ケーキと包丁
縦書きでは無く横書きでご覧になっていただければと思います。
頓服は効いてくれなかった。私は布団の上に体を横たえながら、もうすぐ暮れる太陽に呪いの言葉を無意味に吐き出している。
気分が落ち込んでいる。と言えばそれだけで片付けられる現象。
だがどうしてだろう? どうしようもないほどにこの肉体は脳みその中身に支配されてしまっている。
まぶたを閉じて考えてみる。
脳みそというのは豆腐に似た質感を持っているらしい。ぷるぷるの柔らかさの内側、無数に張り巡らされた神経が透明な電流をビリビリと流し続けている。
今この瞬間にも。私は電気が止まればいいのにと、考える。
いつだったか、子供の時に台風が来て、電線が壊れた際に訪れた暗黒の時間。
暗闇が今すぐにでも私のもとに訪れてはくれまいか、そう願う。
私は病気なのだろうか?
もしかすると精神科なり神経科なり、あるいはそれら以外の専門的知識に区別される症状に悩まされているだけなのかもしれない。
だが区別は私になんの解決策ももたらさなかった。
小学校二年生の春、クラス替え、瑞々しかった出会いがあっという間に忘れ去られるように、区分された苦しみはかえって虚無を引き起こしている。
やっぱり今すぐに、誰のせいという訳でも無く、もちろん私のせいでもないままに、電気が止まってしまえばいいのにと願わずにはいられない。
朝起きて、朝日が昇るほどに時間が経過したことに絶望する。
昼が来る、胃は無意味に酸を漏出させながら自らの粘膜を赤く傷つける。
夜になる、やがて訪れるつぎの日にびくびくとおびえる。
ここ三日間は延々とこれらの感情の変化を繰り返すばかりだった。
擦り切れたカセットテープのノイズを聞き流しながらウトウト眠る方がよっぽど有意義な時間と言えよう。
今は夜だった。もうすぐ丑三つ時。
後十五分後に明日になる。
起き上がれない時間が四日目に突入する、感慨はない、あるはずも無かった。
どうしたものか、このままだと一生を薄っぺらい安物の布団の上で過ごすことになるのではないか?
不安が胸の内に広がる。
刃物で真皮の奥深く、皮下脂肪のつぶつぶとした海栗のような艶めきを通り抜けた中身。
筋肉の赤、骨の白色からこぼれ出す血液の流れ。
確かな熱は毒となり、どうしようもないほどに、かなしいまでに、憎らしく私のこころを暗く覆い尽くしていた。
腹の上に存在しないはずの岩石が乗っかる。
呼吸が苦しくなる。一ミリも動いていないのに、持久走を走り終えたときのような眩暈と動悸、吐き気と息苦しさを覚える。
ピコン♪
一日三回までと医者が決めた薬をもう一度、あともう一度だけ服用してみようか。
もしそれが効かなかったら、もっと飲んで、訳が分からないままになりたい。
そう願ったところ。
「ヴーヴー」と、スマホがバイブレーションする。
腕だけを動かして、私はスマホの電子画面に明記されたメールのアイコンをタップする。
やごっでかこをてなないえいいゃだだ
つがいにられか れにっ死かきないい
いくけ でっだなかてにらんいじじ
っねーあたてかいたたた げよょょ
ぱ き すみらかすかいこんねうう
いいもつけた包なけらっのき ぶぶ
のちかいる 丁っに てまなさじ?
内容を読んだ。
私は最初訳が分からないままに、彼女の悪ふざけかもしれないとスマホを持ったまま姿勢を横にする。
意味が分からない。
仮に何かしらの意味があったとしても、私にはなんの意味もなさないような気がした。
スマホを横にする。
寝返りを打つ。
脳みそが単純な動作に合わせて一種だけ思考能力を欠落させた。
なんとなく見た、読み方を変えてみる。
視点を変えてみよう! というのはどこの中学校の陰惨たるクラスの標語だったか。
無意識、画面に記された内容が隙間へと、岩間に染み入る湧水のように滲む。
「あ」
と気付いたと同時に、
ピンポーン♪
玄関のチャイムが鳴った。
ちょうどその頃合い、私はメールの全てを読み終える。
さてどうしたものか。
彼女はきっと包丁を持っているに違いない。
期待するなら私の首を掻き切ってはくれないだろうか?
……しかし、こんなくだらないクイズをする彼女に期待を寄せるのも酷かもしれない。
そう、考えたところで私は、他人のことを気遣う自分自身のことに気付いていた。
気付いてしまった、手遅れのような希望的観測が胸の内に確認される。
チャイムが鳴っている。
無視をすることも出来た。
だがそれではつまらないと、すでに死に絶えたはずの未来への好奇心が胸をステーキの上のフォークのように刺す。
真っ赤に濡れる希望的観測。
もしかしたら、彼女に殺してもらえるかもしれない。
しかし次の瞬間には赤い苺がたっぷり乗ったホールケーキの甘さに阻害されてしまった。
チャイムはなり続けている。
時間帯を考えてもらいたい、いったいどうしてこんな夜中にやって来るというのだ。
だめだ、このままではご近所迷惑、彼女が不審者として通報されてしまう。
状況を考えるほどに熱は膨らみ、期待は増えてしまう。
横になっていても仕方がない。
ケーキのことを考えていたらおなかが空いてしまった。
私は布団から起き上がり苺か血液か、どちらかの赤色を期待しながら扉の鍵を開けた。
彼女が包丁を片手に、ホールケーキの大きな箱をたずさえて笑っていた。
実に憎らしい、この世界には素晴らしいことしかないと信じきっているような、そんな笑顔だった。