模様替え
*ブラウザのこと*
IE7をお使いの方は問題なさそうですが、Firefox(現在の最新版)だとルビが上手く表示されないことを確認しました。携帯は未確認です。
漢字の後に括弧があり、中にひらがなが入っている表記の場合は、ルビ(ふりがな)だと思ってお読みくださるとありがたいです。
2009.8.22 春江
【 お昼を食べたら集合 By リサ 】
携帯がうなり、一通のメールが届いた。
和人は汗をぬぐうことすら忘れ、じっと凝視していた冷やし中華から目をそらし、音のする方へと手を伸ばした。
母親が作り置きしてくれた冷やし中華は、珍しく出来ばえがいい。まるで、パッケージ袋に印刷された写真のように完璧だ。これだけ整ったものを、いったい、どこから箸をつけろというのだろう。
具は、焼豚、キュウリに錦糸卵。さらに、真ん中にちょこんとプチトマトが添えられている。
―――素直に肉からいくか?いや、それだと後の残りが一気に貧弱になる。
―――キュウリは……パス。 てか、こんな悪魔の野菜は、乗せなくていいよ母さん。
―――卵が最初だと、もそもそするからな。これは途中だろ。
―――じゃあ、トマトか。いや、トマトがなくなると彩がなくなる。
―――やっぱり肉! だめだ! いっそ麺をくずすか……あああっつ、もう、どこから手をつけたらいいんだ!
メールの送り主は理沙。和人の隣の家に住む、同い年の幼馴染である。いつも、突然呼び出しメールがやってくる。
和人は、メールの内容を確認すると、さっさと具を麺にからませ、食事をすませた。
部屋に戻って、髪をちょっと整えシャツをはおり、すぐに縁側に向かう。そこには、母の趣味の家庭菜園のトマトとナスと………そして、キュウリがある。
隣家との境界には、ゲッケイジュとツツジから成る生垣があり、そのすぐ奥に見える漆喰の白壁が理沙の家である。
和人は、縁台の前にある大きな平たい石の上に、つねに置きっ放しの革のサンダルに素足を突っ込んで、生垣の方向へ向けて声をあげた。
「りぃさぁ、お前さ、いつもちょっと突然すぎじゃね。今から行く」
こもったような声の返事が返ってくる。
「ふく、よーふく、汚れていいやつね」
壁越しでも、、そうとわかるほど高いソプラノ。理沙の声だ。
部屋に戻ると、和人は一張羅のシャツを脱ぎ捨てた。
汚れてもいい服となると……数年前に気にっていたシャツが目に付いた。
今はもう着なくなった、だがいつまでもクローゼットの中にしまってあったシャツだ。
◇ ◇ ◇
隣家の玄関につくと、ガラスの引き戸をあけ挨拶した。
すぐに出てきた理沙の母親に、「帰りに、スイカ持って行ってちょうだいね」と、温かくむかえいれられ、階段を上って理沙の部屋へと向かう。
「Risa’s Room」
理沙の部屋のシンプルな木製の扉には、存在感のある木の板がかけられている。彼女が作ったものだ。ニスを何度も重ねて汚したように仕上げた木の板に、凝った西洋風の白い文字。その周りを、華やかな桃色のバラが飾っている。
ノックをして、「入るぞ」と声をかけ、和人が扉をあけると、黒地に小花柄の、ノースリーブのワンピースから白い手足をむき出しにした少女が、和人の方へ振り返った。
「カズ、あんた暇ね」
開口一番の理沙の声はこれだ。
理沙の手にはバケツ。と器具。金属の平たい道具やスポンジ、ローラーや、ヘラのようなものが見える。
「暇じゃないから、手伝わなくていいのか」
「うそだよ。お忙しいところわざわざお越しいただきまして、ありがとうございます。手伝え! 」
…………和人は、ため息をついた。
「………で、何する気なんだ、リサ」
「模様替え。壁紙をはりかえるの。もう、前のは剥がしたんだけど、新しいのを張りたいから手伝ってよ」
そう言って、理沙は和人にバケツを押しつけた。和人は無言で受け取ったバケツをじっと見つめた………理沙のわがままには慣れているから。そして、こういう作業は嫌いではないし、理沙もそれを知っているからこそ、こうなる。
あらためて室内に目をやれば、理沙の部屋に今までつめこまれていた家具は運び出され、がらんとしている。四方を囲む壁が、まだらに白く寂しい印象だ。
和人が手に持ったバケツを床に降ろす、と、同時に張り切った理沙が、一冊の本を差し出した。洋風の、白い家具で統一された部屋の写真が表紙になった『Reform』というタイトルの本である。
和人は理沙から本を受け取り、パラパラページをめくってみた。栞が飛び出ている。そのページを開けば、「壁紙の貼り方」という大きな文字が見えた。事前に下調べしていた理沙が、口絵や図を指差しながら、和人に手順を説明してくれた。
壁紙の張り替えの手順は、大まかに言えば、こんな感じだ。
まず、巻尺で壁のサイズを図って、壁紙をカットする。次に、湯でといた糊を、先にカットしておいた壁紙の裏にぬりつけ、隙間があかないよう壁面に貼り付けていく。
仕上げはローラー。ローラーで壁と壁紙の間の空気をぬけば、おしまいだ。
すでに床にはダンボールが敷かれている。和人は、その上で壁の寸法を測って、壁紙を切るべき場所にしるしをつけ始めた。そして、しるしの通りに切っていく。
思いのほか、厚みのある壁紙を切るのは大変だ。和人はカッターを持つ手に力をこめた。目の端で隣を盗み見れば、エプロンをつけた理沙が同じようにカッターを操っている。顔を赤くしているものの、それでも、危なげなく作業している。和人は、理沙に負けじと張り切りだした。
◇ ◇ ◇
冷房のきいた、理沙の部屋での作業は快適だ。
それでも、カーテンがはずされ、乱暴な日の光が遠慮なく侵入してくるからだろうか、和人の額には玉のような汗が浮かんでいる。背筋を一筋の汗が流れ落ちていって、少しばかり不快だ。和人は、ここらで一息入れようかと理沙に提案しようと考えていた。
突然、大音量のBGMが流れはじめた。
ミィーーーーン ミン ミン ミン ミン ミン ミン ミーーイィ
ミーーン ミン ミン ミッ ミーーッ ミイィ……
理沙の部屋の外壁近くに、セミがとまったらしい。突然の、その情熱的な激しい抑揚のついた声は、暑苦しくもどこか滑稽だ。和人と理沙は、困ったような顔で視線をあわせた。
和人がシャツの袖で汗をぬぐおうとすると、理沙がタオルを投げてよこした。うまく受け取った和人は、額の汗を拭う。
タオルからは甘い香りがして、和人の鼻腔をついた。理沙の家で使っている柔軟剤の匂いだろうか。理沙からも同じ匂いがしたのを思い出し、和人は何だか気まずくなって、タオルを理沙に突っ返した。
タオルを受け取った理沙が、和人に向かって微笑んだ。
「タオルの差し入れとか、古典的な女子らしいことしたんだから、感謝して、働きなさい」
和人は、理沙に礼を言って、また作業に戻った。
理沙も満足げな顔で手を動かし始めた。
◇ ◇ ◇
作業もはかどり進めていけば、視界がとたんに明るく華やかになる。
理沙の好きな、バラの壁紙が部屋中を満たす。部屋一面の薄紅色。
ここに、理沙のお気に入りの白いアンティーク調のベッドをおけば、さぞや様になるのだろうな、と和人は夢想して口元をゆるめた。
壁と壁紙の隙間の空気を抜くため、上からローラーをかける。これが本日の模様替えの最後の作業となる。やりとげた満足感にしばらくの間満たさていた和人だが、ふいになんだか自分がいるのが場違いな気がしてきた。
花柄の壁紙に男は似合わない。
「んじゃ、理沙、オレ帰るわ」
「え、あと、お掃除して家具も中にいれないと、私、今日ここで寝れないじゃん」
「それくらいお前でやれよ」
「だって、今日はパパがいないんだもん。私は、ベッドなんて重くて運べないよ! 」
そうか、家具類の運び出しは理沙の父親が手伝わされたのかと、和人は軽く同情した。そして、無言で床に落ちたごみをほうきで集め始めた。
……理沙の訴えるような瞳に負けたのである。
そんな和人の背後で、床のきしむ音がした。振り向けば、疲れたのか理沙が床に寝そべっていた。
「おい、オレが働いてるのに、お前は……」
そんな和人のことなどお構いなしに、理沙は「んー」という声を出して伸びた。
「このワックスの時も、大変だったね」
理沙は、指を滑らせるように床をなでている。
この床は、去年、二人で蜜蝋ワックスをぬった。
作業中、思ったような色じゃないと理沙がすねたが、乾いてみると、とても自然ないい色になって、今ではすっかり理沙も気にいっている様子だ。
和人は、ため息をついて、自身も理沙と同じように床に寝転がってみた。窓からは、ピンクと水色のグラデーションが見える。いつの間にか視界は薄紫がかり、セミの声は遠くから響くような切ないものに変わっている。
心地よい疲労感が和人を襲った。ひと息をつくと、理沙が動く気配がして振り向く。
理沙と目があえば、あわてて不自然さをさとられぬよう視線をそらした。
一方、理沙は和人をじっと見ている。
「あのさ、カズ。今さらだけどさ、そのシャツ小さいんじゃない、背中でてたしさ」
「……お前が、汚れてもいい服着て来いっ、つったから、わざわざ昔のやつにしたんだろ」
「そうだけど、プッ……ちょっと変。見慣れたシャツなだけに、何だかおかしくて。アハハ」
そう言って無邪気に目を細める理沙にそっぽを向け、和人は恥ずかしさに頬を染めた。
「うるさい、成長期の記録だ」
「うん、大きくなったよね。こんなふうに寝ころがってでもいないと、視線が同じにならないものね」
ふいに、真顔になった理沙が、両腕で和人の頭を抱えるように自分に向かせた。
理沙の瞳には、驚いたように目を見開いた和人の姿が映っている。
言葉はなく、腕時の秒針がカチカチと音を立てながら一回りした。
和人は、心臓が口から飛び出るのではないだろうかと思うほど、強く激しく、何かが押し上げてくるのを感じ、戸惑う。
すでに、理沙の手は和人から離れているのだが、和人は理沙から視線をはずすことができない。
理沙の、アーモンド形の瞳の虹彩の動きを目で追い、長い睫の輪郭を視線でなぞる。
理沙の手が、再び和人へと伸びる。白い長い指先が、和人の髪をなでたその瞬間、和人は背中に、ぞくりと何かが駆けぬけるのを感じた。
そのまま理沙は、自分の手に息をフッとふきかけると、和人に、にこりと微笑む。
…………どうやら、髪についたごみをとっただけらしい。
緊張状態から急に脱力した和人の耳に、理沙の楽しそうな声が聞こえてくる。
「去年は床でしょ。で、今日は壁紙。今度は照明かな」
おいおい、まだやる気なのか……疲れた。と和人はため息をついた。
だけど、たぶん次も、また次も、そのまた次も、ずっと断ることができずに手伝ってしまうのだろう。
「カズがいてくれて、ホント助かったわ」
―――その笑顔に捕まったのはいつからだろう。
見上げれば、視界には一面、薄紅色のバラ。
バラには“とげ”があるけれども、このごろは、その“とげ”すらも魅力的だと和人は思う。
―――だから言ってしまう。
「完成するまで見届けないと、くやしいからな、次も呼べよ」
「ほんと、じゃあ一生完成しないよ」
「は?何それ」
「だって、終わらせたくないもん」
こうして、二人の模様替えは続くのだった。
了
はじめまして春江 柚里です。
このような拙い文章をここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
少しでも、わがまま理紗ちゃんと、ふりまわされたい願望がありそうな和人くんをお楽しみいただければ幸いです♪
【修正履歴】
ご指摘をいただき、句読点を追加。和人とリサのからみを加筆。 2009.8.6 春江
友人から、情景が浮かびにくいという指摘をもらい、冷やし中華ネタなどを加筆。 2009.8.22 春江
友人から指摘をうけ、バラの表記を変更。 薔薇→バラ 2009.8.22
音の流れがスムーズになるよう細かい部分を修正。情景描写を修正・加筆 2009.8.30
シャツのくだり、セミ、かずの表記ゆれを修正 2009.9.4