部隊の高機密機関に、リンゴが運ばれてくるわけ」
「毒リンゴかもしれない」
リンゴを差し出すマクシムの顔はいたって大真面目である。長身の痩躯を白い研究服に包み、アッシュブロンドの髪をきっちりと後ろでひとつに束ねた彼は、いつもの整った表情の乏しい顔のまま、正面からルカを凝視する。
「毒リンゴ、て。白雪姫かよ。王国警備団の毒物解析技術は、お前のオヤツの安全チェックのためにあるんじゃないんだぞ……」
全く譲る気配のない同期の変人魔術師の要求に、あきらめまじりのため息をつき、ルカは部屋中にごちゃごちゃと置かれている機械や配線を避けながら大股で移動すると、隅に設置されている四角い装置を起動した。無骨な金属の箱は軽く振動し、耳障りな音を立て始める。顎をしゃくって促されたマクシムが、捧げ持っていたリンゴをそっと装置の中央に浮かべれば、さらに大きさを増していく機械音が、二人の耳を打った。